↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『花檻(はなおり)の契り ──大奥百合絵巻──』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/81

第三十九話 記憶の螺旋──残された声

その部屋の名を、雪乃宮は聞いた瞬間、

胸の奥が、きゅうと締め付けられるのを感じた。


 


──御中臈・桜井の私室。


 


“前任の女官”とされるその名は、

数ヶ月前に突如不審死を遂げた者のものだった。


 


「内緒話が多すぎた」「あの女、帳面に何か書いていたらしい」──

廊下ではそんな囁きが日々飛び交っている。


 


「夕霧様、この部屋をお使いくださいまし」

係の女官がそう言って鍵を渡したとき──


 


雪乃宮は、全身の血が、一瞬にして引くような感覚を覚えた。


 


 


***


 


障子をそっと開けた瞬間──


 


香りが、鼻腔を刺した。


 


それは、微かに甘く、濃密で、

花でもなく、香木でもなく──


 


“誰かの肌から染み出る、記憶の残り香”。


 


雪乃宮は思わず立ち止まる。


 


「……これは……」


 


香りに混じって、

過去の情景が脳裏に流れ込んできた。


 


──障子の隙間から差し込む月明かり。

──畳の上に落ちた影。

──そして、優しく笑う少女の声。


 


「雪乃宮様、わたしの香りが届く距離で、

 ずっとそばにいられますように──」


 


 


(これは……朝霧……?)


 


そうだ。

確かに、かつて朝霧が“自分の香”としてつけていたもの。


 


干した布に振りかけていた、

白梅と杏のしずくを調合したもの。


市井の香ではなく、彼女が独自に作った“近くにいるための香”。


 


だが──どうして、ここに?


 


 


***


 


雪乃宮は、室内に足を踏み入れた。


 


襖をそっと開けると、帳面と筆が残された机があった。

まるで、女が最後に記していたものを、

誰かがわざと残したかのように。


 


手に取ると、紙の縁がわずかに焦げている。

まるで、焚き捨てようとして途中で止められたようだった。


 


雪乃宮は、その筆跡をなぞる。


 


「……これは……」


 


確かに、桜井と記された女官の手によるものだったが──

途中から、筆跡が変わっていた。


 


そこに、確かに見覚えのある文字が混じっていた。


 


それは、かつて朝霧が“他人の目を盗んで”自分宛に記していた、秘密の筆跡。


 


──“影は香に宿る”

──“香を辿る者は、声に還る”


 


暗号めいたその記述は、

かつてふたりだけが用いた合言葉を含んでいた。


 


 


(誰かが──朝霧の香りを使い、

 この部屋に“痕跡”を残した)


 


雪乃宮の背に、冷たいものが這い上がる。


 


(これは偶然ではない。

 わたしたちの“再来”を、既に誰かが察している)


 


(そしてその“誰か”は、朝霧を知っている──)


 


 


部屋を出ようとしたその瞬間、

背後で、畳がきしんだような音がした。


 


振り向いても、誰もいない。


 


だが、香りが変わった。


 


部屋に満ちていた“花の香”が、

どこかで変質していた。


 


甘さに、かすかな“鉄の匂い”が混じっていた。


 


──血の香り。


 


誰かが、ここで死んだ。

あるいは、死にかけた。


 


 


雪乃宮の目が細められる。


 


「“声”を、聞かねばならぬのですね……」


 


 


***


 


その夜、寝所に戻った雪乃宮は、

布団の中で眠るふりをしながら、

朝霧の寝息を聞いていた。


 


朝霧は、穏やかな寝顔をしていた。

けれど、彼女の吐く息にも、

あの香りの、微かな名残があった。


 


(……あなたが、ここに来る前──

 あの部屋に“足を踏み入れた”ことがあるのではないですか?)


 


問いただすつもりはなかった。


過去は互いに、語らないことで守ってきた。

その沈黙こそが、ふたりの絆だったのだから。


 


けれど、雪乃宮はもう知っていた。


 


この“大奥”にふたりが戻るより前に、

すでに誰かが──

“ふたりを再び引き寄せる香り”を仕掛けていた。


 


誰かが、“思い出させよう”としていた。


 


雪乃宮の本当の声を。

朝霧の残り香を。

ふたりがかつて“愛し合った記憶”そのものを──


 


 


***


 


夜は更けていた。


 


だが、ふたりの眠る部屋の屋根の上。

そこに、ひとつの影が座っていた。


 


風に揺れる黒髪。

薄紫の香袋を手に、微笑を浮かべた女がひとり。


 


「“雪乃宮”様……

 あなたがどこまで、香に誘われてくれるか──」


 


「愉しみに、しております」


 


その女の袂に、薄く記された名。


 


──《水月局》。


 


 


(続く)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。