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裁きへの扉

 どこまで書いたのだろうか。前回書いた時、あまりに辛くて一度はこの日記を閉じしばらく触れなかった。今ようやく落ち着いてきた。

 書かなければいけない。この日記を書く意味など関係なく、わたしはもう一度この真実を書かなければいけない。一度だけでなく何度でも。この日記はそれを表面化させる手段のひとつでしかない。こうして書くことで、わたしはまた違った形で己の罪に向き合えるのだ。その罪を償い切れないのは、奴とて同じこと。

 お姉ちゃん。ぼくね、本当は生きてたんだよ。あの時ここで、ウィルに背中を押されてぼくは怖かったけどおくびょうもので弱虫のフィルなんてからかわれたくなかったから。勇気を出して、ここへ入ったんだ。暗くてこわい空気がして、すぐにでも引き返したかったけど、ぼくは怖くない。怖くないって自分に言い聞かせて、みんなが行ったことのないずっとずっと奥まで行ったんだ。

 そしたら、大きくて黒い何かが襲いかかってきたんだ。怖くて痛いなって思ってたら、自分が自分じゃなくなった気がして、悲しくなって、怖くてすぐそばにいたウィルに助けてって言ったの。

 そしたらウィル。ぼくなんかよりもっともっと怖がってる顔して、悲鳴上げて逃げ出したんだ。どうして? どうしてひとりで逃げるの? ぼくだって怖いのに。ぼくがぼくでなくなりそうなのに。それでぼく追いかけて、祠の外にまで出たんだ。

 そこにウィルはいた。ああ、ちゃんと待っててくれたんだ。ひとりで先に逃げ出すなんてひどいなんて思ってたけど、やっぱりウィル優しいなって思って近づいたんだ。

 でもね、ぼくを見るウィルの目、何だかおかしかったんだ。まるで、ぼくが化け物みたいにしか見えないような目で。それに、やっぱり怖がってた。よくわからない悲鳴上げて、持ってた棒みたいなやつこっちに振り下ろしたんだ。

 すごく痛かったんだ。目玉がつぶれそうで、顔からこぼれ落ちそうで、なくなりそうな痛さだった。ほっぺたがぐちゃぐちゃになって口やほっぺたの中がちくちくして、痛いのに何も感じなくなった。

 くちびるがつぶされて顔から取れた気がした。首が嫌な音を立てて傾いて、このまま頭が取れて転がっちゃうかと思った。

 指がぜんぶつぶれて手から取れた気がした。腕もぶらぶらになってぼくの体から抜けちゃうかと思った。お腹がずっと痛いままだった。ぼくは体中が壊れていった。体の中で、たくさんのだいじなものが潰されてはち切れて、ぼくはからだの外だけじゃなくて中も壊れていったんだ。ぼくは何も出来ないまま、ウィルにたくさん棒で叩かれたんだ。やめてって言うことも出来なかった。

 僕の体からいっぱい血が流れていった。ぼくは寝転んだままあったかいなって思った。ぼくは心の中でたくさん叫んだんだ。お願いだからウィルやめて。ぼくぐちゃぐちゃになっちゃう。今までのぼくじゃなくなっちゃう。痛くて苦しくて何も感じなくなって、何もわからなくなって怖いよ。やめてやめて。痛いよ痛いよって叫びたかったけど、ぼくにももう口も目も顔もなかった。

 ぼくの中から血だけじゃなくて肉や骨が出てきて、ぼくは崩れていったんだ。全部覚えてるんだ。もちろん、ウィルのことだって。

 ウィルはすっかりぐちゃぐちゃになった僕を見て、笑ったんだ。

 初めはね、ただ悲鳴を上げて無我夢中でぼくを叩いてつぶしてきただけだった。でもね、不思議なんだ。ぼく、痛くて痛くてたまらなくて何も考えられなかったはずなのに、頭の中に何かが浮かんできたんだ。

