【15】厄介な女たち
今思えば一年半前は、京から三河に下る道中、央は恐ろしく身軽だった。
何一つ大切なものは持っていなかったし、どこか空虚な、まるで遊山にでも赴くような心地だった。
しかし歳月が巡り、再び彼女が京へ――政治の中心の戻ろうという時、央には守らなければならないものができていた。
それは、夫の娘や側室の身の安全に責任を持って京まで連れていくことだったり、央がきちんと正室として振る舞うことで、隆郷の体面を守ることだったりした。
「道中のことはこの土岐になんなりとお任せください」
隆郷は、女たち一行の迎えに自らの近侍を割いて寄越した。
「よろしく頼むわ。土岐どの」
「早速ですがお方さま。三河領内を出ましたら、お召し物を変えて身をやつしていただくことは可能でしょうか」
「構わないけれど、何。京の情勢はそこまで思わしくないの?」
土岐が連れてきた護衛の数は、充分に有事に耐える人数のように思われた。何も身をやつして身分を隠して都行きを強行する必要があるとも思われない。
しかし、いかにもお調子者らしい風情のこの近侍は、内実は見た目よりも遥かに慎重な男らしかった。
「いえ、しかし、念には念をということもございます。我らの役目はまずもって、お方さまをご無事に京の都まで送り届けること。言い方は悪いが、蓮どのの身の安全については、あくまで二の次にございます」
彼の端的な物言いが示すところを、央は的確に察した。
「……つまり、万が一の際は蓮を私の身代わりにせよということね?」
「話が早くて助かります」
土岐は我が意を得たりというようににっこりと笑った。
「影武者というほど大げさなことではありませんが、せっかく輿に乗せてお運びするならきれいな打掛でも着せて、蓮どのにも有事の際は隊列の主に擬するくらいのお役には立っていただかなければ」
央は迎えの護衛たちに、事前に蓮のぶんも輿を用意してくれるようにと言付けていた。
しかし隆郷に長く使える家来たちには、蓮の出自のことも当然知れているだろうし、彼らの中で蓮の扱いは著しく軽いものだった。
しかし、土岐の物言いは非常に冷淡である一方で、ある方面から見れば合理的であると言わざるを得なかった。
身も蓋もないことを言えば、もし央に万が一のことがあれば、関白家との間の外交上の大問題になり得るが、蓮を一人見捨てたところで彼らにとってはそれは家中の問題で済む。
そうした算段自体が、まるで張り詰めた戦時下にあるかのような緊張感を帯びているのだが、男たちは長く緊迫した政治情勢の中に身を置いているせいか自分たちの常ならぬ態度には無自覚のようだった。
そういう彼らに言葉を尽くして蓮への配慮を求めたところで、無駄に終わることだろう。
央はため息をついて、土岐の提案を概ねのところは受け入れる代わりに、ひとつだけ釘を刺した。
「わかったわ。けれど、仮にも正室の身代わりを担わせるとなれば、蓮の体調にはよくよく配慮して道中を進んでちょうだい。くれぐれも輿の揺れで具合を悪くしないよう」
「なぜ、お方さまはそこまで蓮どのに構われるので?」
土岐の直截な問いに、央は少し考え、これまたあけすけな回答をした。
「だって、蓮はまだ隆郷さまのお子を産むかもしれないでしょう」
横に控えていた与加那がぎょっとした顔をしたが、央がこう言ったということは蓮本人の耳には入らないよう後で口止めをしておかなければならない。
「そなたたちにしたって、どこかよその家から入った側室が先に男の子を上げるよりも、気心の知れた譜代の娘が産んだ跡取りのほうがいくらかお仕えしやすいでしょう。それを思えば蓮を大事になさい」
などと、本気とも方便ともつかないことを言っておく。
ともかく今は、蓮を無事に都に連れて行くことができればそれで良かった。
