ミルドレットの口づけ
ニールがヒュリムトンの王城へと戻った頃には明け方近くとなっていた。白んで行く空を馬上から眺め、いつもこっそりと出入りをしている離れの厩舎へと向かった。
馬を厩舎へと入れて外へと出ると、朝焼けで空が曙色へと染まっていた。赤色の雲を見つめ、湖面上でミルドレットと踊った事を思い出し、わしゃわしゃと赤みがかった栗色の髪を掻き上げて、気を取り直す様に咳払いをした。
離れにあるシハイルの私室へと向かう途中、白銀の仮面をつけたデュアインとかち合うと、彼は僅かに口元に緊張した様子を浮かべた。
先日歩く事もままならなくなるほどにニールに痛めつけられたのだ、当然の事だろう。
——だが……。
「清々しい朝ですね」
いつもは極力言葉を交わそうとしないニールが突然そんな事を言い出したので、デュアインは面食らってすれ違う途中でピタリと足を止めた。
「今日の朝焼けは、胸に残る程に美しいです。まるで女神の目覚めのようですよ」
更に詩人のような事を言い出すニールに、デュアインは白銀の仮面を外すと、引きつった顔を向けた。
「何か誤解しているようだけど、今日はアレッサと会っていない。また僕を痛めつけるのは止してくれ」
「まさか。いつもお世話になっているというのに、そんな事はしませんよ」
ニールはいつもニコニコと笑みを浮かべ感情を読み取る事が困難で、デュアインは普段から気味悪がっていたのだが、その日のニールはいつも以上に不気味に思えて、恐怖で全身に鳥肌を立てた。
「ひょっとして、僕を殺す気かい!? もうすぐ王太子妃が決定するから、用無しだって……」
「貴方の様な優秀な者を、むざむざ殺す様な勿体ない真似などしませんよ」
そう言った後、ニールは思い出した様に「そういえば」と言ったので、デュアインは『そらきた』とビクリと体を震わせた。
「アレッサのシャペロン兼お目付け役のヴィンセントが帰国しましたので、代わりになってあげてください」
ニールの言動に、デュアインは唖然として口をパクつかせた。
「……は!? 何を言っているのさ? 僕が、一体どうやって?」
「貴方ほどの適役は居ないでしょう。ヒュリムトンの王室の作法を熟知しているのですから」
「いや、ちょっと待ってくれよ。僕はシハイル殿下の影武者だぞ。仕事を放棄しろというつもりか?」
ニールが笑顔を向けたまま両手を伸ばしたので、デュアインは首を絞められると思ってぎゅっと身を強張らせた。
が、彼の両肩にポンと両手を置くと、「暫く影武者をする必要はありません」と言った。
「一体、何が目的だ!?」
デュアインはよっぽどニールが恐ろしいのだろう。尚もびくついている彼に、ニールは「何も」と、けろりとした様子で答えた。
「貴方はアレッサに好感を抱いているのだと思いましたが」
デュアインはさぁっと血の気が引いた。
この感情のない暗殺マシンは、自分の目的の為ならばアレッサを殺す事も、まるで息を吸うかの如くやってのけるだろうと思ったからだ。
「後生だ。彼女に手を出すのは止めてくれ!」
「手を出す? 私はミルドレット一筋ですが」
しん……と、間抜けな間が空いた。
デュアインは脳内パニックに陥った。
「え? いや、そういう意味じゃなくて……」
「貴方がアレッサの助けになりたいのではと思ったのですが、私の勘違いでしたか」
ふっと口元を綻ばせたニールにゾッとして、デュアインは慌てたように声を上げた。
「いや、待て! そ、そりゃあ、彼女が困っているなら助けたい。けれど、今までシハイルとしてしか会った事が無いし、急にそんな……」
「素顔で会えば如何ですか? どうせ、誰もシハイルの顔など知らないのですから」
普段のデュアインは王族以外殆ど訪れる事のない王城の司書として働いている為、城内に詳しくても全く違和感のない立ち位置なのだ。
「けど、突然そんな、会ったことも無い様な男がシャペロンだなんて、受け入れるはずがないだろう。それも、血縁者でも何でもない赤の他人の男を」
「私が王太子シハイルとして貴方を推薦したと言えば、男性のシャペロンでも皆納得するでしょう」
王太子の推薦で送り込まれる侍従は、後ろ盾としては確かに価値があると言えるだろう。
王太子妃選抜レースを勝ち抜く武器になるのは確かだ。
「アレッサを妃に迎える気なんか無いくせに。やっぱり、あんた様子がおかしいぞ?」
ニールは「とんでもない」と言うと、不適な笑みを漏らした。
「今までにない程に絶好調ですが!」
つまり、ニールは相当機嫌が良いのだ。
「何故絶好調なんだい!?」
「それは、勿論……」
――ミルドレットが、私にキスを……!