 すぐに、それがウィルの心の声だって気づいたんだ。

 ウィルね、ひどいんだよ。ずっとぼくと仲のいい親友のふりして、本当はぼくのこと嫌いだったんだ。

 いつもみんなからかわいがられて、いい子だってほめられて愛されて、優しい家族に囲まれてる憎たらしいフィル。自分の両親はいつも優しいふりして気にかけてるつもりでも、本当は自分に全然感心がなくて、肝心な時に冷たくて本当の自分をわかってくれない、ひどい両親だから、フィルがうらやましくてずるいって、ずっとそんなこと考えてたんだよ。

 自分は悪くない。ただちょっと怖がらせただけだ。それに、襲われたのはこいつの不注意だ。

 これは正当防衛だ。それにみんな死んでしまう。闇獣が外に出て行ったら村のみんなが死んでしまう。現にこいつは外に出ようとしていた。きっとみんなを襲う。最初に殺されるのは自分だ。

 死にたくない。僕は悪くない。僕のせいじゃない。これは僕が望んでやっていることじゃない。

 悪いのは全部フィルだ。取り憑かれたフィルのせいだ。全部夢だ。悪い夢だ。フィルはかわいそうだけど自分の方が親友を殺す羽目になってもっとかわいそうだ。

 ああ、何てことをしてしまったんだ。僕は、僕はフィルを殺してしまった。ウィルはまたおかしな悲鳴を上げて逃げたんだ。


 フィルの言葉は全て、一語一句欠けることなく思い出せる。久しぶりに聞いた弟の声はあの頃のままだった。それなのに、わたしたちは感動の再会に浸ることは許されなかった。

 今振り返ると、つくづくこうして当時の状況を冷静に綴れることが不思議だ。やはり愛する彼のおかげなのだ。彼、今どこにいるのかと考えてすぐ思い出した。彼にはひとりでやることがあると、一時的にわたしの前から姿を消した。不安でたまらなかったが、彼とあまりにも深く強い信頼関係のおかげで、不安はすぐ立ち消えた。しかしたまにこうして、ひとりでいる時に彼の存在を強く求めてしまうのは玉にきずだが。

 この計画へわたしを導いてくれたのは彼だ。絶望し一度は捨てようとしたこの命を救ってくれたのも彼だし、結果的に今わたしにすべきことを与えてくれているのも彼だ。

 常にそばで消えることのない悲しみと怒り、憎しみを否定するどころかまるで自分のことのように受け入れて支えてくれたのも彼だし、過去に区切りをつけようとするわたしの背中を押すどころか、その手を取って共に進んでくれたのも彼。

 そしてわたし同様、消えない苦しみと悲しみを背負って生き続け、自分の傷どころかわたしの傷を癒すことまで引き受けてくれた。

 わたしたちの絆は決して消えない。それはこの肉体が滅んでも、魂すら地獄の業火に焼かれても消えはしない。

 せめてそれ位の希望を抱く権利は、このわたしにもあるというものだ。

 続きは後日書こう。今ペンを手にしているこの手があまりにも震えている。今日もきっとひどい悪夢を見るだろう。

 弟が味わった苦しみと比べるには、あまりにも粗末で自己満足の悪夢を。


   *


 彼が帰ってきたと思ったら、すぐにまたどこかへ行ってしまう。あらかじめ説明されていたとはいえ、取り残されるのは辛い。


 彼はまたいない。日記を書く手が動かない。


 彼が帰ってきた。いつも帰ってくる度に何かを成し遂げたような顔をしているが、今日は誇らしさに満ちあふれている。それに、達成感のようなものがその顔から浮かんでいる。わたしは彼の顔に弟の面影を見たような気がした。


 しばらく自己嫌悪に浸って何もする気が起きなかった。わたしは何てことを思ったのだろう。愛する彼と弟を重ね合わせるなんて、二人へのおぞましい冒涜だ。それ以上のことは考えたくない。