幸いなことに、土岐はその弁にいったんは納得したのか、それ以上の問答を避けて先を急ぐことを選んだようだった。
慎重な護衛たちに運ばれて、道中はひとまずは平和に進んだ。
ただ、やはり旅慣れぬ女たちを連れての旅路は色々と問題が付きまとう。
日に日に体調を崩す女房たちが出始め、それは隊列の足を遅める原因にもなっていた。
途中で蓮が申し訳なさそうに申し出た。
「具合の悪い者を私の代わりに輿にお乗せくださいませ。私は三河からずっと輿に乗せていただいておりますし、少しくらいは歩けます」
しかし、央はそれを聞き入れなかった。
「それはだめよ」
「しかし、歩けぬ者ばかりでは立ち往生してしまいます」
「では、私が輿を下りるわ」
代わりの提案をすると、蓮と土岐までもが一斉に目を剥いてそれを拒絶した。
「お方さまが? それは絶対におやめください」
「そうです、央さまを徒歩で行かせて輿に乗るなんてしたらそれこそいたたまれなくて余計に具合が悪くなりますわ」
口を揃えて説得されたが、しかし央はせっかく道中では身軽な服装をしていることだし。
「徒歩ではなくて馬を借りるわ。馬ならばいいでしょう」
「馬にございますか?」
「そうよ」
周囲が呆気に取られているうちに、央は土岐の部下から馬を借りてさっさと試乗してしまった。馬に乗るのは有に数年ぶりだが、意外と体が覚えているものだ。
とにかく、道中で長く足を止めるのも良くないと考えたのか、土岐は渋々といった様子で央の提案を受け入れた。
半日も乗ればすぐに借りた馬の癖や乗りこなしにも慣れ、央は翌日からも道程の半分ほどは馬で移動し、輿は女房たちに譲ることとした。
「わたしも!」
大変なことがあったとすれば、輿での移動にそろそろ飽き飽きしていたらしい和姫が、馬に乗ることを羨ましがって自分も乗りたい乗りたいとせがんだことだった。
「おうちゃまは、なぜうまにお乗りになれるの?」
彼女はこの頃少し、口も達者になってきた。
「小さい頃に教えてもらったからよ」
「わたしも! わたしにもおうまを教えてくださいな!」
「そうね。京についたら、お父さまにもお願いして師をつけてもらいましょうか」
乗馬は道中で一朝一夕で覚えられるものでもないし、第一、子供が乗ってちょうどいいような大きさの馬は今は用意がなかった。
和姫の機嫌が急降下するのには、土岐が対処してくれた。彼は和姫を抱きあげて自分の馬に同乗させてやったのだった。
まあ、土岐としてはもう一つ和姫のための輿を空けて、そちらにも歩き疲れた女房たちを詰め込んでさっさと先を急ぎたかったのだろうが、ともかく和姫は馬上からの景色にきゃあきゃあと喜んだ。
「土岐どの。ご家中では、女はあまり乗馬は習わぬものかしら」
和姫が馬に乗りたいと言い出したら、隆郷は困るだろうか。
「乗れぬ者のほうが多いでしょう。しかし、乗れて困るということもないでしょう。お方さまのように」
「でも護衛は困るかもしれないわね。そなたのように」
「それは違いありません」
十数日の日程を共にして、土岐とも互いに軽口を利くくらいには打ち解けたわけだが、しかしそうして道中ずっと元気だったのは央と和姫くらいのものだった。蓮はやはり、輿に乗っていてさえ日を追うごとに顔色を悪くしていった。
伏見の屋敷に到着すると、央たち一行はなんとも仰々しく出迎えられた。
「遠路お疲れさまにございました。伏見屋敷の者たちはみな、お方さまのご到着を心待ちにしておりました」
伏見の屋敷を預かる女房たちは、央にとっては見覚えがあるようなないような、という感じだったが、向こうは先年嫁いだばかりの頃に数ヶ月滞在していた央をよく覚えているらしい。
「またよろしく頼むわ」
「はい。なんなりとお申し付けくださいませ」
「早速で申し訳ないけれど、具合があまり良くない者がいるの。床をのべて、念のために医者を呼んでもらってもいいかしら。そうでない女たちにも旅の疲れがあるだろうから、手足を洗う湯を用意してやって」