ふと思い出したニールは真っ赤になった顔を両手で覆ってキャッ! と少女の様にしゃがみ込み、デュアインは彼の突然の奇行に「うわっ!」と悲鳴を上げて飛びのいた。
ミルドレットが別れのキスのつもりでした事を、ニールは自分の気持ちが通じたのだと、すっかり勘違いしているのだ。
「あんた、何かおかしなものでも食べたんじゃないのか?」
よく見ると、ニールの脚は泥に塗れて乾いた跡があった。湖から這い上がった際についたものだが、デュアインは訝し気に眉を寄せた。
天才的な運動神経の持ち主であるニールが、泥沼にはまる様な間抜けをするはずがない。
一体何があったのだろうかと考えて、ふと以前ニールが死にかける程の怪我を負った相手の事をデュアインは思い出した。
紫焔の魔導士グォドレイと一線交え、何かおかしな術を掛けられたのではないか……?
そんな風にデュアインが疑っていると、ニールはすっくと立ちあがり、「では、アレッサのシャペロンの件は頼みます」と言って、スキップにも似た浮かれた足取りでシハイルの自室へと戻って行った。
◇◇◇◇
曙色の朝日を反射する泉に、グォドレイは衣服を脱いでザブザブと入って行った。ゆらりと水面に広がる血を見つめ、舌打ちをする。
「……俺様としたことが、しくったなぁ」
脇腹の深い傷口から流れ出る血液を洗い流し終えると、痛みに耐えながら水から上がり畔に座った。
痛みを緩和する魔術を掛けて木の枝を口に咥えると、針と糸で縫合をし、そのまま地面へと倒れる様に寝そべった。
口に咥えていた木の枝を放り投げると、遠くでポチャンと水音がした。差し込む曙色の朝日が苛立つ程に眩しく感じ、頭痛がした。
このところ、魔力が恐ろしい程に弱まって来ている。
オーレリアを失った時も、グォドレイは同様にスランプに陥った。精神的な事が魔力には顕著に表れる。自覚はしていたものの、今日は油断していた。
グォドレイの傷は、長いつきあいのある者からの仕業だった。
とはいえ、これまでも依頼主がグォドレイを捕らえようと無謀な攻撃を仕掛けて来る事は多々あったが、難なく回避してきた。
今回は偶々魔力低下のタイミングと油断が重なり、信頼していた相手であったということから怪我を負ってしまった。
——やれやれ。馬鹿馬鹿しいこった。
そう自嘲すると、むくりと起き上がり指を打ち鳴らした。いつもの衣服を瞬時に身に纏い、印を切ると、ツリーハウスの扉の前へと移動した。
室内から物音が聞こえる。早朝だというのに、ミルドレットが起きている様だ。
動く事もままならぬ程に脇腹が痛む。脂汗を押える為に更に痛み止めの魔術を重ねがけした。
——ミリーにバレたら、あいつはきっと泣くからな……。
グォドレイがわざとらしく欠伸をしながら扉を開けると、朝食の支度をしていたミルドレットが、パッと顔を上げて笑顔で出迎えた。
「お師匠様、お帰りなさい。昨夜は帰って来なかったんだね」
「ああ、依頼が入ってたからな。一人で寂しかったか?」
「うん、寂しかった」
相変わらずの純真無垢さで素直に答えるミルドレットを、グォドレイはアメジストの様な瞳を細めて見つめ、優しく頭を撫でながら「そうか、一人にしちまって悪かった」と言った。
いつもならば留守にする時は一言声を掛けていたのだが、ニールとのデートでミルドレットがいつ帰るか分からなかった為、伝えそびれてしまったのだ。
「ニコニコ仮面とのデートはどうだったんだ?」
「へ!?」