 久しぶりに日記を手に取り、適当に少し前のことを振り返ってみたら、自分の書いている内容に呆れた。彼を求める愚かしい自分自身を憐れみ、恨みがましいとも取れる内容の文章を喜々として書き続けていた。思わず何ページかぐしゃぐしゃにペンを走らせ判読不能にしてしまった。いくら日記だからといっても、限度がある。


 やっと彼が帰ってきた。


 長い間わたしの元から離れていた彼がようやく帰ってきて以来、わたしたちはつかの間の穏やかな暮らしを楽しんだ。彼は一人でとても大きなことを果たしたのだ。わたしを協力させなかったことに不満と不信感があったわけではないが、彼の満ち足りた様子を見ていると、彼を信用し一人で任せたことは正しいと思わされた。

 この一年、彼は一人で計画の一部を完成させた。わたしたちが行う壮大な計画の一部。彼一人の尽力で大きく前進することとなった。

 おかげで彼は、より一層強い決意を胸にわたしと共に復讐を果たしてくれるだろう。なぜなら、憎むべき殺人鬼の一族を根絶やしにしたのだから。

 血の繋がった家族だから? 親友だから? 同じ村の仲間だから?

 だから、どんなに悪いことをしても大切な存在だと、なぜ被害者のことも考えずのうのうと口走れるのだろうか。

 生き残った人間の驕り。殺されずに済んだ人間の偽善。

 だから、彼はそいつらを全て葬った。彼の愛する両親と妹と同じ苦しみを味あわせながら。

 彼はやっと、長い苦しみから解放されたのだ。自分の力で。

 僕は何もしたわけじゃない、と彼は謙遜するが、彼の目を見れば、全て彼一人が成し遂げたことだと思い知らされる。

 今頃あいつは殺人鬼に逆戻りだと笑って言った。しかし奴がやったという証拠も残さなかったと冷たい声で続けた。

 彼の愛する、何の罪もなかった両親と妹を無残に殺してまで守りたかった者を殺したという汚名を背負いながら生き続けてもらいたいというのは、わたしも大いに賛同した。例え疑惑止まりでも、事実上世間から殺人犯として後ろ指を指されるのは耐え難い悪夢であろう。

 そもそも、奴の家族もまた彼の愛する家族を奪った共犯者だ。両親は貧困に甘え無計画に子を作り続け、子供達もそれに甘え、自分達は何の罪もない子供達だとあぐらをかき兄に依存し続け、ついに追い詰め殺人鬼へと変貌させた。挙げ句、愛する家族と騒ぎ立て感化院を出た兄とより一層深い家族の絆でもって――まるで、兄が殺人鬼となったおかげで家族の絆がより深くなったように。

 奴を残して、一族はもういない。偽善にまみれのうのうと清く正しい人の皮を被ってのさばっていた存在が淘汰されるというのは、こんなにも心地良いものなのか。

 まだ終わりじゃない。

 この世界にはそんな存在があまりにも多すぎる。

 罪を犯してまで守りたいのなら、奪い取ってやる。

 犯した罪を背負い続け、償っているつもりなら、本当にそうなのかその身で持って思い知らせてやる。

 わたしたちの計画は、私たちが思っている以上に壮大なものとなっているのかもしれない。

 わたしも彼も、最後まで自分を見失わないようにしなければならない。そう考えたらこの日記を書く行為は、あまりにも有益かもしれない。


   *


 術士は泣きじゃくりながら、幼子のようにマーサにしがみついて離れなかった。自分もかつては非行に走りたくさんの人々を傷つけ迷惑をかけたことを話し続け、なかなか本題には進まなかった。

 それでもマーサは根気よく、術士から聞き出し続けた。母親そっくりの、信頼感に満ちた聖母のような口調で。

「あいつらは、世界を滅ぼそうとしているんだ。悪いやつはみんな地獄を見せるって。おれも脅された。おれも悪いやつだから同じ目にあわせる。でも、おれが何もしなかったら見逃してやるって。だから、おれ何にも出来なかった」

「あいつらって、誰のこと?」

「アンナとレオだ。あいつらが祠を開けて闇獣を出したんだ。おれは止められなかった。止めたら殺されて、全部おれのせいにされたんだ。だから、祠も大丈夫だって嘘ついた。それに、誰も気づかなかったから、おれが嘘つかなくても大丈夫だった」

「アンナと、レオ?」

 アンナ?

