運命の出会い
ねえ、すっかり月日が流れてしまいましたが、覚えていますか?
初めて、人を好きになった時の気持ち。
わたしは、そんな気持ちに包まれて幸せそうだったあなたの姿を、今でも昨日のことのように覚えています。あなたが今まで見せたことのないような笑みを浮かべる様子を、隣でずっと見ていたんですから。
情けないことですが、わたしにはそんな気持ち分かりませんでした。なぜなら、恥ずかしいことに人を好きになったことがないからです。病弱で家に閉じこもりがちだったことが理由かもしれませんが、もっと大きな原因があったのだろうと思います。今さらここで考える意味はありませんが。
甘酸っぱいものだと、人づてに聞いても分かりませんでした。そうですよね。誰だって、一度その身を持って体験しなければ分からないことってありますものね?
それでも、わたしは漠然としながらも、あなたがとても幸せそうだなと思い、見ているだけで勝手に微笑ましい気持ちにさせてもらいました。あの人たちに冷やかされて、あなたはいつも怒って子供っぽく反論していましたね。そんな様子でさえも、幸せそうでうらやましくなるほどでした。
思えば、あなたは本当に幸せだったのでしょうね。
ありふれた、何の特徴もない平和で小さな村の一つに住んで、当たり前のように泣いて笑って、そして初恋をした。
それだけでよかったのに。それ以上の幸せを望まなかったのに、どうしてなんでしょうね? どうしてあなただったんでしょうね。今でも代わりになりたいという気持ちが消えません。
ただ、あなたのおかげで、わたしは人を愛することの素晴らしさをあらかじめ教えられていたのだろうと思います。そしてあなたを失ったことでいつの間にか忘れてしまった。
こんな気持ち、初めてです。それにあなたと別れて以来、こんなにも幸せな気持ちになれるとは思ってもいませんでした。
これが生きるってことなのでしょうか。
正直、後ろめたさもあります。このままこの気持ちに我が身を全て捧げてしまい、そのままあなたのことさえも忘れてしまいそうで、とても怖いです。
そんなのは嫌です。耐えられません。
だからわたしは、こうしてあなたに手紙を書くことで自分を取り戻すことを忘れないようにしています。何だか今度は、あなたを言い訳に自分を正当化しようとしている自分の卑しさを気づかされ、嫌気が差します。
だけど、そんな気持ちとはもうこれっきり。こんな暗い感情を持ったままあなたと彼に接しているなんて、大切なあなたたちを冒涜してしまうことになりますもの。
だから、わたしは少しずつ明るく生きていきたい――そんな些細な決意を抱かせてくれたのは、彼でした。
あなたを失ったわたしが、新たに与えられた希望。暗黒にも等しい今のこの現実に、一筋の光を与えられたと感じています。
彼は、わたしの命を救ってくれました。
あの時――全てに絶望し、疲れ果て、己の死さえも正当化する勢いで、わたしは両手を広げあの高い塔から飛び立とうとしました。
それを、偶然通りかかった彼が見つけ、止めてくれました。人に見つからない自信があったのに、やはり人は必ずどこかで誰かを見ているものなのでしょうね。
わたしの体が彼の力強い腕に抱きかかえられ、引き止められました。彼と共に地面に転がった時痛かったのですが、もしあのまま身を投げ出していればそれ以上の苦痛が待っていたのでしょうね。
それでも、あなたが受けた苦痛に比べればどうってことないのでしょう。あなたの受けた苦しみは、きっとその程度では知ることは出来ないのでしょう。永遠に。
正直、なんて余計なことをするんだと怒り狂いました。わたしは我も忘れて彼に食ってかかり、暴れ回って彼を傷つけかねない状態となりました。それを彼は、わたしを冷静に諫め、どんなことをされようとも受け止め、やがてわたしも我に返りました。
彼は、当然のことをしたのです。誰だって目の前で誰かが自殺しようとすれば、慌てて止めるのが人として当たり前の行いです。
