魔女の嫁入り
晴れ渡った空の下、ミルドレットとニールは荷馬車で草原の中揺られていた。
「あの森だよ!」
ミルドレットの指さす方向を見つめて、ニールは小さく笑った。遠くに見える鬱蒼と茂る森は、いかにも魔法使いが住むには打って付けに見えたからだ。
ここまで一度たりとも振り返る事なく来た。
とっくにヒュリムトンの王城は見えなくなっていることだろう。
この地は今は無きルーデンベルン王国の国境に近い場所なのだから。
旧ルーデンベルン王国では、未だに混乱の収拾がつかずにいる様だ。ドワイトがヒュリムトンに吸収するかと思いきや静観を続け、大国が動かぬ為周辺の国も同様に見守っている。
皆、紫焔の魔導士グォドレイが恐ろしいのだ。
ニールとミルドレット以外、彼の命が潰えたという事実を目にした者は居ないのだから。
国王を持たない国として、投票制で国の代表を決める共和国が、この世界に初めて出来上がるのではと噂されている。
森の近くで馬車を停めると、ニールはミルドレットに声を掛けた。
「ここから先は馬車では難しいですね」
「うん。荷物は後から運ぼう。先に案内するね!」
質素な荷馬車から降りると、二人は森の中へと入って行った。
木漏れ日を浴びながら先導するミルドレットの手をニールがそっと握ると、キョトンとした様子で振り向いた。
「足元が悪いので」
笑みを向けたままそう言うニールに、ミルドレットは「有難う」と言って微笑んだ。
「それにしても、王太子にならなくて本当に良かったの?」
ミルドレットの言葉に、ニールは「はい」ときっぱりと答えた。
「元々なりたくは無かったので。貴方が心穏やかで、共に過ごせればそれで良いのです」
王太子の地位を退位したニールは、爵位を叙爵することなくヒュリムトンの王族からの一切の縁を断ち切った。
ミルドレットが息を吹き返した事を内密にし、デュアインが王太子として表明することで、アレッサも王太子妃となることを承諾した。
ニールはミルドレットと共にひっそりと生活する事に決めたのだ。
王族や貴族になど二度と関わらなくても良い様に、心から愛する人を尊重し、外面を繕う気品など不要な世界に身を置く。
彼女が再び傷つくことのないように。
ヒュリムトン国王ドワイトも、ニールの意思をあっけなく受け入れた。恐らくあれ程に欲していた紫焔の魔導士グォドレイを失った事が、彼の中で相当な衝撃だったのだろう。
ドワイトは穏やかな様子でニールと同じダークグリーンの瞳をミルドレットに向けると、「息子を宜しく頼む」と深々と頭を下げた。
その時の様子を思い出す度に、ニールは思わず鳥肌を立てる。
ジロリとドワイトを見据え、ニールは冷たく言い放った。
「ルーデンベルンに私が身を置いていた時は知らぬフリをしておきながら、今更父親面しないで頂きたいものですね」
皮肉の一つでも言わなければ気が済まないと発した言葉に、ドワイトの傍らからユーリがフフと笑った。
「陛下は、貴方がアーヴィングに殺されない様にと敢えて知らぬフリを通していたのですよ。ミルドレット姫を王太子妃候補に入れる承諾をしたのも、陛下ですもの」
「余計な事を言わんで良い!」
カッと顔を赤らめてそう言ったドワイトは、ニールの隣でポカンとしているミルドレットにニコリと笑みを向けた。
「王室を離れた後も、余もユーリもそなたらの親であることには変わりない。堅苦しい事など気にせず、会いに来てくれると嬉しい」
初めて見るドワイトの笑顔に、ニールはゾッとして鳥肌を立てた。だが、ミルドレットは笑みを浮かべると、優雅に頷いた。
「はい。両陛下は、新しく私の両親になってくださったのですもの。何とお礼を言って良い事か……」
「堅苦しいのは抜きだと言ったはずだぞ」
ドワイトの言葉に、ミルドレットはサファイアの様な瞳を潤ませた。
「……ありがとう、お父様。お母様。必ずまた会いにくるね!」
ドワイトが頷くと、ユーリは「待っていますよ」と言ってミルドレットを優しく抱きしめた。
「そうそう、ニール」
ミルドレットに声を掛けられ、ニールは回想を打ち消して返事をした。
「アレッサがお忍びで遊びに来てくれるって言ってたよ。エレンも一緒にね」
エレンは王太子妃であるアレッサの専属侍女になり、ミルドレットとの別れを惜しんだ。
「ルルネイアにも手紙を書かなきゃ。それと、ヴィンスにも!」
ヴィンセントの事だ、手紙を貰ったのなら何を置いても真っ先に駆け付ける事だろう。
あれやこれやと小姑の様に口うるさく言い出すのを想像し、ニールは顔を顰めた。
「……ミルドレット、暫くは二人きりの時間を満喫しませんか?」
ニールの言葉に、ミルドレットは照れた様に頬を染めて頷いた。なんとなく気恥ずかしくなって、繋いだ手を大きく揺らしながら歩を進めるミルドレットが可愛らしく、ニールはそっと引き寄せてキスをした。
「ちょっと、ニール。もう少しで着くから……」
「待てません」
再び口づけをするニールから逃げる様に身を滑らせると、ミルドレットは顔を真っ赤にして言った。
「これからはずっと二人一緒なんだから、引っ越しが終わるまで我慢! 掃除とか、やらなきゃいけないこと沢山あるんだからっ!」
「時間はたっぷりあるのですから、少し位……」
「だめっ!」
不満気に見つめるニールの頬にキスをすると、「はい、これでおしまい。行くよ!」と言って、ミルドレットは手を引いた。
チラチラと差し込む木漏れ日に、彼女の銀髪が照らされている。時折気遣う様に見つめるサファイアの様な瞳が愛らしい。