顔を真っ赤にしたミルドレットは、スープ皿を持つ手が緩んでガシャンとひっくり返した。
「あっ! やっちゃった!!」
「火傷しなかったか?」
すぐさまミルドレットの手を取り、心配そうに見つめるグォドレイに「全然平気」と答えると、ホッとした様子でため息をついた。
「俺様の度肝を抜く淑女になっても、相変わらずどんくさいな」
「ごめんなさい」
「怪我さえしなきゃ構わねぇが」
グォドレイが人差し指をふいと動かすと、床に零れたスープや皿が瞬時にして片づけられた。
「美味そうだな」
「お師匠様が作った方が美味しいけれどね」
「そうか?」
グォドレイは新しくよそってくれたスープを受け取ると、一口食べて「お前さんの作るスープは絶品だぜ?」と微笑んだ。
「本当!? 良かった!」
二人は横並びでテーブルに掛けると、食事を始めた。
いつもの朝の風景であるものの、どこか余所余所しい空気が流れた。
グォドレイは脇腹の怪我を隠さなければならなかったし、ミルドレットはニールと口づけをした後にグォドレイと顔を合わせる気まずさがあった。
「で? ニコニコ仮面とのデートはどうだったんだ?」
再び問いかけられて、ミルドレットは咽こんだ。
「おいおい、質問の度にそういう反応されると複雑なんだが。大丈夫か?」
優しく背を擦ってやると、ミルドレットは「だ、大丈夫!」と言って水を飲んだ。
「あれって、デートだったの?」
「は!? デート以外なんだってんだ? 言ったろ? 魔術を習得したらご褒美をやるって。あいつとのデートがご褒美のつもりだったんだが。伝わってなかったのか」
——まあ、確かにあのへっぽこっぷりがデートって呼べるかどうかはナゾだな。
「そ、それ! ニールもデートだって解ってて来てくれたってこと!?」
「ああ、そのはずだが。わざわざヒュリムトンの王城まで出向いて俺様が直々に依頼してきたんだからな。指示書にもバッチリ『デート』って書いたんだぜ? まあ、その場で破り捨てられたが」
おろおろと慌てふためくミルドレットを不思議そうに見つめて、グォドレイは小首を傾げた。
「どうした? つまんなかったのか?」
「そんなことないよ! ええと、久しぶりにニールに会えて嬉しかった。ありがとう、お師匠様」
頬を赤く染めながらそう言うと、ミルドレットは静かにスープを口に運んだ。
——ニールにキスしたなんて、ちょっと言えない……。
と、ミルドレットは気まずそうに黙々と食事を進めた。
「チューしたか?」
ガタン! と、ミルドレットが椅子ごとひっくり返り、グォドレイは慌てて立ち上がった。
「なんだよ!? 大丈夫かよ!?」
「お、お師匠様が変な事言うからっ!!」
床に打ち付けた肘を擦りながら喚くミルドレットの側にしゃがむと、グォドレイは「見せてみろ」と言って彼女の腕をとった。
「別に変な事を言ったつもりはねぇんだが……あーあ、赤くなってるな」
「これくらい平気。そんなに痛くないし」
「全く、頼むから気を付けてくれよ。他に痛いところはないか?」
サラサラと深い紫色の髪がグォドレイの肩から零れ、長い睫毛を揺らしながらため息をついた。耳に下げられた大きなピアスがシャラリと音を発し、アメジストの様な瞳で労わる様にミルドレットの肘を見つめる。
グォドレイのその横顔を見て、ミルドレットは違和感を覚えた。
——あれ? なんか……お師匠様……。いつもと様子が違う。
「何だ? まじまじと見て」
じっと自分の顔を見つめられ、グォドレイが不思議そうに片眉を吊り上げたので、ミルドレットは慌てて誤魔化す様に言った。
