10.第一閲覧室5 星見の蝿、パトリスク・ネアン
虫に関するグロテスクでショッキングな描写があります。ご注意下さい。
「……来るか?」
ミミはゆっくりと後退った。前方には虫が三匹。
そして、後方から。
ミミは振り向いた。杖剣を差し向け、笑った。
僕だって、流石に学びもするさ。
「30-410!」
ぎぃいっ!
雷が虫を撃ち落とす。ミミはまた、周囲を見やった。剣を振り上げた。
「30-410っ!」
今度は横合いから。迎撃を受けた虫は、一階へと落ちていく。
「……いないな?」
ミミはもう一度警戒をした。始めの三匹が自分に気づいていないことを確かめてから、後方の兜虫に駆け寄った。
「30-410」
ぎっ!
「よし……」
腰の後ろから、色のない刃物を抜き出す。重たい片刃は、虫の腹を割るのに適していた。
「案外、鉈か何かだったのかもな……さて」
ミミは階段を早足に降りる。一階に転がった虫に止めを刺す。
それから階段を上がり、元の場所へ。
「……ふぅ。……やるか」
剣を握る。両手で、しっかりと。
唇を、開く。
「31018」
詠唱。
「962-3910-32-10162──30-410」
雷を喚ぶ詩。
「30-410──30-410──30-410」
妙なる唄声を、響かせる。
「39010-2010」
青雷がミミの貌を照らす。
「4──8──16──32」
薄桃色の瞳に、稲光が映り込む。
「02-3910」
ミミは剣先を突き付けた。本を舐める三匹の兜虫。
「2049-30-410!」
轟音。閃光。
髪が揺れ、マントがはためく。白い手袋が焼け焦げる。
遠雷は、虫を撃ち殺した。
「はあ……こんなものかな……」
ミミは四階までを掃討した。この次は最上階になる。
「……行くか」
ミミはゆっくりと、階段を登っていった。
いないな。
ミミは歩く。赤い絨毯。近づいた天井。タイルの装飾が灯りに揺れる。
虫は、いない。
「……」
ミミはゆっくりと歩いた。五階をくるりと半周した頃、ふと足元を見た。
「インクか……?」
黒く、瑞々しい雫が、絨毯に落ちている。
「……っ!」
ミミは周囲を見回した。
インクがあるなら、虫がいるはずだ。
どこだ?どこに?
杖剣を握る。本棚に身を寄せ、足を摺って歩く。
そのまま、もう半周。
ミミは五階を、一周した。
「……いない……?」
握る手を緩めた、瞬間。
さりっ。
「ひ……っ」
さりっ。さりっ。さりっ。さりっ。
ミミの全身に鳥肌が立った。
さり。さり。さっ、さっ。
生理的嫌悪感。
怖気の走るような、音。
「……そこか!」
ミミは振り向いた。音は五階のどこでもなく、宙吊りのシャンデリアから。
灯火を遮って、穢らしい黒影が蠢く。
這う。
さりっ。さりっ。さりっ。
そして、飛んだ。
ぶん!
ぶぅん!ぶん!ぶん!ぶぅぅぅん!
「30-410──っ!」
じっ!!
虫は穢い異音を鳴らし、ミミから逸れて、すぐ近くに落ちた。
ぶぶぶ!ぶん!
さり。さり。さり。
ぶぅぅん!
虫は忙しなく這い、動き、翅を鳴らす。
油膜の張ったような、ぬらぬらと光る甲殻。
びっしりと剛毛の生えた、細い肢。
丸々と肥った、柔らかい胴。
赤黒い巨大な複眼。
「……蝿、か……っ!」
ぶぅぅぅん!!
穢い糞虫は、飛翔した。
ぶぅぅん!
蝿は吹き抜けの中空、シャンデリアに拠りながら飛び回る。ミミの雷撃を、警戒しているようだった。
そして、ミミを襲うものもある。
ひぃぃぃん。ひぃぃぃぃん。
「ぅわ、づっ……!」
仄白い光輝がミミの腕を掠めた。袖と肌が破れ、黒いインクが滲む。
その、傷口に。
「っ、わぁぁあああっ!!」
ぴちぴちと蠢く、白い蛆虫。
ミミは傷口を強く叩いた。痛みと引き換えに、蛆虫は落ちたようだった。
「……気色悪い……っ!!」
ひぃぃぃん。ひぃぃぃん。ひぃぃぃぃん!
