1(西夏の対応)補足追記版
補足に追記しました(2021年7月18日)。
物語には直結しませんが、お手すきな時にでも。
チンギスはその常なることとして、臣従する諸勢力に遠征への十全たる準備と全面的な協力―糧食の提供と遠征への参加―を求めた。
当然、その中の最大勢力たる西夏の皇帝にも使者を送った。
正使は弟ジョチ・カサルの子のイェスンゲであった。大集会に参加するために宮廷に至ったので、こちらの方が重要であるとして、そのまま西夏へと発したのであった。
副使兼通訳として、西夏出身のチャガンを当てた。この者は次のシギ・クトクになりうるのではと、チンギスが見込み、少年の頃から引き取り、養育しておる者であった。
ところでホラズムとの戦は、ジョチがなしたもののみであり、しかもこれはまさに己自身の命により、まともに戦うことなく退却しておった。
それゆえ、ホラズムの軍がどの程度強いかは、はっきりしなかった。その急激な勃興振りを見る限り、あなどることのできぬ強敵であろうと想われた。モンゴル並みの強大さということも、十分にありえた。
更にはもう一つ事情があった。
金国の存在である。金国への攻め手は緩めるとしても、どうしてもある程度は軍勢を残さざるを得ない。
つまり自国と同じ、あるいはそれを上回る軍事力を有するかもしれぬ相手に攻め込むのにもかかわらず、こちらは国を挙げて攻め入ることができぬのである。
そこで当然西夏の存在は重要なものとなる。もちろん、西夏もまた金国と戦線を構えておる以上、全軍を挙げてとは行かぬであろう。
それでも全遠征軍の四分の一から五分の一を出すことは、西夏の国力から考えても、十分可能であると想われた。
それゆえ西夏が参戦するなら、ホラズムに対して優勢に戦い得ようし、参戦を拒まれれば、戦は厳しきものとなるであろう。
そう考えるゆえにこそ、チンギスはあえて王族のイェスンゲを発したのであった。臣従する西夏に対し、可能な限り最上の敬意を示して、その参戦を請うたのである。
使節団一行は、かつて西夏皇帝よりカンに贈られたラクダに乗って出発した。馬より乾燥に強く、また戦に行く訳でもなかったので。
地表にわずかに積もる雪を頼りに水を得つつ、ゴビ砂漠を南へと縦断した。
凍結した黄河に出ると、後はこれをさかのぼった。黄河というのは西方のチベットの方から流れて来ると一端大きく=まさに大陸的なスケールで=北流する。この西岸側にその目指す地はあったのである。
イェスンゲとチャガンは西夏の首都興慶府に至った。
イェスンゲにとっては、父カサルに従って従軍した金国遠征以来、
チャガンにとってはチンギスに拾われるまで、子供の頃過ごして以来見る甍を並べた街並みであった。
恐らくイェスンゲは物珍しきとの感想と共に、チャガンは幼き時への郷愁と共に眺めたであろう。
ただ、この二人がその内に抱くが、西夏の遠征への参加を何としてでも取り付けねばということであったは、疑いあるまい。
二人は宮城に招き入れられた。
そこまでは良かったが、皇帝の李遵項は会うことに応じず、大臣のみが接見した。
しかも軍の提供を拒んで来た。
イェスンゲは、「カンは西夏軍に右翼を託すとまで言われております。これほどに信頼を示され、重用を約束されておるのですよ」と訴えた。更には「そもそも貴国の皇帝が軍を出すとかつて約束されたのです」と抗議した。
しかし、ついぞまともに相手にされることなく、帰途につかざるを得なかった。
小さな天幕にて、側らにはボオルチュのみにおるを許した。そこで報告を受けたチンギスは、明らかに怒りを見せたが、それを肩を落とす二人、イェスンゲとチャガンにぶつけることはなかった。
「そなたらのせいではない。西夏はそもそも隠しておった本心をあからさまにしたに過ぎぬ。
実のところ、断るのではないかとは、我らは想っておった。ボオルチュと話しておったのだ。西夏が軍を出すは五分五分であろうと。それゆえ、交渉結果は極秘にせよとあらかじめそなたたちに命じておったのだ。
我が死ぬ、あるいはモンゴルが負ける方に、西夏は賭けたということであろう。
いずれ、このことは知れ渡ろう。
