基地解析室の夜
カルタス後方支援拠点の夜は、静かというより整いすぎていた。
前線の艦内みたいにどこかで誰かが怒鳴ることもない。
補修の火花も、警戒音も、医療区画を走る足音もない。
代わりにあるのは、一定の明るさを崩さない白灯と、決められた時刻にだけ鳴る区画放送と、誰の感情も映さない壁の色だった。
リオは基地解析室の卓の前に座っていた。
クライセンブルクから運び込まれた記録板が三枚、壁際の保管棚にまだ仮置きされたままになっている。
私物も似たようなものだった。
替えの軍服、補助具の予備帯、士官学校時代から使っている薄い筆記板、ユーリに半ば強引に持たされた常備薬。
どれもここにあるのに、まだ自分の場所へ置かれた感じがしない。
カルタス後方支援拠点での受入検査を終えたあと、基地解析区画へ回されたばかりだから当然だった。
壁は艦内より厚いはずなのに、遠くを走る搬送車の振動がかすかに床へ伝わる。
解析卓はクライセンブルクのものより据わりが重く、基部も固定されている。
それでも手を置いた時の感触が違うだけで、ここがまだ借り物だと分かった。
卓上には、今日のうちに返却するはずだった戦闘記録の写しがまだ開いたままだった。
『少尉リオ・メルク:初功績記録』
その文字は、照明の白さのせいか、艦内で見た時よりも冷たく見える。
嬉しくなかったわけではない。
それでも、嬉しいだけで終わらないのは、その下に続く文面をもう知っているからだ。
再現手順の整理を要する。
数値説明が困難。
身体負荷を伴う観測。
どれも事実に近い。
事実に近いからこそ、胸の奥に棘みたいに残る。
リオは記録板を閉じ、代わりに戦闘時の予測点データを開いた。
航路図の細い線が何本も重なり、その中の一つだけが自分の示した進路だった。
そこへ共和国艦隊が出てきた時の記録は、もう何度も見た。
見れば見るほど、当たったことより、その手前の曖昧さが気になる。
なぜ分かったのか。
なぜ、あの時だけ強く感じたのか。
なぜ、機器より先に身体が反応したのか。
そして、なぜそれはいつも少し遅れて痛みに変わるのか。
怠けではなかった。
その一点だけは、もう昔みたいには疑わなくていい。
父も母も、ユーリもミナも、ずっと疑わなかった。
それなのに、自分の中ではまだ完全に終わっていない。
終わっていないから、こうして確かめたくなる。
証明できる形にしたくなる。
リオは予測点の横へ、自分用の覚え書きを短く打ち込んだ。
観測前兆。
炉揺らぎとの時間差要確認。
身体負荷発生点、記録不足。
再現条件、不明。
打ち込みながら、自分でも少しだけ口元が固くなる。
まるで他人の症例を書いているみたいだった。
けれど、そうでもしないと前へ進めない気もする。
感覚のまま抱えているだけでは、また次に同じことが起きた時、誰かを説得しきれない。
オスカーは動いた。
コルネリウスも記録を残した。
ミナは機関部から数字を拾ってくれた。
あの時、支えてくれる人はいた。
だったら自分も、その支えを次に渡せる形へ直さなくてはいけない。
そう思った時、卓上端末の端に小さな着信灯がついた。
個人回線。
識別を見るまでもない。
リオは少しだけ呼吸を整えてから応答を開いた。
薄い投影の向こうに、ミナの顔が出る。
機関部の制服のままだった。
照明もこちらより少し黄味が強い。どこか別の区画で、まだ完全に仕事が終わっていないのだと分かる。
「起きてたのね」
「うん。そっちも」
「まだ少しだけ残務があったの。終わったから、今なら繋がるかなって」
ミナの声は柔らかい。
でも、柔らかいだけではない。
こちらの顔色を見ながら、どこまで踏み込むか決めている時の声だった。
リオは端末の角に視線を落とした。
「別区画?」
「工廠局寄りの仮設整備棟。クライセンブルクの機関記録も一部こっちへ回ってるから」
会いに行けない距離ではない。
