転機
お久しぶりです、大切なあなた。
本当に、お久しぶりです。
……もう、会わないと決めていました。会えないと勝手に絶望していました。
その理由を、まずはゆっくり話しておきたいと思います。でもその前に、嘘をついていたこと、もう一度謝らせて下さい。
ごめんなさい。わたしはあなたに心配をかけたくない、何より自分の弱さを見せたくないという臆病で身勝手な理由のためだけに、大切なあなたに嘘をつき、自分の人生がとても美しく輝いているかのように振る舞っていました。
実際は違います。
わたしの人生は、あなたと引き離されて以来二度と光の当たらない場所へおいやられてしまったようです。最も、そんなのは全て自分のせいだとでも、偉そうな顔をする大人たちは口を揃えるのでしょう。わたしたちのお父さんとお母さんもそんな連中の一員です。
あなたを失って分かったことが一つあります。
人は、自分自身や自分の大切な人々が犯した罪を共に受け入れ、共に生涯苦しみ悔い改めるふりをしながら、その罪さえ踏み台に己の幸福の糧とするのだと。
どれほど愛する者を失い絶望を教えられても、人はその苦しみさえ新たな幸せの土台にする強さへとすり替えていく。
人間は強い生き物だから、どれほど弱くたって、その分それを乗り越える強さだって必ずある。だからこそ、人は人を信じ、手を差し伸べなければいけない――あいつを救おうとしたあの人の言葉です。
くだらないよね?
結局、都合の悪いことを全部忘れて、それをきれいごとでごまかしてるだけなのに。
絶対に許さない。
だからわたしは、みんなから憎まれる役割を与えられてしまったのでしょうね。
偽善と欺瞞に満ちたあの村に居続けるのは耐えられませんでした。彼らに言わせればわたしなど悪意の塊。罪深い罪人でしかないのです。『深く反省し後悔している』あいつなんかよりよっぽど極悪人だって、理不尽なことを考えてる。両親はそんなわたしが恥ずかしかったのでしょう。だからわたしが自分の意志で自分の将来を決めたような顔をしたのを見て、あんなに喜んだのでしょう。
ああ、よかった。やっとあの子が死んだことを忘れてくれた。おかげでこっちも心おきなく明るく幸せに生きられる。
そしてわたしはあの村から逃げました。あいつを更正させようと躍起になってる偽善者のあの人は嫌いで関わりたくありませんでしたが、利用しない手はないと思い、彼女を信じて受け入れ、前に進もうとする少女を演じてみせました。それでも、あまり演じる必要はありませんでしたから。
事実、あなたのことを忘れてしまいたいと強く願う自分もいましたから。ごめんなさい。でも結局わたしはあなたを忘れずに済んだようです。わたしはあいつらとは違いますから。
その罰を受けたかのように、わたしは神学校でひどいいじめに遭いました。神学校ですよ? 神に仕えようと勉学を志し、信仰心をより高めようと神への忠誠心と人への愛情に満ちあふれたと褒めそやされる子供たちが、全く呆れてしまいますよね? わたしも人のことは言えませんけど、彼女たちよりはましだと断言出来ます。
傷つけた人間よりも、やはり傷つけられた人間の方がいつまでも割に合わない苦しみを背負うのはこの世の中だと、改めて思い知らされました。
わたしは弟を殺された姉。あの事件の被害者の家族。あの村に住んでる、しかも当事者に限りなく近い存在。何も同情してくれ、憐れんでくれなんてこと言いません。それもそれで傷つき、みじめになります。
だからって、どうしてその理由でわたしがこんなにも傷つけられ、辱められなければいけないのでしょうか? なぜ彼女たちは、そんな理由でわたしをいたぶる結論に至ったのでしょうか?
おそらく、理由などどんなものでもいいのでしょう。たまたまわたしが、そんな重い理由を背負っていただけの話なのです。
彼女たちはかわいそう、子供が過ごすには不向きな、窮屈な戒律に苦しめられる被害者なのだと、それを生み出しておきながら善人ぶった大人たちは知ったような口を叩きます。
だからわたしみたいな人間は我慢しろって言うの? またそうやって、罪を犯した本人を罰することなく野放しにするの?
