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星海の灯火 〜英雄は星を救わない〜  作者: セルヴォア
帝都と軍令府

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軍令府の廊下

翌朝、目が覚めた時、帝都基地の居住棟はもう動き始めていた。


壁の向こうを誰かが早足で通り過ぎる音がする。区画放送は艦内放送より短く、乾いていた。時間、当直、配属案内、訓練棟の使用制限。必要なことだけを並べて、余韻なく切れる。


リオは寝台の縁に手をついて身体を起こした。


昨夜のうちに大きく崩れなかったのは幸いだったが、腰の奥にはまだ移動の疲れが残っている。補助具を付け直し、立ち上がって一歩目を確かめる。床の硬さが艦内と違う。それだけで、今日もここは新しい場所だと分かった。


机の上には、昨日受け取った入室コード票と基地案内、それに今日の手続き一覧が置いてあった。


着任確認。

通信端末登録。

解析部門仮所属手続き。

軍令府人事補助科での書類確認。


最後の一行を見た時、胸の中で何かが少しだけ固くなる。


昨日、軍港の文官が言っていた窓口だ。補助具の申請だけで終わるかもしれないし、別の何かを言われるかもしれない。分からないまま行くしかなかった。


部屋を出ると、廊下の窓から朝の白い光が差し込んでいた。


帝都の朝は明るいのに、柔らかくはない。雲を通った光が、石と金属でできた建物の面を平たく照らしている。影は薄く、どこも見通しがよすぎた。


本棟の簡単な朝食を済ませたあと、リオは案内図を確かめながら軍令府本庁舎へ向かった。


帝都基地と軍令府は、渡り廊下と中庭でほとんど一体になっているような位置関係だった。


基地側が居住と実務のための建物だとすれば、軍令府は決定のための建物だった。外壁は古い石造りに見えるのに、縁には魔法金属が細く走っていて、柱の根元には星鋼の補強が入っている。新しくも古くもない。ずっとここにあり続けるために、何度も手を入れられてきた建築だった。


正面の階段は広く、踏み面が低い。


歩きやすいようにも見えるが、実際に上がると一段ごとの距離が微妙に長い。急がせる作りではない代わりに、姿勢の乱れが目につきやすい。


リオは途中で足を止めたくなったが、止まらずに上がった。


入口の内側には、基地よりさらに静かな受付があった。


文官と参謀補佐が別々の列を作っていて、誰も声を荒げない。書類を差し出し、認証板へ触れ、短く礼をして進んでいく。その流れの中に自分も入ると、前線から来たという感覚は急に薄くなった。


順番が来て、受付の若い文官に配属通知を差し出す。


文官は端末に認証票を通し、リオの名前を確認した。


「リオ・メルク少尉。帝都基地解析部門、仮所属」


そこで、指が少しだけ止まった。


わずかな間だった。


だが、止まったこと自体は隠しきれていない。


「どうかしましたか」


リオが聞くと、文官は視線を上げた。


「いえ。ルメン戦の帰還者と記録にありましたので」


やはり、その言葉はここでも何かを含むらしい。


「手続きに問題がありますか」


「問題というほどではありません。ただ」


文官は少し言い淀み、それから端末画面へ視線を戻した。


「こちらの記録では、一部、例外的処理の注記が付いています」


例外的処理。


その言葉を、リオは初めてはっきり聞いた。


意味までは分からない。だが、良い意味の言い回しではないことだけは、相手の声の硬さで分かる。


「内容を確認できますか」


「私の権限では開示できません。人事補助科の窓口で、閲覧可能範囲の説明があると思います」


丁寧な言い方だった。


丁寧だからこそ、その先へは進めない線もはっきりしていた。


文官は手元の案内票に区画番号を追記して返した。


「本庁舎第三棟、二階。人事補助科窓口です」


「ありがとうございます」


受け取って歩き出すと、背中に視線が一つだけ残る。


振り返るほどではない。


それでも、見られたことは分かった。


廊下へ入ると、空気がまた変わった。


広い。


ただ広いだけではなく、歩く人間のために余白が取られすぎている。床は磨かれていて、壁には星鋼の装飾線が細く入っていた。窓の位置は高く、外の景色は見えるのに、立ち止まって眺めるようにはできていない。


