サヴォンリンナ神殿への道行き24 密航者 二 -パーヴォット、凹む-
この話もパーヴォット視点になります。
パーヴォットはインディフォンド船長の依頼でエルマニという少女と使っていない乗客用船室で話をすることになった。
扉の外にはキャビンボーイのデルデキクトと一人の船員が番をしてくれ、何か異変があればすぐに飛び込んで来てくれるということだった。
パーヴォットが先に部屋に入ると左右に船員に挟まれたエルマニが一人の船員に肩を押されて部屋の中に入って来た。
パーヴォットは扉が閉まるのを確認してから「座りましょう」とエルマニに声をかけて。自分は椅子に座った。
「なるようにしかなりませんよ。命までは取られないし、事情があればきっとインデフォルド船長は悪いようにはなさらないでしょう」
立ったままのエルマニにパーヴォットはそう声をかけた。
ようやくエルマニは椅子に座ってずっと項垂れていた頭を少し上げた。エルマニはパーヴォットよりやや小柄でリファニア女性としては平均的な背丈だった。
パーヴォットよりややふくよかな顔付きで、濃いスミレ色の虹彩と小さな少し上を向いたような鼻が特徴的な愛らしい顔付きだった。
肌は薄い銅色で現代日本なら日焼けした女性の小麦色の肌と思えばよい。
リファニア人の一割程度はネファリア(北アフリカ)の濃淡は様々だが褐色の肌をしたアサデル人の血を色濃く引いている。
何故かは説明はつかないがこのアサデル人の褐色系の肌を持った女性にはリファニアでは希少な緑や紫といった虹彩がよく出現する。
「わたしはローウマニ・パーヴォットです。十七歳です。ジャギール・ユウジ様と旅をしており、ユウジ様はわたしの保護人です」
パーヴォットは自己紹介をした。
「知っております。郷士様のお嬢さんです」
エルマニが初めて口を開いた。
「誰からそれを聞いたのですか?」
パーヴォットの質問にエルマニがまた下を向いたので、恐らくエルマニの密航を手引きした者から聞いたのだろうとパーヴォットは思った。
「エルマニさんが密航などをしたのはよくよくの事情があると思います。このソフィアネッテ号を運行するヘルコ船舶商会の総帥ギスムンドル様とその奥様のアルシャネル様とは懇意にしていただいています。
どれほど力になるかはわかりませんが、わたしからもこうした事情があるのでどうか配慮して下さいという手紙を書きます」
パーヴォットの呼びかけにもエルマニはそのままの姿勢だった。
「エルマニさんのお年は幾つですか。それからご兄弟とかおられるのですか。わたしは父と母、兄弟もいません。でも天涯孤独というワケではなく父方の祖母や叔父、従兄弟・従姉妹がいます」
(第十四章 ミツガシワの雫を払い行く旅路 祐司とパーヴォットの三叉路30 二人の三叉路 下 参照)
*従兄弟・従姉妹と表記したのはリファニアの”言葉”では従兄弟と従姉妹は別の発音の単語であるため。
パーヴォットは遠回りでもエルマニの心をほぐすことにした。
「わたしは十八歳です。弟がいます。十二歳で来年からヘルコ船舶商会の見習船員になる予定でした。
でもわたしがとんでもないことをしでかしたので、きっとヘルコ船舶商会では奉公が出来ないでしょう。弟には悪いことをしたと思います。
それから九歳の妹もいます。わたしが二年前から”白鯨亭”で働き出して贅沢は出来ないけど妹にも不自由はさせていませんでした。
でもおっとうもヘルコ船舶商会から暇を出されるかもしれません。そうしたらどうやって食べていけばいいのか。
船長さんに諭されてやっとそれがわかりました。どうして自分のことしか見えてなっかのだろうって。わたしさえ我慢すればよかっただけなんです」
エルマニは最初はゆっくりそして次第に胸の内にしまっていたモノが堰き止めることが出来ないような感じでしゃべった。
「エルマニさん、何を我慢するんですか?キレナイトに行くこと?」
パーヴォットはエルマニの様子を見て言葉を選びながら訊いた。
「はい」
「好きな人がカラシャにでもいるのですか」
パーヴォットはさらに慎重に訊いた。