 その名前に、ジョシュアの心は妙な胸騒ぎを覚えた。

「……そのレオって、誰のことだ?」

 バトラーが震える声で術士に聞いた。マーサは術士を怯えさせないよう、優しく語りかけ改めて質問した。

「レオナルドだよ。教会の仲間だ」

「……アンナは、アナソフィアのことか?」

 力の入らない声でジョシュアは聞いた。その様子に自分が危害を加えられないと安心したのか、術士は素直に答えた。

「そうだよ」

「レオナルド・オーウェンと、アナソフィア・クレメンタインですか?」

 フォスターが冷静に聞くと、術士は頷いた。

「その二人は、だいぶ前に亡くなっています。人違いではないのですか?」

「嘘じゃない! あいつらは間違いなく本物だった。あ、そうだ。二人はおれに、自分たちは死んだことになってるから誰かに話しても無駄だって言ってた」

「マクレインじゃ、なかったのね」

「マクレイン? 何の話だ?」

 マーサがぼんやりとした口調でつぶやいた。

「嘘だ……嘘だ」

 バトラーがどこか怯えたようにつぶやいた。

 誰もが皆、理解していた。

 そして、信じたくなかった。

「アンナが神学校で孤立していた所を、レオはとても親身に支えていました。二人は共に、愛する家族を亡くした過去を背負い、周囲の好奇な目を共にはねのけ、品行方正に振る舞い、教会から将来を嘱望されるほどにもなりました。私の記憶にある彼らは、聡明で慈愛に満ちた、善意の塊のような男女です。マクレイン氏と共に亡くなった時、信じられない気持ちだったのを、今もはっきりと覚えています」

「そんなの嘘だ。あいつらは怖い。悪魔だ。二人は村を襲ったんだ。闇獣を解放してブレイクに取り憑くようにさせて、善と正義の皮をかぶった悪人たちを一人残らず消すって。悪魔みたいな顔で言ったんだ。おれは何も出来なかった。殺されるのが怖かったばかりに。たくさんの小さい子供や老人までひどい目にあって。おれはなんてことをしたんだ。おれが全て悪いんだ。おれが、おれが」

「嘘だ」

 三人から離れた場所で、黙りこくっていたバトラーが静かに口を開いた。深い闇を抱いているような声色で。

「バトラーさん?」

 また起こりうる彼の突発的かつ暴力的な振る舞いを警戒しながらフォスターは彼にそっと近寄るが、バトラーはまるでほうけたような足取り――それでいて、やはり妙に力強い――で術士に近づいた。術士は当然のようにマーサを強く抱き寄せ我が身を守ってもらおうとした。

 それが意味のないことだと術士が気づいたのが、バトラーがすぐに立ち止まり、ひどく絶望をたたえたうつろな目でつぶやき出した時だった。

「オーウェンさんが、黒幕だなんて。どうして、こんな残酷な真似を……あの人は、とても優しい、心が広い人だった。俺と直接対面して、許すとまで笑顔で告げてくれたあの人が――どうして、どうして」

「マクレインが、いつも近くにいたでしょ? そうせざるを得なかったのよ。あなたを許さなければ、彼は人でなしと糾弾されたから」

「だからって! まさかこんな非道なことを裏で計画していたなんて!! 信じていたのに……あの人はこの世界で誰よりも尊い心を持った存在だったと」

「……家族をあんな悲惨な形で失ったのに、その原因を生み出した張本人を笑って許す? 本当に、自分が許されたって本気で信じていたの? 自分が住んでいた街を遺産をなげうって救ってくれて、ついでに家族の生活も助けてくれたから? ……そんなもの全て、マクレインが彼を都合よく利用した結果なのに」

