壊れた三人
『よくもぼくをとじこめたな。みんなじごくへおとしてやる』
真っ赤に染まる何か――それは人もしくは生き物の血だと見た誰もが気づくだろう――で、大きく書かれた謎の伝言。謎めいていても、それから伝わる何かに、今同時に眺めている四人は全員戦慄が走った。しかしその理由は分からないまま、困惑まじりに眺めるに任せるだけでもあった。
「何だこれ、気味が悪い」
かろうじて吐き捨てるバトラーの声が、虚しく洞窟内に響き渡る。ジョシュアは後ろめたい気持ちをなぜか抱きながら、マーサの顔をのぞき見た。
同じく驚きの表情を浮かべているも、やはりその激情は相も変わらず幼い鉄仮面の下に留まっているのみであった。しかし、ゆっくりと何かを悟ったような頭の動きを伺い知ることが出来た。
「大丈夫か?」
マーサという存在に投げかけるにはひどく気の利かない一言であるというのは、彼女とのそれなりの旅で学んでいても改善出来なかった。それを反省するのは時間の無駄だと、青ざめていく彼女の表情がジョシュアにそう語りかけているようだった。
「……ねえ、フォスターは闇獣にどれほど詳しいの?」
唐突な質問に、フォスターは困惑しつつもきちんと彼女の質問に答えようとした。
「どれほど、と申しますと……?」
質問に質問を返すという苛立つ会話をつなげる気などないと、マーサはフォスターを睨みつけた。その瞳には苛立ちや怒り以上に、彼女が持つにはいささか不釣り合いな感情が密かに浮かんでいた。
恐怖。
しかしそれは幻のようにすぐ消え去り、老成したような強さをたたえた本来の彼女に戻り、今なお困惑から脱却しきれていない神父に詰め寄った。
「闇獣に乗っ取られた人間は闇獣を倒した後、魂を浄化させるため儀式を行うのよね? だけど、今まで『失敗』したことはあるの? 闇獣に取り込まれたまま、結局何も出来なかった――っていうことはあるの?」
フォスターは冷静でありながらもただならぬ剣幕を抱くマーサに押されながらも、きちんと彼女の質問に答えた。
「『失敗』といいますか……今までそういったことは。どの事例も最後はきちんと闇獣の封印に成功していますし、それは、多少は逃亡し被害が拡散した事件も少なからずありましたし――」
「そんなこと聞いてるんじゃないわ! 今まで――今まで闇獣に肉体と魂を乗っ取られたまま、葬られた人間はいないのかって聞いてるの。闇獣から引きはがすことが出来なかったあるいは、引きはがしたように思われても実は魂は闇獣の中に入ったままとか」
次第に暗く低い声色に変わっていくマーサに、フォスターもつられるように顔色を変えた。
「ま、まさか……そんなことは。しかし、ここで発生した事件以前はどれも数百年前の事例ですから、断言は――」
「誰か、今まできちんと確かめてきたの? 食われた人間の意識や魂が、闇獣の中に残っていたのか……まさかとは思うけど、こんなもの見つけたら、そう思わずにいられなくなって」
「くだらない。こんなのは悪質ないたずらだ」
思わぬ形で新たな不穏な空気が流れているのを断ち切るように、バトラーは強気な口調で割って入った。そんな彼を、マーサは鋭く一瞥し詰め寄る対象を変えた。
「いたずら? 専門の術士の手で厳重に封印されたはずの扉をたやすく開けて、中に闇獣がいるかもしれない恐ろしい場所に入り込んでまで、わざわざこんな悪趣味な伝言残したっていうの? そんな頭のおかしい人間がどこにいるっていうの?」
「闇獣が、意思を持って自分から出て行ったって言いたいのか?」
ジョシュアはつぶやいた。じわじわと、恐ろしい事実とそれに築かれた確かな現実が自分の中に染み渡っていくのを嫌でも感じながら。
「……闇獣の中に、ブレイクが殺した少年の意識が生きていたとしたら? それが時間をかけて、自らの力で封印を解いて脱出したとしたら?」
そう告げるマーサの瞳は、恐ろしいほど透明な光を放っていた。
「くだらない。おかしな妄想はやめるんだ」
子供の愚かな過ちを上からたしなめるようにバトラーはマーサに言った。彼女はもちろん素直に従わず彼を睨み会話の矛先を変えた。