流星のような、仄白い飛翔体。
それはミミの肌を裂き、蛆を生みつける、小さな蝿だった。蝿は、小蝿を操ってミミを嬲っていた。
「糞、糞、糞ぉぉぉ……っ!」
集る蝿を、人が避けられる筈もない。
ミミはあちこちに傷を受け、蛆に塗れながら絨毯の上を転がり回った。
「ううううう、ぅぅぅうううっ!!」
うぞうぞうぞうぞ。くにくにくにくに。
蛆が傷口を蠢き、掻き毟りながらインクを啜る。ミミは歯を食いしばって涙を零しながら、獣のような呻き声を上げた。痛みと嫌悪感を、どうしていいか分からなかった。
「ゔゔゔゔぅぅぅぅぅ……!!」
ミミは片膝をついた。杖剣を差し向け、立ち上がった。
「お前が……!お前がぁ……っ!!」
悲憤と憎悪に泣き濡れた瞳。
「死ねよ糞ぉ……!!」
雷光。
詠唱のない雷は常よりも暴れ、ミミの手を灼き、
ぎじぃっ!!
蝿を、撃ち落とした。
「ううっ、ううえええ、うぇぇええ……!」
ミミは嗚咽を漏らしながら、傷口から蛆を払い除けようとした。その痛み、火傷を負った手よりも、穢らしい蛆虫に集られていることを厭った。
蝿が落ちた時、小蝿たちもまた、光輝を失いぽとりと落ちていた。身を脅かすものはもういない。
「ぅぇえ……あ、あれ……」
ミミはようやく癒しの術に思い至り、羽ペンを取り出そうとした。
その時だった。
ぶぅぅぅぅぅん!!
「……え」
特大の翅音。
蝿が、自ら光輝をまとい、飛んでいた。
ぶうううううううっ!!
「あ──」
避けられる筈も、ない。
「痛、ぅ……」
蝿の突進を受けて、ミミは本棚に打ち付けられた。痛む頭を振って、目を開ける。
さりっ。
「……ぇ?」
赤黒い、複眼。その一つ一つが。
油膜の張ったように、ぬらぬらと。極光の舞う、夜空の輝きを宿している。
「ゃ……ぁ……」
蝿はミミに伸し掛かっていた。ぞわぞわと震える手足と肩を、穢れた肢で押さえ込んで。
「さ、さわ、らないで」
蝿の口吻が、ミミの頬に触れた。首筋をまさぐり、うなじを舐めた。
「ひぃ……っ」
ミミは首を竦めた。目を強く瞑り、口の端を戦慄かせて身を捩った。
さり。ぶぅん。
蝿はおもむろに体を浮かし、胴をぐっと折り曲げる。
「……なに、を……」
ずるり、と。
滴るインク。
ミミの薄い腹。臍のあたりに据えられた、鋭いもの。
それは。
産卵管、だった。
ぞぶり、と。
「ぉ……っ、が、は……」
蝿は無造作に、突き刺した。
「ぁ……や……め、ぇ」
ミミはがちがちと歯を鳴らしながら、腹部を穿く激痛も忘れ、必死に体をずらそうとした。産卵管を伝うインクがミミの体内に滴る度に、血流の一筋までをも余すことなく、穢れに侵されていくような気持ちだった。
けれど、そして。
どくりと、蝿の腹が脈打つ。
「うっ!?……ぁ、ぁ……っぐぅう……」
どくり。どくり。
ミミの中に、打ち込まれた、塊。
それは。それらは。
うぞうぞと蠢きながら、ミミのはらわたを、這い回って。
どくり。どくり。
生白いミミの腹が、大きく膨らむ。
「うっぐぅぅ……う、うぅ、うううううっ!!」
うぞうぞ。ぞわぞわ。びちびちびち。
体内を、埋め尽くし。穢して、侵し尽くして。
「か、は!!」
喀血。それだけでなく。
ミミは、夥しい数の蛆虫を、吐いた。
「ぁ、ぁ、ぁ……」
唇に貼り付いた蛆を。口の端から零れた蛆を見て。
「キャァ──ッッ!!!!」
凄まじい絶叫を上げた。
「アアアァアアアアアアッ!!ぅぅあああアァアァアア!!」
正気を失い、狂乱したミミは、拘束から片手を抜き出すことに成功した。
偶然か、何者かの慈悲か。ミミはただ脱却だけを望んだ。そのための方途を、希求した。
「っ、あ!」
ポケットから取り出した、小さな紙片。それを片手の指だけで引き千切る。紙片はぱしゃりと溶け、少量のインクとなり、ミミを取り巻く。
ぱしゃり、と。
ミミの姿もまた、溶けて消える。
後には──
ぶぶぶ。
不満げに翅を鳴らす蝿と。
血溜まりのようなインクに跳ねる、無数の、小山のような白い蛆虫が残された。
小さな栞
古ぼけた紙片の栞。破り捨てれば、使用者を図書館受付へと転送する。
栞は中途の記録であり、手に取ることでその位置を思い出す。始めの場所にのみ戻るこれは、やはり、何かが違うのだろう。
汎用永久自動人形、受付のアリアが自作したもの。使うと消えてなくなってしまう。