「いません」
エルマニの言葉に嘘はないとパーヴォットは感じた。
「お嫁に行く気は無いとか」
「いいえ、そんなことありません。働いている”白鯨亭”は飯屋も兼ねているので料理の手伝いをして憶えたので自分で料理は一通りの事は出来るようになりました。
裁縫はおっかあが小さい頃に教えてくれて、それからはおっとうと隣のおばさんに編み物を教えてもらっています」
「エルマニさんは偉いですね。わたしは料理は少しばかり習いましたが裁縫や編み物はからっきしです」
「パーヴォット様はお嬢様ですからそれでいいではありませんか」
エルマニはパーヴォットがお嬢様だから裁縫や編み物は不要のように言うが、リファニアでは王妃になるような有力貴族の令嬢でも裁縫や編み物は女性のたしなみとして教えられる。
屋外活動が制限される冬季にはリファニアの中層から下の男性も編み物をしてささやかながら収入の足しにしたり妻や恋人、あるいは子供にショールなどを編んで贈ったりする。
「自分で言うのはおかしいかもしれませんが、わたしは自分がお嬢様だと思ったことは一度もないんです」
パーヴォットは真顔で言った。
「でも、パーヴォット様は働かなくて、そんな上等な服を着て船も貸し切りみたいにして色々な所を旅できるのでしょう。わたしから見ると矢張りお嬢様です」
エルマニは少々やっかむような感じで言った。
パーヴォットはエルマニが少々感情的になってきたと感じた。そしてそれは良い傾向だと思った。
パーヴォットはユウジが他人が発する巫術の力による光で感情や虚偽を言っていることを察知出来ると打ち明けられている。
その能力で船員の中からエルマニの密航を手引きした者を見るのは容易だろう。ただ問題はイルデフォンド船長らにその能力があると見破られずに手引きした者を合理的な理由で指摘するという難題をユウジが背負うことである。
エルマニを説得して手引きした船員の名を言わせるか、言葉巧みに誘導してその事物の属性をパーヴォットが知ればユウジの苦労を軽減出来るとパーヴォットは考えていた。
そしてエルマニが感情的になれば手引きをした者の情報を口の端に出しやすくなるだろうともパーヴォットは考えていた。
「ユウジ様は一願巡礼ですから果ての無い旅をしていらっしゃいます。わたしは貴女のように生まれ育った街で働けるということを羨ましく思います。それより船倉で見つかった時に手荒な事はされませんでしたか」
パーヴォットは相手を感情的にさせようとは考えたが、人に優しいという性根のパーヴォットは相手を気遣って落ち着かせるような物言いになった。
「いいえ。巫術が”照明術”をかけて船倉が明るくなって、すぐに見つかりました。伏せているところを立たされたくらいで手荒なことはされていません。
船員が『ジャギール・ユウジ殿の言うとおりだった』と言っていましたが、何故、ジャギール・ユウジさんはわたしがいることがわかったのですか。
何度も船倉には点検の人が来ましたが、わたしは息を詰めて隠れて一度も不審に思われたことはありませんでした」
「エルマニさん。貴女はカラシャの人ですから”アブラン一党との血闘”の一件は知っているでしょう。ユウジ様は天下の武芸者ですから人の気配を敏感に感じるのです」
パーヴォットのいう”アブラン一党との血闘”とは、ほぼ一年前にパーヴォットとユウジがカラシャの路地で行ったヤクザ者のアブラン一味六人との大立ち回りである。
この時にユウジは後に死んだ者も含めて四人を殺害し一人に重傷を負わせた。またパーヴォットも三人のアキレス腱を低く構えた剣を横向きに振るう”竜の尾”という剣裁きで切断した。
(第十二章 西岸は潮風の旅路 春嵐至り芽吹きが満つる24 路地裏の血闘 参照)
「そうでした。”足斬りパーヴォット”もヤクザ者を斬ったという話ですね。どのような勇壮な方だろと思っていましたから、お可愛いお嬢様のパーヴォット様と話をしていてすっかりその事を忘れていました」
「え、わたしカラシャでは”足斬りパーヴォット”って言われているんですか」