「ジョシュアを助ける時、ブレイクの姿を見たでしょう? 黒く不気味な影に覆われた、見た者を皆恐怖で震わせる、おぞましい姿。全身が黒く包まれ、かろうじて背丈とわずかに判別出来る体つきと体の動きで、男だと推測出来た。そして、生き残ったアムール村の住民や家族、面識のあった人間は黒い影からわずかにのぞいた顔で、ウイリアムス・ブレイクだと確信した。今までずっと、あの黒い影が気がかりだった。恐ろしい黒魔術を密かに傾倒していただとか適当な推理は聞かされてきたけど、どう考えてもつじつまが合わなかった。確かに奴は十二才で殺人者になったという過去があるわ。でも、それ以外は――納得出来ないけどまともな人間だった。自分の犯した罪に怯え、数年間はまた誰かを傷つけるんじゃないかと精神に安定を欠いて、私の母がつきっきりだった。村に帰って周りから受け入れられて、自分の存在を否定されず過去の罪を水に流されても、本当はいつも、心の底で自分がまたいつ、誰かを傷つけるのかと怖れ続けていた――母が残した記録に書いてあったわ。克明にね。そんな人間が、自分からよからぬものに手を出してまで人を大量に殺そうだなんて壊れた発想抱くものかしら? あなたも、一応家族として過ごしてきたんだからそう思ったこと、あったでしょう?」
マーサはジョシュアに目を向け、会話の矛先を転換した。
「何だよ今さら……あいつが人を殺したことは紛れもない事実だって、お前いつもそう言ってたじゃねえか」
今さらそんなこと言われても、訳が分からないとジョシュアは困惑しつつも反発心を抱いてもいた。心の底で彼女に兄を擁護されたくはないという己の本心とも向き合うような形で。
「それは変わらないわ。ただ、今までずっと心に引っかかっていた。奴は本当に自分から、『殺したい』からという理由で殺人鬼になったのかって――所詮は殺人鬼、ただの異常者。自分のおぞましい本性を隠すのはたやすいと結論づけもした。それでも、どこかでずっと府に落ちなかった。だけど大勢の犠牲が出ている以上、そんなものは些細な問題の一つでしかなかった。全てをかけて本人を捕まえればいいだけ。だけど、だけどこんなもの見たら……何だか、今まで自分が目をそらしてきた問題を突きつけられたような気がしてならないの」
「もしそうだとしたら、どうなるんだ? もし、奴が闇獣に取り憑かれ操られていたことで全ての事件を起こしたとしたら、奴は捕まった後どうなるんだ?」
バトラーが別の嫌な予感に気づき、新たな疑問を投げかけた。フォスターが冷静だが険しい表情で、問いに答えた。
「闇獣に操られ、自我を奪われていたと結論づけられれば、責任能力なしで無罪となるでしょう。当然しばらく教会の監視下に置かれそれなりの処置は取られますが、おそらく――」
「結局十二才の時に起こした事件の時とほとんど変わらないことになるわね。多少厳罰にされるかもしれないけど、最終的に身分を変えられて別の場所で別の人間として新しい人生を送り直す。教会の監視下も形だけのものになるわ、きっと」
代わりに淡々と告げたマーサの言葉に、バトラーが何か言う前にジョシュアが理不尽に激昂した。
「……ふざけんなよ。そんなバカな話あってたまるかよ!」
こっちは母親を殺された。家族を皆殺しにされた。同じ村に住む知り合いを大勢殺された。まだ十三才だった自分に想像を絶する悪夢を与え、以後の人生を、一生消えることのない地獄の日々へと塗り替えた。
たった二年の間だったが、怒りと憎悪の気持ちはさらに深くなっていた。自分の人生を捨て別人として生きようともがき、ほんの短い間その夢が叶った時でさえも、己の奥底に決して消えなかった。時間が解決してくれるという幻想など捨てざるをえなかった。
実の兄にして、世紀の大量殺人鬼となったウイリアムス・ブレイクという存在に対する、壊れてしまいそうなほどの思いは、消えるどころか強く大きくなっていった。今もそれは続いているのだ、心の奥深くのどす黒い場所で。
思わず反動で今まで押さえてきたそれらが溢れ出しそうになったが、フォスターの冷静な一言で我に返らされた。
「話を戻しましょう。ブレイクが罪に問われるかどうかは、今は関係ありません」
「ええ、いちいち考えていたら気が散ってしょうがないもの――まずは、ここで何が起きたのか突き止めないと」
マーサが壁に大きく書かれた血文字を見て言った。静かに、それでいて何かを決意しているような強く確かな口調で。
「術士に会えばわかります……まだ、常駐していたらの話ですが」
フォスターが、別の最悪の事態を想像し暗い表情で言った。
各地に点在する闇獣の祠には、必ず教会管轄の『術士』が常駐する決まりがある。フィルという少年が殺された事件の際、当時の術士は封印の不備を激しく世間から糾弾され、教会からの処分も相当重いものになるはずだったが、アムール村住民の尽力により社会的制裁を免れた。村人から、有望な若者で真面目、人当たりのよい人格者として信頼を勝ち取っていたおかげだった。数年教会の管理下で術士として再教育を受けただけで、ブレイク同様愛するアムール村へと再び本来の職務を全うするため帰還した。彼の教会とアムール村への恩義と忠誠心は大きく、襲撃事件の際奇跡的に重傷を負い助かった後、過去の一件もあり当時以上に世間から激しい糾弾を受けてもアムール村跡地近くに常駐し続けた。かつて守れなかった闇獣の祠を、今度こそ守り通すため。しかしそれを直接確かめたのは、今この四人の中にはいない。