結局こっちは泣き寝入り? 人を憎むことの愚かさを説いて、その原因を作り出した張本人さえ『愛』や『神の教え』とかいう適当なものでごまかして、許してあげるっていうの?
同じじゃない。あなたが殺された時と何一つ変わらない。こっちはただ行き場のいない怒りと憎しみを与えられそれさえ自分の心の弱さに負けた弱者だと批判され、愛や赦しを否定する罪人だと糾弾する。命があるだけでも感謝しろって言われてるようなもの、むしろ殺してくれた方がどれだけ救われるか。
復讐してやりたい。
いつも笑って人のものを傷つけて、心だけじゃなくて体まで傷つけるあいつらを全部殺してやりたい。
それでわたしは悪人になるのでしょうか? だったら、あいつみたいに反省したふりを一生懸命すれば分かってもらえるかもしれませんね。わたしはまだ若く、あなたを奪われた免罪符があるんですもの。きっと数年のうちに無罪放免、人生をやり直すことが出来るのでしょう。
でも残念なことに、わたしにそんな度胸はありません。ただ黙って、愛すべき学友の不条理な仕打ちに耐え、大人しく負い目を抱いた優等生として振る舞うのが精一杯です。現実から逃れるため、勉学に打ち込む毎日。神学の授業は一つも面白くありませんが、歴史や文学の授業は面白くて毎日その二つの時間だけ、授業が楽しくてなりません。何度も教科書やノートを破られ、なくされたりして大変ですが、何とか上手くごまかしています。
毎日ずっと耐え続けていました。あいつが村に戻って来ると知って逃げてきたようなものでしたが、せめてあいつがあの村でみじめに居心地悪く暮らしているのだろうと信じて、何とか生きて来れました。
どれほど反省し、村の人間が受け入れたとしても、あいつには重い十字架があるのです。それだけで、充分あいつがこれから生涯、それこそ永遠にも近い時間苦しみ続け、真の安らぎなど得られない――それは当然のことですよね? 何より、それはあなたが何よりも理解し望んでいることです。
わたしはそれを強く、深く信じ続けてきました。
それなのに、それなのにどうしてあんなことになってしまうのでしょうか?
あいつに、弟が出来ました。
よりによって、どうして弟なんでしょうね。悪趣味にもほどがあります。あいつの母親、あれだけ泣きじゃくって必死にわたしたち家族に許しをこいていたくせに、反省なんかしていなかったんでしょうね。
人間が持つ最も卑しくて吐き気のする欲を我慢出来ないような人間が、反省なんかしているはずありません。あの女もあいつを生み落とした諸悪の根源です。きっとこういうことをするのだろうと気づくべきだったのです。
わたしたちの家族は壊れた。わたしは二度と両親を信じることが出来ない。両親はわたしの本心を理解しようともしない。
何より、あなたを失った。
あいつと、あいつの家族はそんなことろくに考えもしないで、当然の顔をして新しい命を生み落とした。
あなたなんかそっちのけで。
そんな権利ないくせに、資格なんかないくせに。自然の摂理に従うことには何の罪もないんだっていう顔をして、気持ち悪い奴ら。
毎月、両親が寂しくないようにとわたしに手紙を送ってくれていました。彼らはいつもわたしを気遣うような文面で接してきています。わたしが罪人であることに負い目があるんでしょうが、実の娘だからといろいろ考えてくれていたのでしょうね。見え見えでした。
だからよせばいいのに、彼らは戻ってきたあいつとその家族の近況まで報告してきました。
『彼が帰ってきて一年。彼ら家族に、新しい家族が一人増えました。かわいらしい男の子です。見る者を思わず笑顔にしてしまうほど愛らしい子。わたしたちも我がことのように喜び、村人総出で祝福しました。失った命の傷が癒えぬ中生まれたかけがえのない命――誕生した弟の存在を目の当たりにして、彼はとても悔いたような涙を流しました。