その時にはあらためて『西夏が断ったこと。それを理由として、将来必ず西夏を滅ぼす』と公布することになる。それで大崩れは抑えられよう。
そなたたちは、この後もこのことは他言するな。」
とチンギスが言えば、
「これはまさに己が参戦が勝敗の帰趨を決するほどの大勢力を持つゆえになしうる選択です。
良くも悪くも西夏ほどの大勢力は他におりませぬ。
征討を受ける覚悟をしてまで、軍事協力をはねつける勢力は外には出ぬでしょう。」
とボオルチュが請け負った。
注1:ブルカンとは西夏皇帝に対するモンゴル側の尊称である。
他方で(モンゴル語で)ブルカンとは仏陀(釈迦牟尼)その人を指す。
西夏の仏教への尊崇は良く知られることである。しかし皇帝が自ら仏陀と名乗っては(あるいは名乗らせても)、却ってその信仰心に反するは明らかである。何がどう間違ったのかは分からぬが、この迷惑な尊称が定着しておったのである。
(西夏を建国したタングート人は、モンゴル語ともチベット語とも異なる独自の言葉を話した。)
注2:タングート勢の概略の歴史
タングート勢というのはひとまとまりであった訳ではないので、実際はずっと複雑であるが、ここは極めて簡略に述べる。
遊牧勢たるタングートの勃興は、チベットの青海方面に勢威を張った吐谷渾(鮮卑の一分枝とされ、やはり遊牧勢)との連合が大きく力を貸した。史料的な根拠がある訳ではないが、恐らく姻族の間柄であったろう。
吐谷渾を663年吐蕃が滅ぼした後は、まさに二大国(唐と吐蕃)に挟まれて、時に臣従する側を替え、何とか生き延びたというのが実情である。
そして宋代に至り、李元昊が建国し、「大夏」(通称 西夏)と称した。
(補足 宋側の史料でも、「西夏」とはされず、単に「夏国」や「夏人」などとされる場合がほとんどである。
北宋時代に国境を接し度々戦をしている「夏」国と、はるか昔の半ば伝説上の「夏」国を、混同する恐れなど無いからである。史料の伝える往時の政治感覚というものであろう。)
補足追記(2021年7月18日)
この後の話を書くために史料を漁っていたら、楚材さんがしっかり『西夏』と記していたのを見つけた。カラ・キタイのことも『西遼』と記す。(追注1)
楚材はモンゴルに仕えたが、その前は金朝に仕えており、こうした呼称は金国のものを用いたと想われる。
金朝にとって遼(契丹)というのは、既に自らが滅ぼした国家である。それゆえ、その一傍流が西に逃れて国を再建し、契丹などと称しても、認められるはずもない。
『遼』と呼んでは再建を認めることになるから、あえて区別して『西遼』と呼んだのであろう。
それで『夏』国もついでとばかりに『西夏』とされたのだろう。
通常、自称する時や国書などで相手を尊称する時は『大』を付ける。大宋・大金・大遼・大元などなど。
転じて、華夷思想に見られる如く、方角の名を国名の前に付すは侮蔑の意を示すと想われる。西戎の国という訳である。
実際、金国は初期から西夏と呼んだ訳ではない。
例えば、金国が建国当初の靖康元年正月に、北宋の朝廷に宛てた文書中に、
『夏国王の李乾順と塔坦の黙爾赫が、並びて亡んだ遼を助けようとして、我が行陣を犯すも、未だ鼓せずして破る。
よく過ちを改めたために、各々(夏国と塔坦)を旧居に復し、契丹の辺土を分け裂きて、以てその地を済す。』とある。(追注2)
この記事は、内容も面白い。
・李乾順は契丹王族の娘をめとっており、助太刀するは当然といえる。
・塔坦はタタン則ち、往時モンゴル高原に勢威を張ったタタルと想われ、これも助太刀したと知れる。
・通常、太鼓は「戦闘開始」や「突撃」の合図に用いられる。ゆえに『未だ鼓せずして破る』とは、その必要も無く勝ったと、自らの武威を誇示しておるのである。
・恐らく敗れた後、臣従を示したのだろう。旧領土を安堵するばかりか、契丹の旧領の辺境を割譲している。
この時の金国は気前が良い。
追注1 松崎光久訳『耶律楚材文集』(中国古典新書続編)明徳出版社 平成13年 126貢、104貢
追注2 大金弔伐錄校補 中華書局 2017年 115貢