重要なものを管理している建前上、定期的に教会の監視員が祠と術士を訪問するという決まりがあるが、そんなもの、既に大した意味がなくなっていること位、四人は察していた。
世間は誰も、彼の存在を気にしていなかった。心配することも、疑うことも、何も。
フォスターはここを訪れる際、まずは術士に会うことを拒否しそのまま祠へ向かうと宣言したマーサと衝突した。やはり彼女だけは彼に疑いの目を向けることを忘れずに、証拠隠滅の防止という名目で祠の様子を見に行くことを譲らなかった。それは祠を管理する術士への敬意を欠くと思いの外引き下がらないフォスターを丸め込むのにさすがのマーサも手を焼きつつも、それでも彼女の思い通りに事は運んだ。
そしてやはり彼女の判断は正しかったとフォスターは思い知らされたようだ。
「本当に、忠誠心だけでこんな場所を守り続けていたのかしら?」
マーサはまともな人間が直視したがらない血文字に背を向け、三人の顔を見て続けた。
「ブレイクが起こした襲撃事件の時、念のため闇獣の祠も確認されたらしいけど、封印が解かれた形跡は確認されず、内部に闇獣の気配があることが確かめられただけで、異常なしと判断された。ブレイクがここを訪れた形跡もなく、ただ術士が幸いにも常日頃厳重に祠を管理していたおかげで、二次被害は免れただけ――それで終わり。それで今日見に来てみたら、この様よ」
「……教会は何をしていたんだ? こんな重要で危険な場所を、どうしてそういい加減に管理しておいたんだ!」
バトラーが感情的に言い放つ。当然の反応だろう。ここに眠っていたのは、ただの化け物どころか、大昔世界を滅ぼそうとした存在の一部でもあるのだから。
「危機感がなかった、と言えばそれまでかしらね」
マーサは冷たく、フォスターを見つめて言った。教会関係者でもある彼はいたたまれない様子でうつむいた。
「……闇獣のことについて、多くを掘り下げるのは教会内では暗黙の禁忌とされてきました。騎士団側も――かつては、何度か闇獣の真実を公表しようと行動を起こした者がいましたが、秘密裏に淘汰され、禁忌を犯す者への見せしめになったに過ぎませんでした」
「教会も騎士団も、秘密を守り続けることだけに心血を注ぐようになった。世界や人々のことなど考えちゃいない、大事なのは自分達の立場。そして私たちは、まんまと連中の思惑通りに闇獣のことを気にしなくなった。あんな大それた伝説があるにも関わらず、それさえもただのおとぎ話扱いして真実から勝手に距離を置いてしまった」
「くだらねえ……」
拳を握りしめるジョシュアの姿を、マーサは冷たく一瞥し周囲を改めて見回す。粗末な祭壇らしきものと壁につけられた大きな十字架。そして闇獣を厳重に封印するため床や壁四方に描かれている魔法陣――それら全てが、まるで自ら存在意義を忘れ朽ちているようだった。世界の滅びをもたらそうとした存在の欠片を閉じ込めていた大仕事を果たしていたことなど、最初から作り話のようだともさえ思えた。
その光景を静かに眺め、四人は改めて何かを思い行動する前に、奇声が背後から響き渡った。
*
久しぶりの日記だ。もう書く気力などないと思っていたが、長年の習慣からはそう簡単に逃れられなかったようで、ふと、どうしても書きたくなってしまった。だが以前のような妄想に取り憑かれたような代物は、一生書けやしないだろう。あの日々は何だったのだろう。何も知らず、わたしは奴らと同じように弟に対して残虐とも呼べる幻想を抱いていた。おぞましい。我ながら、罪深く醜い。
だからこそ、より一層強く誓えるというものだ。罪滅ぼしという自己満足に屈せず、最愛の弟の無念と憎悪、地獄のような苦痛を与え続けてきたこの世界と人間達に、弟が味わった以上の苦しみを与えなければならないと。
わたしがこうして立ち直れたのは、大切な彼のおかげだ。世界でただ一人、弟を亡くしたわたしの憎悪も悲しみも苦しみも全て受け入れ、理解してくれたかけがえのない存在。彼は弟の真実を知って壊れてしまったわたしをまた救ってくれた。そして、わたしがすべき道を示してくれた。わたし一人では心細く力不足だったが、彼がいる。とても心強い。わたしの憎悪と苦悩、苦痛を我がことのように思ってくれる彼がいなければ、つくづくわたしは今ここにいなかっただろう。
改めて、許さない。
奴らを決して許しはしない。一人残らず思い知らせてやる。
