54:フス・オルダのクラン・カトン
人物紹介
モンゴル側
クラン・カトン:チンギスの皇妃。第2オルドの主(他に7人の后妃)。メルキトの王女。息子はキョルゲン一人。
人物紹介終了
クラン・カトンは、やはり無理を言ってでも、カンについて行くべきであったかと、1日1回は想う。
ここ、カラ・キタイの旧都たるフス・オルダ(ベラサグンとも)にはオングトの孛要合も留まっておった。この者は、まだ数え10才であり、幼すぎるとして最前線に赴くことを免じられておった。
年が近いこともあり、息子のキョルゲンの良き遊び相手となっておった。
手指が凍える如き寒さとなるまでは、二人して馬の早駆けを競いあったり、弓の腕比べをしておった。
その後は、多くの遊牧勢の子供たちと同じく、そしてかつてのチンギスやジャムカと同じく、碑石遊びを氷上でなしたりしておった。
ボヤオハイの父と兄は、オングト勢内での反乱により殺されておった。ゆえにチンギスがこの者を預かり、次の領袖とすべく大事に育てておるところであった。
その2人の遊ぶさまを見ては、やはりカンの言う如く、行くべきではなかったかと想い直す。
(まずは、息子をしっかりと育て上げねば)
それが己が役目と想い改めるのであった。
しかし日をまたぐと、否、またがずとも、やはり無理を言ってでも云々ではあった。
そのいずれの想いを抱えるにしろ、度々西を見やる。
目に入るは、薄く積もった雪原に、まばらに散らばる家畜の群れ。そして丈高い木々がところどころに。
無論、見たきものはそれではない。
あれだけの軍勢を従えるカンである。よもや、自ら敵の矢の当たるところに赴くことはなかろう、ましてや敵刃に身をさらすなどありえぬはず。
そう想うも、無事、再び会えますようにと天へと祈る日々でもあった。
ところで、クランの娘であり、キョルゲンにとっては2才上の姉のアラハイも、ここにおった。
遊びに夢中のまだまだガキの2人とは異なり、この時、しっかりボヤオハイを見初め、将来の伴侶としたいとまで想い定めておった。
とはいえ、クランの全面的な協力を得つつ、弟のキョルゲンにも無理矢理手伝わせて、ボヤオハイ攻略大作戦を展開するのは、もう少し後のことであったが。
結果としてアラハイの恋は実り、2人は恋仲となり、ボヤオハイが数えで17才の時夫婦となった。
ここにも尻に敷かれる男がまた1人、という訳であった。
オングトについて興味深いことがある。
それはこの血筋が沙陀鴈門節度の後(=子孫)より出るとの史料が残ることである。
沙陀については、第3部の42話と43話で論じた。
その領袖たる李克用は、まさにこの鴈門節度使に任じられておる。(森部・石見(2003)24貢)
またその父たる李国昌も、雁門已北行営節度使に任じられておる。(森部・石見(2003)41貢)
雁門(=鴈門)は地名で、已北は以北と同義、行営は通常遊牧君主の宮廷を指すがここは遊牧地の意と解してよく、『雁門已北行営』とは要は鴈門以北の領域ということである。
唐は、ここを遊牧地として与えることにより、沙陀勢を北辺の防衛に当てたのであり、その領袖を節度使に任じたのである。
(唐代の節度使に与えられる権限は強大で、まさに地方軍閥であった。日本語の語感からはあまり感じられないが、唐・五代・宋のXX使とは一般に武官職を指す。)
よって単純に考えれば、李国昌・李克用、いずれかの子孫ということになる。
ただ、なぜオングトと称したかとの疑問は残る。上記が事実とすれば、朱耶、もしくは沙陀と称するのが普通である。
この問題については、ここでは深入りしない。
ところで、この史料の信頼性であるが、かなり高いと見て良い。
1つには『沙陀鴈門節度』と具体的な官名が記されていること。
もう1つは、どうせ騙るなら、克用の子の存勖が(後)唐を建国して皇帝となっておれば、「唐皇帝の後」とした方が得られる血の権威は大きく、ゆえにそのように偽るはずと想えるので。
(補足 フス・オルダってどこだっけとお想いになられた方は、第2部9話を、
碑石遊びについては、第3部38話を、
モンゴルの后妃の制度については、第2部10話を、それぞれご参照ください)
参考文献
・森部 豊、石見 清裕『唐末沙陀「李克用墓誌」訳注・考察』2003




