第九章 追う者と追われる者 (消失)
カッセル卿が古本屋を営む小さな町は、イーダストの街から数時間程歩いた先にあった。ヘルタンと言われるこの町は、めぼしい産業もなく規模も小さな町ではあったが、雪に覆われた大地の多いハイダルシアにとって大きな価値を生む、ヘルタン湖の恩恵で農業の盛んな町であった。
「……」
「……」
喧嘩したわけではない。それでも自然と二人の間に会話はなかった。同じ“影”である男性の死は、リンにも思うところがあるのだろう。イーダストの街を出てから口数が少ないのは誰が見ても分かることであった。
「町に行く前に、少し遠回りしてもいいかな?」
「え……はい、もちろん」
私の問いかけに、一度驚いた様子を見せた後、リンは素直に頷いた。
雲の隙間から差し込む太陽の光を反射した湖面はキラキラ輝いていて宝石のようだった。幻想的な光景は人をいつも以上に詩人へと変えてしまう。
海のように大きな湖、始めてみるヘルタン湖は想像以上だった。
「……申し訳ありません」
ふいにリンは言う。
「主であるセシル様に、お気をつかって頂き」
「そんなつもりで寄り道したわけではないよ。単に見聞を広めてみたかっただけさ」
「……ありがとうございます」
「それに……」
言うべきかどうか迷ったが、人の別れがいつ訪れてしまうか分からない。それなら言わないよりも、伝えるほうがよい。
「私は絶対に忘れない。例え主の為にすべてを捨てた“影”のことでも……一人一人すべてを覚えているつもりだ。だから」
「ありがとうございます。その言葉だけで私は幸せです」
言葉を遮るように……リンは笑みを浮かべる。その顔はヘルタン湖の湖面の輝きよりも綺麗だと、私は思えてしょうがなかった。
「リン……」
目の前の彼女の肩に手を添えようと伸ばした瞬間、私はそっと手を引いた。
リンの背後から近づく、村人らしき2名の女性の姿が見えたからだ。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
私の挨拶に、女性たちは照れたように頬を染める。
「こんな小さな町に観光の方ですか?」
「えぇ、兄弟で湖を見に来ました。それと……たくさんの古い本が置かれたお店があると聞いて」
「古本屋……?」
「あれよ。町外れにある」
「あーあの今にも崩れそうなゴミ屋敷ね」
女性達の反応を見ていると、カッセル卿の営む古本屋の様子と、あまり町の人に受け入れられていない事実が分かるような気がした。
そう思うと少し可笑しくもある。この人達が疎ましく思っているお店の店主が教会に10人しかいない枢機卿が一人、カッセル卿だと知った時、どう思うのだろうか? いや、どうも思わないだろうな。イーダストの街と違い、ヘルタンの町には教会の支部もなく、信仰の薄い地域と聞く、そんな町の人なら教会の枢機卿が誰かも知らないかもしれない。だから私も堂々と湖のほとりで景色を眺めていることができるのだ。
「昔からここにずっと湖があったんですか?」
「えぇかなり昔からみたいです……でも」
「でも?」
途中まで言いかけた女性が、言いあぐねたように黙る。
「もう少し早く来られてたら、もっと詳しい話ができたんですけど」
「どういうことですか?」
「この町に少し前まで、生き証人が住んでたんです」
「生き証人? かなり年配の方ですね。きっと」
生き証人と言われるくらいだから、並大抵の人ではないだろう。
「えぇ……確か……いくつだっけ?」
「100は超えてたんじゃない? たぶん」
「でも、いなくなっちゃって」
「いなくなった? 亡くなられたんですか?」
100歳を超えた人であれば、亡くなってしまうこともあり得る話だ。でも女性の言い方は妙に変であった。
「死んだわけではないと……たぶんですけど、急にいなくなって」
「だからそれは誘拐されたのよきっと」
「あんたそればっかりね」
二人の話を聞いていると、なんだか少し物騒な話へと変わり始めたようなきもする。
「あれだよね、4人組の男女が来てからいなくなったから。あの旅人たちが連れていったって言いたいのよね」
「だってタイミングもバッチリでしょ」
「それはそうよね」
4人組の男女という言葉に、失せていた興味がよみがえる。
「すいません。その4人組の旅人とは?」
「え? あーその生き証人だったおばあちゃんが最後に一緒にいたのが4人組の旅人なんです。男の子が二人と女の子が二人、そういえば髪が白銀で綺麗な子だったよね」
「そうそう。それにゴミ屋敷にも行ってたよね」
「あ、行ってた行ってた」
どうやら4人組の正体は想像通りの人物で、カッセル卿の古本屋にも立ち寄っているようだ。
ただの村人との世間話のつもりが……思ってもいない情報を手に入れることができた。
元々、この旅の最終目的地にしていたカッセル卿のお店に向かう上で、さらなる理由が生まれたことになる。彼らが立ち寄った場所、大きな意味を成しているはずだろうきっと。