それでも、わたしには信じられませんでした。
いつも、物静かでも明るく振るまい、周りから真面目で信頼されていた彼の姿に、わたしは違うものを見ていたからです。
笑ってみせても、その目は笑っていない。いつも無理したような微笑み。誰も気づいていなくても、いつも悲しそうにしていた暗い瞳。
それはたまに、とても黒いものが宿っていたようにも思えました。しかし彼の過去を思えば仕方ないことなのかもしれません。
彼はとても、悲しい運命を与えられた人でした。わたしと同じ。いいえ、もっとひどいものなのかもしれません。でも同じように、突然理不尽な悲しみと絶望を与えられ、心に一生消えることのない傷をつけられた。
だからこそ、わたしはあまり彼と関わらないようにしていました。避けてさえいました。改めてあなたを失った悲しみと現実に向き合わされるような恐怖を感じ、彼の存在を疎ましく思ってもいました。今思えば、何て恩知らずなことをしていたのでしょうね。
こんなわたしを、彼は身を挺して助け出してくれたのです。こんなわたしに関わってしまえば、彼は自分の心の傷をえぐられることはおろか、様々な厄介事を背負う羽目になるというのに、彼は本当に勇気のある人です。
とても強くて、素敵な人。
この出来事には、きっと大きな意味があるのではないかと勝手に信じています。
だって、今とても嬉しいから。
命を救われただけでなく、わたしの苦悩に初めて気づき、ただ優しく受け入れてくれた初めての人だから。今まで出会ってきた偽善者連中なんかとは違います。
おそらく、今わたしの心を理解出来る人は世界中で彼ただ一人でしょう。こう書くと大げさで、初めて人を好きになって浮かれきった小娘の戯言だと非難されても文句は言えません。
それでも、この気持ちには正直でいたいと思います。だから大切なあなたにだけ打ち明けることにしました。この気持ちは大切なものだから、大切なあなたには伝えたかったから。
これから、わたしは立ち上がります。
彼が隣にいるから、わたしは負けません。
わたしは、わたしのままでいられるためこの世界と戦います。
だからどうか、応援していて下さいね。どんなに人を好きになったって、わたしの心にあなたは消えたりしないから。
だからずっと、わたしの思い出の中で笑っていて下さいね。
*
どうして、こんな状況であの記憶が頭をよぎるのか。
現実逃避でもするつもりか、なんて愚かな――マーサは己を頭で叱責し、そして罵倒し軽蔑した。
二年前から始まった悪癖だ。母と共に世間より激しい誹謗中傷を受け、やがて洗脳されるように、まるで現実から逃げるように頭の中で代わりに自分自身を傷つけるようになった。そうするようになったおかげで、他人からどんな仕打ちを受けようとも平常心を保てるようになった。わずか二年の間だけだというのに、結構な精神的進歩だと密かに自画自賛している。
それでも、どれだけ強くなったと思い込んでも――この記憶からは逃れられなかった。
母はパトリシア・クロフォード。
あの『アムール村封印解放事件』――別名、『アムール村少年惨殺事件』を起こし世間を震撼させた被疑者少年の更生に尽力し、その功績を高く評価された人物。
教会の誇り。
水面下で続く騎士団との長きに渡る権力闘争において、教会にひとときの優勢をもたらしたことで、教会関係者は彼女を英雄扱いした。持ち上げるだけ持ち上げて、自分達の手柄を誇張するため騎士団だけでなく、世間にも教会という絶対的な権力と存在感を持つ神の代行組織の意義を示した。
そんな周囲の思惑に流されず、彼女が彼女のままで居続けられる意思の強さを持っていたのがせめてもの救いだったのかもしれないが、いずれにせよ無意味なことだった。
そう、何の意味もなかった。
世間の激しい非難は想像を絶する力を持っていた。それだけ失われた命が多すぎたと口で嘆くのは簡単だろうが、この感覚はやはり当事者でなければうかがい知ることは出来ない。わざわざ知ろうとする必要性などないと思うが。
