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【14】明かりの消えた冬と国替えのこと








 臨月も間近だったその冬、蓮は腹の子を死産した。


 女の子だった。


 普段は賑やかな西の丸も、その冬ばかりは明かりが消えてしまったように静まり返った。


 央は、凍てつく寒さの中で菩提寺に日参し、その赤子の墓の前で経を上げた。


 和姫も母の悲しみの深さを感じ取ったように、元気をなくして萎れている。央はそんな和姫の相手もしてやりながら、死産だったお産の予後が思わしくなく、臥せった蓮の看病に気遣った。


 折悪く、隆郷は先般から長らく京に上ってしまっている。

 おそらく冬の間は戻ってこないだろうし、春になったとしても、先年のように彼が国元に長く留まることは考えづらいような状況だった。


「央姫さまは、お優しい。そうして私をかわいそうがってくださる」


 そうして過ごしていたある日、床に伏せっていた蓮が、枕元の央に言った。


「ーーこれで私も、少しはあなたの気持ちがわかりました?」


 言いながら、彼女のほうが傷付いたような顔をして泣いていた。


 蓮は手負いの獣のように、心の底から悲しんでいる。悲しみの底でどうにか心を逃す場所を見つけようと、そばにいる央に当たるような真似をする。


 央はそれでも良かった。なんでもいいから、蓮がその一人きりの悲しみの底から、浮上することができるのならば。たとえそれで今後、彼女に恨まれるようになったって構わなかった。


 けれど、蓮はそうして後生誰かを恨むには、生来の心根が清らか過ぎた。


 彼女は、央にひどい言葉を吐く自分自身に傷付いてしまう。その言葉の罪深さに自傷されるように、瞳の色を濁らせて涙を流す姿はあまりにも憐れだった。


「蓮」


 央はこういう時、どうしてやればいいのかわからなかった。

 幼い子にそうしてやるように手巾でそっと頬の涙を拭ってやりながら、きっと隆郷がいればこういう時に彼女に寄り添ってやれるのだろうと思い浮かべる。


 どうしてこういう時に限って、彼がいないのか。


 悔みの言葉、体を厭うようにと丁寧な手紙は届いたが、それは蓮の目には届いても、心までは遠く及ばなかった。


「私が八年暮らした尼寺には、私以外にも、子を亡くした母親はたくさんいたわ」


 央では隆郷の代わりにはなれない。蓮の代わりにこの家を明るくすることもできないように。


 けれど、蓮の悲しみを拭い去ることはできなくても、彼女をどうしても繋ぎ止めておきたかった。


「けれど、誰かが私の気持ちをわかってくれたと思えたことは一度もなかった。私もたぶん、他の女の気持ちなんてわからなかった。だって、私のあの子は、他の誰かの子供じゃなかったもの。……あなたの子の母も、あなただけ。死んでしまっても、子供にとって母はたった一人」


 央は菩提寺に日参し、なにも自分の子と重ね合わせて、熱心に赤子に手を合わせているわけではない。


 ただ、蓮と夫の間に産まれられなかったこの子が、安らかであるように。


「……蓮。私はあなたを、かわいそうに思うわ。でもそれは、私たちの境遇を重ね合わせているからではなくて、」


 央は、自分の子を亡くしたその苦しみがどのくらい続くのかを知っている。だから、これから蓮がその傷を抱えて生きて行かなければならないことを考えると辛くなった。


「あなたのことを、とても大切に思うからよ。そのあなたが、……こんな、苦しみを味わわなければならなくて」


 蓮には笑っていてほしい。どうか。今もって笑えてすらいなくて、慰める立場でありながら無様に泣き出してしまうような女が言えるようなことではないけれど。


「あなたまで、こんな思いを、」


 蓮は泣いていたし、央はそんな彼女の涙ずっと拭ってやりながら、自分の涙は構わずに零していたものだから、蓮は力ない指先を央の頬に伸ばして指先を濡らした。


「……央姫さまは、自分のお子の死に顔はおぼえておいでですか」


「いいえ。見なかった」


 見ないほうが良いとその場にいた全員に止められたから、子は顔を覆われたまま荼毘に付された。央の記憶に焼き付いて離れないのは、その小さな手が体の横で力をなくし、だらりと垂れ下がっていたことだけだった。


「そ、う。私、見たんです、あの子の小さい顔」


 央も、彼女の死産の後にその子の顔を見た。臨月間近だったとは思えないほど小さく、頼りない赤子だった。


「かわいい子。かわいい顔を、してた」


「……そうね。和によく似てた」


 きっと彼女の子は、央にとっても大切な子になるはずだった。








       *







 その冬が明け、寒い間は臥せりがちだった蓮にもやっと笑顔が戻ってきた頃。


 先んじて昨秋から京に戻っていた隆郷からの要請があり、央も再び都に戻ることになった。

 央が三河に下ってから一年半が経つ頃のことだった。


「迷ったのだけれどね。蓮と和姫もどうか、連れて行ってやってはくれないかしら」


「義母上、それは」


 この頃には央は以前よりかは遥かに政治的にも結城の家が置かれている状況を把握するようになっていた。


 隆郷とも文を頻繁にやり取りしていたし、西郷の局とも茶飲み話の体で、都度都度情報を交換し合っていた。


 だからこそ、まだ体調の思わしくない蓮を無理を押して京に連れて行くように、という西郷の局の言葉にはどうしても思い当たってしまう。


「……やはり、お国替えとの噂は、誠のことでございましょうか」


 声を潜めて問えば、西郷の局はほとんど確証があるという頷き方をした。


「まだ公には伏せられていることよ。けれど、もしそうなれば古参の家臣たちや領民の動揺も反発も必至でしょうし。ここ三河の城も慌ただしくなるでしょう」


「ええ」


「私はここに残ってもいざという時に頼る筋や親族があるけれど、蓮は身内にも心許ないことだし」


 蓮の生家は結城の家に仕える武士の一族だが、蓮は早くに父を亡くしている。家と幼い弟妹を守っているのは蓮自身という状況は、本人にとっては心許ないものだろう。


「承知しました。隆郷さまのもとにいたほうが、何かと融通も利きましょうし。ただ、京や大阪がここ三河よりも安泰の居所かどうかは及びもつきません」


「京のことは私にはわからないわ。そのあたりのご判断はあなたさまや阿茶さまに任せます。もし折を見て送り返すということであれば、その時はやはりこちらに引き取って世話をしましょう」


「ありがとう存じます」


 表の政治での勢力図が大きく動こうとしている時、家の女たちができることはそれほど多くはないが、しかし最低限自分たちの身だけは守らなければならない。そして央は自分だけではなく、隆郷の家族を守ってやらなければならなかった。


「義母上。私からお願いする筋のことでもないかと存じますが、蓮の弟妹やご病気のお母上のこと、お頼みしてもよろしゅうございましょうか。蓮が三河を出てしまえば、国替えの際のお世話も難しくなるでしょうし」


 西郷の局は、そこまで気を回す央の心映えに感謝するように笑顔で頷いた。


「もちろん、承りました。お国元のことはわたくしに任せて。京に戻ってからも、何かあればすぐに文で知らせてくださいな。なんでもあなたさまのお力になりますよ」


「義母上もどうかご無理はなさらず。ご息災でいらしてください」


「ええ。次にお会いするのはきっと――江戸の新たな居城でしょう」









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