「あった! あれだよ、ニール!」
ミルドレットの指さす方向に視線を向けると、大木を利用して作られたツリーハウスが木々の影から見え隠れした。
その立派なツリーハウスは、且つてグォドレイがオーレリアと、そして僅かな時間ではあるがミルドレットと共に過ごした場所だった。
家の扉へと続く木製の階段を上っていくと、軒先に垂れ下がる魔除けの札が揺れ、心地の良い音が響いた。
亡き師の魔除けの術がまだ有効であると分かり、ミルドレットは寂しげに眉を寄せた。
ふとした拍子に、グォドレイを感じる度に、ミルドレットは寂しげな表情を浮かべる。暫くは毎日泣いていたが、ここ最近は少し落ち着いてきた様に思えた。
「ミルドレット、大丈夫ですか?」
声を掛けたニールに、「あ、平気!」と元気に答えると、チロリと舌を出した。
これから新しい生活が始まるというのに、自分が暗い顔をしていてはいけないと、ミルドレットなりの精一杯の気遣いだった。
「強がらずとも大丈夫です。私も、グォドレイの死を悲しく思うのですから」
ニールの言葉に、ミルドレットは「本当?」と、サファイアの様な瞳を見開いた。
「ごめんね。二人は、仲が悪かったから……」
「そうですね。ですが、今は感謝の気持ちしかありません。貴方を救ってくれたのは彼なのですから。ですから、共に悲しみましょう。貴方は一人ではないのですから、私と一緒に悲しみを分かち合うのです」
ミルドレットは微笑むと、つっとその頬に涙が伝った。
「ありがとう、ニール。あたし、ニールと夫婦になれて本当に良かった」
ニールはミルドレットが堪らなく愛しくなり、キスをしようと手を伸ばしたが、ミルドレットはするりとそれをすり抜けてツリーハウスのドアノブを掴んだ。
「さて、いつまでも入口でもたついてても仕方ないよ。もう半年近く放置してたから、中がどうなってるかわかんないし。覚悟を決めないと!」
躊躇う様にそう言った後、「蛇が居ませんように……」と言いながら恐る恐るドアを開けた。
多少の軋み音が鳴ったものの、ドアはすんなりと開き、室内の様子を目にしたミルドレットは瞳を見開いた。
テーブルの上や書物の上にも埃が無く、まるで先ほどまで誰かが生活していたかのように掃除されていたのである。
「泥棒……? いや、泥棒だったらこんなに綺麗に使うはずないよね? 誰かが住んでたの……? 魔除けの魔術が効いているはずなのに」
不思議そうに小首を傾げながら二人は室内へと足を踏み入れた。
魔法薬の調合に使用する品々も磨き上げられた様に煌めいており、魔法書も整頓され、文具類も丁寧に手入れされている。
家具類の上にも埃は無く、寝室のベッドもすぐに使える様に整えられていた。
「ミルドレット」
ニールがテーブルの上に置いてある紙切れを手に取り、ミルドレットへと差し出した。
訝し気に片眉を吊り上げて受け取ると、書かれている文字を目でなぞって、ミルドレットは慌ててツリーハウスの外へと飛び出した。
『よぉ、ミリー。綺麗にしておいてやったぜ。恩師の家だ、有難く使えよ』
「お師匠様っ!! どこ!?」
『身体はすっかり癒えただろう。もう、お前さんは俺様を必要としなくなったんだな。寂しくもあるが、心の傷が癒えたって事なんだから、喜ばしいことでもある』
ミルドレットはグォドレイの姿を求めて叫んだが、静まり返った森にただただ自分の声が響くのみで、彼の姿を見つける事が出来なかった。
『ガキでもわんさか産んで賑やかになったら、そのうち遊びに行くからな』
震える手で握りしめられた手紙の最期には、こう綴ってあった。
『ミルドレット、この命を何度捧げても構わない。俺はお前を愛している』
遂に完結いたしました、魔女の嫁入り。
登場キャラクターの個性が強く、書いていて楽しいお話でした。その中でも、紫焔の魔導士グォドレイが濃すぎて、後半から『お前が主役か!?』という様な状況になりつつも、何とか乗っ取りを免れました。(たぶん)
紫焔の魔導士グォドレイは、実はとあるコンテストにこちらの小説を応募した際、頂いた沢山の読者様の感想から人気の高いキャラクターでありました。
『口は悪いが思いやりがある男性キャラ』は、私の書くお話しに割と頻繁に登場しまして、ヒロインとカップリングする相手であったりもします。
※『悪役令嬢エルメンヒルデの不幸』(完結済)がそれです。
さて、この『魔女の嫁入り』について。私はカウンセリングの資格を保有しておりまして、別作品である『有幻メンタルクリニックAI裁人』の中でも、『人の心についた傷は見えづらく、けれど深く治り辛い』という事を書いており、魔法といえば精神力を糧に発動するもので、魔力即ち精神力であるなら、トラウマを持った魔法使いはその身体にも目に見える様に心の傷痕が出てしまうのではと考えました。
ミルドレットの背にあった鞭打ちの痕は、見えなくすることはできても、根深い心の傷が治らない限り、『古傷は開きやすい』のです。
グォドレイの命と寄り添い、ニールが王太子を辞めてミルドレットと生きる事を決意し、また、ルーデンベルンという忌まわしい記憶のある地そのものが無くなったミルドレットの心の傷は修復され、傷を埋める為に寄り添っていたグォドレイの命もまた解放されたという事です。
今後、グォドレイを主役とした外伝や、サイドストーリー、ニールとミルドレットのその後の話等も書けたら良いなと思っております。
最期までお付き合いくださいまして、有難うございました!