新しい命が生まれたことによって、やっと自分の犯した罪の深さに気づくことが出来たのでしょう。
彼ら家族は、これから重い十字架を背負って生きていくことになります。しかし、きっとそれを乗り越え強く深い絆を胸に、日々を過ごすことでしょう。それを助け、つなぎ止めるためにその子は生まれてきたのでしょう。
子供に罪などありません。生まれてきてはいけない命などありはしない。
どの命も、必ず生まれてきたことに意味はある。きっと生まれて来た彼の弟も、彼らの新しい家族になるだけでなく、共に苦難を乗り越えるため、一家の絆をつなぎ止めるため天より使わされてきた大切な存在なのでしょう。
きっと、亡くなったあの子も祝福していることでしょう。だからあなたも、かつてのような明るさを取り戻し生きて、立派な女性へと成長して下さい。それが生きている私たちの努めなのですから。
罪を犯した彼だって、あんなにも希望に溢れ真面目に生きているのですから。あなたならきっと大丈夫です』
――もう、限界だなと思いました。
罪を犯した人間がのうのうと幸せに暮らす。それに何の疑問も持たない周囲の人々。あなたは亡くなったんじゃない。奪われたのに。
わたしだけが、間違っているとののしられる理不尽な毎日。
だから、わたしは自らこの世界に見切りをつけることにしました。これは神への反逆として大罪ということになってるらしいのですが、こっちはもう神様なんて信じていませんからどうでいい話ですよね。神学校に入ったのだって、教会の連中を利用してやるつもりだったし。
それに、神様なんているわけない。
あなたがあんな形でわたしの元からいなくなって、その理由を生み出した人間がまだ子供だからという理由で大した罪に問われず、挙げ句今新しい家族が出来て幸せに暮らす。それに愛する者を奪われた者は何の疑問に思わない。周囲の人間も所詮他人事だからと手放しに喜んでもいる。
こんな世界に、神様なんかいるわけない。
もし偉大なる神様のいる世界がこんな世界だったら、わたしはこんな場所からさっさといなくなってやる。
あなたが奪われた現実を野放しにするような神様、いくらでも逆らってやる。
だから神様。このわたしを地獄へ堕として下さい。ほら、わたしは罪人だから。人や世界を憎むことしか知らない憐れな魂しか持っていません。
神学校には、とても高い塔があります。だいぶ古くなっているので立ち入り禁止になっていますが、忍び込むのは簡単です。
あの日、あなたにお別れを告げた明くる日――わたしは、周囲の目を盗んでその塔へ向かいました。また学友に捕まっていじめられたらたまりませんので、夜が明けそうな時こっそり部屋を出ました。
塔はとても古く、階段を上っているだけで崩れ落ちてしまいそうでした。それに薄暗くてお化けも出そうで――でも、こんな場所こそわたしが死ぬのにふさわしいと励まされました。
長い時間をかけ、やっと頂上へ辿り着きました。そこは想像以上に高く、神学校中を見渡せるだけでなく、その周りに広がる山や森、空の向こうと、世界中が見えてしまいそうなほどたくさんの景色を見ることが出来ました。
ここなら、わたしは心おきなくこの世界からさよなら出来る。こんなに汚い人間ばかり住んでいるのに、美しい世界を最後に見ることが出来て、思い残すことは何もありませんでした。
あなたにもう会えなくなることが辛かったけど、わたしはそれ以上にもう耐えられませんでした。
後は、この後無になって何も考えられなくなることを願うだけでした。
最後に、あなたも大好きだった青い空を見て、ゆっくり飛び降りようとしました。これだけ高いのだから、すぐ発見されてもわたしの命はないだろう、まさにちょうどいい死に場所でした。
