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星海の灯火 〜英雄は星を救わない〜  作者: セルヴォア


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遠い回廊

クライセンブルクがカルタス後方支援拠点へ続く補給回廊へ入ってから、艦内の空気は少しずつ変わった。


前線帰りの艦が持つ焦げた匂いと、補修材の乾いた匂いはそのままなのに、人の歩き方だけが静かになる。


帝国側の後方基地へ戻る艦でも、誰もが無意識に背筋を伸ばす。


それが歓迎のためなのか、査定のためなのか、リオにはまだ分からなかった。


航路解析室の補助席に腰を預け、正面の観測窓を見上げる。


ガラス越しの星海は、ルメン中立採掘帯のように濁っていなかった。


発光性の星雲も、漂う採掘塵もない。暗い海の底を思わせる静かな黒の中に、規則正しく標識灯が並び、補給回廊だけが細い銀の筋のように伸びていた。


その筋の先で、カルタス後方支援拠点の外郭灯が鈍く光っている。


最初は細い光の帯に見えたものが、近づくにつれて何本もの接続桟橋と乾ドックを抱えた巨大な補給要塞だと分かってくる。


外周を巡回艦が流れ、補給腕の間を整備艇が走り、さらに内側では前線向けの輸送艇と帰投艦が、決められた順番で吸い込まれていた。


前線から戻った艦が帝国側へ入り直す前に、帝国はまずここで身分を問う。


艦籍、任務、積荷、負傷者数、同行文官、送信済み報告書の照合番号。


入域管制の冷えた音声が、何度も何度も艦内へ流れた。


リオはその読み上げを聞きながら、膝の上に置いた手の力を抜いた。


長時間座っているだけでも、脚の奥に鈍い熱がたまる。


医療区画を出てから数日は経っていたが、あの会戦で積み上がった疲労がきれいに消えたわけではない。


それでも今は、自分の身体より窓の向こうが気になった。


カルタス後方支援拠点が見えたのは、補給標識群を三列抜けたあたりだった。


黒に沈んだ宙の中で、その基地は星ではなく、金属そのものの色をしていた。


中心軸に据えられた主ドックのまわりへ、居住環、補給倉、整備棟、監査塔が幾重にも噛み合っている。


灯りは華やかではない。白と薄い橙が必要な区画だけを照らし、使われていない外壁は宙の黒へ沈んだままだった。


外周に近いほど補給桟橋と整備区画の白灯が強く、内側に入るほど居住環の橙灯が増える。


さらに中心部では、監査局と司令区の硬い白がほとんど影を許さない。


基地全体が、前線へ物を送り、人を振り分け、記録を回収するためだけに作られた巨大な器官に見えた。


士官学校の教本で読んだとおり、カルタス後方支援拠点は辺境防衛線を支える中継点だった。


ルメン中立採掘帯を抜けた先で、損傷艦を受け止め、星灯素を積み替え、必要な艦隊へ再配分する。


書かれた文字では知っていた。


だが、実際に目にすると、基地というより帝国の後方手順そのものが形になった場所だった。


「見すぎると首痛めるぞ」


隣で声がして、リオは少しだけ肩を跳ねさせた。


ユーリだった。


白衣ではなく通常勤務の軍医療局服だが、襟元は相変わらず雑で、基地を前にしてもきちんとした空気を半分だけ壊してくる。


「大丈夫」


言ってから、リオは少しだけ眉を寄せた。


その返答が癖に戻りかけたのを、自分でも分かったからだ。


ユーリも気づいたらしい。


口の端を上げたが、そこは笑わずに流した。


「ならいい。あと十分で受入区画だってさ」


「帝都じゃないんだな」


「当たり前だろ。前線帰りの艦がいきなり皇都まで回されると思うか」


思わない。


リオは素直に首を振った。


クライセンブルクのような中型戦艦は、まずカルタス後方支援拠点で検査と補給を受ける。


そこから先へ帝都や別戦域へ回されるものは限られる。


人も、艦も、荷も、報告書も。