けれど、今から通行申請を出して、許可を待って、夜間通路を渡って、と考えると、同じ基地内にいるという実感は急に遠くなる。
前線では同じ艦の中にいたのに、今は声だけの方が近かった。
「そっちは」
ミナが聞いた。
「ちゃんと座れてる?」
質問がいかにもミナらしくて、リオは少しだけ肩の力を抜いた。
「座れてる」
「ちゃんと、って聞いたのよ」
「ちゃんと座れてる」
ミナの目がわずかに細くなる。
嘘ではないか、無理をしていないか、その境目を見る目だった。
「今夜は痛み、強い?」
「強くはない。重い感じ」
「脚だけ?」
「腰も少し」
「なら、端末見ながら変な姿勢になってるはずね」
言い返そうとしたが、たぶんその通りだった。
リオは観念して、腰の位置を少し直した。
その動きだけで、ミナが小さく息をつく。
「やっぱり」
「見えてた?」
「見えるわよ。何年見てると思ってるの」
短いやりとりだった。
それだけで、基地の無機質な白さが少し遠のく。
ミナはそこで初めて、卓上の記録板に視線を向けた。
「それ、まだ見てたの」
「うん」
「嬉しくなかった?」
リオはすぐに答えられなかった。
嬉しい。
でも、それだけではない。
その混ざり方を、ミナにはごまかしたくなかった。
「嬉しかった」
少し置いてから、続ける。
「ただ、きれいに受け取れない感じもある」
ミナは急かさない。
待ってくれる時の沈黙を、リオはよく知っていた。
「役に立ったって書いてあるのに、同じ紙の中で、危ういとも書かれてるみたいで」
「そうね」
否定しない。
そこがミナだった。
「でも、危ういって書かれるのは、あなたが危うい人だからじゃないわ」
「じゃあ、何」
「今の帝国軍が、あなたの使い方をまだ知らないのよ」
リオはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
優しい慰めなら、もう少し簡単な言い方をしたはずだ。
でもミナは、そういう雑な救い方をしない。
「知らないものは、怖がるわ」
ミナが続ける。
「数字で出るものしか扱いたくない人もいる。逆に、便利そうだからって雑に使おうとする人もいる」
投影の向こうで、ミナの肩越しに整備灯が一つ消えた。
夜勤の終わりが近いのかもしれない。
「だから、あなたが次にやることはたぶん二つ」
「二つ」
「無理をしないことと、無理をした時に何が起きてるか残すこと」
リオは小さく笑った。
「厳しいな」
「技術者だから」
ミナは少しだけ笑った。
「壊れた後で原因不明って言われるの、一番嫌いなの」
その言い方が、妙に心に残った。
自分の身体を壊れた機械みたいに扱われたいわけではない。
でも、壊れた後で理由も分からず放置されるより、ずっとましだった。
何が起きているかを記録して、次へ繋ぐ。
それはミナがずっと、機関でも人でも変わらずやってきたことだ。
リオは卓上の覚え書きへ視線を戻した。
「今日、ちょっとだけ役に立てた気がする」
言葉にすると、思ったより静かに落ちた。
大きな宣言ではない。
それでも、前よりは少しだけ自分の中に残る。
ミナの表情がゆるむ。
「あなたがそう言えるようになったなら、今日は良い日だよ」
その一言で、胸の奥の硬いところが少しだけほどけた。
会えない。
でも、遠すぎはしない。
そう思える距離だった。
通信を切る前、ミナが最後に言う。
「戻る時、連絡通路で立ち止まらないで。白灯のところ、足元が平らすぎて逆に踏み外しやすいの」
「平らすぎて?」
「目印が少ないの。疲れてる時ほど危ない」
機関技術者らしい助言だった。
リオは頷いた。
「分かった」
「分かってなくても、今は分かったって言いなさい」
「分かった」
今度は本当に、少し笑いながら言えた。
通信が切れる。
室内はまた静かになった。
それでも、さっきまでより冷えてはいなかった。
リオは記録板をまとめ、臨時解析卓の保存灯を落とした。
残しておくべきデータは保存した。
