表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

第6話 この日は快晴



 4月18日。

 西野さんと『ハンニバル』を観る前に、近くのレストランで夕食をとった。


 会計のとき、彼女が申し訳なさそうに言った。

「今日、持ち合わせがなくて。今度返すから立て替えてもらえる?」


 これまでのデートはすべて割り勘だった。

 俺が「払うよ」と言っても、彼女は必ず自分の分を出していた。


 彼女なりの気遣いだと、そう思っていた。


 その後、付き合う前は男性に借りを作りたくない女性が少なくないことを知った。

 俺が勝手に気遣いだと思っていたが、もしかしたら違ったのかもしれない。


 今まで、彼女から香水のような香りを感じたことはなかったが、この日は彼女から優しい甘い香りがしていた。

 この日、俺に会うために香水をつけてくれた。

 そう思うだけで、ひとりで舞い上がっていた。


『ハンニバル』は思った以上にグロい映画だった。

 正直、観る映画を間違えた気がした。



 その後、いつもの喫茶店に入った。

 気づけばイチゴの話になっていて、俺は練乳を豆乳と言い間違えていた。


「練乳でしょ?」


 西野さんに突っ込まれて、俺は苦笑いした。


「明日、言ってやろ」


「誰に?」


「川口さんとか?」

 悪戯っぽく笑った。


 彼女が同僚に俺とのデートを話していると思うと、言い間違えたことなんてどうでもよくなった。



 店を出ると、外の風は冷たかった。


 マンションの駐車場まで俺の車で戻った。


 車内は妙に静かだった。

 俺の緊張が彼女に伝わっていたのかもしれない。


 車を降りて、彼女の車まで並んで歩いた。


 彼女が俺の方を見て、「じゃあね」と言いかけたその瞬間――


「次に会うときは、友達じゃなくて、彼氏彼女として会いたい」


 生まれて初めての告白。

 遠回しな言い方だったが、あれが俺の精一杯だった。


 そもそも、この日に告白するつもりだったのか。

 彼女の香水の香りを、合図だと思ったのか。

 俺との関係が、彼女の周囲に知られているものだと思ったのか。

 それは覚えていない。


 ただ、その言葉を口にしていた。


 俺は、きっと頷いてもらえると思っていた。


 でも、その場で答えはもらえなかった。



 その後、数日間のことは、ほとんど記憶にない。



 数日後の朝。

 仕事に行く準備をしていると、西野さんからメールが来た。


 これから俺と会って話がしたいと書いてあった。

 

 久しぶりのメールは嬉しかったが、それよりも不安の方が大きかった。


 少しして〈着いたよ〉と彼女から連絡が入った。

 部屋の窓から、駐車場に彼女の車が停まっているのが見えた。

 下に降りて、助手席の窓をノックすると、彼女は少しだけ視線を俺に向けた。


 俺はドアを開け、「おはよう」とお互い挨拶して、俺は助手席に座った。


 少し間が空いて、彼女が何か言おうとした。


「ちょっと待って」


 俺は彼女の話を止め、深く深呼吸をした。


「うん、いいよ」


 俺は、両手を膝に置いた。

 彼女の顔を見られず、正面の壁を見ていた。


 彼女はゆっくり言葉を選びながら話をしてくれた。


 以前、付き合っていた人がいたこと。


 その人とはうまくいかなかったこと。


 そのことで、今は誰かと付き合うのが不安だということ。


 話は途切れ途切れで、間ができるたびに、俺は「うん」とだけ返した。


 その「うん」は、だんだんと小さくなっていった。


 最後は声にならなかった。


 車内は静まり返っていた。


「そっかあ……」

 ため息交じりに言った。


「じゃあ、今がダメでも……。時間が経てば可能性はあるのかな」

 彼女の目を見て、聞いた。


「そうかもね」

 彼女は悲しげな表情で答えた。

 その声は、どこか遠くに感じた。


 過去の楽しい時間が嘘みたいな空気だった。


「うん。わかったよ」


 彼女の車を降りて、部屋に戻った。


 いつもの部屋が広く感じた。

 何かがおかしいと思った瞬間、部屋の中がぐにゃりと歪んだ。

 思わず目を閉じ、その場にしゃがみ込んだ。


 目を開けて、窓の外を見ると、彼女の車はもうなかった。

 視界が歪んだのは、あれきりだった。


 仕事に行くと、元気のない俺を高木さんが心配してくれた。

 今朝のことを話した。

 何て返してくれたのかは覚えていない。


 この日の仕事は昼までだった。


 一人で家にいると、気が滅入りそうだった。

 車を走らせ、湿原が一望できる展望台まで来た。


 ここに来るのも、一人で遠くまで車を走らせたのも初めてだった。


 この日は快晴。

 平日の展望台に人の気配はない。


 ひとりで、しばらく広大な湿原を見下ろしていた。

 気がつくと、今朝のことを思い出していた。


 どうしても、西野さんに会いたくなった。

 声が聞きたくなった。

 諦められなかった。


〈もう少しだけ話がしたい〉

 そう送った。


 彼女の家の近くにある砂浜で待っている、と付け加えた。

 あの砂浜は、今の俺にはちょうどいい場所だと思った。


 彼女からメールが来た。

〈ごめんなさい。いまは会えない〉


 会うことも声を聞くこともできなかったが、メールで返事はもらえた。

 それだけで、少しだけ胸が軽くなった。


 しばらく車を走らせ、砂浜に着いた。


 彼女が来ないことは分かっていた。

 期待もしていなかった。

 それでも、ここに来たかった。


 海は穏やかで、さざ波の音だけが聞こえていた。

 砂浜に座り、ただただ夕日を眺めていた。


 気がつくと、日が暮れていた。


 高木さんから電話が来た。

 仕事が終わったから、みんなでご飯を食べようと誘ってくれた。

 すぐ車に乗り、店へ向かった。


 店では、西野さんのことを聞かれた。


 まだ、はっきり振られたわけではない。

 今は無理でも、いつかは。


 そう答えた。



 あれから、西野さんからの連絡はなかった。

 俺から連絡することもなかった。


 諦めてはいなかったが、どうすることもできなかった。



 ある日曜の夜、メールの着信音が鳴った。


 西野さんからだった。


第6話 ガイド


【優しい甘い香り】車のエアスペンサーXUスゥーみたいな香り。調べたらXUはブルガリのプールオムと香りが似ているらしい。


【川口さん】3階の介護士。西野さんと同世代の女の子。愛車はシーマ。


【一人で遠くまで】と言っても片道30分。車を買ってから通勤とデート以外使っていなかった。


【しばらく車を走らせ】展望台から砂浜まで約60分。


【店へ向かった】確か、ミスタードーナツ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