「お前はどうするんだ」


「どうするって」


「呼び出し。あるだろ、たぶん」


ユーリは軽く言ったが、軽い話ではない。


初功績記録を受けた少尉に、この先、帝都で何の通知も来ない方が不自然だった。


評価かもしれない。


事情聴取かもしれない。


別の部署への顔出しかもしれない。


あるいは、もっと面倒な何かか。


リオは窓の向こうの鋼色の基地を見た。


ここまで離れていても、この場所には答えより先に手順があるのだと分かる。


順番を間違えた者を、やさしくは扱わない場所だ。


「まだ何も来てないよ」


「来てから考えるか」


「そうする」


ユーリはそれで十分だと言いたげに壁へ寄りかかった。


観測窓の向こうで、クライセンブルクの進路灯がゆるやかに変わる。


艦首がわずかに傾き、補給要塞の外郭灯列の内側へ入った。


その瞬間、後方基地の輪郭が一気に近くなる。


カルタス後方支援拠点は、補給物資を積み替えるだけの停泊施設ではなかった。


管制塔と監査棟を骨にした人工の要塞で、その腹に何本もの乾ドックと補給桟橋を抱え込んでいる。


そのひとつひとつへ、前線から戻った艦、補給庁の輸送艦、工廠局の曳航艦、再編待ちの護衛艦が、決められた順番で吸い込まれていく。


クライセンブルクも、その列のひとつに組み込まれた。


外から見れば整然として美しい。


だが、待機時間も優先順位も、そのまま帝国の序列だった。


艦体が停泊誘導光へ合わせて減速する。


機関の低い唸りが床を伝い、細かい振動が足首の奥まで響いた。


痛みとまではいかない。


けれど、自分の脚が疲れていることを思い出させるには十分だった。


リオはそっと膝の上に手を置き直した。


その動きを見ていたのか、ユーリが何も言わずに近くの手すりを軽く叩いた。


立つ時に使え、という合図だった。


ありがたかった。


ありがたかったが、礼を言うには少し早い気もして、リオは代わりに小さく頷いた。


補給基地の開口ドックが目前に迫る。


装甲扉の縁に沿って淡い星灯が走り、その奥に整備用の白い照明が何段も重なって見えた。


さらにその向こう、接続窓の隙間からは補給環の灯列が何重にものぞいている。


高い位置にある監査塔の白灯は、艦の腹を突き刺すようにまっすぐだった。


下では整備区画の橙灯がにじみ、貨物搬送路の線が格子状に走り、もっと奥では居住環の小さな明かりが規則正しく並んでいた。


華やかさはない。


ただ、ここに帝国が前線を支えるための手順をすべて押し込んでいることだけは、ひと目で分かった。


リオは息をのみ、それから静かに吐いた。


ひとまず、戦場の外まで戻ってきたのだと、その時ようやく身体が理解した。


生きて戻った。


功績記録も受け取った。


それでも、ここから先はたぶん戦場とは別の息苦しさが待っている。


艦体が最後の衝撃もなく停泊架へ収まる。


固定錠の噛み合う低い音が何度か続き、艦内放送が到着を告げた。


帝国第七補給基地カルタス後方支援拠点、受入区画。


降艦許可は検査完了後、順次通達。


短い文面だったが、その事務的な響きに、前線とは別の冷たさがあった。


ユーリが先に身体を起こした。


「ほら。立てるか」


「立てる」


リオは手すりを握って立ち上がった。


脚の奥が鈍く軋んだが、体勢を整える時間を取れば歩ける。


前線で無理をした身体を、基地の手順は待ってくれない。


それでも、一歩目を出すしかなかった。


観測窓の向こうでは、カルタス後方支援拠点の白灯が何も言わずに光っていた。




帝国軍令府の執務棟は、ヴァールブルク上層の白い光の中でもひときわ冷えた色をしていた。


皇宮が古い威厳で空を押さえる建築なら、軍令府は秩序そのものを石と金属に変えたような建物だった。


直線の多い外壁、窓の少ない高層棟、等間隔に並ぶ塔状の通信基部。


その全体が、見る者に沈黙と姿勢を要求してくる。


