奪われた者と、残された者
何日も教会と騎士団、代わる代わる丁重な尋問を受けたが、最終的にジョシュアとマーサ、フォスターは穏便に解放された。無難な証言と、今回の事件に関する他言は無用という約束と引き替えに。
バトラーは壊れた。自分がかつて犯した罪と、その罪によって苦しみ、心を壊し大量殺人と世界の破滅を企てたレオナルド・オーウェンという、かつて殺してしまった被害者の、ただ一人の生き残り。家族が皆殺しにされ、その罪を疑われても根は強固だった精神はとうとう破壊されたようだ。自責の念はバトラーの心を粉々に打ち砕き、未来永劫元に戻らない呪いをかけた。
もしかしたら、とジョシュアは密かに考えた。
あの山で自分同様、バトラーもかつての家族に再会したのかもしれない。そして、どんなに不満や多少の不信感があっても、家族だからと無条件に信頼していた、故意でなくとも人の命を無残に奪ってまで愛し、守ろうとしていた家族の善良だと固く信じていた者達の薄汚い本音の声を全て聞いてしまったのかもしれない。
無数に響く本性の嵐の中で、見知らぬ幼い子供の声を、ジョシュアは聞いた記憶があった。
「チャーリー兄ちゃんが人を殺したから、ごはんがいっぱい食べられてみんな笑うようになったから、もっと殺してほしい」
今、バトラーは牢屋にも似た辺境の保養所で看病され、幼い子供のように甘えたりわめいたり、泣きじゃくったりを繰り返していると、フォスターが詳しく教えてくれた。
レオの復讐は成功したのかもしれない。
自分が信じていたもの、自分自身の生きる意味、支えとなっていたものを奪われることの辛さなど、あの二人は既に知っていたから。
ジョシュアもまた、自分も裏切られたのだと気づいていた。いや、あの二人の苦しみと憎悪を思えば、自分が受けた裏切りなど、ひどくちっぽけでみっともなかった。
久々に再会したフォスターは相変わらずだったが、その瞳は驚くほど冷たくなっていた。神の存在を間近で見ることが出来た奇跡すらどうでもよさそうだった。
ついでに、あの術士のことも聞いた。責任の一端を担う存在として、それなりに痛い目に遭って然るべきだったが、相変わらずあの場所に住み続けているらしい。教会も騎士団も、彼に対して何かをするつもりはないようだ。バトラーほどではないが、彼も壊れ始めているらしい。最初から壊れているが、さらにひどくなっていると考えるだけで気が滅入る気がした。
誰にも何もされず、一人放っておかれる。それも重い罰なのかもしれない。やがて誰かが訪ねた時、すでに長い時間が経過した亡骸転がっているのだろう。
「あの術士も、気の毒だな……」
「ジョシュア君、何だか優しくなりましたね」
嫌でも性善説ぶりがにじみ出ていたその口調が、ぞっとするほど冷淡だった。
だからといってフォスターという男を、嫌いになるつもりはなかった。ただ、悲しかった。彼が二度と、元の彼に戻らない事実に。
いや、もしかしたら、今の彼こそが、本来の彼なのかもしれない。
「教会はもう、だめかもしれませんね」
教会と騎士団がどれほど火消しに奔走しても、世間の声は消えなかった。
あの日、ヴァルハラ山の頂上から大いなる人の形をした純白の影が空の彼方へと翼を広げ飛び去り、跡形もなく姿を消した光景を、多くの人々が目撃していた。山頂へ向かっていた騎士団が全滅したとされ、ほんの一部の生き残り、ジョシュア達、そしてレオとアンナ、ブレイクさえもその山にいたという事実は伏せられた。つまり、神がなぜ復活し姿を消したのか、その具体的な理由を知るものはこの世に誰一人いないことになっている。
人々は騒ぎ立てた。信仰心のある者もない者も関係なく。
神はずっとヴァルハラ山に眠っていたが、ついに目覚め旅立っていった。つまり、この世界に神はいなくなった。神なき世界となってしまったと絶望する者。いや、それでもいつか神はこの世界に帰還すると希望を捨てない者。神はもういないのだから神を信じる意味はないと、信仰を捨て教会から離れていく者。
彼らは知らなかった。
自分達が長い間邪なるものと勝手に名付け悪者扱いしおとぎ話にもしていた存在が、この世界を愛し人々を守っていた真の英雄――神そのものだったという事実にも。仮にそれを知ったとしても、さらに絶望に叩きつぶされる者達が続出するだろうから、それ以上の真実は明かされずにいた方がマシなのだろう。
あの二人が、滅ぼしたかった世界。
結果的に滅ばない方がよりよい復讐となったのは皮肉な話だ。
奪われても、生きていく。
奪われても、生きなければならない。
奪われても、奪われた現実を受け止めなければならない。
それが人として正しい生き方。
奪われた悲しみを乗り越え、新たな幸福を手に入れるため生きることが美しい素晴らしい生き方。
ジョシュアはふと、自分がかつて奪われてきたものを思い返す。