動いている人間も、基地とは違った。


現場帰りの肩ではない。書類を抱えた文官、胸章を整えた参謀、礼装に近い軍官僚服の士官。誰もが戦っていないわけではないのだろうが、戦場の煤や疲労を身体の表に出してはいない顔だった。


リオは歩調を崩さないように進んだ。


途中ですれ違った女性文官が、目線を一度だけ下げた。


補助具へ落ちた視線だった。


すぐに戻る。


無礼というほどではない。


だが、見ていないふりをしながら見ている目線は、見慣れていた。


第三棟へ続く回廊の角で、一度だけ立ち止まって案内票を見直す。


その時、廊下の奥から人の流れがわずかに割れた。


誰かが来るのだと、言葉より先に分かった。


先頭には書類束を抱えた文官が二人、その少し後ろを、一人の士官が歩いてくる。


薄い金髪。

青白い肌。

寸分の乱れもない軍官僚服。


歩調は速くないのに、周囲がその速度へ合わせて道を空けていた。


誰かが小さく、「フェルナー中将」と言った。


それだけで、廊下の空気がさらに細く張る。


リオは壁際へ半歩寄った。


士官は視線をまっすぐ前に向けたまま通り過ぎた。こちらを見ない。見ないままなのに、この廊下で何が決まり、誰がどこへ振り分けられるのかを知っている人間だと分かった。


名を覚えるつもりはなかった。


それでも、イザーク・フェルナーという名は、その場で頭に残った。


通り過ぎたあと、空気が少しだけ緩む。


人の流れが元に戻るのを待ってから、リオはまた歩き出した。


人事補助科の窓口は、予想より小さかった。


もっと大きな部署を想像していたが、実際には細長い部屋の片側に端末と窓口机が並んでいるだけだった。代わりに、待っている人間の表情が硬い。昇進書類なのか、配置転換なのか、誰も口にしないが、ここへ来る理由が軽くないのだと分かる。