彼は本当によく計画を立ててくれる。彼もまた、わたしと同じように愛する家族を理不尽に奪われておきながら、その悲しみをないがしろにされてきた。しかも彼に与えられたその後の苦しみを思うと、改めて怒りに震える。しかしそれも区切りがついた。それでも奴の犯した罪を許し、なかったことには決してしない。
奴は死んでも、いや死んでからきっちり悪人になってもらう。あれほど善人である自分に固執していたのに、死んだ後まさか極悪人として人々の記憶に刻まれることになるとは、夢にも思っていないだろう。せいぜい地獄で嘆き己の犯した罪を思い知ればいい。
ジェイク・マクレイン。
昨日、大切な彼に数々の理不尽を強いてきた男は昨日死んだ。彼の計画の一つであり、復讐の一つでもあった。大切な父と母、妹を強盗に殺された彼は、その事件を起こした人間を憎むことを許されなかったばかりか、教会の一員として許し、家族を亡くした悲しみを利用させられることとなった。
彼の家は裕福な資産家だった。そして彼の家族を殺したのは、貧民街に住む大家族の十四才――それだけで正義は変貌した。無残に焼き殺された彼の家族は死後理不尽な誹謗中傷に遭い、真面目な善人であった彼らは冒涜された。挙げ句の果てには、その事故を引き起こした強盗犯もわずか十四才というだけで、大した罪に問われず、短い感化院暮らしの後愛する家族の元へ帰った。
彼はもう二度と大切な家族の元へ帰れないというのに、彼の絶望はどれほど深かっただろう。
そしてマクレインは、そんな彼につけ込み、自分の目的を果たすため利用したのだ。貧民街出身であった奴は、いわゆる成り上がりだった。低い身分でありながら司祭にまで上り詰めた苦労人。そして、貧しい生まれであるが故に貧しい人々に共感し救済に奔走する、聖職者の鑑――それが奴の表の顔だった。奴は自分が善人として人々に慕われ信頼される自分に酔いしれ、それを守り通すことに全力を注いでいた。貧民街を救うことが奴の生き甲斐。そして正義だった。
その正義を貫くため、奴は慈悲深い聖職者の仮面を被り彼を利用したのだ。家族を失い絶望する彼の心につけ込み、同じく善良なる聖職者として生きる彼の使命を全うさせるという大義名分で、奴は彼の家族が遺した遺産をむしり取った。貧民街の寄付と救済という大いなる正義を成就させるために。
彼は、お金などどうでもいいと言っていた。家族は帰って来ないという現実の埋め合わせにはならないし、むしろ手元にあるだけで別の意味で家族が死んだ現実を思い知らされて辛かったそうだ。しかし、だからといって貧民街の連中にそれを与えるのはどうしても許せなかったらしい。家族を殺した犯人は貧民街の人間。個人的な感情としてたやすく割り切れるはずはない。しかしマクレインは、そんな彼をさも極悪人であるかのように批判し、否定した。もちろん第三者には気づかれないように。その独善と偽善、自己満足の生き様を貫くため家族を殺された彼に、家族を殺した人間達の一味を共に救うことを強要したのだ。こんな残酷な話があっていいのだろうか? 彼は暴力を振るわれ、上司であったため結局は逆らえないまま、表向きの声明を発表し大切な家族の遺産を貧しい人々に寄付させられた。元々、彼に対する嫉妬も手伝い、マクレインは彼に事件で苦しむことさえも禁じた。家族の死を悲しむのはほどほどに、しかし犯人を憎んでいるような素振りを見せるのは決して許さない。そして教会の一員として貧民街の救済に手を貸せ。家族のことも中傷されたそうだ。
そして世間は、そんな男を慈悲深き聖職者と尊敬する。まるで全ては奴の筋書き通り――最初から、奴が全てを仕組んで家族を殺させ、遺産をむしり取って、貧民街の救済措置が大々的に執られるよう仕向けたのではないかと、本気で信じてしまいそうだ。現にその後貧民街は彼の寄付金もあって劣悪な環境が改善された。もちろん、その一部であった、彼の家族を殺した犯人の家族も、昔のような貧困に苦しむ必要はなくなった。
人殺しが幸せになったのだ。
これではまるで、弟の事件と変わらない――だから、彼はわたしを唯一、本当の意味で受け入れてくれた存在となりえたのだろう。同じくわたしも、彼の憎悪や苦悩、苦痛を共有出来た。
今、わたしたちが密かに練り上げている計画の一部に、マクレインは入った。不安はあったが、あっけなく成功してむしろ拍子抜けさえした。不安はあったが、幸いにも、彼もわたしも、奴の本性を知りつつも奴の前で仮面をつけて生きる術を誰よりも上手く学んでいた。おかげで奴は、呆れるほどわたしたちを信頼していた。むしろ体のいい駒とすら思っていただろう。真面目だけが取り柄の、身寄りのない、教会内部でもちっぽけな身分に甘んじているその他大勢の虫けら以下だと。彼は寄付の一件以来奴をひどく憎悪していたが、逆らわなかったことで奴の『信頼』を勝ち取ったのは皮肉な話だ。
