ふたりの時間
私と涼が嘘の婚約者になってから十日が経った。
この日、涼は私との約束を果たすため家に遊びに来ていた。
彼のお気に入りのアニメが円盤発売していたらしく、限定版も残りわずかのところで急いで買ったそうだ。
届いてすぐに、私のところへ来たのか封も開いていなかった。そんな小さなことに、喜びを感じてしまう。
ラインで来ることを伝えてきた昨日、私は夜も惜しんで掃除に熱中した。
決して汚いわけではなかったのだけど、そうでもしないと気でも触れてしまいそうになるほど緊張していたから。
私が風邪を引いて寝込んだ時以来の来訪に、少し緊張していたんだと思う。
私の家の小さなソファに、細身とは言え私よりずっと大きな体躯の涼が座っている。
どうして、嬉しいと思わずにいられるだろう。
私は、来客用のカップにコーヒーを注いで、涼の前に置く。
「ありがとう」
それに私はにこりと笑んで、涼から円盤の箱を受け取る。
レコーダーに電源を入れてセットすると、メーカーのクレジットが始まった。
途端に涼は、嬉しそうにはしゃぎだして自分の隣のスペースを叩いて言った。
「始まる!始まるぞ!!ほら、早く座れって!!」
「今行くってば!」
ソファはやっぱり小さくて。
互いに細身でも、どうしても肩や腕が触れ合う距離に私は息を潜めて顔が赤くならないように努めた。
今だったら、アニメへの高揚だと言い訳できるかもしれないが、涼との約束は「好きにならないこと」だ。
決して、好きであることを悟られてはいけない。
涼が。
由希子との逢瀬を一秒でも長く取りたいという想いをねじ伏せて、私との約束を守ろうとしているのだ。
私は、ただ、この時間を目一杯楽しむしかない。
だから、私は彼が好きだと言ったアニメに集中した。
タイトルは「テラ~宇宙戦争~」内容はこうだった。
舞台は、何百年も未来の地球。風は汚染され、人間は外の空気を吸うためには防塵空気清浄機能付きマスクの着用を義務付けられ、大地は荒れ果て作物も録に育たない。海も川も汚れ果て、人間だけでなく動物たちもまた生き場を失っていた。
その環境の中で、生き延びるために開発される最先端技術と、それによって更に環境汚染を増幅していく矛盾。
主人公ランスは、その現状を嘆き、どうにかならないのかと模索していたその時。
異様な飛行物体が空を埋め尽くした。宇宙からの乱入者が、地球を乗っ取ろうと地球人を殺し始めたのだ。
宇宙運営隊との抗争が始まった地球防衛隊で、ランスは部隊を率いる隊長を任ぜられ闘いの最先端で命を賭して戦わざるを得なくなる。
だが、闘いの最中、大けがを負った少女セリーヌを見つけたランスは彼女を介抱し、面倒を見るようになる。
闘いの間の、ほんの束の間。ランスはセリーヌの儚げで美しい容姿と慎み深く何にでも喜びを見せる朗らかな性格に惹かれていく。
同じようにセリーヌも、自分の素性を聞きもせず、手厚く看病し、実直で誠実な性格のランスに心を惹かれていた。
だが、そんな束の間の幸せも戦争の炎の渦に呑まれることになる。
彼女は、宇宙側の異星人で自分が敵する運営隊員の妹であることを知ったランス。
けれど、一度芽生えた愛情は簡単には殺せはしなかった。
地球対宇宙の狭間で、揺れる二人は、やがて想いを一つにさせていく。
再起不能なほどに汚染された地球を救う術を持つ宇宙と、地球の資源を有効に活用し宇宙の均衡を保ちたい宇宙。
二つの世界が、手を取り合って新しい世界を生み出そう。
ランスは地球防衛隊員として地球側を、セリーヌは宇宙運営隊員の妹として宇宙側を説得する。
だが、想いは虚しく激しくなる戦争。