パーヴォットが自分が感情を露わにした素っ頓狂な声を出した。
「ええ、希代の女剣士ですよね。だから顔付きの鋭い怖い感じの人だと思っていました。パーヴォットさん達がヤクザ者達を斬り殺した通りは”血まみれ小路”って呼ばれていて名所ですよ。
流石に地面の血痕は雨などで無くなってますけど壁に飛び散った血しぶきはわざと残されています」
エルマニはアイドルを見るような目で言った。
リファニアは老若男女を問わずに尚武の気質溢れる社会であるから、自分と同年配の一見手弱女と見える若い女性が腕に自信のある男三人を一時に斬ったとなると崇敬の対象である。
「はあ、カラシャの皆さんには忘れて欲しいと思います」
パーヴォットは溜息をついた。
「どうでしょう。”血まみれ小路”を正式の小路名にして事件のことを書いたプレートが設置されるという話を聞きましたよ。
嘘か本当か知りませんが、聞いた話では手伝いを嫌がる子に『足斬りパーヴォットに来て貰って二度と立てないようするよ』って叱る親がいるそうです」
「もう、止めて下さい」
パーヴォットはすっかり凹んでしまった。
パーヴォットはカラシャからソフィアネッテ号で出港する前にカラシャで数日過ごしたが、その時にはパーヴォットのことをおもんばかる人々ばかりが周囲にいたので、エルマニの言ったようなパーヴォットに関する話は耳に入ってこなかったようだ。
「王都でジャギール・ユウジ様が貴族の屋敷で十人斬りをした時にもパーヴォット様は助太刀して二人を袈裟懸けに斬ったという話は本当ですか?」
エルマニはパーヴォットが思い出したくないことを訊いてきた。
パーヴォットとユウジはマール州バナミナでバルバストル伯爵バナガン・キルレット・エヴァリスとバルバストル伯爵妃ヴァベマン・ジュルーニ・ランディーヌの内戦ともいえる”伯爵舘包囲戦”に巻き込まれた。
行き掛かりでパーヴォットとユウジはバルバストル伯爵バナガン・キルレット・エヴァリスに加勢することになり、最後は降伏して助命を図ろうとした味方によってバルバストル伯爵妃ヴァベマン・ジュルーニ・ランディーヌが首を落とされて決着した。
(第六章 サトラル高原、麦畑をわたる風に吹かれて あやかしの一揆、逆巻く火の手21 伯爵館包囲戦十三 ランディーヌ 参照)
ところがルバストル伯爵妃ヴァベマン・ジュルーニ・ランディーヌを支持した挙げ句に、内戦に敗れて王都に逃れてきたランバリル子爵家に縁のある一団が”伯爵舘包囲戦”で武功をあげたユウジを逆恨みして、ユウジとパーヴォットを謀ってランバリル子爵の屋敷に連れ込み殺害しようとした。
(第九章 ミウス神に抱かれし王都タチ オラヴィ王八年の政変19 ランバリル子爵家の刺客 参照)
しかし十人の敵に取り囲まれたユウジはそのうち六人を斬り伏せるか、短刀の投擲で無力化した。さらにランバリル子爵家の二人の巫術師を含む三人の家臣を殺害している。
正確には九人斬りであるが、パーヴォットが途中で逃げ出した一人の背中に一太刀浴びせているので合わせれば十人斬りである。
(第九章 ミウス神に抱かれし王都タチ オラヴィ王八年の政変20 仮面の男 参照)
さらに自分達の危難を知らせようと逃走中に奥屋敷迷い込んだパーヴォットが曲者と聞いて槍で武装して出てきた奥女中や侍女の三人に剣を振るっておりそのうち一人の手の平を剣で刺し抜いている。
女性達がパーヴォットを恐れて逃げ出したので、パーヴォットは無人の奥屋敷に保管してあったリファニアでは高価な陶器製やガラス製の食器がのった食器棚をすべて引き倒して千近い食器を破壊した。
さらに公式行事や賓客を迎えるために役職者が代々伝えてきた女官や侍女の高価な服を百という単位でパーヴォットは切り裂き、泥水に投げ込み、最後は小便をかけて肥だめに投げ込んだ。
(第九章 ミウス神に抱かれし王都タチ オラヴィ王八年の政変22 捕らわれた祐司とパーヴォット 参照)
最後のトドメはパーヴォットは剣の柄で奥屋敷の中世世界リファニアでは高価な窓ガラスを手当たり次第割った。