教会に迷惑はかけられないと、母は教会の職を半ば放棄する形で辞し、同じく事件の影響で別の職を失った父と二人、一人娘を守ろうと人目を避ける暮らしを始めた。しかしどれほど辺境の地へ逃げおおせようとも、執拗に人々は一家を追い誹謗中傷の的とした。それは両親だけでなく娘の心を著しく引き裂くこともたやすかった。
そして、母親への絶対的な信頼も。
あの日の前日、マーサは母に自分の思いをぶちまけた。幸せだった生活が、全て母のせいでぶち壊されたと泣き叫んだ。止めに入った父にも食ってかかった。どんな状況に置かれようとも、夫婦の絆を決して壊さないほど強い精神力を持った両親がかえって悪者に見えた。惨殺された村人への後ろめたさもあったのかもしれない。きっと同じ目に遭うのが怖かったのだろう。
今もまだ、母や父に言い放った自身の罵詈雑言が耳にこびりついて離れない。
しかし、それをぶちまけたことについて未だに何の罪悪感を抱いていないのは、一体どれほどの罪なのだろうか。
せめて、母の亡骸を前にして――二度と、昨日の出来事を謝罪する術を奪われたと嘆き悲しみ、絶望する位はしてもよかったのに。
その時は、死への恐怖で頭がいっぱいだったのだ。仕方がない。
今も目に焼きついて離れない。
暗黒をまとった、母の血をまとった男の姿。まるで地獄より現れた使者の如く、それは彼女を地獄へと連れ去る役目を果たすために、そこへ現れたのだろうか。
そんな妄想など抱くのは簡単だ。
あの顔は忘れない。
どれほど不可解な闇をまとい、その身をごまかそうとも、その瞳に宿りし光はごまかしようがない。
決して忘れたりはしない。
どれほど常軌を逸した殺意と『力』に取り憑かれたとしても、それが『悪魔の所業』だと人々が嘆き怖れようとも、その目を間近で見た者の一人として、マーサは決して騙されたりはしない、とあの日誓った。
それは母を惨殺された怒りと憎悪よりも深く大きな決意として、少女の心へ宿った。そのせいか母の密葬と埋葬の時も、最後まで涙を流せなかった。父や周囲の人々は母の死とその凄惨な亡骸を目の当たりにしたせいで泣くことはおろか、感情さえなくしてしまったのだと結論づけたが、残念ながら違う。
自分でも驚くほど自分の人格が冷酷になったと気づいた時、むしろそれは都合がよかった。
「マーサ、大丈夫ですか」
「――平気よ。それより早くあいつを捜さないと」
彼と再会した時、ただ理不尽な憎しみしか抱けなかった。それでも彼が自分を思い出してくれた時――少しだけ、嬉しかったような気がした。
そんな感情はすぐつかの間の白昼夢だと切り捨てた。今隣にいる、この人のいいだけの不愉快な男が教会の監視役だという事実に不快感を抱くこともこらえ、まっすぐな足で歩き続ける。
追い続ければ、必ず奴とまた対峙出来る。
その時は今度こそ、今度は貴様を血祭りに上げてやる。
正直な殺人鬼の目をした、悪魔のふりをしたただの極悪人め。
人を殺す快楽に取り憑かれただけのクズめ。
「また――そんな顔をしていますね」
実に丁寧な口調で心配したようなフォスターの声が聞こえた。
「どういう意味?」
意味はないが、せっかくなので顔を見て返答してやる。
「いえ……別に深い意味はありませんが」
彼女の少女らしならぬ冷徹な眼差しに怖れをなしたか、フォスターはそれ以上の言葉を避けた。
いつもそうやって、余計なことばかり考えて――彼が言わんとしたこと位理解出来た。
やはりまだ子供だから、どれほど背伸びをし過酷な旅路に身を置き、自ら残酷な世界に入り込み覚悟を抱いたつもりでも、そこに子供らしい『心』は残っているのだ。
弱さとか、そんな感情だってやはりあるのだ。やはり子供だから、少女だから。
くだらない。
そうやって大人は子供に幻想を抱き、大勢の人々が血祭りに上げられた。ブレイクは生まれるべくして生まれた存在かもしれない。