人事局長室の窓からは、軌道環の一部と、外縁軍港へ出入りする艦の灯が遠く見えた。


イザーク・フェルナー中将は、その光景に一度だけ目をやったあと、すぐに机上の書類へ視線を戻した。


薄い金髪を後ろへ撫でつけ、寸分の狂いもない軍官僚服の襟を指先で整える。


毎朝同じ動きで始まる勤務だった。


卓上には、夜明け前から届いた戦域報告が整列している。


損耗率の一覧。


補給監査局からの照会。


共同保安協定に関する外務折衝の速報。


アルデンハイム聖灯財閥による協定遵守声明。


そして、ルメン中立採掘帯防衛戦の報告書。


クライセンブルク艦長、オスカー・ライナー名義。


イザークはその一冊を開いた。


戦闘経過、損害記録、救助活動、機関部出力推移。


読み飛ばす箇所はほとんどない。


だが、彼の指が止まったのは付記欄だった。


『航路解析士官リオ・メルク少尉の補助的分析が、防衛行動の修正に貢献した』


そこまではいい。


功績の付与それ自体は、現場の裁量として処理できる。


だが、その下の文章が良くなかった。


『分析根拠の一部は即時の数値説明が困難であったが、実戦における予測点は敵機動と一致した』


『当該分析は、メルク少尉本人の身体負荷を伴う観測と既存航路データの重ね合わせによって成立していた可能性があり、再現手順の整理を要する』


イザークの細い唇が、わずかに硬くなる。


数値説明が困難。


本人の身体負荷を伴う観測。


再現手順の整理を要する。


軍で扱うには、どれも曖昧すぎた。


曖昧な能力は、やがて権限の抜け穴になる。


抜け穴は例外を生み、例外は秩序を傷つける。


イザークにとって、身体制約者そのものが問題なのではない。


問題なのは、制御不能な要素を美談の形で組織へ持ち込むことだった。


功績は現場を甘やかす言葉になる。


一度それが許されれば、次は推薦、次は特例、次は配置の歪みだ。


彼は報告書の余白へ短く印をつけ、卓上端末を開いた。


帝国軍令府人事記録網。


少尉、リオ・メルク。


該当人物の基礎記録が表示される。


年齢、所属、身体制約申告、士官学校成績、現配置、今回戦功。


そして、未整理の現場所見。


イザークはしばらく無言で画面を見たあと、注記欄を呼び出した。


入力は一行で足りる。


要注意。


特殊感知の真相未解明。


将来的な配置リスク。


文字を確定すると、画面上の記録が冷たく更新された。


それで何かが決まるわけではない。


今の段階では処分でも、昇格停止でもない。


ただ、次にこの名を見る者が、最初から警戒を伴って読むようになる。


制度の仕事とは、そういうものだった。


机の端で、別の書類通知灯が白く点る。


財閥声明の要約版。


ルメン共同保安協定は財閥側手順において適正に履行されたものであり、現場混乱の責任は帝国および共和国の軍事判断にある。


読み終えたイザークは、何の感情も見せずに画面を閉じた。


責任の押し付け合いは始まったばかりだ。


前線の戦闘が終わっても、帝都では別の戦闘が続く。


むしろここからが本番になる。


側近の文官が入室許可を求める表示が出た。


イザークは許可灯を点ける。


灰色の書類盆を抱えた若い軍属文官が、音を立てずに室内へ入ってきた。


「中将閣下、ルメン共同管理評議会から追加照会です。共和国側が協定違反の責任を帝国護衛艦隊へ転嫁する草案を回しています」


「予想どおりだ」


イザークは椅子にもたれなかった。


背筋を伸ばしたまま、開いたままの人事記録を見ている。


「処分は今は保留する」


文官は目を上げた。


イザークは淡々と続けた。


「だが、この少尉からは目を離すな。現場が英雄を作りたがる時ほど、人事局は遅れてはならん」

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