諸悪の根源
ユーリはニールの瞳を見る事無く、俯いたまま話した。
「オーレリアは、グォドレイ様の記憶を失う前にと私に手紙をしたためたのよ。『悲しい思い出などではなかった。最も幸せな思い出だった、決して忘れたくない』と。けれど、私はグォドレイ様の事を忘れてしまった彼女に、話すことなどできなかったわ。アーヴィング様と生きると決めた彼女にとって、本当に必要な記憶なのかどうか分からなかったのですもの」
思い出に浸る様に言うユーリをダークグリーンの瞳で見つめながら、ニールは嘲笑した。
——うんざりして吐き気がします。
ニールの口の中で、歯がキリキリと音を発した。目の前に座るユーリとアーヴィングに苛立ちを覚える。
「国を巻き込んだ愛憎劇など真っ平です。それも、過去を引きずり子らをも苦しめるだなどと!」
「……グォドレイにとっては、過去ではない」
アーヴィングがため息交じりに言った。永遠とも言える程に長く生きる魔導士にとって、数十年前は過去と言える程の事ではないのだろう。
だがそれはつまり……と、ニールは吐き捨てる様に言葉を放った。
「ミルドレットを、亡くなったオーレリア妃と重ねていると仰るのですか?」
オーレリアは、ミルドレットが修道院に入っているうちに病に倒れ、亡くなっていた。
アーヴィングは首をゆっくりと左右に振った。
「それは解らぬ。あ奴の考える事など、誰にもな。何故あれに、ああも目を掛けるのかも分からぬ。余は……あ奴が恐ろしいのだ。だからこそ、あれを一刻も早くルーデンベルンから追い出す必要があった」
アーヴィングは、ミルドレットがグォドレイの元に居る事を知り、慌ててアリテミラの婚約を取り消したのだ。ヒュリムトンにミルドレットを送りつければ、自分へ向けられた怒りの矛先がドワイトに向くだろうと。
ニールはうんざりした様にため息を吐いた。
「一国の王ともあろう者が、これほどに臆病者であったとは残念でなりません。自分の命を守る為に何でも捧げるとは。父上の様に自分の国を潤す為に欲しろとは言いませんが」
「相手はグォドレイぞ!? 余をこうして一瞬のうちにヒュリムトンに攫う事の出来る者など、他に居ようか!?」
ニールは首を左右に振り、「自分の行いが招いた事でしょう」と言ってぎゅっと拳を握り締め、ダークグリーンの瞳でユーリを見つめた。
「母上にお尋ねしたい。ミルドレットの背の傷痕を、皆に晒したのは何故なのですか? 彼女に一体何の恨みがあったというのです? 自分の愛した男をオーレリアに取られた腹いせですか?」
じっと責める様にダークグリーンの瞳で見据えたニールに、ユーリは悲鳴の様に「恨みなどあるはずがないわ! まして、腹いせなどと!」と言ってその頬に涙を流した。
「私と同じ道を、あの可愛らしい子に歩んで欲しくなど無かったのです。あの子はオーレリアの生き写しですもの!」
ヒュリムトン王太子妃となれば、ゆくゆくは国母として子を儲ける事になる。そうすれば、再びこの悲劇に巻き込まれる事になるのだ。
王子が二人以上産まれたのなら、あの冷たい墓碑の下へと葬られるという悲劇に。
「オーレリアの子も、そして我が子である貴方も、私にとっては大切なのです!!」
その言葉に、ニールはユーリを責め立てた。
「大切なものか!! 貴方は契約の魔術をその男と結ぶ事で、私をも苦しめた!」
ユーリがアーヴィングと結んだ契約の魔術は、ニールにとって爆薬付きの首輪の様な物だった。
だが、ユーリは首を左右に振って否定した。
「産まれたばかりの貴方を生かす為にしたことよ!!」
つまりはアーヴィングがニールを受け入れる条件として呈示したのだろう。
ニールはそれでも納得できるはずもなく、吐き捨てる様に言葉を放った。
「ルーデンベルンに私が居る間、貴方は一度たりとも私に会おうとすらしなかった。時折飴玉を送り付けておけば、幼子の心が癒されるとでもお思いだったのですか?」
寂しくて、ただただ寂しくて。それなのに寂しいというその感情がどこから生まれるものなのか、どうすれば満たされるのかも分からず。只管死を恐れてアーヴィングの言いなりになるしかなかった。
その寂しさで、ぽっかりと空いた心に触れたのは、唯一ミルドレットのみだったのだ。
純真無垢な彼女の心は、感情を殆ど失っていたニールの心を細くか細い糸を手繰り寄せる様に繋ぎ止めたのだ。
自分にとって不要となった飴玉を、彼女に与えると泣き止み、笑顔を齎した。こんなものでも役に立つのであれば、捨てずに取っておこうと思えたのだから。
「母親として、至らなかったのは解っているわ。貴方に辛い思いをさせたのも。……けれど、だめよ。オーレリアを、グォドレイ様にお返しするべきだわ」
ユーリの言葉に、ニールはカッとなって声を荒げた。
「ミルドレットはグォドレイの恋人ではありません!」
「でも、彼はあの子を愛しているのでしょう?」
ユーリはそう言うと、懐かしむ様に微笑んだ。
「オーレリアと別れて傷ついたあの方は、長らく姿を消していたわ。また元通り、人間と関わらない生活へと戻っていたのよ。それなのに、ミルドレットを弟子として受け入れたわ」
ユーリはアーヴィングを睨みつけると、責め立てた。
「貴方は、あの子がオーレリアにそっくりだから! 彼女の人生を自分の身勝手さで奪ってしまった罪悪感に囚われたのでしょう! あのような……あのような惨い仕打ちを!!」
アーヴィングは押し黙ったまま、頷くでもなく反応を示さなかった。
ニールがアーヴィングの元を訪れた時、ミルドレットに対する虐待に『理由などない』と言っていた。
恐らく彼自身もよく分からなくなっているのだろう。
余りにも罪を重ね過ぎたのだ。
人を何人も殺めているうちに、心が麻痺していく様に……。
ふと、ニールの脳裏にずっと抱いていた疑問が浮かんだ。
兄、シハイルの暗殺だ。彼は一体、誰の命令で殺されたのだろうか……? 大国ヒュリムトンの王太子を容易に暗殺できる者など限られている。まして、影武者であるデュアインではなく、本物を殺すのは難しいはずだ。
だとすれば、兄を殺したのは父上か……? 一体、何故……?