計画は時間をかけ、慎重に準備をしてきた。憎しみの力というのは、人をこんなにも強く賢く、効率的に行動させるのかと実感させてもらった。もちろん、他にも怒りや信念、執念など様々な感情は入り交じっているだろうが、わたしの心を支配していたのは、ただただ純粋な憎悪に他ならなかった。
おかげで、不安になるほど上手く事は運んだ。わたしたちが『死んだ』と偽装するため用意した二つの死体も、とても理想的なものが手に入った。貧民街の元殺人犯で、現在は更正して善人の皮を被って幸せに暮らしている男女――まさに、わたしたちの計画を遂行する死体役としてうってつけだった。新天地を求め旅立ったと、誰もが当然のことのように信じた。こちらは上手くやったつもりでも、あまりに誰もがたやすく信じる様子にかえって拍子抜けさえしてしまった。しかしおかげで、わたしたちは無事死んだ。
ビフレストの山で馬車で移動中、火災事故に巻き込まれて。マクレインは本当に愚かだった。わたしたちがまさか、自分に逆らうどころか命まで奪おうだなんて、さすがにそこまで想像は及ばなかっただろうが、いずれにせよ奴はもっとわたしたちを疑うべきだったのだ。
自分が彼にあそこまでひどい仕打ちをしておきながら、まさか許されているなどど本気で信じていたのだろうか? そこはやはり、殺人鬼であったバトラーやブレイクと変わりない思考回路を持っていたのだろう。
彼は徹底的に奴を糾弾し、殺した。彼自身の手で。自分は散々、臆病者で無力な存在だと侮辱され続けてきたからせめての仕返しだと、笑ってわたしに言ってきた。もちろん全てを彼に任せることにした。焼死に見せかけるが外部の損傷が万が一発見されると厄介だから、なるべく余計な傷をつけないようにと念は押しておいたが。
そして無事殺したマクレインの死体と、密かに荷物の中に紛れ込ませていた――これも、マクレインは一度荷物が多いことに気づいたものの、結局微塵も疑うことはなかった。それだけわたしたちは信用されていたのだ――わたしたち役の死体を馬車に残し、火をつけ森林火災に巻き込まれて死んだよう見せかけることに成功した。ちょうど、恵みの雨から見放された森はよく燃えてくれた。わたしたちの計画を心地良く進めてくれるため天が味方をしているのだと錯覚してしまうほどに。
御者を巻き込んでしまったのは多少気が咎めたが、御者もマクレインの息のかかった貧民街出身で、奴に心酔する子分のような存在だった。気にはしなかった。
こうして、わたしたちは死んだ。だから今こうして見知らぬ土地でこんなのんきに日記をつけているなどと、誰も考えてはいないだろう。マクレインの悪行も無事暴き世間に広め、奴を正真正銘の極悪人として貶めることに成功し、今とても充実した気持ちだ。
しかしわたしたちの計画は、まだ終わっていない。今はほんのひとときの休息を過ごしているに過ぎない。
わたしたちはこれから、マクレインを悪人として裁きを与えたように、残りの悪人共にも裁きを与えなければいけない。
我が愛する弟、フィリップ・クレメンタインのために。
それに、わたしたちは知っている。知ってしまったのだ。
この世界が隠し続けていた真実を。わたしたちが予期せぬ状況でそれを知ることが出来たのは、あまりにも大きな意味があったのだろう。
*
獣じみた下品な、よくわからない悲鳴が聞こえたかと思えば強い魔力が周囲を覆うのを感じた。
何も出来ず立ち尽くすだけだったジョシュアをマーサがかばうよう、二人は地面に伏せた。全ては数秒の間の出来事だった。
ジョシュアの視界に、フォスターがバトラーを突き飛ばし手をかざし、仁王立ちするように三人を大きな魔力からかばう姿が映った。
巨大な魔力がはじかれる不思議な音が響いたかと思えば、フォスターが吹き飛ばされるように、地面に倒れた。
「フォスター!」
ジョシュアを残し立ち上がったマーサはすぐさま地面に転がり、血を吐くフォスターに駆け寄り上半身を抱き起こした。バトラーは呆然としているだけだった。
同じく、杖を持ってわざとらしく怖れおののいているように見える――それほど激しく怯えていた様子だった――小柄でボロ切れのような男が、一行から逃れるようきびすを返し信じられないほどの早足で洞窟から逃げていった。
「待て!」
ジョシュアは咄嗟に、妙な使命感にかられるように男を追った。少し遅れてバトラーもついて来た。男は想像以上に早く、どんどんと距離を離していく。
しかし何もない平らな地面にあっさりとつまずき、男は無様に転倒した。情けない様子で起き上がることも出来ず、ジョシュアとバトラーはそのまま男を地面に押しつけるように取り押さえた。念のため、ジョシュアは足で男の手から離れ同じく地面に転がる杖を足で蹴飛ばし、ぼうぼうに生えた草の中へ隠した。