後は何も考えず、体をゆっくり倒すだけ――不思議と、恐怖や絶望などありませんでした。この世界こそ地獄なのですから、元々何も悩む必要などなかったんでしょうね。
だから、そのままわたしは激しい痛みを感じるだけで、後はもうどうでもいいのだと思っていました。
それを、邪魔する人が現れました。
わたしは、『彼』に助けられたのです。
それはずっと――わたしが密かに求めながらも、現実に絶望し夢見ることをやめた存在でもありました。
*
やっと、意識が頭だけでも回復出来た。手足にはしびれと不快な重みが付きまとっていると、嫌でも認識出来た。
「なんだ、もう起きたのか」
まるで親しい間柄を思わせるほど軽い調子の声が、耳に響いた。そしてすぐその違和感に気づかされる。
自分の身に何が起きたのか――冷静に考えようとした少年の思考を、無神経に破壊するような殴打の衝撃が彼の頭にもたらされた。
体が何も出来ないまま崩れ落ちる。それによって、自分が壁に背中を預けた状態で座らされていたことにジョシュアは気づいた。肉体が未だ麻痺していたため痛みが走らず、代わりに鈍い衝撃が頭を中心に居座り身動きの取れない不快感に拍車をかけていく。
見上げると、実に不愉快にさせられる笑みを浮かべた見知らぬ男が、無抵抗であったはずの彼を見下ろしていた。そいつ以外にも、同じ笑みを浮かべる男が何人もいた。
そして背後に、深く静かな憎しみをたたえる女達の姿も。
どいつもこいつも、知らない顔だった。
「ちゃんと起きろ、クソガキ」
苛立ったように男の一人がジョシュアの襟元を乱暴に掴み再び座らせる――そして、する必要のない殴打を頭部にお見舞いしてきた。
「うっ……!!」
まだ出しづらいのか、頼りないうめき声がジョシュアの口からこぼれた。
「何だ、これ位でもうへばるのか」
冷めた男の口調、異様に神経を逆撫でさせる。それだけで、今目の前にいる連中が敵であることを実感させられた。
「何だよ……お前ら」
再び男に襟元を掴まれ強引に体を起こされた――ジョシュアは素早く取り囲む連中を睨みつけた。声が出にくくてはがゆい。
すぐに今度は肩を蹴られた。倒れないように軽く、それでいて陰湿にしつこく何度も体を蹴られ殴られる。おかげで体の麻痺が少しずつ取れていく。
そこでやっと、両手足が縛られている事実に気づいた。麻痺が取れた時の予防線か。
しばしいたぶられた後、別の男が冷静に制止の一声を投げかけたため、一応収まった。それでもジョシュアはまたやられるかもしれないにも関わらず、連中を睨みつけることを出来ずにいられなかった。
彼らの暴力に、自分へ向けるには理不尽な怒りや憎しみを感じ取ったから。
「気持ちの悪い目だ。さすが殺人鬼と同じ血を引くだけのことはある」
襟元を掴んできた男が吐き捨てるように言い放ち、ジョシュアに侮蔑まじりの視線を向ける。そんな瞳が一斉にこちらを見下ろす――幼い子供ならば恐怖と想像を絶する困惑で、身動きも取れないだろう。
あの頃、毎日のように感じた感覚が蘇り吐き気を覚えた。
「誰なんだよ、お前ら」
弱い感情を押し殺し、強気な口調でジョシュアは聞いた。後方に立つ若い女は彼を刺し殺さん勢いだ。
「ふん。盗賊の厄介になっていただけに、威勢だけはいいようだな」
「まったく……おめえみたいなクソガキに、ここまで手間を取らされるとはな」
「卑怯だなお前ら――こんなクソガキ相手に、大の大人でよってたがって」
よせばいいのに、侮蔑の笑みを浮かべジョシュアは言い放つ。すぐに頭に拳がお見舞いされたのは語るまでもないだろう。
「このクソガキ!! 人でなしの血を引いてる分際でよくもそんな態度で――」
奴らが言わんとしていること、やろうとしていることが嫌でも理解出来る。
「それ位にしておけ! こいつは大事な人質なんだ」
「そうよ、忘れたの?」
後方に立つ不安げな女の声――その割には、とげとげしい感情が含まれていることを嫌でも感じさせられる。