この時はパーヴォットは興奮状態だったが、後で思えば現代日本の価値にして億を遙かに超える程の経済的な損害をランバリル子爵家にもたらした。
パーヴォットにとっては過剰防衛にもほどがあるという行いで忘れたい自己の所業である。
「確かに背後から男の人を袈裟懸けにしました。逃げる相手ですよ。卑怯なことですが命からがらのことだったんです。
ユウジ様の十人斬りのことについては貴族家のからむことなのであまり詳しいことは堪忍してください」
パーヴォットは逃げるように言った。
「ああ、それからモンデラーネ公の甥である武将バンガ・セレドニオルを聖都マルタンでパーヴォット様が討ち取ったという話も聞いています。
武将バンガ・セレドニオルは神学校に主君モンデラーネ公を誹謗する輩がいると聞いて押し入ってと聞いています。
それを神学校の門で剣を振りかざす武将バンガ・セレドニオルとその護衛の兵士数人と戦って正面からただの棒で相手にして一撃で打ち倒したと聞いています。本当ですか。マルタンに巡礼に行った人からお店で聞きました」
エルマニが勢いに乗ったような感じで訊いた。
祐司とパーヴォットも心ならず参戦した”北西戦役”の末期に落ち武者になったバンガ・セレドニオルが神学校に押し入ったのは本当だが、それは追い詰められた挙げ句に神学校に隣接するムルヘル神殿のアジールに逃げ込もうとしたが間違って神学校に入ってしまった為である。
*話末注あり
そして神学生で溢れる昼食時の食堂に迷い込み女子神学生バガサ・ヴァレンチヴァを人質にしてなんとか逃れようとしていたのをパーヴォットが背後から忍び寄り擂り粉木棒を使った”棍棒術”をバンガ・セレドニオルの頚椎に振るって下半身不随の重傷を負わせたというのが真相である。
(第十八章 移ろいゆく神々が座す聖都 マルタンの光と陰12 祐司、パーヴォットを引き取る 参照)
バンガ・セレドニオルはモンデラーネ公の身内の中で突出して優れた武将で二十歳を幾つも超えないながらすでに武勲の片鱗を見せていた。
すでにリファニア王国統一戦争は目の前に迫っているがバンガ・セレドニオルがモンデラーネ公の陣営で健在であったとしても結果や大勢に大きな差はでなかったも知れないが王家がバンガ・セレドニオルに手を焼いたことは確実だろう。
その為に後世では「王立軍の将であるトンバルデン男爵マーヌ・フェデラ・ラシュエリクとモンデラーネ公軍の将バンガ・セレドニオルはどちらが名将だったか知る術は一人の少女によって奪われた」と嘆げかれることになる。
ただ歴史書では次第に事件の実態は明らかになっていくが、当時は王家がマルタン守護のセウルスボヘル伯爵からモンデラーネ公の甥バンガ・セレドニオルを捕虜として引き取ったという政治的に難しい背景があり、また武力行使など論外の神学校内の事件ということで詳細は発表されていない。
また事件を目撃した神学校の関係者にも箝口令が出ている。
ただ神学生にはモンデラーネ公勢力圏から来た者も多く当然彼等は箝口令等守らずに故郷に顛末を知らせている。またマルタン在住で通学生もいるので彼等の家族からそれとなく情報は漏れている。
ただ伝聞の伝聞といったような情報が多くエルマニが聞いたとんでもなく脇曲された話が一人歩きしている。
「バンガ・セレドニオル様は落ち武者になった挙げ句にマルタンの神学校に逃げ込んだのです。
護衛の兵士はいましたが衛士神官の方々に捕縛されて、神学校に入り込んだのはバンガ・セレドニオル様だけです正面からやりったワケでも討ち取ったワケでもありません。
わたしの友達を人質にしようとしたので背後忍び寄ってから大きな擂り粉木棒を首に振るっただけです。
ちょっと加減をし損じて、バンガ・セレドニオル様を半身不随にしてしまいました。いくら咄嗟のことだったとはいえとっても反省してます」
このバンガ・セレドニオルの話も一人の才能ある若者を二度と立ち上がれない体にしてしまったということでパーヴォットにとってはこれも思い出したくない黒歴史である。