殺すのは皆『悪人』――その考えには個々人の主観や客観性を考慮し、意見が分かれるだろうが、マーサの見解は元から変わらなかった。
母は殺人犯を結果的に野放しにしたのだ。その考えは変わらない。殺すのならいくらでも殺せばいいとさえ思う。
どうせ皆、自分達が何も悪いことをしていないと被害者面しておめおめ生き残ってる連中ばかりなのだ。まあ最も、人は多かれ少なかれ罪人として生きているなどという、反吐の出るきれいごとを言うつもりはないが。
ただ――こうして、奴に憎しみを抱き、奴を捕まえることに執念を燃やしている時点で、自分は母が殺されたことを納得する以上に、母を殺された恨みを抱いていられるのかもしれない。
どうでもいい話だ。
マーサはあの日、暗闇に包まれた居間の中央、母の惨殺死体の側に立つどす黒いブレイクの姿――その暗黒に包まれたわずかな素顔と、姿を消したその弟の顔を重ね会わせた。
幼い頃から見ていた顔と変わらない。
二人共、兄弟らしく本当によく似ていた。
*
悪寒が走った。
すぐに気づくはずなのに、頭は現実を受け入れることを激しく拒否した。
しかし、そんな抵抗など奴の抱える闇の力めいたものの前では無意味だったのか。
「ひっ――!!」
女達が震え上がる。男達も何人か臆病な醜態をさらしかけるが、すぐに平静を保ち勇敢なる戦士ぶった表情と姿勢を繕う。
「来たな、殺人鬼」
紳士ぶった男はそれでも冷静に、この場所に迫って来る黒い影を感じつぶやく。
「怖がることなど何もない。我々にはあの方の力がついているのだ――手順通りに始めろ!!」
「はいっ」
何をするつもりだと、ジョシュアの叫びは虚しく無視される。この紳士ぶった男はずいぶんと仲間のリーダーとしてえらく信頼されているのだろうと感心させられるほど、彼らの行動はきびきびと素早かった。
実に素早く、ジョシュアを残し全員両端の壁際に張りつくように立ち尽くした。そこで初めて、魔法陣がジョシュアを中心として部屋いっぱいに描き出されていたことに気づかされた。
床一面に、とても神聖で、それでいてどこかおぞましい何かを感じさせずにはいられないようなものを感じた。意味深な銀に輝き宝石のついた置物めいたものもそれに合わせて規則的に点在していた。
よからぬ儀式を、思わせる。
途端、薬が切れかけていたはずの体がまた動かなくなった。
「……!?」
「案ずることはない。薬と違ってよく出来た仕組みだ。苦痛がないだけで感謝するんだな」
紳士ぶった男は冷たくジョシュアを一瞥すると、後は何事もなかったような冷静な様子で視線を迫る闇の気配が現れるであろう扉を見やった。周りの連中もそれに続く。
体が石のように硬い。身動きが取れないなんてものじゃない。戦慄がどんどん走っていく。
「――っ!!」
声も当然出せない。再びあっという間に新たな変化に支配される羽目になった。せっかく紐がゆるんできたのにと悔しがることすら愚かしい。
ちくしょう。こんなしみったれた部屋でこんな連中に囲まれたまま、何も出来ないなんて。
魔法陣が描かれていることもそうだが、部屋はひどく異様なものだと改めて気づかされた。
「ふふ、来るな」
紳士ぶった男はジョシュアにしてやったりの笑みを浮かべる。一体どんな自信だ、こんなくだらない部屋で集団で閉じこもってる分際で。
しかし、そんな苛立ちを抱く余裕はすぐになくなった。
どうして、こんな恐怖を抱かなければならないのだろう。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
部屋が一気に不穏な気配に支配された。重たい、怖い、気持ちが悪い。
二年前、あの夜の記憶が突然鮮明なものとなって蘇ってきた。
*
穏やかな静寂が、夜の闇を支配していた。
いつもと変わらない、眠りにつくには実にちょうどいい安らかな時間。
