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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下
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閑話35 中世世界の行軍速度

 リファニア世界は中世段階で戦乱が絶えません。今までリファニアの軍事組織、軍の階級などについて閑話で触れてきましたが、この話は行軍について説明します。


 本文で次のような記述があります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 セレクタがモンデラーネ公軍の自前の輜重隊を見たのは、アヴァンナタ州に五十リーグ(約九十キロ)ほど侵攻してからだった。

 そこまで州境から六日を要しているので、リファニアの軍勢の中でも快速であるモンデラーネ公軍も並の軍勢程度の行軍速度になっていた。

(北西軍の僥倖5  続・籠城戦5  戦士長セレスタの脱出 二)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 この記述からするとリファニアの並の軍勢、すなわと領主軍の一日の行軍距離は十五キロ程度と言うことになります。


 これが妥当なものであるかを各時代の代表的な軍勢の一日の行軍距離で考察していきます。


 最初に人間の肉体的な能力を改めて確認します。


人間の歩く速度は長時間持続できる速度で時速4キロ、数時間なら可能な早足が時速6キロ、戦場での突撃速度である駆け足が時速8キロです。

 フルマラソンの世界記録が2時間として最高時速20キロ、100メートル走の世界記録で時速37キロほどです。


 馬は常歩で時速6キロ、速歩で時速15キロ、駈歩で時速30キロ、襲歩で時速60キロというところです。

 ただ速歩でも連続しては一時間ほどで、しばしば休ませるか馬を取り替えなければなりません。襲歩にいたっては五分が限界です。


 歩兵のみの行軍で時速4キロ、馬を主体にした行軍でも時速6キロが基準速度となります。


 まず古い時代としては古代エジプトのトトメス3世はメギドの戦い(おそらく紀元前1457年)の際、エジプトからガザまでの9日間の行軍で一日平均24キロの距離を移動しています。

 この速度については通常の行軍なのか戦術的な考えから戦場へ急行するために特別に力を出したのかは不明です。



挿絵(By みてみん)




 マケドニアのフィリッポスとその息子アレクサンドロス大王の軍勢は迅速な行軍で知られていました。

 その速度は一日平均24キロですからトトメス3世の軍勢と同じということになりますが、エジプト軍は軽装歩兵、マケドニア軍は重装歩兵という違いがあります。


 マケドニア軍は輜重隊を伴わないで騎兵や軽装歩兵からなる軍勢なら一日64キロから80キロの行軍が可能だったといわれています。

 有名なガウガメラの戦いで約五万の兵力を率いてペルシアの大軍を撃破したアレクサンドロス大王は、昼夜兼行で翌朝までアルベラまでの90キロを走破してダリウス3世を追撃しています。


 ただしこれは騎兵のみの追撃であったかもしれません。


 アレクサンドロス死後の後継者戦争においてアンティゴノスは五万の兵力を率いて七昼夜で約480キロを踏破して敵軍を奇襲しています。これは一日あたり69キロになります。

 これは五万の純粋な騎兵部隊とは考えられませんので、頑張らせたという要素以外に何か工夫があったと思われます。


 筆者は特に運動などを日常しない状態で、日中(七八時間ほど)だけ小走り気味の徒歩で約五十キロ以上歩いた経験があります。

 それから考えると絶対に不可能だとは思えませんが、体力が最も旺盛な時期に行ったもので軽装のうえ一人で秋の遊歩道といった気持のいい道を自分のペースで歩いたからこそ出来たことです。


 自分のペースで歩くのはかなり大きな要素で、軍勢の行軍であれば落伍者を出さないようにかなり抑制した速度にする必要があります。


 ただしこういった特筆される強行軍は多数の落伍者が出たと考えられますので追撃とか奇襲といった要素がなければ実行されなかったでしょう。


 古代最強の軍勢の一つであるローマ軍では規定により通常の行軍は一日25キロとされます。

 さらに強行軍で一日30キロから35キロとなり、最強行軍だと昼夜兼行で可能な限りということになっていました。


 日本陸軍の一日の移動距離は30キロ程度とされていましたのでローマ軍並と言うことになります。


 ローマ軍が行った驚異的な行軍速度としては第二次ポエニ戦争のイタリア半島における戦いでクラウディウス・ネロがタウルスの戦いに加勢するため行った行軍の例があります。

 クラウディウス・ネロは精兵七千を選り抜いて可能な限りの軽装にさせるとともに食料も携帯せず、道筋にある町に食事を用意させました。そして800キロの距離を一昼夜に100キロ以上の速度で強行軍しました。



 ローマ帝国と同時代の中国の例を見ると三国時代の司馬懿は宛から直線距離で300キロの道のりを八日で踏破し上庸城を攻略しました。一ヶ月はかかると踏んでいた敵将孟達は応戦準備が間に合わず城を落とされ斬首されました。