それぞれが深い傷を負うなか、やがてその魔の手はセリーヌの命を奪い去った。
ランスは、正気を失ったかのように闘いに明け暮れ、悲しみを燃やすように命を奪った。
そうして宇宙運営隊を壊滅状態にまで落とし込んだのだ。
そして、休戦となり、宇宙と地球のトップは和平条約を結ぶことになる。ランスとセリーヌが望んだ新しい世界へと互いに手を取り合う道を進むために。
ランスはその様子を見届けたのち、闘いの傷と病に倒れセリーヌの元へと旅立つ。
枯れ果てていた地球には宇宙運営の協力もあって、風も清浄化し海も川もやがて美しく命を育む水へと生まれ変わった。人々は、マスクを外し、大地にも命が生まれ花や作物が育った。
かつて二人が望んだ世界がそこにあった。
「…、そんな泣くなよ。」
横から涼の声が聞こえてきたのと同時に、テッシュで顔を拭われる。
その時やっと自分が泣いていることに気づいた。
「な、良いだろ。このアニメ。」
涼の声も、微かに掠れている。
私は涼の問いかけに、頷いて返し、止みそうにない涙を必死でせき止めようと踏ん張った。
けれど、人間不思議なもので、止め止めと言うと、止まずに寧ろ増えるのだ。
いつしか嗚咽を漏らして号泣していた。
涼は、「そ、そんなに泣くほどだったのか!?」と驚きながらも、私の背中をさすり続けた。
その通り、これほど号泣するほどのことではないのかもしれない。
言うなれば内容も陳腐と言ってもいいほど、使い回された構成かもしれない。
だが、私にとってランスとセリーヌの二人の深く純粋な愛情と、片割れを失い我を見失っていくランスの深い悲しみ、死しても尚、繋がっている二人の愛が今は身を切るほど痛い。そのことが心に突き刺さるように響いてきたのだ。
もし、そんなふうに涼と互いを想い合えたら。
もし、私が先に死んだら。
涼は、どう思うんだろう?
死んでから想いを伝える?
そのどれも、私は嫌だと叫びたい心地がした。
私が死んだら、大事な人に悲しんでいてほしいわけじゃない。
けれど、それが由希子だったら?
涼はきっと、苦しみもがき悲しむだろう。ランスのように。
そのことを想像するだけで、嫉妬で焼き付くような痛みを覚える。
そして、そんなことを考えている自分にも嫌気が差す。
死んで、やっと涼に想いを伝える?
そんな今現時点で分からない途方もない世界でなければ、私の想いは涼に伝えてはいけないのだろうか。
今にも飛び出しそうになるホントの言葉を、私は必死に飲み込む。
現に、私は脇役でしかない。
――勘違いしないでよね。
耳鳴りのように、由希子の言葉が蘇る。
今ここで告白なんてしてしまったら、由希子の言う通りに、私は下心を告白するのと同じだ。
それだけは嫌だった。
せめて、背中をさする涼の大きな手の温もりに今一瞬の幸せを感じていたい。
私は、それだけで満足すべきなんだ。
告白なんてしたら、この手の温もりすら失ってしまう。
「ありがと…。すごく感動した。もう、明日は私の目どうなってるのかな。」
涼は優しい声で笑っていた。
「タオル、冷やして持ってくるから。」
涼が立ち上がると、触れ合っていたところに風を感じた。
それがやけに寒さを煽って、行かないでと言いそうになる。
テッシュを目に押し付けて、唇を噛んですべてに封をして――そっと、胸の奥においやった。
涼が持ってきた冷やしタオルを目に押し当てて、「そんなに強く押したら駄目だ」と窘められタオルを奪われて、涼が私の目に軽く乗せる。
「目は繊細なんだ。大事に扱わないと。」なんて言って。
また鼻の奥がツンとしだしてきて、困るから本当はこんな優しさは私にとって毒なのかもしれない。