まるで世界中の誰もが、示し合わせたように眠りについているのではないかと、ジョシュアは当たり前のように思い込んでもいた。
だって、こんなにも静かな夜だもの。みんな幸せな気持ちで眠りについてるに決まってる――他の子供と違い唯一夜更かしをしないことを両親に褒められた時、そんな言葉を喜々として口にした記憶が、やけに鮮明なものとして残っている。
なんて純粋な子供だったのだろうか。
物心ついた頃から、善人ばかりが住んでいるようなちっぽけな村が隠し持つ秘密を知り、やがて心を激しく乱されその後の人生を決定的に転落させたっておかしくなかったのに。
気づいたら、『愛』といったまやかしに丸め込まれ、現実を厳しくも根は慈愛に満ちた女神の住まう楽園だと勘違いさせられたのだ。
堕ちた方が、幸せだったのかもしれない。
夜中に目が覚めることなんて初めてのことだ――などと戸惑う余裕はなかった。
すさまじい女性の悲鳴で、突然意識が覚醒したから。
「!」
目を開けたまま、一瞬悪夢から目覚めたのだと自己完結しようとした。しかし、そう思わせない異様な雰囲気を感じ取ってしまった。
そしてすぐ、上がった悲鳴はポーリーンのものだと気づかされた。
ポーリーン。
兄ウィルの幼馴染みで、村に戻ってきた兄を以前と何も変わらない幼馴染みだと受け入れ、彼の人生を支える大きな役割を果たした存在。
長い年月は、二人に友情を超えた感情を抱かせるには充分だった。彼女は兄を一生、最も素晴らしい形で支えることを選んでくれた。
とても仲むつまじい夫婦と、村人は祝福した。やがて二人の子供が生まれ、幼い叔父としてジョシュアは彼らと交流を深めた。
もうすぐ、下の長男ステファンが六才になるはずだった。いつも弟のようにかわいがっていた、大切な甥。もちろん、長女のステファニーもかわいがっていた。妹がいなかった分、余計に。
何かが起きている――よく分からないけど、何か恐ろしいことが起きている。頭で考えるより早く、体は素早くベッドから抜け出て両親の眠る寝室へと向かった。
「ジョシュア――!」
ちょうど両親もしっかりと目覚めていた。母が駆け寄り、怯える息子を抱きしめる。父は二人に決して家から出るな、隠れているんだと命じ単身外を出た。
まもなく、大勢の人間の絶叫が次々と聞こえてきた。
なぜ。助けて。逃げろ。怖い。
大人の悲鳴と怒号。女子供の泣き叫ぶ声。
それはやむことを知らない旋律の如く、神聖なる静寂を保つ村を瞬く間に支配した。
ジョシュアは母と二人、ただ訳の分からない恐怖に怯えた。現状を理解せずとも感じることだけは出来る、人の持つ本能的な恐怖心に、体が強張った。
しかし母は強い生き物なのか――怯えるだけの無力な息子を物置に隠し、決してここから出てはいけないと命令してのけた。
従うしかなかった。
情けなく一人になるのが怖いと、扉越しに母の名を叫んで注意されて、すぐ大人しく静かになった。
妙な予感があった。
母を一人にしてはいけない。どんどん母の気配が遠くなる。
行かせてはいけない。一緒に隠れていようと言いたくても、怖くて言えなかった。全て幼いが故に抱え込む弱さによって、それは無残に打ち砕かれた。
乱暴に家の扉が開かれる音がした。あまりにも大きな音で、そのまま扉が壊れてしまったのかと思い、恐怖で耳をふさいでうずくまった。
たった今まで、わずかな勇気を引っ張り出して母を守ろうとした果敢な少年は、しっぽを巻いて逃げ出した。
ジョシュアは現実から逃げた。決して動いてはいけない。声を出してはいけない。何も考えてはいけない。
ここにいると、自ら証明してはならない。
遠くで母が悲鳴を上げるのが近くで聞こえる。それさえも強く両手で耳をふさぎ黙殺する。
呼吸すらしない勢いで、ジョシュアはその場からいなくなった。
しばらくして、辺りに異様な静けさが漂っていることに気づき、おそるおそる意識を現実へと引き戻した。
異常な静けさだったが、静かになったことで妙な安心感を抱くことが出来た。