 街道の曲折を考慮して400キロ程度が実際の行軍距離と思われますので一日当たり約50キロの行軍となります。ただしこれは凄まじい速度であったことが記述されています。


 「退避三舎」(退きて三舎を避く)という言葉が中国にはあります。これは後に戦国時代の晋の文公となる重耳が父の献公とその妻驪姫によって国を追われ臣下とともに逃亡した時に楚の国に身を寄せていたときの話です。


 楚の成王は亡命してきた重耳を酒席に招き、礼を尽くしてもてなします。宴が終わった後成王は重耳に「もし貴方が晋に帰ることができたら、私にどのような礼をしてくださるか」と質問しました。


 重耳は「美女や玉帛ならば、貴方さまはお持ちです。翡翠・孔雀の羽根、旄牛の尾、象牙の皮ならば貴方さまの土地で得られます。晋国に流れてくるものは貴方さまの余りものです。ほかに何を差し上げることができましょうか」と言質を取られないような返事をしました。


 しかし成王は「それでも聞きたいのだ」といって引き下がりません。


 そこで重耳は「もし貴方さまのお力をもちまして晋に帰ることができ、晋と楚が出兵し中原で会うことになりましたら我が晋軍は三舎退きましょう」と答えました。


 一舎とは一日の行軍距離のことで三日行程分退きましょうという意味になります。


 この一舎とは約20キロほどですのでこれが古代中国での一日の行軍距離の標準ということになり、古代ローマ帝国軍にやや及ばない程度と言うことになります。


 ただし”荀子”などには「師行(行軍)は日に三十里、吉行(行幸)は五十里、奔喪(親の葬儀に駆けつける)は百里」とあります。

 一里を400メートルとすると軍勢の行軍は1日12キロ、王の行幸は20キロ、奔喪は40キロです。


 これでは一舎の20キロと比べるとかなり遅い行軍速度です。


 また”唐六典”に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあります。唐の1里は540メートルですから、馬で1日38キロ、徒歩や驢馬で27キロ、車で16キロとなります。


 輜重隊の使用する車はかなり遅いことがわかりますから、輜重隊を伴っているかどうかでかなり行軍速度は左右されたでしょう。

 輜重隊を伴わない短距離の行軍なら一日20キロ、輜重隊とともに進むのなら12キロほどということでしょうか。


 日本の戦国時代の行軍で有名なのが羽柴秀吉による”中国大返し”が有名です。これは十日間で備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロを移動したものですが一日当たりにすると23キロになり、当時の主要街道であった山陽道を利用していることからそう特筆される速度ではありません。


 ただし高松から本拠地姫路までの100キロを二日で走破していますので、”中国大返し”とはこの部分の驚異的な行軍ということになります。

 姫路に到着した秀吉は一日休息をとって次の日は四十数キロほどを進んで兵庫(現神戸市)にまで進出しています。


 こうした芸当が出来たのは自領を行軍したのと、織田信長が率いてくる援軍のために街道上に食料などが備蓄してあったという幸運があったためです。

 

 なお秀吉は朝鮮出兵で「六里(約24キロ)を一日之行程とす」と定めていますのでこれが戦国時代の行軍速度と思われます。


軍勢の行軍ではありませんが江戸時代の参勤交代の大名行列は道中の経費節約のため強行軍を行いました。

 映画やドラマではしずしずと歩きながら「下にい」などと言っていますが、街中では兎も角街道では速歩でせわしく一日に32キロから40キロほど進んだようです。


 この速度が維持できたのは宿泊用の本陣などが整備されて輜重隊を伴わなくてよかったからです。


 格式の高い御三家が街中を通過する時に出合った庶民は土下座や二階から見下ろしてはいけないなどの規制がありましたが、他の大名は自領以外では街道で行き会った庶民に土下座などをさせる習慣もさせる暇もなく、行列が邪魔されなければそれで問題はありませんでした。

 


さてヨーロッパでは中世になると行軍速度が低下してきます。


リチャード1世の行った第三回十字軍は比較的素早く進軍していた時期で一日に7キロほどで、遅い時期には補給線を要塞化しつつ一日1キロに満たない速度で進軍していました。


 これは国家が弱体化して一律に命令が全軍に行き届かない寄り合い所帯である封建制の軍勢になったことと、有象無象の商人や娼婦が多数軍勢に帯同したからです。

 また戦略も慎重に重きを置くことに変化したことも行軍速度の低下に繋がって行きます。


 中世の軍勢で比較的早く移動した例は、百年戦争の最中の1495年に行われたアザンクールの戦いに至る前のイングランド王ヘンリー5世が率いるイングランド軍の行軍があります。

 ヘンリー5世はセーヌ川河口にあるアルフルールを巡る攻城戦において自軍が赤痢の蔓延でによって消耗したため当時はイングランド領だったドーバー海峡沿岸のカレーへ帰還することを決めました。