悲壮感も、怒りも、虚無感も、何も感じなかった。
むしろ、奪われてせいせいしている。解放されたような、すっきりした気持ち。
生まれる前から自分を苦しめ、押しつけられてきたものは何ひとつ、なくなった。
アナソフィアの呪いの言葉でさえも、最早ジョシュアの中で意味を為さなくなっていた。彼女が、愛する者達と共に救われたおかげなのか。はっきり確かめる術など、もう必要ないが。
いや、ひとつだけ、残っていた。
*
自分から家族や親友、あらゆる大切な人を奪い去った者達と共に旅立つはずだった。
どういう訳か、彼は取り残された。
望まぬ形で大量殺人鬼となり、神に救われることさえ許されなかった、ウイリアムス・ブレイク。
なぜ彼を連れて行かなかったのか。ジョシュアは、フィルの復讐だと確信していた。
何度も面会しては、時にはたわいもない話も出来た。かつてのように、このまま、いつまでも仲良く出来るのではないかと本気で思いかけた。
それでも、無理だった。既に、ジョシュアの心は決まっていた。
「なあ、頼むよ。お前がきちんと証言してくれたら、俺は助かるんだ。俺が悪くないってこと、お前だって知ってるんだろう? このままじゃ俺、死刑になっちまう。死にたくないんだ。怖いよ」
「ごめん。兄さん――」
ジョシュアはしっかり、兄の目を見て続けた。
「どんな理由があっても、兄さんのしたことは許されない。あまりにも、兄さんは殺し過ぎた。許されちゃ、いけないんだよ」
発狂して檻を揺さぶらんばかりの勢いで暴れ出したウィルを看守達は押さえ込み、その日以来ジョシュアは二度と、兄の元を面会しなかった。
裁判で全ての罪を有罪とされ、死刑が確定したのは、それからすぐのことだった。あまりにも簡素で早く、それでいて確実な証拠で強固であった判決。世界の混乱に乗じて果たされた唯一無二の正義。
長い時を経て、ようやく真の裁きが、ウイリアムス・ブレイクに与えられた。
ジョシュアは兄が、歴史に名を残す大量殺人鬼として葬り去られる瞬間を、マーサとフォスターと共に、見届けた。歴史に名を残す大量殺人鬼の割に、ひどくひっそりとした形で。
ウィルは最後は諦めたように静かに自分の運命を受け入れた。教会と騎士団、両者が見守る中、絞首刑となった。
かつて残酷に命を奪ったフィルの苦しみに比べて、あまりにもあっけない最期。
不造作に揺さぶられる人形のように暴れていたブレイクの両脚がぴくりとも動かなくなった瞬間、マーサは静かに涙をこぼした。ずっと望んできた願いが目の前で叶った彼女は、生涯に渡りブレイクの死刑のことで誰にも何かを語ることはなかった。
「あの事件の時、成人していれば重罪に出来たのに」
すぐそばで同じく見守っていた教会の関係者らしき中年の男性が、拳を握りしめてつぶやいた。
その言葉、果たしてあの二人の前で言えるのか。
全て、終わったことだからどうでもいい。
未だ混乱が続く世界に広まったブレイクの死刑執行の報は、人々に正義が果たされたという皮肉な希望を抱かせた。復興が進み、新たな日々を懸命に生きる原動力となって。
*
別れ際、フォスターからエディが騎士団を辞めて行方をくらましたと聞かされた。彼もバトラー同様、変わってしまった気の毒な犠牲者なのだろうが、バトラーほど現実逃避せず、案外うまくやっていけるかもしれないと、マーサと意見が一致した。
「意外と、騎士団をやめた後の方がいい人生を送れるかもね」
マーサはそっけなく告げて、もう一度ひどく小さな墓標に目をやった。一見すると生後間もなく命を落とした幼子のものかと見間違えそうだが、はっきりと刻印された言葉に誰もが目を奪われ、息をのむだろう。
『大量殺人と世界の滅びを引き起こそうとした人と神の反逆者ウイリアムス・ブレイク、絞首刑となりここに眠る』
本来ならば墓すら作る価値などないが、残された者達の死にゆく者への最低限の敬意の形だ。
ジョシュアは、改めて兄の最期の姿を思い出す。
受け入れていたように見えて、命を奪われる最期の、ほんの一瞬、やはりその瞳に死への恐怖と抵抗がよぎっていた。
被害者と比べてあまりにも穏やかな最期だったとしても、死への恐怖は平等なのか。
しかし人間はいつも、そんな不公平な平等に騙され、これからも変わらないだろう。
「これから、どうするの?」
「……そっちこそ、これからどうするんだ?」
マーサは相変わらず冷徹な雰囲気だが、どこか、今までになかった穏やかさが見て取れた。
かすかに、笑みを浮かべているような気がした。
ようやく、目標を果たした達成感と安堵感のおかげなのか。
しかし、反面不安がよぎる。
「教会から、縁を切るわ。どうせあいつら、一生こっちを影で監視し続けるつもりよ。だったら逃げてやろうと思うの。わたしのことを誰も知らない場所へ、今度こそ。もうわたしにはわたし自身何も残っていない。ちょうど世界もまだ混乱してるし、別人になりすます位造作もないわ」