 自分の人生で最も恩人とも呼べる存在を侮辱されることを過剰に拒絶していたはずのバトラーは、何も言えない様子だった。

「しかし、それでも信じがたい話です。いくら、過去の事件で大きな恨みを抱いていたとしても、ここまで非情な行為に走るとは」

 フォスターのまるでボトラーに気を遣うような言葉が、虚しく空中に溶けて消える。

「共に愛する者を理不尽な形で失った者同士――二人の間には、他人が勝手に想像するようなきれいなものなんてなかった。きっと、互いの心の傷、深い闇を知り、共にその闇を受け入れ暴走することを望んだ。全ては、二人が大切にしていたものを理不尽に奪い取り、そしてそれを許し受け入れることを強要する人と、世界に」

「俺のせいなのか? 俺のせいなのか? ひどい、あんまりだ。家族を殺したのだって――」

 あまりにも残酷な現実を誰かに否定してもらいたいから、わざわざ問いかける。ジョシュアには、術士とバトラーが同じに見えた。

 同時に、憐れに思えた。

 自分達が過去に犯した過ちが今頃想像を超えて大きく跳ね返ってきた現実に、二人は今すぐにでも壊れてしまいそうだったから。それでもまだ正気を保っていられる精神的な強さに、人の命を奪う人間は弱いのではなく、むしろ強いのだろうという皮肉な現実を確信する。

 静かに崩れ落ち、泣き始めるバトラー。フォスターはただ優しく支えてやる。意外と壊れる時は静かに壊れるものかもしれない。

「あまり、衝撃は受けていないみたいね」

 相変わらず冷淡な口調でマーサはジョシュアを見やる。その腕には、同じく静かに泣きじゃくる術士を支えて。

「正直、もうわからないんだ。怒りとか悲しみとかそういうのも具体的にわかないし、兄貴のことだって、もう一度どう受け止めたらいいのか。何も、考えられない」

「黒き殺人鬼は操り人形だった。そう考えたら、納得がいくわ。ブレイクにあそこまで暴走する度胸や動機はなかった。仮に殺人の衝動にかられても、一人か二人手にかけるだけで済んだはず――あの二人は、彼にあまりにも殺しをさせ過ぎた。だけど、それを世界を滅ぼすためだとしたら?」

 マーサは静かに、術士に再び語りかけた。

「どうか、もっと知っていることを話して。あの二人がなぜ、ブレイクに大量殺人をさせたのか。あなたならもう少し、詳しいことを知っているのでしょう? 知り過ぎてしまったから、今まで苦しんできたのでしょう?」

 術士にあの二人が正直に、自分達が行おうとする重要なことをここまで打ち明けていたのかと思うほど、術士はマーサに次々と素直に打ち明けてきた。

 なぜ、そこまで知っておきながら恐怖と自己保身にかまけ何もしてこなかったのかと改めて術士の怒りがわく一方、ジョシュアにはある疑問が芽生えた。

 なぜ、人々に広く知れ渡る可能性を考慮せず術士に全てを打ち明けていたのかと。

 術士はしばらく黙り込んだ後、静かに立ち上がり、家中を捜索し始めた。ただでさえジョシュア達との衝突で乱雑を極め続けている室内を自らの手で極めさせていきながら、ようやく、唯一の宝を見つけたように歓声を上げ、それをマーサに差し出した。

「おれはこれを読んだ。だから、何もする資格がなかったんだ」

 それは一度誰かの手で意図的に引き裂かれたが、改めて修復された痕跡が見受けられる、一冊の古びた本だった。

 表紙に何かメッセージのような題名が書かれていたが判別するのに時間がかかりそうだと横から見てジョシュアは思っていたら、マーサは無言で本を裏向きにして、裏表紙をめくった。