伏見の女房たちが恭しく央の言葉に頷いたそばから、央に続いて輿から降りてきた蓮の様子に、周囲が気色ばむ。
「蓮さま」
「ま! お顔色が……」
蓮の看病に忙しなくなる女房たちや、安静にさせなければならない蓮の邪魔にならないようにと、央は和姫の手を引いた。
「和姫は私と一緒におりましょうね。あとでかかさまが落ち着いたら見舞いましょう」
「はい」
「和姫はお疲れでない?」
「へいき!」
央は、与加那たちにも目配せして蓮のことを頼むと、和姫を連れて屋敷の女房たちの案内を受けて自室へと向かった。
「阿茶さまのもとに央姫さまご到着の連絡を差し上げます」
「頼むわ。すぐに身支度の用意をお願い。阿茶さまのご予定がよろしければ挨拶に伺いましょう」
到着してからも何かと気忙しい。
本当は蓮のことも阿茶の局に引き合わせておこうと思っていたが、体調を考慮すれば、彼女は今日のところはゆっくりと寝かせておいたほうがいいだろう。
きびきびとした伏見の女房は、先導して室内へと入るなり、驚いたような大声をあげた。
「まあ! 四辻どの」
その声音に含まれる明確な非難の色に、央は首を傾げていたら、室内に座していたその人とちょうど目が合ってしまった。
「まあまあ! お方さまは本日はお疲れでしょうから、あなたはご遠慮なさいと言っておいたはずですが?」
伏見の女房の険のあるその態度にも驚いたが、彼女に四辻と呼ばれた女は、その女房の言葉がまるで聞こえていないかのようだった。
「だって、わたくしもお方さまに、ぜひご挨拶をと思いましたの」
その人は、部屋の中央に座し、手をついて央を仰々しく出迎えた。
「お初にお目にかかります。わたくし、こちらのお屋敷でお世話いただくようになってから、四辻と呼ばれておりますわ。昨年より、若殿さまにお仕えさせていただいております」
その婉曲で慇懃な物言いから、彼女の言いたいことは充分すぎるほどに伝わった。
ゆったりとしなを作った大仰な動作で一礼し、彼女は再びすぐさま顔を上げた。その不躾な視線が央の全身を素早く品定めするように走るのは、あまり良い気分のするものではなかった。
「そう。苦しゅうないわ。四辻どの」
彼女の身にまとう着物は少し派手で、屋敷の中で雑用をする者の出で立ちではないような気もする。目にも鮮やかな口紅の色が真っ先に目につくが、その容貌にはまだ少し頼りなさも残るような。
もしかしたら、まだ十代の若い娘かもしれない。
「どうぞ、今後よしなにお引き回しくださいませ」
彼女は、隆郷が伏見の屋敷に置いた新しい側室だろう。
央は軽く息をつきがてら、目に見えて苦々しい顔をしている案内役の女房に視線を向けた。
ここしばらく、蓮や和姫との心安い暮らしに慣れてしまっていたものだから、家中でこういうギスギスとした雰囲気を感じるのは新鮮なことだった。
「では四辻どの。早速で悪いけれど、着替えを手伝ってくださる?」
「……なっ、」
彼女は拍子抜けしたような顔をした後、耳まで真っ赤にして絶句した。
「わ、わた、わたくしは! 若殿さまにお仕えしているのであって、お方さまの家来ではございませんっ」
その言い分の是非はさておき、央は彼女のことも、おそらく彼女と折り合いが悪いのだろう屋敷の女房たちのこともこれ以上刺激しないよう、ひとまずその言葉に頷いておいた。
「そう。では、もう下がって結構よ。あなたのことは旦那さまと話しておきます」
新たな側室から挨拶を受けた。ので、後で隆郷に詳しい事情を聞かなければ、と央は思った。
しかし、央から思うような反応が見られなかったのか、四辻は恥をかかされたというように一瞬だけ表情をゆがめた後、辞去の挨拶もせずに部屋から飛び出していった。