 この時ヘンリー5世の軍勢は二週間半で420キロ、一日当たり約25キロという行軍を行いました。

 さらにこの行軍では弓兵を中心とした多くの兵士が赤痢に苦しんでいましたので、驚くべき速度です。


 これはフランス軍の待ち受ける敵地の中を一刻も早く脱出したかったという事情があります。



 絶対主義の時代になった近代になってもヨーロッパの軍勢の行軍速度は上がりませんでした。


例えば絶対主義全盛のヨーロッパにおいての代表的な指揮官であるオーストリアのプリンツ・オイゲンは1706年6月から9月にかけてイタリアで360キロを60日間で行進しました。一日の平均速度は6キロでしかありません。



挿絵(By みてみん)




 1704年にフランスのタラール元帥も320キロを36日で移動しています。一日にすれば9キロ足らずですがこれは当時としてはかなり早い行軍速度でした。

 しかしこの行軍速度であっても軍は大きく疲弊したといいます。歩兵は疲れ果てかなりの馬は病気にかかったと記録されています。


ナポレオン軍も迅速な移動で知られています。しかし通常の行軍速度は、一日16キロから19キロ程度でした。この速度でも当時の軍隊からすれば驚異的な速度だったのです。


 この理由は国民軍でもあるナポレオン軍を除いてイヤイヤ従軍させられている兵士の脱走を誘発しないことと、扱いにくい大砲を劣悪な道を使って運んでいることにもあります。


 同時代の日本の軍勢がヨーロッパの軍勢より行軍速度が早かったのは大砲という重荷がなかったからかもしれません。



 さて以上のことを踏まえたリファニアの軍勢の行軍速度を推察してみます。


 現在リファニアには四種類の軍勢が存在します。


 まず第一に絶対王政の軍勢といえる王立軍、王家近衛隊、ムラデムリです。この軍勢は志願制度でそれなりの伝手や希望者を保証する人物、そして武芸がないと入隊できません。

 

 この軍勢は強行軍をしても肉体的についていけない限りは兵士が脱走したり意図的に落伍したりすることはありませんから、国民軍である近代軍と同様の扱いができます。

 王立軍の行軍規定は一日十五リーグ(約二十七キロ)とされていますので、近代軍とほぼ同じです。


 ただし輜重隊を伴っていれば一日十リーグ(約十八キロ)ほどに低下してしまいますが、19世紀までのヨーロッパの軍勢と比べても快速です。


モンデラーネ公軍もほぼこれに準ずる軍勢といっていいでしょう。


 第二は一般の領主軍です。これは家中によりかなり差があります。指揮官である家臣は代々召し抱えられた者達で主家とは一蓮托生の運命共同体ですが、兵士は雇われた者が大半です。


 その兵士も長年の忠勤で一代家臣の資格を持っていたり、それを希望して主家を見捨てるには敷居が高い者、精々十年ほど兵士として禄を得て故郷に帰って農民になるか商売を始めようとする者、傭兵団に入るために取りあえず雇ってくれる領主軍に入ってキャリアを始めようとする若者などがいます。


 第一のグループである一代家臣やそれを狙っている兵士は概して年齢が高く三十代後半から四十代前半が中心で五十代前半という者もいるために、これらの兵士は忠誠心はあっても体力的な問題を抱えています。


 第二のグループの若い時の稼ぎのつもりで兵士になった者は二十代が中心ですが、家族などがいてそろそろ辞めようとする者は劣勢になったり行軍がきついとすぐに脱走してしまいます。


 第三のグループのキャリアを始めようとする若手は十代後半から二十代半ばであり、腕に覚えが出来た者から辞めていきます。そして第二のグループに移行した者が残る傾向にあります。


 こうした者達がどれほどの割合でいるかで軍勢の耐久度は異なってきますし、輜重隊のない従軍酒保商人に頼る軍勢では従軍酒保商人の補給と移動能力が行軍速度に影響します。


 輜重隊を編成できる優良な領主軍で一日八リーグ(約十六キロ)、大半の領主軍は五から七リーグ(約九から十二キロ)程度です。


 第三の軍勢は傭兵団です。傭兵団単独だと一日十二から十四リーグ(約二十二から二十五)程度は行軍できますが、傭兵団は雇用主から補給を受けるのが建前でその補給の都合で遠距離の移動は領主軍並みになります。


 第四の軍勢は自治村の農民兵です。


 これは一旦一揆の覚悟を決めて地域内で動員されるとその地域内の農村が食糧その他の物資を補給しますので、特定の地域内ですがそれこそ武器武具だけを持って行軍できます。


 土地勘もあるのでその行軍速度は王立軍やモンデラーネ公軍並ですが勢力圏外に出て行く力も意志もありません。


 以上のことからリファニアは中世段階の軍勢としては一日に十数キロから二十キロは移動できますので比較的素早く動ける軍勢ですが、特殊な場合を除いて近代軍のように一日に三十キロなどという速度は出せません。

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