開き直っているように思えて、どこか希望にあふれたその口調。
どうして、そんな風になれるのか。
自分だって、こんな世界が築いてきた偽善と欺瞞にうんざりしてきたじゃないか。
「教えて、やろうか?」
空を見上げていたマーサが、怪訝そうにジョシュアを見やった。
このまま、適当に別れの挨拶をして、二度と会わないつもりだった。
「別人になりすます方法、教えてやろうか?」
かつて、短い間だけ、別の人生を生きたことがある。
それはあまりにも楽しく、今振り返ると残酷で身勝手な時間だったが、既に心は決まっていた。
マーサ同様、自分にはもう、自分自身何も残っていない。生まれる前から縛り付けられていた何もかもを断ち切ることが出来た。
それに、世界中の人間を二度と心から信用出来なくなったくせに、なぜか彼女のことだけは、前と変わらず信用出来る確信があった。
マーサは苦笑気味に答えた。
「一度正体が知られた人間の助言なんて、当てにならないわよ」
それでも、彼女は静かに笑って、確かにジョシュアの目を見て、続けた。
「でも、二人でなら、何とかなるわね」
きっとお互い、このまま別れて、一人になるのが怖かっただけなのだろう。
今はまだ、一人では生きられないと割り切りながらも、ジョシュアはマーサと共に、墓に背を向けて歩き出した。
心から信用しているつもりもない。かといって、裏切ることもない。
少なくとも、今は協力し合うのがちょうどいい。
それでもジョシュアは、不器用に笑う彼女の笑顔に、悪い気はしなかった。
*
フォスターは穏やかな精神状態となって毎日笑顔で過ごしているバトラーの様子を見に行った後、一人、ヴァルハラ災厄と名付けられたあの一件に関する報告書を読んだ。
あれから、もう三年。
教会を離れようと思ったが、離れなかった。
自分の居場所は元々ここしかいない。自ら作った監獄のようなものだ。
幸いなことに、てっきりこのまま滅びの道を辿りそうだった今いる組織は、かろうじてまだ体裁を保っている。何百年、何千年と続いた歴史と実績、習慣はそう簡単に滅ばない。何より、今生き残っている人間達にその意思がないのだ。
あの二人だけだった。その意思を世界中の誰よりも強く深く抱き、そして実行したのは、後にも先にも、あの二人だけだろう。しかしこの世界にはもう、少なくとも肝心な時に助けてくれる神はいない。今度こそ、永遠に。
緩やかに滅んでいくのも、人間らしい。見届ける気など、毛頭ないが。付き合いきれない、という言葉しか浮かんでこない。
フォスターは報告書を閉じた。
ひどく無難な内容だった。全ての黒幕はブレイク。それ以上の真実はない。
風の噂で、エディの話を聞いた。
新たな黒き殺人鬼として活動していると。かつてブレイクが、操られるように何らかの罪を犯した、本来ならば裁かれることのない無自覚の悪人達を殺して回ったように、今彼が今度は彼自身の主観で実行しているようだ。
ブレイクほどの脅威はないにせよ、騎士団の追跡を難なく交わしているようだ。
フォスターはせめて、その役目が失踪したジョシュアでなくてよかったと、心から思った。そうなってしまっても不思議ではないし、むしろそうならなかったのが不思議だった。
あれほど、大勢の人間達の醜い本性を見せられながらも、むしろ二人共、前よりも穏やかな状態だったと、最後に顔を合わせた時の様子を思い出す。
ブレイクの死が、あの二人を救ったのか。心の闇が、洗われたのか。
だったらブレイクも、それなりの罪滅ぼしは出来たかもしれない。だからとって、彼の魂が救われるべきなどとは思わないが。
命を奪ったなら命で償う。そんな当たり前のことをしないから、もっとたくさんの命が失われたのだ。
後どれ位、人間達はそんなくだらない間違いを繰り返すのか。
そういう間違いが起きてくれなければ、よりよい世界が築けない愚かさにすら目を向けないうちは無理だろう。
今の自分が、果たして本当の自分なのか。自分という人間が、正直よくわからなくなっていた。
少なくとも、二度と自分を不器用で誘惑に屈することがあっても、それでも良心は最終的に守ることが出来る、『善人』の部類には充分入るであろうという、卑劣な錯覚は抱かずに済んでいる。
自分のような人間こそ、この世界の悪に荷担するどうしようもない存在の一部なのだ。
それを教えてくれたのは、あの日記を残した二人だ。
二人の犯した罪を棚に上げて、フォスターは二人に感謝した。
そして二人が、今もう一人の救済されるべき存在と共に、安らかな世界にいることを願う。
ようやくこの世界を見限った優秀な神がそばにいるのだ。何も心配いらないだろう。
数日後。毒を飲み安らかな表情で冷たくなっているフォスターが発見された。
三冊の日記の所在は、不明のままに。