けれど、私は嬉しかった。
いつかの涼が、目の前にいるようだったから。
それから私たちは、二人で料理をして食べて、次は私のお勧めにアニメを見た。
さっきとは打って変わってギャグアニメにした。
ラブストーリーが私の十八番だったのだけど、悲恋でもハッピーエンドでも見る気にはなれなかった。
笑いにツボが同じで良かった。隣で涼が、ケラケラと笑い転げている。
「久しぶりに、こんな笑ったわ!アニメも、最近見てなかったしさ。」
「あんなに好きだったのに?いつから?」
「さあ…。由希子と付き合うようになったからかな。」
血の巡りが逆流する感覚ってこんな感じなんだな、そんなことを頭の片隅で考えていた。
今一番、彼の口から聞きたくない名前。
でも、私には秘めたる女優の才能がある。
「へえ、じゃ結構長いこと見てないんじゃない?もったいなーーい!」
「ハハッ!だな!確かに、勿体ないことしていたかもしれないわ。」
「春夏秋冬、アニメは必ずチェックしなきゃ!あと、映画も!」
「数が多いんだよなあ~。てかお前、話し変わるけど結構料理美味いのな!」
「あれ?今まで知らなかったっけ?」
「初めて食べたからな。」
「そっかぁ~、そうだったか。私、こう見えて料理好きなのよ。」
でも、誰にも食べてもらう機会はなかったんだ。
「知らないことってまだまだあるんだな。」
涼が感慨深げに呟く。
「はー、なんかお前といると、楽しいわ。」
すごく嬉しい。だけど、辛い。
由希子に対するように、女性として見ていないから、気楽なんだろうから。
「涼も、楽しい奴よ。そんなクールな顔して働いてるのに、アニメが大好きでゲラゲラ笑ってるところなんて、想像もつかないんじゃないかな?他の人たち。」
「確かにな。今さら、趣味に関しては言いたくもないかもしれん。」
「どうして?ギャップ萌え狙えるんじゃない?……由希子さんとかに言ってないの?」
「言えないね。彼女には、カッコいい俺を見ていてほしいんだよね。こんな姿、見せられないよ。それに、そのギャップってのは、プラスからマイナスを見せても起きるもの?普通は、マイナスからプラスを見て良い感じってギャップ萌え成立するんじゃないの?」
「ちょっと!ちょっと待ってよ。聞き捨てならないな。アニメが好きなのってマイナスなわけ?うわ!自分の趣味をマイナスとか卑下しちゃってさ!最悪~。自分が好きなものに、誇りを持ちなさいよ!好きなことがあるって素敵なことなんだからさ!」
「素敵…ねぇ。でもさ、考えてみろよ。お前が好きになった男がもし、常に冷静でクールを気取って仕事もできる人だと思っていたのに、実はオタク趣味でフィギュアもゲームも大好き、家にいるときはコレクション眺めて涎垂らしてたって知ったら?」
「涎って…」
実際に、あなたのことが好きな私に、そんな例えは効かない。
「好きなら、どんな姿も結局好きになると思うし、それはそれ、これはこれで、私のことも大事にしてくれるなら良いんじゃないかな。よっぽどな趣味じゃなければ、好きな人の好きな事を奪う気にもならないし。もし、相手の趣味を受け入れられないなら本当の恋じゃなかったんだって諦めるしかないかなって思うけど。ま、私も周りに言ってないから、お互いさまか!」
涼は、ふーんとどこか思案気に俯いている。
「ま、大事なのは性格よ!性格!」
と私はこの会話に区切りをつけた。
物憂げな涼の横顔を盗み見て、私は溜息を飲み込んだ。
どうして、この人は由希子のことを考えているとき、これほど真剣なのか。
ふと、彼の手が目に入る。
ちくりと胸が痛いのは、この手も瞳も私のものではないからだろうか。