ただ事件以降は箝口令が出ていたことと人を思い遣る教育を受けた者が集まる神学校でパーヴォットにこの話を振る者はいなかったので、パーヴォットもいつしか記憶が心の奥に沈んでいた。
パーヴォットはエルマニを感情的にさせようとして反対に自分の感情を揺さぶられて落ち込んでしまった。
その上に世には知られていないが、さらにパーヴォットは六つの出来事で人を殺傷している。
一つ目は”バナジューニの野の戦い”で落ち武者になった僭称ドノバ候配下の兵三人にパーヴォットを当時匿っていてくれたロヴォー婆さんの家で遭遇した時である。
三人の兵はパーヴォットとロヴィー婆さんを殺害して食糧を奪おうとしたが、パーヴォットは機先を制して一人の肩に矢を撃ち込み戦闘不能にして、救援に駆けつけつつあったユウジの為に時間稼ぎをした。
(第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏 ドノバ連合候国の曙15 パーヴォットの武勇 参照)
殺すまでには至らなかったが、これがパーヴォットが最初に人を害した事例である。
二つ目はマール州バルバストル伯爵領の主邑バナミナで勃発したバルバストル伯爵バナガン・キルレット・エヴァリスを戴く地付きの家臣団である地元派と、王都貴族ランバリル子爵出身のバルバストル伯爵妃ヴァベマン・ジュルーニ・ランディーヌを戴く元はランバリル子爵家の軽輩者を中心にした王都派の内戦の途端で、ユウジは王都派の首魁である近衛隊長デルベルトに襲撃された。
この時はユウジが剣でデルベルトに致命傷を負わせて、以降王都派は指揮官不在の状態でバナミナの中心にある伯爵舘に籠城するしかなくなった。
パーヴォットはデルベルトがユウジに気を取られている時に、背後からデルベルトの背中に剣を突き込んだ。
(第六章 サトラル高原、麦畑をわたる風に吹かれて あやかしの一揆、逆巻く火の手5 祐司VSデルベルト 参照)
これは初めてパーヴォットが剣で人を害した事例である。
この時はユウジがデルベルトにより大きな傷を与えたのでユウジがデルベルトを殺傷したことになっているが、パーヴォットの剣もデルベルトの内臓に達する傷を与えていたので、リファニアの医療水準からすればパーヴォットの与えた傷が致命傷になった可能性は高い。
三つ目は地元派勝利で終わったバルバストル伯爵家の内乱の後に、緒戦でユウジに斬り殺された王都派の剣術指南ハヤル・リストハルトのまだほんの子供といっていい姉弟レティシアとアルカンが仇討ちの為にユウジを襲撃した時にパーヴォットはアルカンの左の二の腕を剣で刺した。
四つ目はベムリーナ・サルナ州マキトシマ男爵領ガナセリナ近郊で古代のドルメンによって野宿していた時に金品を奪う為に襲撃してきた二人の男をユウジと傭兵ドレーエヴィの三人で待ち伏せしてパーヴォットはこの二人に矢を複数の射込んでいる。
(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き ベムリーナ山地の秋霖11 傭兵ベレクタの運と不運 二 ドレーエヴィ 参照)
そのうちの一本は致命傷でパーヴォットはこの時に初めて明確に人を殺したといえる。
五つ目はパーヴォットとユウジが王都で暮らしていた時に、王都近郊の名刹古刹を巡る”十二所参り”をしたがその時の出来事である。
パーヴォットは王家直参郷士カマル・ハンミナベルの放蕩息子の取り巻きである三人の蓮っ葉女から罵倒され名誉を傷つけられたために、その三人に薪を剣の代用にした決闘を申し込み、素人とはいえ三人相手に一人で戦って最後は全員が足腰が立たない状態にした。
(第九章 ミウス神に抱かれし王都タチ 北風と灰色雲31 十二所参り 二十五 パーヴォット、教戒する 参照)
この三人の女のうち一人は早く降参したので軽傷ですんだが、後の二人は数日は寝て否けらばならない程の怪我を負った。
六つ目はベラ州ノバフタ村近郊の出来事である。
この時、パーヴォットとユウジは恐るべき戦闘力を持った行商人集団イライネルおばさん一行と同行していた。
