第一話 『覇王の沈黙、黒翼は嗤う』
覇王が膝をついた。
ファング・アレクサンドラ。
百年にわたり武威と恐怖で秩序そのものを名乗ってきた絶対者が、十日前の深夜、王城ヴァルメイア最上階の私室で血を吐いて倒れた。
ただそれだけの事実で、王国の秩序が軋んだ。
廷臣も侍従も声を潜め、足音すら必要以上に殺している。城全体が、見えない崩落を恐れて息を止めているようだった。
「鬱陶しい空気だな」
王の私室へ続く回廊で、ナイトメアは壁に背を預けたまま吐き捨てた。
重い扉は固く閉ざされ、扉の横にはエースとマックスの姿も見える。熾天使の輝きも、鬼神の武威も、影を落としている。
ナイトメアは双眸を細めた。
「どうだ。死んだか」
「いえ。しかし……」
エースは口ごもった。
「熱は上下を繰り返し、魔力の流れも安定しません。まるで、悪夢にうなされている子供のようです」
「医官どもは役立たずか」
「彼らなりに最善は尽くしていますが、よくなる兆しはありません」
「原因すら突き止められんのか」
「今は原因より先に、この事態をどう解決するか、だ」
いらだつナイトメアをなだめるようにマックスが低い声で言った。
「王が十日も玉座へ出ない。これで王に何かあったのかと疑うなと言う方が無理だ」
マックスに続き、エースも息を吐く。
「城下では、すでに噂になっているようです」
「なら喋る口も、疑う頭もまとめて潰せばいい」
「そんなことをしても焼け石に水です。隠す方が無理な話なのですから」
ナイトメアの下で黒い粒子が揺れた。
覇王の不在、それだけで秩序の輪郭が曖昧になる――その脆さが、ひどく気持ち悪かった。
その時だった。回廊の奥から伝令が血相を変えて駆け込み、私室前で膝をつく。
「申し上げます! 北方にて大規模な騒擾が発生! 人間および亜人を主とする武装集団が税倉を焼き払い、監察官の詰所を襲撃しております!」
エースの表情が曇る。マックスは黙ったまま顎を引いた。
「ほら来た」
ナイトメアの顔の部分が、妙にゆがんだように見えた。
「連中は“上位種による支配の打倒”“人間と亜人の解放”を掲げています! 市場町や周辺集落でも呼応する動きがあり、現地官吏も斬られています!」
「北方自治区メテオの蜂起ですか? それとも、別の地域の?」
自治区メテオ――そこは、王都とはまた違う独特の文化を持っていた。かつて、覇王と競い合った末に、自治権を勝ち取った領主・アルバート・クレイジスタの支配で、独自の発展を見せていた。表向きは国の属領だが、北方の最大勢力を誇るメテオは、実質的な独立勢力に近い。
「い、いえ! メテオが正式に動いたわけではありません! ですが反乱勢力はメテオの名を騙り、それを旗印として人間や亜人を煽動しております!」
ナイトメアは小さく笑ったように見えた。
「アルバート本人はどうした」
「まだ表には出ておりません! ですが現地では“アルバートなら人間や亜人を見捨てない”と民衆が騒ぎ始めています!」
マックスはそれを聞き、ふっと口元を緩めた。
「厄介ですね……」
唇を引き結んだエースを、ナイトメアはせせら笑ったように見えた。
「厄介でも何でもない。雑魚どもが、覇王の不在をいいことに色気づいただけだ」
「雑魚で済まないから問題なんです」
エースの声が少し強くなる。
「差別されてきた人間や亜人が、“今なら変えられる”と思ってしまった。思想が乗った火種は、放置すれば辺境ひとつでは済みません」
「思想だの理想だの、くだらない。力を持たない者どもが、強大な力がなくなったのをいいことに騒いでいるだけじゃないか。所詮奴らでは俺に触れることすらできん」
マックスは、飯の種にもならない言い争いには興味がなさそうに、伝令に向き直った。
「で、規模は」
「現時点で武装勢力は千を超えます! ただし正規軍ではありません。農具や鹵獲武器を持った者が大半で、練度は低いかと……!」
「熱はあるようだな……」
腕を組み替えて、マックスはため息をついた。
「熱がある群れは伝播するぞ」