「何しに来たんだ! どうして、どうしてあんな場所に来たんだ! どうして気づいたんだ!!」
まるで今にも殺されるとばかりに、男は半狂乱に絶叫した。ついさっき、自分のしたことを棚に上げて。二人は男の取り乱しに拍子抜けさせられ、憐れみすら抱かされた。
「どうして、俺たちを襲ったりしたんだ?」
冷静になったジョシュアは、まっすぐな目で男を見つめ、落ち着かせるような口調で問うた。それでも男は素直に囚われておきながら、口だけが半狂乱のままだった。
「知らない! おれは何も知らない! あそこに勝手に入った! だから罰しただけ!」
「お前、術士なのか?」
そこでやっと、今さら気づいたようにバトラーは言った。男は彼と目が合うも、すぐにそらしまたも必死に訴えた。
「違う! 違う!!」
「その男は、アムール村の祠を管理していた術士よ。てっきり殺されたと思ってたけど」
二人が顔を上げると、フォスターを支えるように立つマーサが、男を汚いものを見るような目で言った。
「今さら、教会が来て、何するつもりだ!? おれは、おれは死刑か? おれは何も知らないぞ。ここでずっとそこを守ってる。それをお前たち、勝手に入った。だから罰する」
「からっぽの祠を? 何のために」
マーサにひどく冷たい声で問われ、男が子供のように怯えまた二人から逃れようとしたが、やはり力強く抑えつけられどうにもならないことを悟り、泣きじゃくるだけだった。
「おれは知らない。何も知らない……だから、死にたくない。ここでずっと祠を守ってるだけなんだ。おれは悪くない」
しゃくり上げる男の声がやけに不愉快に聞こえる。ジョシュアがついさっき抱いていた男への憐れみを忘れ、苛立ちと怒りを抱いた。
「話を聞くのに、少々時間がかかりそうですね」
「拷問でもすればいい。俺たちを殺そうとしたんだ。ガキみたいに泣きわめいて許されると思うな」
バトラーが吐き捨て、男の体を無慈悲に蹴り上げた。おかげで男はさらに泣きわめいた。
何とか一人で立てるフォスターを置いて、マーサは地面に転がる杖の元へ歩いた。そしてそれを手に取り、すぐに気づいた様子で顔を上げた。
「ちゃんと洗ったみたいだけど、やっぱり匂いと色は消えないわね。何人殺したの? 教会は身内には優しいの、あなたも知っているでしょう? 全てを正直に話せば、あなたは死刑にならないどころか、手厚く保護され穏やかな場所で管理され安らぐことが出来る。わたしたちに出会ったことを幸運と思った方がいいわよ? もし騎士団だったら、あなた本当に拷問にかけられて地獄を見る羽目になってたわよ」
バトラーへの嫌味のようにマーサは冷静に、男に語りかけた。男は少女のくせにやけに冷静沈着な彼女の声を、何とか自分の泣き声をかいくぐりながら聞いたのか、やっと静かになった。
「おれ……死なない? 死刑に、ならない?」
「あなたが全てをきちんと話してくだされば、我々もあなたに人道的な処遇を与えるように嘆願はさせてもらいます。教会はあなたの存在を以前より高く評価していました。あなたが不安に思うことは何もありません。だから、どうか我々と話し合ってください」
フォスターが子供に言い聞かせるように、普段より丁寧かつ穏やかな口調で男を説き伏せた。バトラーは苛立っている様子だったが、何も言わなかった。ジョシュアも、まず男が知っていることを話して欲しいと願うだけだった。
「わかった。わかったよ。おれ、ちゃんと話すよ。でも、おれは何にも知らないからな。おれはただここを守ってるだけだ」
醜い自己保身の姿勢を隠すことなく、男は立ち上がりジョシュアとバトラーに半ば強く監視された状態で、自身が住む家へと、深い森の奥を歩き出し四人を案内した。
*
一度日記を再びつけ直すと、やはり本来の習慣に逆らえないのか、こうして定期的に書かずにはいられない。一度はくだらない自己満足だと思ったが、開き直ればいい気分転換だ。日記というのは本来そういうものだということを、私はずっと忘れていたのだろう。
しばらくずっと書いていなかった。マクレインを殺して、奴の名声を地に貶め、わたしたちの死を偽装した頃など、日記など頭の片隅にも思い出さなかった。今、こうして気まぐれにまた日記を書き始めたということは、きっとわたし自身、ようやく今自分がしていることを当たり前のこととして受け入れたことの証なのかもしれない。彼に支えられながら、やっとわたしは覚悟を決めたのだ、本当の意味で。
せっかくだから、もっと過去を振り返って書いてみよう。すでに吹っ切れた――と言っても、あくまで冷静に振り返れるようになっただけの話だ。本当に吹っ切れていたら、わたしは彼とこんな計画の中に身を置いていない――あのことを、改めて振り返ってみよう。わたしがあのまま、壊れずに済んだのはつくづく彼のおかげだ。