「あ……えーと、お師匠様って、綺麗な顔してるなぁって」
「あ?」
「お城の皆もお師匠様が素敵だって騒いでたし!」
「……何言ってやがるんだか。椅子から転げ落ちて頭でも打ったんじゃねぇのか? 大丈夫かよ」
ため息交じりにグォドレイはそう言ってミルドレットに手を貸し立たせると、ズキリと腹部の傷口が引き吊れて痛んだので、大あくびをして誤魔化した。
「さて、俺はちょっとばかし寝るとするぜ。依頼を片づけてきたばかりだからな、寝てねぇんだ」
「解った。食器はあたしが片づけるよ」
「ありがとう。ごっそうさん。美味かったぜ」
朝食のお礼を言って寝室へ向かおうとするグォドレイの服の裾を、ミルドレットは咄嗟に掴んだ。
「待って、あたしも一緒に寝る」
「は!?」
「あ、あたしも、昨夜は目が冴えてあんまり眠れなかったの!」
そう言うと、ミルドレットはぐいぐいと強引にグォドレイを引っ張って寝室へと向かった。
——一緒って、まあ、一緒のタイミングでって事だよな?
ドギマギしながら寝室へと到着し、「じゃあ、おやすみ」と、横になったグォドレイのベッドへとミルドレットが潜り込んで来たので、グォドレイは驚いて素っ頓狂な声を上げた。
「一緒のベッドで寝るって事かよ!?」
「うん」
「待て待て、何でそんな必要があるんだ!? 隣にお前さんの部屋があるだろっ!?」
「だって、お師匠様と一緒に居られる時間があんまり無いから。離れてるの勿体ないし。駄目?」
潤んだサファイアの瞳を向けられ、グォドレイはダラダラと背に汗を垂らした。
——寝れるか!!
「いや、そいつは無理だ……」
「嫌なの?」
「嫌とかそういう意味じゃなくな?」
グォドレイは呆れた様にため息を吐いた。
「お前さん、リッケンハイアンドのお姫さんから性教育は受けなかったのか?」
ミルドレットはシュンとした様に顔を曇らせると、静かに言葉を放った。
「受けたよ。だから、男女が二人で寝るってどういう事か解ってる。……でも、お師匠様。怪我で沢山血を流したんでしょう? 身体が冷えてるもの」
その言葉にグォドレイが絶句すると、ミルドレットはそっと身を寄せた。
「顔色も悪いし、すごく手が冷たかった。お師匠様が眠るまであたしが温めるから。だからお願い」
「……まいったなぁ、バレてたか」
ため息交じりにそう言ったグォドレイに、ミルドレットはすまなそうに微笑んだ。
「ヒュリムトンの王城に行って、あたしも少しは人の顔色を伺う様になったのかも」
「俺の顔色を伺う必要なんかねぇだろうに」
「あるよ。大切な人だから」
「俺がか?」
「うん。とっても大切な人だよ」
サファイアの様な瞳から涙を零し、ミルドレットは身体を震わせた。
「怪我なんて、どうして?」
「ちょっとばかし油断しただけだ。大した事なんか……」
「大した事ない怪我で、こんなに身体が冷たくなったりしないでしょう? あたしに出来る事なんて少ないかもしれないけれど、何でも言って。お願い、お師匠様。今回だけは甘えてよ」
ミルドレットの体温が心地よく、グォドレイはうつらうつらと微睡んだ。
「……このまま、こうして居てくれ」
グォドレイがミルドレットに自分の要望を伝える事など、今まで無かった事だった。
ミルドレットは頷くと、グォドレイの頬にキスをした。
「……うん、解った。おやすみなさい、お師匠様」
すぅっと深い眠りにつくグォドレイに身を寄せながら、ミルドレットも瞳を閉じた。