今回の火はただの反乱ではない。人間や亜人が虐げられる社会を打倒する――その旗印がある。言葉は彼らを立たせ、立った者達はしばらく死を恐れなくなる。
「“狂神”を動かすべきか?」
「いえ、まだ動かす時ではないでしょう。彼らの力までもを反乱の鎮圧にあてれば、国家を揺るがすような大事だと、国民に喧伝するようなものです。広がる前に処理するだけなら、我々だけで十分でしょう。しかし、メテオを拠点に支持が連鎖したら、北方一帯が揺れます」
「なら、広がる前に俺が行く」
ナイトメアは喜々とした声色でそう言った。
「あなたを行かせると、鎮圧ではなく虐殺になります」
「何が悪い?」
エースが大きなため息を吐いたその時――
「騒ぐな」
低い声が、扉の向こうから落ちた。
全員の動きが固まる。
私室の扉は閉ざされたままだが、その一言だけで、不安も焦燥も別種の緊張へ押し流された。
王だ。
エースとマックスが頭を垂れる。ナイトメアは仮面の奥で嗤った。
「起きていたのか」
「貴様が垂れ流す雑音を聞き逃すほど耄碌していない」
エースが扉を開くと、室内には薬草の匂いが満ち、寝台にもたれたファング・アレクサンドラが上体を起こしていた。顔色は悪く、頬もこけている。一目見ただけで、これがあの大陸をたった一代にて統一した覇王だと誰が思うだろうか。しかし、その言葉と眼光だけで室内のすべてがこの男を中心に整列する。病に伏してなお、王は王だった。
「話は聞いた」
エースが前へ進み出る。
「北方の反乱勢力は、自治区メテオを足場に現体制そのものを揺さぶろうとしております。ですが、評議会が正式に動いたわけでは――」
「分かっている」
王は短く遮った。
「メテオが旗ではない。旗にされているだけだ」
「なら話は早い。俺が北へ行く。火種ごと斬れば終わる」
「お前だけでは終わらん」
ファングは即座に切った。不満げなナイトメアを無視して、エースが続ける。
「今回は鎮圧だけでなく、“メテオそのものが反乱したわけではない”と示す必要があります」
「俺も行く」
マックスの言葉で、ファングは数秒だけ沈黙し、やがて言った。
「余が寝込んだから、犬どもが吠えた。ならば教え直すだけだ。覇王が死んだわけではない、と」
「まさか……陛下ご自身が北へ?」
「出ぬ。今ここで余が床を離れれば、それだけで城中が騒ぐ」
「だが、何もしないわけでもない」
ファングの視線が鋭くなる。
「ナイトメア、エース、マックス。北へ出ろ」
その一言で、すべてが決まった。
「ナイトメア。牙になれ。だが噛み砕く前に、誰を噛むべきかを見極めろ」
「エース。火を鎮めろ。反乱と民衆を一つにするな」
「マックス。こやつらを通せ。必要なら骨ごと道を拓け」
ナイトメアは嗤う。
「ようやくだ」
エースは深く頭を垂れた。
「承知しました」
マックスも頷く。
「御意」
ファングは寝台にもたれたまま、なお戦場を見下ろす将の目をしていた。
「メテオを許したのは、アルバートの存在故だ。あそこに住む愚民どもの愚行までを許した覚えはない」
王は病にむしばまれながらも、なお折れてはいなかった。むしろ寝台の上にありながら、誰よりもこの国の中心にいる。
「余の代わりに教えてこい。この国が誰の上に立っているのかを」
その夜、王城ヴァルメイアの窓の外で、重たい雲が北へ流れていった。
火が上がったのはメテオ圏。だが、その火はもうただの騒擾では終わらない。
人間と亜人が虐げられる社会を壊したいと願う者。
ファングの不在を好機と見る愚か者。
自治区メテオの存在を希望と見る者。
そのすべてが北で絡み合い、一つの戦へ変わろうとしている。
そして、その只中へ向かう三つの影のうち、一つだけが明確に愉しそうだった。
ナイトメア・フリッツ。
王が病に伏し、国が揺れ、北方が燃え始めた夜。
黒衣の怪物は、仮面の奥で確かに嗤っていた。
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