愛する弟のフィル。彼は殺された。憎き殺人鬼の手によって。しかし、どのような形にせよ、人は死ぬ。それはこの世界に生きる者達全てが平等に持つ宿命だ。だからこそ、せめてわたしは、決して確かめることの出来ない希望にすがった。
人は死ねばどこに行くのか。それを確かめる術は当然のようにない。悪人は地獄に落ち、善人は天国へ行くと、わたしはずっと、ありふれた願いを抱いた。人殺しは地獄に落ちて、殺された人間は安らかな世界で幸せに暮らす。せめて、そうあってほしかった。例え生きている間どれほどの幸福に包まれ、たくさんの人間に信頼され愛されようとも、人の命を奪い、あるいは人の人生をめちゃくちゃにした罪は決して消えない。その代償を払うため、地獄に落ちるべきなのだと。
例え奴がそうならないとしても、せめて、わたしは、弟のフィルだけは天国という、よくわからなくても救いと幸福に満ちあふれた世界にいることを強く願った。それさえ果たされれば、それをきちんと知ることが出来れば、きっとわたしは誰も恨むことも憎むこともしなかっただろう。
しかし、現実はどこまで非情だった。あまりにもむごく、冷たく、理不尽だった。絶望のあまり、わたしは一度壊れかけた。今度こそ、本当に。弟を殺された時も、弟を殺した連中をかばう両親や村人を目の当たりにした時も、弟を殺した奴の母親が新しい子供を作り直したことを両親の手紙で知った時や、弟を殺した奴が弟の初恋の相手と結ばれた事実を知った時――何度も壊れそうになったことはあったが、あの時ばかりは、わたしは今度こそ完全に自分が壊れるの悟った。
きっとわたしは壊れてしまったのかもしれない。あの時壊れて、それを愛する彼が修復してくれた。そして今ここにいるわたしは、新しいわたし。そうでなければ、今こうして彼と計画を着実に実行しているこのわたしという人間の説明がつかないのだ。
弟の魂は、天国などに行っていなかった。それどころか、弟は死んだ後もずっと苦しんでいた。まるで、いや、本当の意味で地獄に堕ち苦しんでいたのだ。
何の罪もない、優しくてかわいかったフィル。命を奪われただけでなく、闇獣にその肉体を奪われ、地獄の苦しみの中親友だと信じていた殺人鬼に何度も何度もその小さな体を棒で叩きつぶされ、それだけでもどれほど苦しく、悔しかっただろうか。挙げ句に、その魂を闇獣に食われ、それと共に封印された。引き裂かれた血まみれの肉体だけで、弟は死んだと判断された。
そしてフィルは、あの暗黒の祠の中に閉じ込められ続けた。外の世界で親友を闇獣に乗っ取られ殺すことしか出来なかったブレイクが泣き叫び周囲から同情され、子供だからと大した罪に問われずすぐに村へ帰され、そこでまた、いや事件を起こす前よりもさらに恵まれ幸せに暮らし、村人や愛する両親に弟、妻に囲まれている間もずっと、弟はあの場所で苦しみ続けていたのだ。わたしと弟の両親が必死にフィルは天国にいると言い続け、ブレイクの母親が新しい子供を作り直して、わたしが神学校で愛する彼と出会い、何とかそれなりに笑って暮らそうとしている間も。あの事件を知っている人間達が平凡、あるいは善良な市民の振りをして暮らしている間もずっと。ずっとずっと。
弟は地獄で苦しんでいたのだ。
本当の地獄は、この世界にあったのだ。
弟は、あの祠で闇獣と同化した状態で閉じ込められ、ずっと、ずっとひとりぼっちで苦しんできた。これを地獄と言わずしてどう表現すればいいのだろうか。
もしもっとひどい地獄があるなら、わたしたちはそれを奴らにもたらす。それがわたしたちの立てた誓いと計画だ。
わたしは共犯になっていたのだ。殺人鬼ブレイクと、奴を信頼し愛する仲間達と共に、弟に地獄をもたらした。今こうして冷静にこの日記を書き続けているが、自分の喉を自分自身の手でかき切ってしまいたくなる。それに、現に今も弟を地獄に取り残したままという、さらなる所業を犯しているのだ。しかし、わたしは己が犯した大罪に苦しみ自殺することなど許されない。
こんな話、きっと誰に話してもただの妄想だと思うだろう。かわいそうな被害者遺族の妄想話。心を壊した、憐れな被害者の姉。
本来ならば、あの日――久しぶりに彼に付き添われあの村へ帰り、あの村を出て行く日――わたしと彼はあそこへ立ち寄るだけだった。もしそれだけで終われば、きっとわたしは弟が地獄に取り残されている残酷な現実を知らないままでいた。今思い返してもぞっとして、せめてこの顔をズタズタにしてしまいたくなる。