「一体、お前ら何なんだよ……!」
頬に痛みが走りながらも、ジョシュアは強く悔しげに言い放つ。口の中に血の味がするのが不快でたまらない。
「何も知らなくてのんきなもんだな――てめえの兄貴のことなんか忘れて、好き勝手に生きてきただけのことはある」
「……兄貴のことなんか、お前らに関係ねえだろ」
兄貴がどんな人間だろうと関係ない。
弟だからって、同じ罪を背負ったかのように扱われるなんておかしいじゃないか。
ずっと、そうやって不条理な世間に対して怒りを抱き続けてきた。それは二年前のあの日より始まり、今も心の深く触れてはならないほど暗い闇に包まれた場所で、暴れ回るのを待っている。
「そう……自分は血のつながった兄弟というだけで、罪はないと言うのね」
それまでじっと、背後で他の女達と共に男達が少年をいたぶる様子を眺めているだけだった女の一人が、おもむろに前へ進み出た。
痩せて青白い顔をした小柄な女だ。年齢以上に老けて見え、生気など失ってしまったかのようにか弱い雰囲気をまとっている――その割には、目の前のジョシュアを見下ろす瞳は異様な光を放っていた。
それは人間が隠し持つ、最もどす黒い感情が為せる業か。
「私の子供にだって、何の罪もなかったわ……だけど、殺された。あんたの兄さんが、殺したのよ――!」
突然、しゃがんでこちらに目線を合わせてきたかと思えば、そのか細い腕からは想像も出来ない強い拳でジョシュアの体を叩いてきた。
「あんたの兄さんが殺したのよ! 私の子供には何の罪もなかったのに――あんたはそれでも自分に罪はないだなんて言えるの!?」
女は泣きじゃくり、悲鳴にも近い罵声でジョシュアに言葉をぶつける――周りの男達に取り押さえられても、女は暴れ回り怒りをぶちまけるのをやめようとしなかった。
「人殺し! 人殺し!! どうせならあんたが死ねばよかったのよ!! うちの子の代わりに、あんたが死んでくれればよかったのに――!!」
心を引き裂くほどの叫びだった。
ジョシュアはただ女を見るだけで、何も考えられなくなった。
「なんでうちの子なのよー……!! なんで、なんでうちの子まで殺したのよー……」
女はやがて泣き崩れ、男達に抱えられどこかへ消えた。残った女達が代わりにジョシュアの前に進み出て、彼女の代わりを果たさんとばかりに無抵抗の少年を睨みつけた。
思い出したと、機能していなかったはずの頭が女を見覚えのある存在だと理解する。そして連鎖反応の如く、目の前で自分に憎悪をたたえ見下ろす人々の顔が記憶に宿る誰かと、次々と共鳴していく。
皆、村の生き残りだ。
アムール村――二年前一人の殺人鬼の手により唐突に滅びをもたらされ、大勢の村人の命と共にこの世へ消え去った幻の村。
今では、かつての村はいわくつきの地として怖れられ、人々は今もこぞって呪いの土地と糾弾する。もう、あの場所に人々の営みはない。あるのはただ、想像を絶する惨劇の記憶だけ。
そして、その記憶を宿す当事者達は拭えぬ惨殺の過去を胸に、残酷な現実を生き抜くことを余儀なくされた――ジョシュアの人生も、二年前からそうやって時を刻み続けてきた。
ずっと、ずっと怖かったのだ。
あの村の生き残りというだけで好奇の目でさらされるなどかわいいものだった。
それ以上に恐ろしい現実の断片を、教会が斡旋する施設内でものの見事に教えてもらったから。
そうだ。
ずっと自分は、今目の前に広がるものから逃げ続けてきたのだ。
「かわいそうだが、もう逃げられないぜ」
ジョシュアの思考を読み取ったかのように、男が全く憐れみのない口調で言ってきた。
「お前を見つけるのは苦労したよ――ガキのくせして世渡り上手な奴だよな。さすが、ブレイクの呪われた血を引くだけのことはある」
「オレはオレだ。家族や血なんか関係ないだろ――」