持ち帰るべき疑問は、まだ残っている。
それでいい気がした。
全部に答えが出てから前へ進むことなんて、たぶんできない。
答えがないままでも、次に残せる形へ寄せていくしかない。
立ち上がる前に、補助具の位置を確かめる。
腰帯を締め直し、脚部支持の留め具を一つだけ調整する。
基地支給の補助具はクライセンブルクのものより少し硬かった。
身体に合わないほどではないが、長く使うと擦れそうだ。
こういう小さな違和感も、本当は見過ごしたくない。
リオはゆっくり立ち上がった。
白灯の下では、自分の影が薄い。
艦内の暖色灯ではごまかせていた疲れも、ここでは輪郭まで見えてしまう気がする。
歩幅を確かめるように、一歩、二歩と進んだ。
痛みはない。
だが、脚の奥にまだ鈍い揺れが残っている。
無理をすれば転ぶほどではない。
その曖昧さが、一番厄介だった。
居住区画へ戻る連絡通路は、必要以上にまっすぐ伸びていた。
白い壁、白い床、等間隔の灯り。
補給基地の中枢区画ほど、迷いを嫌う作りになるのかもしれない。
けれど、身体が少しでもぶれる人間には、迷いの余地がない通路ほど歩きにくい時がある。
ミナの言った通りだった。
目印の少ない床は、距離の感覚を狂わせる。
リオは急がず、呼吸に合わせて足を出した。
一度だけ、壁際の手すりへ指を添える。
その瞬間、向こうから聞き慣れた声がした。
「お疲れ」
ユーリだった。
片手に食事盆を二つ持っている。
白灯の下でも歩幅が崩れないのは、あいつが医療区画と艦内を走り回ってきた人間だからだろう。
「飯食ったか」
リオは反射で答えた。
「食った」
ユーリは立ち止まりもせず、即座に言う。
「嘘つくな。来い」
まるで、最初からその答えが返ると分かっていたみたいだった。
「どうして分かるんだよ」
「お前の顔」
「ひどい判断材料だな」
「医療士官なめるな。お前は腹減ってる時、声が半音だけ遅い」
そんな細かいことまで見られていたのかと、呆れるより先に可笑しくなる。
リオは小さく息を吐いた。
「今、そんなの分かるの、お前くらいだろ」
「十分だろ」
ユーリは片手の盆を少し持ち上げた。
湯気はもう弱いが、まだ温かい匂いがする。
「基地食堂の夜食、今日は外れだ。だから医療区画側で確保してきた」
「また勝手に」
「勝手じゃない。必要な栄養管理だ」
言い方だけは正しかった。
でも、その正しさの中に雑な優しさが混ざっているのを、リオはもう知っている。
ユーリはリオの歩幅に合わせて速度を落とした。
合わせたとは口にしない。
ただ、気づいたらそうなっている。
それがユーリのやり方だった。
通路の白灯が二人の影を細く伸ばす。
前線の戦場から戻ってきたはずなのに、今歩いているのは静かすぎる通路だ。
それでも、この静けさの中にも、支えてくれる人はちゃんといる。
リオは食事盆を一つ受け取った。
手にかかる重さは軽い。
軽いのに、不思議と落とす気がしなかった。
「ユーリ」
「ん」
「僕、次はもう少し説明できるようにするよ」
ユーリは前を向いたまま答えた。
「次がある前提で話してるなら、それでいい」
「あるよ」
「あるな」
その返事があまりにも普通で、リオは少しだけ笑った。
白い通路の先に居住区画の扉が見える。
基地へ戻ってきても、まだ全部が落ち着いたわけではない。
むしろ、ここからの方が面倒かもしれない。
それでも、今日の自分は、少しだけ前よりましだった。
役に立てたと思えた。
その感覚を、誰かに否定される前に自分で消さないでおこうと、今は思える。
ユーリが扉の認証板に肘を押し当てる。
「ほら、早く来い。冷める」
「命令口調だね」
「医療だ」
「便利な言葉」
「だろ」
くだらないやりとりのまま、扉が開く。
リオはその後を追って、中へ入った。
基地の夜はまだ白く、冷たく、整いすぎている。
けれど今は、その中に少しだけ人の温度があった。