母はどうなったのだろうかと、今さらな疑問を抱きながら、ジョシュアはそっと、扉を開けた。
そこには、母の無残な死体が転がっていた。
あまりに無残過ぎて、それが本当に母なのかどうか確信が持てないほどだった。
そしてすぐ側に――血まみれで不気味な笑みを浮かべた黒い影が立っていた。
大きな暗黒の塊が、その影を支配していた。
その手にはしっかりと、おびただしい血がしたたる長い棒が握られていた。
愛する母の血だと、ぼんやりとジョシュアは思った。
*
その時と全く同じ様子で、黒き殺人鬼はそこにいた。
周囲には血の海――すぐに、自分が意識を一時的に失っている間に周りにいた連中が一人残らずやられたのだと、ジョシュアは気づいた。
あの時と同じか。
母をみすみす見殺しにした二年前のあの日と同じように、現実から逃げて人を間接的に殺してみせたのか。それも今度は大量に。
「く、くそ……」
囚われたジョシュアのすぐ側に転がりつつも、かろうじて息のある紳士ぶった男が悔しげな様子で黒を纏う影を見上げている。
彼らは、復讐を果たそうとした。
そのためにある協力者の手を借り、黒き殺人鬼をおびき寄せた。
自分達の手で愛する者の仇を取るため。
その結果がこの様のようだ。この男以外、見事にやられている。
殺人鬼の力は健在のようだ。手口も同じ――今も変わらずその手には、あの時と同じ棒状のものが握られている。それは新しい血を吸ったことで赤く輝き、忌み嫌われる力を自ら発してみせているようだ。
「……兄貴」
魔法陣の力などすでに消失している――黒き殺人鬼がこの部屋に現れ、罠にかけるようにその力が発動され、囮にされたジョシュアだけでなく足を踏み入れた黒き殺人鬼の動きをあっという間に封じた。すぐに異変に気づきもがく黒い影の様子は、実に無様で見物していた村人が嘲笑するようだった。
しかし、そんなたやすくカゴの中の鳥に出来るなどと、果たして彼らは本当にそんなことを信じていたのだろうか。
黒き殺人鬼は兄と呼ぶ弟を無視して、紳士ぶった男に最後のとどめを刺した。返り血がジョシュアの顔にかかった。
手口も変わらない。苦しむ人間をあざ笑い、棒状の凶器でひたすら殴り続ける。相手が苦しみの中で死に絶えることに、喜びを見出しているのだ。
それが黒き殺人鬼の正体だ。それがかつて、愛する妻と子に囲まれたよき父であり夫であったという過去を持つ事実など、誰が無条件に信じてくれるのか。
むしろ、一二で初めて殺人を犯した事実の方を、皆喜んで信じてくれるだろう。何せその時と全く変わらない手口で、この殺人鬼は人を殺し続けているのだ。
「マクレインめ」
紳士ぶった男は死の間際に一言だけつぶやき、あっけなく絶命した。凄惨な最期を迎えた割にその口調はひどく冷静だった。
まるで黒く殺人鬼の冷酷さが伝染したかのように――その素顔を見ることは叶わない。なぜなら、それは文字通り黒い影に覆われて見えないのだから。
「……満足かよ?」
また、殺したんだな。今度は殺し損ねた村人を大量に殺してみせた。
せっかく生き残ったのに、自ら殺されたようなものだと、世間は批判するだろう。こんな目に遭う位ならわざわざ殺人鬼などと関わる必要などなかったのに。
だったらどうすればよかったんだよ?
逃げたって、結局こうやって追いつかれるだけじゃないか。
「こうやって……死ぬまでオレたちを追いかけ回すつもりかよ?」
一人残らず殺すまで。
ジョシュアはあの時とは違った眼差しで、兄であるはずの黒い影を見つめた。
どうして、顔を見ることが出来ない?
かろうじて口元は確認出来る。兄ウイリアムスが持っていた口元、顎。それがいまいましく歪んでいる。
笑っていると嫌でも気づく。
「楽しいのかよ? 人を殺すのが――そんなに楽しいのかよっ!?」
ジョシュアの目が涙でにじんだ。悔しくて、腹が立ってしょうがない。
どうして、顔を見せてくれない?
その黒い影は何なんだ?