台詞を言い終えた途端、今度はやつれた中年女の一人に平手打ちされた。唐突に起きた悲劇でやたら老け込んだ外見の割に、その手の力は強かった。
頬の痛みを介して、女の深い怒りを感じさせられる。
「被害者ぶるんじゃないよ……!! あの家族に命をもらった時点で、あんたも償う義務があるんだ」
名前を覚えている。ケイトと言ったか――恰幅のよく社交的な笑顔の絶えない肝っ玉母さんを地で行くような中年女性で、旦那を尻に敷き大勢の子供達を育て上げた。あの事件が起きる少し前、新しい孫が生まれて嬉しそうだった。
せめて孫だけでも助かってほしかったと、血の海に横たわる生まれたばかりの孫を抱く娘の姿を泣きじゃくりながら見ていた姿を、思い出した。
「本当言うとな、お前を身ごもったとメアリーベルが嬉しそうに報告した時、耳を疑ったんだ。おいおい、息子が人殺しおいて新しい命かよって――でもな、俺たちもまさかこんな目に遭わされるだなんて思ってなかったからな。精一杯祝福しちまったよ」
「今思えば、あの女には感謝してるわ。こうして私たちに行き場のない怒りをぶつける相手を残してくれたんだからね」
理不尽な憎悪に取り囲まれている。
ジョシュアは常軌を逸した事態をじわじわと思い知り、生命の危機を当然のように感じた。しかし反面、怒りを覚えてもいた。彼らの憎しみのはけ口になるなど、なぜそんなバカげた状況に付き合わなければいけない。
「なんだ、不満そうな顔してるな」
「その憎たらしい顔……殺人鬼の兄によく似てるわ。人を人とも思わないクズの目ね」
次から次へと、こちらを勝手に批判しいたぶってくる――いつまでも続きそうなネチネチした罵詈雑言を聞かされていると、不意にその流れを止める手が上がった。
雰囲気だけで、最も紳士的で冷静沈着を絵に描いたような男性だと気づかされた――とても他人を深く洞察しそうな瞳に射貫かれ、ジョシュアは周囲を取り巻く憎悪以上に居心地の悪さを抱かされる。
男は、じっと自身と見つめ合う少年の前に進み出る。おかげで一際丁寧な身なりを拝むことが出来た。皆一様にやつれ過去の傷を隠し切れない古びた衣服を身に纏い、目には深すぎる悲しみと憎しみを隠し切れない様子だと言うのに、彼だけは異様に浮いている。
「君の気持ちもよく分かる――君も充分『被害者』だ。両親を失い、兄は殺人鬼。我々同様愛する家族や仲間を理不尽に奪い取られた一人だ。しかし、どれほど考慮すべき事情があろうとも、我々は個人的感情として君を受け入れることは出来ない。それだけ、我々が受けた被害は計り知れない」
「分かってるわ……あんたなんか痛めつけたって私たちの家族は戻ってこないし、あの殺人鬼の復讐にすらならない」
「それでも俺たちは――やりきれないこの怒りを野放しに出来なかった」
「お互いの立場を受け入れるのは人として当然のことだ――しかし我々はそれを考慮しようにも、起こった悲劇の大きさに為す術がなかった」
これが、我々の出した答えだ。
紳士的な男はじっと、まっすぐな眼差しでジョシュアを見つめた。
「ブレイク家の一員として、罪滅ぼしをさせてやろう」
「罪滅ぼし……?」
「そうさ。お前は兄さんを捕まえるための囮になってもらうよ」
彼らに説明された。
ウイリアムス・ブレイクはあの村の生き残りを捜しては殺して各地を回っている――そのついでのように、村とは無関係な人間を惨殺しているが。その特性を利用し、彼らはブレイクを自分達の手で捕まえる作戦を実行に移すことにした。
愛する家族を殺された復讐のために。
そのために、ジョシュアが必要らしい。
「教会や騎士団なんぞ当てにならん。元々一度殺人を犯した奴を事実上の無罪放免にした連中なんだ。あの時奴の本性を見抜けなかったような連中に、逃げおおせる奴を捕まえることなど出来んさ」
それはオレたちだって同じだろう?