 破壊から免れた文章が鮮明な形で残っていた。

〈心優しいアンナへ。あなたの日常とこれからの人生に光がありますように。パトリシア・クロフォード〉

 よく知っている、マーサの母親の名前。

 マーサは固まった表情のまま、改めて本を表紙に戻しめくった。

 そして大ざっぱにパラパラとめくり、くすんだ紙に丁寧にびっしりと並んだ文体が続いていく。

 最後のページにまで辿り着くと、まるで壊れたようにごめんなさいと不気味に並んで、文体も本人の精神状態を表すかのように完全に壊れていた。

 そして次のページに、最後の言葉が残されていた。この日記らしきものを書いたであろう、同じ人物の丁寧な文字で。

「わたしたちは世界の頂で待っている。世界が始まった場所で、世界を裁く」

 マーサは術士を睨んで、言い放った。

「あんたって本気のバカね。世界が滅んだ時真っ先に死んでほしいわ」

 それから、マーサは二度と術士と口を利かなければ、その目を見ることもなかった。


   *


 最後にこの日記を書いてから、だいぶ長い時間が経ったような気がする。再びこの日記に文字を書き綴る時、その時自分はどのような状態になるのだろうと想像したが、想像通りなのか。今のわたしは驚くほど冷静だ。

 罪悪感も、後悔も、苦しみも、悲しみも、反省の気持ちも、何もない。すがすがしいほどに。心地良くも根深い疲労感に、しばらく日付や時間の概念を失うほどだった。

 達成感。やり遂げた達成感で心はあまりにも満たされて仕方がない。多少の物足りなさはあったが、わたしと彼は、果たすべきことを果たしたのだ。

 しかしこれで終わりではない。

 思えばわたしには、一抹の不安があった。ブレイクとあの村の連中への復讐を果たした後、わたしに生きる意思や意欲といったものが消え失せてしまうのではないかと。それは彼も同じだった。

 だからこそ、彼はもうひとつの大きな目的を二人の間に課した。他人には決して想像も出来ない、そして仮に想像出来てもその荒唐無稽さに唖然とするだけだろう。

 思えばわたしたちは、あまりにもこの世界を憎み過ぎてしまったのかもしれない。当然だ。失われた命を己の自己演出に利用し、自ら奪った命でさえも同じように扱い、生者であるという特権を最大限利用し尽くそうとする人間達。

 こんな世界、愛してはいけなかったのだ。

 生まれてきてしまったから、それに倣って生きてきた。おかげでわたしは報いをしっかりと受けさせてもらった。

 しかし他人が報いを受けるのを願い、待ち焦がれるのは愚か者のすることだ。だからわたしと彼は立ち上がり、戦い、願いを自らの手で果たすことを選んだ。その道はもう少しの間続く。

 ようやくまどろみから解放されてこの日記を再び書くことが出来るようになった。正直記憶があやふやになっている部分もあり、まるでとても素晴らしい夢を見ていたような気さえしているが、紛れもない現実だ。

 書けるだけ書き記しておきたい。あの日感じた喜びをせめて形に残したいと願うのは、この日記を長年習慣的に書き続けた後遺症のようなものか。

 術士を脅すのはたやすかった。所詮奴は正義の影に隠れて悪をやり過ごす臆病者のままだった。奴にはあまりにもしゃべり過ぎたが、すぐに誰かに打ち明け正義を貫く勇気があるのなら、そもそも奴はわたしたちを命がけで止めただろう。

 仮に誰かに打ち明ける時が来ても、全ては遅すぎる。彼の言葉を、わたしは素直に信じた。

 わたしたちは、術士が苦しむことを優先したのだ。あまりにも高い代償を払う可能性と向き合ってまで、奴に多少なりとも苦しんでほしかったのだ。殺されなかっただけでも感謝してほしい位だが、奴からの感謝など道ばたに転がる石ころよりも価値がない。当然奴自身の存在そのものも。

 そしてわたしたちは、フィルと再会した。ああ、フィル。わたしの弟。どれほど心を憎悪に染め上げても、わたしのことを忘れてくれずにいてくれた。わたしと向き合う時は、変わらないフィルでいてくれる弟。しかし最愛の弟はあまりにも変わり果ててしまった。