体はまだ動かなかった。それでも思い切ってつかみかかってやりたいと思った。自殺行為だとしても、構わなかった。
「何とか言えよ……」
二人きりだった。周囲の人間は全員殺されている。自分の命は風前の灯火かもしれない。
あの頃のように。
それなのに、兄は殺さないまま自分の前から姿を消した。母の死体と二人きりにされ、呆然と外でまだ生き残っていた村人が絶望の断末魔を上げるのを聞くに任せた。
二度目は許さないのだと気づいた時、すでに兄は眼前に立ち棒を大きく振り上げていた。
やってみろよ。
自分の無様な現状など忘れ、ジョシュアは挑戦的な瞳で暗黒に包まれた兄を見上げた。
黒い影をまとうその顔の全体像が、わずかに見えた気がした。
その目は、とてもひどい悲しみを宿していた。
*
助けなければと頭で思う前に、気づけば体は動き出していた。
「危ない――!!」
ただの護身用と口で語るにはいささかな大振りな剣を素早く鞘から抜き、男の振り下ろす棒を止めた。想像以上に激しい力が両腕に負荷として染み込んでいく。一瞬腕が取れるのではないかと思えたが、惑わされなかった。
なんて、すさまじい力だ。
これが、これが『黒き殺人鬼』と呼ばれる者の力か。だからこの力を持ってして、大勢の人間を血祭りに上げられたのか。
なんて恐ろしいんだ。そんな存在に、自分はこんな形で立ち向かっているなんて――ふと、もう一人の冷静な自分が、そんな自分をあざ笑っている感覚を覚えた。
お前に、殺人鬼を怖れる資格などあるのか。
黙れ。あれは事故だったんだ。
そうだな。だからお前は許してもらえたんだ。幼く未熟、ただ純粋に家族を守りたかっただけだ。だから愚かなことをしてしまったのだと同情されたから、のうのうと幸せに暮らすことが出来たのだ。
違う。俺は反省した。罪を償って生き続けようと誓ったんだ。だからその後の人生は家族のために捧げようと決めたんだ。
詭弁だな。お前は卑怯者の偽善者の鑑だ。人殺しの分際で人としての権利にしがみつき、義務と正当化し、挙げ句善人として人々に慕われようと画策して――だから殺されたんだ。お前のその反吐の出る偽善の道具として利用した愛する家族が、一人残らず皮肉にも焼き殺されたのだ。あれは報いだったんだよ。
違う。違う。家族の死に自分は関係ない。
じゃあ、あの一家の死と同じことだったと言い訳するのか? お前は何も分かっちゃいない。やっぱりお前はゲス野郎だ。反省なんかしちゃいなかった。更正だなんて抜かしやがった教会が生み落とした悪の手先だ。神の家から吐き出された邪悪な極悪人だ。
やめろ。やめろ。
俺は悪くない。
僕は悪くない。
悪いのはお前だ! お前は人殺しの悪党だ。人を殺しておきながらその罰から都合よく逃れ、殺された人間が手に入れるはずだった幸せの世界でぬくぬくと生きている。
死んだ奴は戻ってこないのに。
殺した奴はそうやってやり直せるのか。
本当に自分の罪を認めるんだったら、どうして自分の命を神にでも差し出さなかった?
どうして、自分を守ってくれる家族にすがりついた? 家族との愛で自分の罪を帳消しにした卑怯者。
家族は悪くない。何の罪もなかったんだ。それなのにどうして。
お前の親はお前を生み落とした元凶だ。それによく考えてみろ。
お前が殺した人間にこそ、何の罪もなかったじゃないか。
声がもう一人増えていることに気づいた。
「――!?」
咄嗟に隙をついて、ブレイクから離れた。
互いに荒い呼吸で声も出ないと言った様子で、肩を激しく上下させ片膝をついていた。
そして気づいた。
黒き殺人鬼の身を覆っていた黒い影が薄れているのが。
「……兄貴?」
予期せぬ事態に遭遇したかのように、囚われていた少年が困惑の声を発した。すぐに視線を戻すと、信じられないものを見たような気持にさせられた。
黒い影が取れ、その顔の下半分を露出させていたのだ。あれほど深かった『闇』が、まるで聖なる力によって浄化されようとしているかのように。
思わず、一瞬そう思ってしまった。
泣いていたのだ。
ウイリアムス・ブレイク――かつて、まだ幼い少年だった時、親友だった村の少年を殺し、やがて社会復帰を果たし立派に成長し、今度は故郷の村を全滅させた、史上最悪の殺人鬼。
そんな存在が、涙を流し、純粋な子供のように肩を震わせ始めた。すぐにそれは嗚咽へと変わり、ただ悲しみにのまれる存在へと様変わりした。
