第三十九話 記憶の螺旋──残された声
その部屋の名を、雪乃宮は聞いた瞬間、
胸の奥が、きゅうと締め付けられるのを感じた。
──御中臈・桜井の私室。
“前任の女官”とされるその名は、
数ヶ月前に突如不審死を遂げた者のものだった。
「内緒話が多すぎた」「あの女、帳面に何か書いていたらしい」──
廊下ではそんな囁きが日々飛び交っている。
「夕霧様、この部屋をお使いくださいまし」
係の女官がそう言って鍵を渡したとき──
雪乃宮は、全身の血が、一瞬にして引くような感覚を覚えた。
***
障子をそっと開けた瞬間──
香りが、鼻腔を刺した。
それは、微かに甘く、濃密で、
花でもなく、香木でもなく──
“誰かの肌から染み出る、記憶の残り香”。
雪乃宮は思わず立ち止まる。
「……これは……」
香りに混じって、
過去の情景が脳裏に流れ込んできた。
──障子の隙間から差し込む月明かり。
──畳の上に落ちた影。
──そして、優しく笑う少女の声。
「雪乃宮様、わたしの香りが届く距離で、
ずっとそばにいられますように──」
(これは……朝霧……?)
そうだ。
確かに、かつて朝霧が“自分の香”としてつけていたもの。
干した布に振りかけていた、
白梅と杏のしずくを調合したもの。
市井の香ではなく、彼女が独自に作った“近くにいるための香”。
だが──どうして、ここに?
***
雪乃宮は、室内に足を踏み入れた。
襖をそっと開けると、帳面と筆が残された机があった。
まるで、女が最後に記していたものを、
誰かがわざと残したかのように。
手に取ると、紙の縁がわずかに焦げている。
まるで、焚き捨てようとして途中で止められたようだった。
雪乃宮は、その筆跡をなぞる。
「……これは……」
確かに、桜井と記された女官の手によるものだったが──
途中から、筆跡が変わっていた。
そこに、確かに見覚えのある文字が混じっていた。
それは、かつて朝霧が“他人の目を盗んで”自分宛に記していた、秘密の筆跡。
──“影は香に宿る”
──“香を辿る者は、声に還る”
暗号めいたその記述は、
かつてふたりだけが用いた合言葉を含んでいた。
(誰かが──朝霧の香りを使い、
この部屋に“痕跡”を残した)
雪乃宮の背に、冷たいものが這い上がる。
(これは偶然ではない。
わたしたちの“再来”を、既に誰かが察している)
(そしてその“誰か”は、朝霧を知っている──)
部屋を出ようとしたその瞬間、
背後で、畳がきしんだような音がした。
振り向いても、誰もいない。
だが、香りが変わった。
部屋に満ちていた“花の香”が、
どこかで変質していた。
甘さに、かすかな“鉄の匂い”が混じっていた。
──血の香り。
誰かが、ここで死んだ。
あるいは、死にかけた。
雪乃宮の目が細められる。
「“声”を、聞かねばならぬのですね……」
***
その夜、寝所に戻った雪乃宮は、
布団の中で眠るふりをしながら、
朝霧の寝息を聞いていた。
朝霧は、穏やかな寝顔をしていた。
けれど、彼女の吐く息にも、
あの香りの、微かな名残があった。
(……あなたが、ここに来る前──
あの部屋に“足を踏み入れた”ことがあるのではないですか?)
問いただすつもりはなかった。
過去は互いに、語らないことで守ってきた。
その沈黙こそが、ふたりの絆だったのだから。
けれど、雪乃宮はもう知っていた。
この“大奥”にふたりが戻るより前に、
すでに誰かが──
“ふたりを再び引き寄せる香り”を仕掛けていた。
誰かが、“思い出させよう”としていた。
雪乃宮の本当の声を。
朝霧の残り香を。
ふたりがかつて“愛し合った記憶”そのものを──
***
夜は更けていた。
だが、ふたりの眠る部屋の屋根の上。
そこに、ひとつの影が座っていた。
風に揺れる黒髪。
薄紫の香袋を手に、微笑を浮かべた女がひとり。
「“雪乃宮”様……
あなたがどこまで、香に誘われてくれるか──」
「愉しみに、しております」
その女の袂に、薄く記された名。
──《水月局》。
(続く)