目の前に居る二人を見つめ、ニールはゾクリと悪寒が走った。
「……もしや兄上は、ルーデンベルン王、貴方の子なのですか? ひょっとしてそれに気づいた父上が、暗殺を?」
ニールのその問いかけに、アーヴィングは口を噤んだ。
ニールは静かに殺気を放った。抑えようにも抑えきれずに怒りが強すぎて殺気が漏れ出たとでも言わんばかりだった。
「……いいえ、違うわ」
アーヴィングの代わりに応えたのはユーリだった。だが、アーヴィングが付け加える様に言葉を放った。
「だが、ドワイトを苦しめる為にそう思うように仕向けたのは余だ」
「私も、否定したりしなかったわ。私は、陛下を怨んでいたから……」
ニールは怒りでどうにかなりそうだった。今すぐこの場にいる母ユーリもアーヴィングも殺してしまいたかった。
その嘘が全てを狂わせてしまったのだ。シハイルが暗殺されなければ、アリテミラの身代わりとしてミルドレットが送り込まれる事も無かった。グォドレイを再びこうして人間の愛憎に巻き込む事も無かった。
全てを無として生きて来た自分が、今更ミルドレットを欲する事も無かった!!
「父上への復讐に、子を利用したというのですか!! 貴方方は、どこまでも身勝手だ!」
「それは違う! ユーリのせいではない!!」
アーヴィングが怒鳴り散らす様にそう言うと、溜息をついた。
「ユーリは、恨んではいてもドワイトを愛している。ヒュリムトンを秘密裏に乗っ取ろうと画策したのは余の考えだ」
「そのくだらない思惑で兄上を無駄死にさせたというのですか!」
発狂せんばかりの怒りを必死に鎮めようとするニールに、ユーリはポツリと言った。
「……シハイルは死んでいないわ」
眉を寄せ、ニールはユーリを見つめた。アーヴィングも知り得ない事の様で、眉を寄せてユーリを見つめた。
ユーリは青白い顔をしたまま、小さく唇を動かして言葉を続けた。
「デュアイン・オールストン。貴方がDと呼ぶ彼こそ、私と陛下の本当の子なのです。陛下が暗殺したのは、デュアインの身代わりとして表舞台に立っていた子なの。可哀想に、あの子は何も知らずに私を母を慕ってくれていたというのに……!」
◇◇
「殿下! 一体どうなさったのですか? そのようなお怪我を!」
アレッサが悲鳴の様に声を上げ、白銀の仮面を身に付けたデュアインを見つめた。
「少々無茶をしてしまいました」
「とにかく、治療しましょう。私にお任せください!」
アレッサがデュアインを治療する様を、王城の屋根の上から眺めながら、ニールはぎゅっと拳を握り締めた。
デュアインに、シハイルとなってアレッサに逢いに行く様にと指示したのはニールだった。
彼こそが実兄である事実を伝えられたからだ。
無論、ニールは血縁者であろうとも殺す事に躊躇などしないわけだが、シハイルの影武者という存在を失えば、なにかと不便であるということが最もな理由だった。
——Dこそが実子であると、もしかしたら父上は気づいているのかもしれない。
だからこそ、アレッサとの逢瀬を勧めたのだとしたら……?
そう考えて、ニールはまさかと身震いした。
ヒュリムトン国王ドワイトは恐ろしく狡猾な男だ。グォドレイを巻き込む事を想定して、恐らく誰もが考えの及ばない程の策略を練り、この王太子妃選抜レースを始めたに違いない。
「厄介事を、すみません。アレッサ」
「厄介だなどと! そんなこと、仰らないでくださいな。殿下はいつでも、私の力をお望みになって良いのです」
アレッサとデュアインは、まるで恋人同士ででもあるかのように見えた。
ただの茶番だ馬鹿馬鹿しい、とニールは視線を外した。
ユーリの手によってドワイトから引き離されたデュアインもニールも、結局のところヒュリムトンの王族の呪縛から逃れることは出来なかった。
『愛』とは、人を狂わせるものだとニールは思った。
王族どころか、貴族女性も皆、愛する者と共に生きるという事が許されない。ユーリも、アーヴィングも、オーレリアも……。
だが、ニールもまた同じ道を歩んでいるのだ。己の身勝手さでミルドレットをこうして巻き込んでいるのだから。
——全てを、私が終わらせてしまってはどうだろうか。
ニールはそう考えて、ダークグリーンの瞳を細めた。
——アレッサも、Dも、父や母も殺し、アーヴィングも……。
そうすれば、ミルドレットは呪縛から解き放たれて、自由で幸せな人生を送れるのではないか……?
静かに、ニールは腿に固定しているスローイングナイフへと手を伸ばした。