それ女性陣とともにパーヴォットは襲撃してきた地元武装勢力の男達と射撃戦を行って少なくとも二人に致命傷に近い矢を射込んでいる。
それぞれが自分の身と名誉を守る為という理由はあったのだが、常に暴力で事を切り抜ける恐るべき凶悪少女ではないかとパーヴォットは自分が怖くなった。
「凄いです。ゆっくり話を…。そんなことを聞ける立場ではありませんでした」
突然、エルマニははっとした顔付きになってまた下を向いてしまった。
注:アジール
リファニアのアジールについては「第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き ベムリーナ山地の秋霖29 アジールへの道」で述べていますので、この話で初めてアジールという語に出会った方についての説明になります。
アジール(Asyl:独)あるいはアサイラム(asylum:英)は直訳すれば聖域になります。アジールでは公的権力から逃れることが出来る場所です。
ヨーロッパでは古代末期から中世にかけて教会は聖職者が認めればアジールとして機能して官憲の追求から逃れることが出来ました。
聖域の概念はキリスト教以前から存在しており古代ユダヤでは六箇所の都市が聖域として指定されていました。
またギリシャやローマの神殿も聖域を有していました。初期のキリスト教会は聖域による保護を提供することで異教の神殿に対抗していました。
教会による聖域は四世紀末にローマ帝国法の一部となりました。これは殺人を犯した者が聖域を求めて教会に駆け込んだ場合は教会に入って逮捕することを禁止しました。
西ローマ帝国が476年に滅亡した後も教会は世俗法に違反した人々を保護する権威を維持しました。
これは教会が「犯罪者を罰すること」よりも「罪人と神との間の道徳的均衡を回復すること」を重視していたからです。
中世ヨーロッパにおいては犯罪者、或いは政治的逃亡者は大聖堂に入ると追っ手は外で待ち伏せすることはできましたが、中に入って誰かを捕まえることはできませんでした。
ただ逃亡者は窓から追っ手を攻撃するための弓矢や教会を出てから身を守るために使用する可能性のあるその他の武器を教会内に持ち込むことは出来ませんでした。
逃亡者は聖域内は安全に過ごしながら加害者と合意を結ぶことが出来れば無事に脱出することができました。
加害者との合意は都市、地域、あるいは国からの永久追放という内容でした。
死刑になったり入牢させられるよりは遙かに追放はましでした。中世の牢ではパンと水しか与えられず病気も蔓延していたようで決して安閑としていられる場所ではなかったからです。
こうした聖域はヨーロッパでは宗教改革や絶対主義の強化とともに十七世紀頃には消滅に向かいます。
しかし現在でもなきにしもあらずで、2018年から2019年に起こったオランダのハーグでの事例があります。
これはハーグにある教会が亡命を希望する家族の為に96日間24時間体制の礼拝を行いました。
オランダの法律では儀式中は警察が宗教施設に立ち入ることができないためです。警察が教会に入ったのは2019年1月に一家の滞在期間延長を認めた時だけでした。
日本でも高野山はアジールとしての働きがあり、主家により高野山に追放されることもあれば、主家から討伐を受けそうになった者が自ら高野山に入り赦免されるまで留まっています。
リファニアでは大は神殿がある神域全体、小は神殿内の一部にアジールとして認められた場所があります。
ただアジールは一国内の治外法権地域で中央集権体制とは相性の悪い存在です。リファニアは封建体制で戦乱が絶えませんが、それでも王家や大領主にとっては邪魔な存在です。
この為にリファニアでも徐々にアジールは縮小されたり廃止される傾向です。
またアジールを管理する”宗教組織”もアジールとは領主による恣意的な刑罰を受けそうになった者を保護する手段といういう認識で、法が整備されたのならばアジールの役割は終わるという方針です。