 理不尽に親友に裏切られ、命を奪われた地獄のような絶望を味わい、死後の安らぎさえも与えられなかった。天国などありはしない。全ては生者の都合のいい幻想。犯した罪から逃れるための詭弁。

 そして、重い罪を犯しながらもそれを乗り越え懸命に生き、真人間として生まれ変わるという薄汚い人間共の自己演出の一環。

 何度も、彼を信じていなかったわけではないが、もし、フィルが最終的にわたしたちを拒絶したらと不安に思ったことがある。しかしそれは愚かしい杞憂だった。

 わたしたちの中で誰よりも、フィルはこの計画に乗り気だった。彼の心から憎悪は永久に消えない。それをもたらした連中に、わたしたちは力を合わせて報いを受けさせた。

 ブレイク。憎いブレイク。わたしはどうしても、奴に聞きたかった。奴の驚き、困惑し、そして自ら惨殺した親友の出現に恐怖し、その親友に取り憑かれ絶叫する奴のひとつひとつの表情を、わたしは決して忘れない。

 わたしと彼が聞くよりも、フィルが質問した方が簡単だった。あまりにもあっけなく奴は薄情した。

 ずっとフィルを嫉んでいた。村の連中からいつもフィルばかり大人しくて頭もよくて、笑顔がかわいいとちやほやされて、本当はずっと疎ましくて仕方がなかったと。

 それでもわたしは冷静に奴から全てを聞き出した。些細な隠し事も許しはしなかった。

 殺したことは確かに後悔している。だけど、本当は殺してよかった。だって、殺したいって思っていたから。子供だったから大した罪にも問われなかったし、初めのうちは本当に毎晩悪夢にうなされて死んでしまいたいほど苦しんだけど、何年もすれば自分の一部として受け入れて思い悩むことはなかった。

 だって、周りの大人達は判で押したように、君のしたことは許されないけど、その罪は生きてこそ償えるものなんだって励ましてくれから。

 その罪を背負いきれなかったら、我々や家族を頼りなさい。君は子供だからこそ、犯した罪の責任は大人達にもあるんだから。

 君のしたことは仕方がないことでもある。犠牲となってしまった親友の分まで、君は生きるんだ。

 生きて償って、残りの人生を真面目に、幸せに暮らすんだ。

 ここまで打ち明けて、ブレイクは笑みを浮かべた。

 奴は本当にべらべらと喋ってくれた。正直、よくもここまで馬鹿正直に話せるものだと思ったら、やはり自分の犯した罪に対しての恐怖心はあったらしい。それは他人には理解出来ないほど深く。

 そう。奴がわたしの苦悩を理解出来ないのと同じように。

 それに、今も親友を殺した罪を意識を抱えているかわいそうなウィルだと心配してもらえるから、都合がよかった。

 そうだ。俺はフィルがいなくなって幸せになったんだ。

 周りの大人達がやけに優しくて気味が悪かったが、恐ろしい牢獄にぶち込まれるどころかまだ未来ある若者だからと反省すること、やり直す方向へと導かれることは、悪い気はしなかった。いや、違うんだ。俺は嬉しかった。あのまま村で育てられても、きっと俺は一生フィルの日陰でつまらない人生を送る羽目になっていたんだ。それを、たくさんの大人達が俺一人のために親身になって、実の親以上に気にかけて信頼して気遣って、まるで俺は特別扱いされて、選ばれた存在になったような誇らしい気持ちになれたんだ。

 ああそうだ。俺はフィルを殺してよかった。

 おかげで俺は恵まれた環境で勉学に励むことが出来た。普段から自分のことをろくに理解しようともしないでまともにかまってくれなかった両親でさえも、涙ながらに今までぞんざいに扱ったことを詫びてくれて、過保護過ぎる位俺のことを愛してくれるようになった。弟が生まれたことは予定外だったが、両親が今まで俺に注がなかった愛情を弟に丸ごと奪われるようなこともなくて、むしろ命の尊さを知るいい機会になった。信じてくれよ。実際生まれたばかりの弟が生まれた時、本当に自分のしたことに反省したんだ。命の美しさと尊さを思い知って感動して、俺は二度と人を殺さないって、真面目に生きるって誓ったんだ。ああ、頼むよ。弟だけは殺さないでくれ。