かわいそうなウィル。
村を守ろうと夢中になったばかりに、大切な親友があんなことに。
あれはあまりにも不幸な事故だった。彼は悪くない、厳罰になるなんておかしい。きっとやり直せるはずだ――そんなことを皆判で押したように言っていたくせに。
自分達のことを棚に上げて、被害者面かよ。挙げ句自分達の醜態を正当化して。
卑怯者、薄汚れた卑怯者――しかし、彼らにそんな暴言を吐く勇気と資格が、果たしてジョシュア自身にあるのか。
そんな彼の葛藤など知りもしないで、連中は今回の作戦を喜々として語って聞かせる。
ブレイクを捕まえ、この手で血祭りに上げたいと望む者は大勢いる――今ここに集う元村人達は、一つの決意を胸に過去と向き合う痛みと共に、同胞との再会を果たした。
デニスのように過去を捨て新たな人生を踏み出す者もいる中、彼らは過去の亡霊にされた愛する者達の無念を晴らす道を選んだのだ。
同じようにブレイクを憎む、ある人物の手助けを借りて。
「誰なんだよ、そいつは――!」
「それはお前が知る必要はない。お前はここでおびき出された奴の手にかかるんだからな」
「何だと……!?」
紳士的な男が、ジョシュアに憐れむような目をよこした。
「君も子供だが分かっているだろう。どれほど同じ被害者だと主張したところで、殺人鬼の家族であるだけで受ける苦痛は計り知れない――ある意味君の方が、よほど我々より辛い日々を送ってきたのではないのかね?」
男に寄り添い、同じように別の女が憐れみの目を向けてよこしてきた。まるで自分達はジョシュアの苦しみを理解し、常にその身を案じ心優しく憐れんでいたと誇示するかのように。
「だから……別に死んでも構わないだろうってわけか?」
「そう思われても仕方がない――しかし、この世にはある意味死よりも辛く過酷な現実があるものだ。我々はそれを身をもって教えられた。君が過去を完全に断ち切り別の人間として新しい人生を歩むのは難しいだろう。被害者である我々にも出来なかったのだから。ましてや君はあのウイリアムス・ブレイクの『弟』――血のつながった正真正銘の『家族』だ。君はまだ若い。この先長い人生、一生その事実を隠し通すことは厳しいと思うが」
我々は、あまりにも重過ぎる過去を背負わされた。きっと過去は、これから生涯我々を見逃してはくれないだろう。
「だったらせめて、兄の罪を償わせる手助けをすることが道理だと思うんだが? ――どのみち安穏な未来など許さないのは気の毒だが、代わりにその命をかけ、全ての人々の無念を晴らせばきっと、人々は何の気兼ねもなく君の魂が神の御許へ向かうことを祈ることが出来る。何よりも君のためだ――教会などには決して出来ない芸当だ。君は自ら殺人鬼と戦うことでその罪を浄めるのだ」
「くどいこと抜かすんじゃねえよ。自分たちの復讐のために死んでくれって素直にお願いしろよ」
さすがに腸が煮えくりかえったジョシュアは、ふてぶてしく言い放つ。この紳士ぶった男は思った以上に卑劣な奴かもしれない。
「ふん。ブレイクの血を引く人間にそんな礼儀をわきまえる必要なんかないわ」
「むしろ感謝してもらいたいな。俺たちは貴様を地獄のような一生から解放してやる手助けをするんだからな」
「……悪いな、オレは自分の運命に絶望はしても、この世を地獄だなんて思ったことは一度もねえ」
「そうか。ずいぶん前向きに生きてきたのだな――しかし、我々はそうなのだ。君の兄のせいで今も死にたくて仕方がない」
紳士的な男は、ジョシュアの胸を打たれてもおかしくない『悲惨な半生を送った少年の主張』をたやすく両断した。
「でも死ぬなんてまっぴら。せめて奴をみんなで血祭りに上げるまで死んでたまるもんですか」