その手に握られた血まみれの棒と、まだ体の半分を覆う闇の影さえなければ、とても無様だが美しいものを見ていると錯覚してしまったかもしれない。
「……どうしたんだ? 一体」
思わず声をかけてしまった。普通なら考えられない行為のはずだが、そんな発想を抱く感覚はなかった。
ただ、今目の前で涙を流す存在を純粋に憐れみ、優しい心で接してみようと思っただけだ。
それは人間として当然の行為だ。悲しみにくれる存在に救いの手を差し伸べる。自分もそうやって救われたのだ。だから――自然と体が立ち上がり、彼に近づいていた。
その手が血に染まり、闇に侵食されることを構わずに、自らその手を掴んでやろうとした。
「――!!」
涙は一瞬のうちに蒸発したかのように消え失せた。そして即座に、萎縮しつつあった黒い影がその身覆い隠し、再び殺人鬼としての力を与えたようだ。
しかしその力を正しく活用することなく、ブレイクは大きく跳躍二人の前から姿を消した。
あまりにも一瞬のことだった。手を伸ばすことさえ許さないまま、黒い影はその場から逃げ去った。
残された二人に、死体の山を残して。
「……」
今まで何が起きていたのか、それさえも分からないまま、ジョシュアはしばらくぼうっとするに我を任せた。
「君――大丈夫かい?」
はっと我に返ったかと思えば、自分に駆け寄り気遣う謎の男を異質なものを見るような目で見つめてしまった。
今周囲に広がる惨状を生み出した殺人鬼に手を差し伸べようとしたのだ――自分のことを棚に上げて、男へ憎悪にも近い感情を理不尽に抱いてもいた。
そんな真似をしたから、あの殺人鬼を野放しにして大勢の人間を血祭りに上げてしまったんだ。しかし、あの涙は一体?
「ジョシュア!!」
「!」
彼女の声を聞いた途端、兄が姿を消してからずいぶん長い時間が経ったような気がした。
*
怖い夢を見たような――ずっとそんな感覚がつきまとって離れない。
かと思えば、それがとても心地良いものだと感じている自分に気づく。
そして忘れる、恐怖と戦慄。
気づけば全ての狂気を歓喜と認識し、絶望を歪んだ希望にすり替える――それが殺人鬼、ウイリアムス・ブレイクの真実だとでも教え込むように。
愛する人々を血祭りに上げ、信頼してくれた村人を皆殺しにした男。人々は彼を人類史上最大級の裏切り者だと糾弾するであろう。
犯した大きな過ちを共に受け入れ、許し共に苦しみながら同じ道を歩むことをよしとしてくれた大勢の仲間を、恩知らずと呼んでも足りないほどの悪意で持って痛めつけ、葬り去ったのだから。
許されたはずの男は、自らその慈愛を引き裂いてみせたのだ。
なんて、楽しくて滑稽で快感に満ちあふれた所業なのだろうか。
人を傷つけるのは、こんなにも楽しい行いだったのか。人をズタズタに引き裂き、血祭りに上げるのがこんなに素晴らしいとは。人を裏切り、その顔を絶望に染め上げながら滅ぼすのがこんなにもおかしくてたまらないのか。
愛する誰かをここまで追い詰め、後悔させるのがこんなにも崇高だとは思いもしなかった。ありふれた偽善と欺瞞に満足し、それを霞のごとく喰い潰しては自己中心の骨頂である道徳心と正義感で己の感情をごまかし、それを他者に押しつけ壮大な自己満足に浸ることに何の自覚も躊躇もない、それが人間。
特にあの村に住む連中はひどかった。
そして、あの女。
面白くてしょうがない。こんな人間達を一人残らず打ち砕き、滅亡という救済を与えることが。
奴らは裁かれたと同時に、救われた。奴らの思想に乗っ取って考えればそういうことなのだろう。
楽しい。面白くて笑いが止まらない。
思い知ったか。思い知ったか。
ふと、頭が割れそうなほど痛くなった。今の自分に違和感を抱いた瞬間、それを咎めるように苦痛が生まれた。
そして全身に走る、すさまじい痛みの嵐。それは肉体と精神を狂おしいほどに痛めつけ、決して滅ぼしはしない、ある意味最もおぞましい苦痛であった。
決して誰にも理解されない地獄の苦しみ。地獄すら生ぬるいと感じさせる。
それは、それはまるで罪人に対する憎悪以上の怨念がこもった神よりの罰のようだ。
神?
消えゆく自我の中最後に思った。
違う。
神はこんなことしやしない。
こんなことをしているのは、きっと、きっと――