順番を待つあいだ、椅子に座るか迷った。


座れば少し楽になる。

だが、立ち上がる時に補助具の支えがずれる可能性もある。


結局、壁際の手すりに軽く触れたまま立って待った。


番号が呼ばれて窓口へ進む。


対応したのは年配の女性文官だった。銀縁眼鏡の奥の目は冷たいというより、慣れていた。


「リオ・メルク少尉ですね。帝都基地解析部門仮所属、補助具接続申請、および着任に伴う記録確認」


「はい」


「まず補助具の件ですが、基地標準端末への接続は申請後、医療局の適合確認を経て許可となります。医療局から照会が入ればこちらで処理します」


ユーリが先に動くと言っていた意味が、ここでようやく分かった。


もし自分一人で来ていたら、別の窓口へ回され、様式を取り、再提出して、また待つことになっていたはずだ。


「次に、記録確認について」


女性文官が端末を開いた。


「ルメン戦功績記録に付随する注記は、現時点で制限付き閲覧です。少尉本人が確認できるのは、分類名と処理区分のみになります」


「分類名」


「はい。功績記録、補助分析採用」


そこまではよかった。


「処理区分、例外的処理」


やはり、その言葉だった。


「理由は」


「現時点では開示権限外です」


「いつなら見られますか」


「人事局本課による審査が終われば、少尉本人への通知が出ます」


終わる時期も、判断基準も言わない。


その曖昧さだけが、机の上に残された。


リオは喉の奥で一度だけ息を止めてから、聞いた。


「例外的処理になると、何が変わるんですか」


女性文官は数拍だけ黙った。


端末の光が眼鏡に映る。


「通常の配置判断より慎重な審査が入ります」


「慎重な」


「前例化を避けるための確認、と理解してください」


前例化を避ける。


その言葉は、処罰より静かで、そのぶん逃げ場がなかった。


リオは頷いた。


ここで言い返しても仕方がない。仕方がないと分かることと、納得できることは別だったが、それでも今は進むしかなかった。


必要な認証を終えて部屋を出る。


廊下へ戻った瞬間、胸の奥の圧迫感が少しだけ増した。


戦場の緊張とは違う。


あちらは音と速度と判断で身体が狭くなる。こちらは静けさと手順で、呼吸の幅が削られていく。


窓のある回廊まで出て、ようやく立ち止まった。


高い窓の向こうには、帝都の中層区が白く霞んで見える。輸送艇が一筋の光を引きながら流れていく。その下で、地表の建物群は黙ったまま重なっていた。


端末を取り出し、個人回線を開く。


数回の呼び出しで、ユーリが出た。


「どうだった」


開口一番だった。


「よくわからなかった」


リオは窓の外を見たまま答えた。


「でも、何かが変なのはわかった」


端末の向こうで、ユーリが少しだけ黙る。


「何て言われた」


「例外的処理って」


自分の口から出した途端、その語がさっきより冷たく聞こえた。


「内容は?」


「そこまでは見せてもらえなかった。制限付き閲覧で、処理区分だけ」


「なるほどな」


ユーリの声は低かったが、驚いてはいなかった。


むしろ、そういうことを言われる可能性を先に考えていた人間の声だった。


「補助具の方は」


「医療局から照会が入れば進むって。ユーリが動く方が早い」


「じゃあそっちは俺が片付ける」


即答だった。


「ありがとう」


「礼はあとだ」


少し間を置いてから、ユーリが続ける。


「それで、お前は今どこにいる」


「軍令府の回廊。窓のあるところ」


「顔は」


「たぶん、よくない」


「素直でよろしい」


それだけで、少しだけ息がしやすくなった。


「戻れるか」


「戻れる」


「なら戻れ。飯食いながら話せ」


短い言葉だった。


だが、その中に選択肢がちゃんとある。


今すぐ全部を整理しなくていい。まず戻る。座る。食べる。そのあと話す。


戦場でも、ユーリはよくそうやって順番を決めてくれた。


「わかった」


「本当に分かったか」


「今は本当に」


「よし。じゃあ、俺が戻るまでに基地へ着いとけ。遅いと迎えに行く」


「それは大げさだよ」


「大げさに言わないと、お前の『大丈夫』が先に出る」


反論できなかった。


回線が切れる。


リオは端末を下ろし、もう一度だけ窓の外を見た。


帝都は大きい。


昨日見た時と同じ星の上にいるのに、今日の方がずっと重い。建物の重さではない。ここで言われた言葉が、そのまま都市の重さになって肩へ乗ってくる。


例外的処理。


前例化を避けるための確認。


身体制約を持つ士官の非標準的な判断。


言われていない言葉まで、勝手に続いていく気がした。


それでも、廊下を引き返しながら、リオはさっき通り過ぎた人の顔を思い出していた。


フェルナー中将。


あの人が何を決めているのかは分からない。


でも、ここで何かが決められていて、自分はその外側から結果だけを受け取る立場なのだということは分かった。


それは悔しかった。


悔しいと、ようやく思えた。


怒りと呼ぶにはまだ形がない。


けれど、もやっとしているだけの朝よりは、少しだけ前へ進んだ気がした。


本庁舎の出口まで戻ると、外の光が少し強くなっていた。


基地へ続く渡り廊下の先では、軍服の人間たちが規則正しく行き交っている。


その中へ戻れば、また静かな帝都基地の一日が始まる。


解析部門も、医療局も、食堂も、昨日よりはほんの少しだけ場所として輪郭を持っているはずだった。


リオは補助具の留め具を一度だけ確かめた。


歩ける。


まだ歩ける。


そう確かめてから、基地へ向かって歩き出した。

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