一体どんな奴なんだ。
心に深い傷を負った村人達をそそのかし、一人の少年を捕まえいたぶらせ、その命を無価値なものとして何の抵抗もなく、生け贄として捧げる真似をさせるなんて。
とんでもない奴だ。しかし、そんな悪趣味で卑劣な真似をすることに何の躊躇も抱かない彼らを目の前にして、いかにウィルの犯した罪が深いかを改めて思い知らされる。
きっと、この作戦とやらを思いついた奴も――いや、とジョシュアは頭で激しく否定する。
こいつらはただの卑怯者だ。
無抵抗の人間を捕まえ理不尽な憎悪をぶつけ、自分達の不幸を勝手に押しつけはけ口にしている愚かな、ただの弱い連中なのだ。
オレは、オレは絶対にこいつらの思い通りになんかならない。
あいつにみすみす、殺されてたまるか。
あいつを捕まえるのはオレだ。
オレは、あいつに殺されるんじゃない。
捕まえるんだ。捕まえてやるんだ。
ジョシュアは心の奥に生まれ出た大きな決意を抱きながら、腹から湧き出す怒りや憎しみをこらえた。
そして後ろ手に縛られた両手をそっと、気づかれないように動かす。両足も同じように、丈夫な縄で頑丈に縛られている。
何とかして、まずは縄を解かなければ。
目の前の連中が次の行動を起こす前にと、ジョシュアの頭はめまぐるしく回転を続けていた。
*
彼らは一体、何をしようというのだ?
密かに追跡を試みた――そしてすぐ、彼らの常軌を逸した目的を知ってしまった。
いけない。そんな真似をさせてはいけない。
愛する者を奪われた苦しみなど、当事者でなければ計り知れないだろう。その悲しみは計り知れないほど深く、そしてそれ以上に深い憎悪を得てしまうことなど、珍しいことではない。
理解出来る。
なぜなら、自分はその現実を思い知らされた身なのだから――だからといって、簡単に彼らを止められるなどとは思っていない。
ただ、純粋にやめてほしいだけだ。
それはただの自己満足だ。彼らはきっと自分を許さないだろう、最悪、自分もまた暴力の連鎖に巻き込まれることだってあるだろう。
だったらそうなる前に、全力を持って止めるだけだ。今さら誰かに憎まれ、我が十字架を糾弾され後ろ指を指される人生を怖れる必要など、ないのだから。自分にそんな資格などないと、わざわざ後ろ向きになる余裕さえ今はない。
考える時間はあまりない。まずはどうやって誰も傷つけずに上手く出来るか――そんな都合のいい方法皆無だと理解しているが、そう願わずにいられない。
きっと自分は、まだ誰かを傷つけることを極度に怖れているのだ。
一度起こした過去は消せないというのに。
影に気づいた。
自分以外にも彼らを監視している別の存在がいるのか。いや、もしくは彼らをまとめる負の存在か。だとすれば憎むべき黒幕。
すぐに、戦慄が走るのを感じた。
体が動かない。まるで想像を絶する恐怖をこれから体験することを肉体が先に感じ取ったかのように、いざ動きだそうとした足はおろか、首さえも動かせなくなった。
これは、まさか。
まさか、あれは。
魂が今まで体験したことのない恐怖を嗅ぎ取り萎縮していく。にも関わらず、消滅さえしていく気がした自我を奮い立たせ立ち上がらせることが出来たのは、自分しか知りうることの出来ない大いなる奇跡の一種か。
もしくは、何度も愛する家族を目の前で焼き殺されたことで生み出され、望まぬ形で手にすることの出来た『強さ』がそうさせたのか。
それならばきっと、家族が見守ってくれている。家族が力を与え、悲劇を止め罪なき子供を救うことを祈っているのだ。
だから、救わなければいけない。
自分が、やらなくてはいけないのだ。