 違う。そうじゃない。俺は弟のことも自己演出の一部にしたんだ。生まれてまもない弟を抱き上げて涙を流したら、両親も一緒に泣いてくれた。ああ、やめてくれ。これだけは本当だ。嘘なんかじゃない。俺は弟を抱いた瞬間、自分の犯した罪の重さを思い知らされたんだ。本当だよ。頼む。

 それでも、あなたはわたしの弟を殺したことに後悔はしていないんでしょう? とわたしは冷静に問いかけたら、奴は頷いた。

 人は誰だって、ほんの一瞬だけ本心は変わる。そのほんの一瞬に人は重要性を求めるが、そんなものに何の意味がある?

 結局のところ、奴は反省や更正などしていなかったのだ。それを奴の口からはっきり聞くことが出来ただけで、この計画の意味はあった。何より、わたしと彼は間違っていなかったという、残酷でありながらもありがたい事実に安堵し神に感謝した。

 仮に、あくまで仮定の話だが、もし、奴が心から弟を殺したことに反省と後悔の念を充分過ぎるほど抱いていたとしても、わたしはこの計画の実行をやめなかっただろう。

 どのみち、弟の苦しみを思えばあまりにも代償が軽すぎる。何をどうしたところで、その罪から逃れるのは永久に不可能なのだ。

 フィルの人生を奪って、自分の人生がさらに有意義なものとなって幸せだったでしょう? 両親の愛情を取り戻し、村人からの憐れみと気遣いを手に入れ、別の親友との深い絆を手に入れて、密かに想いを寄せていた幼馴染みをも、憎きフィルから奪い取って、フィルが決して手に入らなかったことを、代わりに全て手に入れて幸せだったでしょう?

 フィルが奪われた未来を代わりに生きて、フィルが手に入れるはずだった愛する人と結ばれる未来、自分の血を分けた子を手に入れる未来、愛する妻と子に囲まれ充実した日々を過ごす未来を手に入れて、今までずっと幸せだったでしょう?

 だけどそれを全て奪われるだけであなたの罰は終わらない。あなたの人生も大切な人間達にも何の価値もない。フィルを裏切り、長く苦しい地獄の日々をもたらしたことへの代償は、あなたたち全ての人間の魂を犠牲にしても払えるものじゃない。

 だからといって、自分一人だけが苦しんで済む話だなんて思わないでね。

 わたしが淡々とそう告げたら、奴は笑ってしまいほど取り乱し泣き叫んだ。復讐するなら俺だけにしてほしい。妻と子供達は関係ないと想像通りの台詞を吐き散らかして。

 あなたがフィルを理不尽に憎んでいたように、わたしとフィルも、あなただけじゃなくあなたの大切なもの全てを理不尽に憎んでいるんだから仕方がないでしょうと説得しても聞く耳持たなかった。

 すると、今までずっと沈黙していた彼が口を開いた。

 だったら、抗ってみればいいと。

 もしそれが出来たら、お前を解放してやる。

 君は強いんだろう? 自分の犯した罪と向き合ってここまで這い上がってきた。

 もし親友の悪意から逃れることが出来たら、我々はこれ以上君に何もしない。

 彼の予期せぬ提案にわたしはうろたえたが、同じように黙っていた弟が、いいねそれと陽気に同意した。

 不公平だからね、とまるで男同士で理解し合ったような口ぶりだった。

 しかし、そんな彼らの温情虚しく、ブレイクは見事、立派な殺人鬼となってくれた。

 やがて弟の声は聞こえなくなった。

 わたしは目を閉じ、弟が今、とても安らかな世界にいるという錯覚を抱く。

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