第四十話 水面の睨み──新たなる女帝
招宴──
それは、今の大奥において“最も静かで、最も恐ろしい招き”と噂されていた。
「上臈御前のお茶席」
名目上は親睦を深める席。
だが、一度呼ばれた者の中で、翌日も笑顔で現れた女官は少ない。
理由は明らかだ。
その席の主は──
水月局。
若き将軍の寵姫にして、大奥の事実上の主。
穏やかな微笑を絶やさぬその顔の裏に、
かつて紅梅局と並び称された「影の策士」の血が脈打っていると囁かれている。
そして今日──
夕霧(雪乃宮)と桔梗(朝霧)に、
その“招宴の文”が届いた。
差出人の名はなく、ただ金砂で縁取られた紺の紙。
大奥内の者であれば、一目で分かる。
──それは、“選ばれた者”にのみ届く印。
***
「……水月局、ですか」
招待を知らせにきた若い女中の声音は、どこかこわばっていた。
名前を口にするだけで、喉が乾くような緊張。
雪乃宮は、ふっと微笑んだ。
「栄にございます」
「参上仕りますと、お伝えくださいませ」
女中が去ると、部屋に静寂が戻った。
朝霧はすぐに雪乃宮のもとへ駆け寄った。
「危険です、あの人は──」
「分かっています」
雪乃宮は、鏡の前で髪を整えながら応えた。
「でも、逃げるわけには参りません」
「敵の姿を見ずして、大奥の“今”は語れない」
「ここまで呼び出されたのなら──
むしろ、わたくしたちが“踏み込む”番です」
***
水月局の居所は、御花之間と呼ばれる、
大奥でもひときわ華美な一室。
金箔を施した襖。
薄紅の御簾。
庭先には、人工的に移植された夜桜が、宵の明かりに照らされていた。
雪乃宮と朝霧が通されると、
その奥にいた“女”が、ゆるりと扇を伏せた。
「まあ、ようこそ。
あなたが……夕霧様、そして──桔梗の君、ですわね」
──それが、水月局だった。
白磁のような肌。
つややかな黒髪。
伏せた目元に微かな微笑を湛えながら、
その目は──まるで底の見えぬ池のようだった。
雪乃宮は、深く一礼する。
「このような栄にあずかり、光栄に存じます」
「うふふ……」
水月局は、扇で口元を隠しながら笑った。
「最近、大奥も随分と退屈でして。
時折、こうして“新顔”の気配に触れるのが楽しみなのです」
「特に──」
視線が、じりじりと雪乃宮へ注がれる。
「あなた。どこかでお会いしたことがある気がしてなりませんの」
「……さようでございますか」
「ええ。香の記憶でしょうか。
あるいは……声かしら。
名は変えても、女の“輪郭”は消えませんものね?」
その言葉に、朝霧が微かに身じろぎした。
雪乃宮は、わずかに目を伏せながら答えた。
「わたくしは、ただの女官でございます。
ただ、日々の務めを果たすのみ」
「けれど、“ただの女官”にしては──」
水月局の声が、すっと細くなる。
「あなたは、あまりにも“目を逸らさぬ”」
「まるで、わたくしを“視よう”としておられるように──」
一瞬、室内の空気が凍った。
朝霧はすぐに一歩前に出ようとするが、
雪乃宮がそっと手で制した。
その仕草はごく自然で、
けれどどこか“護ろうとする”ようなものだった。
水月局は、扇を畳み、立ち上がった。
「わたくし、気に入った女官には“お役目”を授けることにしておりますの」
「あなたには、近々“花席の接待”をお願いしたく」
「桔梗の君には……」
視線が、まるで舌先で撫でるように朝霧に移る。
「わたくしの香の調合室に、補佐として入っていただきたいわ。
香りには、記憶がこもるから──
あなたが、どれほど“覚えている”か、興味がございますの」
雪乃宮の背中に、冷たい汗が伝う。
この女は、すべてを“見ている”。
そして、すべてを“試してくる”。
(あの夜、わたくしたちの香を仕掛けたのは──)
朝霧も気づいた。
視線の奥に、“あの部屋の残り香”と同じ気配があった。
水月局は、すべてを知っている。
──ふたりが、ここに“戻ってきた”ことを。
***
帰り道。
中庭を渡る風が、肌を撫でていく。
ふたりは無言だった。
言葉を交わす代わりに、
ふいに、雪乃宮が手を伸ばした。
朝霧の指先を、そっと握る。
ほんの一瞬の交差。
それだけで、
互いの心は同じ言葉を呟いていた。
──「始まった」
この女帝の下で、
ふたりはまた試され、暴かれ、
そして──選ばれる。
だが、それは恐れではなかった。
ふたりはもう、“名”で揺らぐことはない。
生きるために。
愛する人を護るために。
この戦に──勝つ。
(続く)