勇気を振り絞り、過去に区切りをつけるような気持ちで――今思い出して、何と身勝手で都合のいい発想だっただろうか――彼に付き添ってもらいながら、森を進み、闇獣の祠へ向かった。
森は何も変わっていなかった。今も昔も、深く薄暗く、広くどこまでも静かで、そして淡々と、村に寄り添うだけの存在でしかなかった。無機質で無感情な、自然の最も健全な姿が、変わらずそこにあった。
そして忌まわしき事件の現場もまた、変わらず残されていた。やけに真新しい大きな扉に、それを頑丈に閉ざす太く大きな閂。昔、もっと細く頼りなかったそれが凶器となって、弟の体をすさまじいまでに傷つけた。あまりにも変わり果てた弟の姿を見て、なぜ皆奴に更正の余地があると判断したのだろうか。なぜ、闇獣に恐怖したからといって、あのような異常な行動を取った子供を断罪しなかったのか。
そんななりきれなさを抱いて、わたしはその扉に手をやった。彼が優しく肩を抱き、一緒に手を重ねてくれた。決して忘れてはいけない悲劇として、その瞬間わたしは確かに、弟の冥福だけを強く祈り、惨劇が繰り返されることを強く拒絶していた。
きっとあの瞬間こそ、わたしが人生で最も純粋な瞬間だったのだろう。
だからこそ、声が聞こえたのだと、今振り返るとそう思える。
憐れな、何も知らないわたしに真実を告げる、弟の声。
初めは当然空耳だと思った。目を開け、彼に心配されて、すぐに気のせいだと取り繕うとしたが、声は大きくなった。
フィルが叫んでいる。
泣いている。怒っている。とにかく、何かを訴えている――空耳のはすなのに、それはどんどん鮮明になっていき、思わず恐怖した。
必死に気のせいだと言い聞かせても、そんなわたしの意思を批判するように、弟の声は鮮明になる。とうとう、完全に弟の声が聞こえた。その声は今もまだ、わたしの耳と記憶にこびりついている。
もしひとりでいたなら、わたしはきっと逃げだし、二度とあの場所へ帰らなかっただろう。しかし、わたしはひとりではなかった。
そのせいでわたしは、生来ただの臆病者だったくせに、勇気を手にしていたのだ。愛する彼がわたしに真実を確かめる勇気を与えてくれた。
そして共に知ることが出来た。知りたくなかったことを。知らなければいけなかった、この世でただひとつの真実を。
*
術士の家は呆れを通り越し絶句するほどの汚さと古さだった。元々祠からそう離れていない森の中に慎ましく建てられたそれは、草木がいっそう深く生い茂ったせいでほとんど外観を見ることは叶わず、術士は自らの体で作ったささやかな小道を草を避けながらジョシュア達を家に招いた。
大量の埃と正体も判別出来ないほどの悪臭に思わずむせかえり目が染みた。術士だけは平然と家の中を進んで行く。
「異常だ。こんな場所で生活するなんて」
バトラーは弱々しくも真っ当な意見を叫んだ。マーサはいっそうの嫌悪感をあらわに、術士を睨みつけた。
「こんな場所で暮らし続けるほど、あなたは術士としての任務に忠実であったのかしら。それとも、これは自らが犯した罪を無意識に表現しているのかしらね」
少女の年齢にそぐわぬ氷のような瞳に射貫かれ、多少余裕のある精神状態になりかけていた術士は再び恐怖に顔を歪ませ、汚い皿やひび割れた瓶、ほとんど引き裂かれ原形をとどめていない学術書など、家中に乱雑に置かれたそれらを手当たり次第放り投げ叫んだ。
「おれは悪くない! おれは脅されただけだ! 全部知らない男のせいだ!!」
ジョシュアとバトラーは小太りな術士の体を容赦なく押さえつけた。手足を激しく動かし抵抗する術士はすぐ大人しくなった。彼が暴れたせいで散った埃でまたも目が染みる。
「知らない男って誰だ? マクレインか?」
バトラーが先走るように術士に詰問したが、フォスターに制止され何とか黙り込み、尋問の続きを任せた。
「あなたはここに、ずっと滞在していたのですね? 我々は、あなたのことをほとんど知りません。まず、あなたがブレイクの起こした事件の後から今までどうしていたのか、きちんと説明してくれませんか?」
フォスターの聞く者を激しく安堵させ、油断もさせる穏やかな語り口に、術士はたやすく心を許し、たどたどしくも自分のことを話し始めた。
「おれは、ずっとここにいた。本当はくびにされたんだ。だけど、どうしてもここにいないといけなかった。それにここにいたがる奴なんか他にいなかったから、教会の偉い奴らはやっぱりおれがここにいていいって言ってくれた。たまに監視する奴が来たけど、今はもう誰も来ない。あんたたちが、久しぶりだ」
「どうして、ここにいなければいけなかったんですか?」
「死刑になるから、死にたくなかったから」
「どうして、死刑になるんですか?」
「男に脅されたんだ。おれがここにいないと全部お前のせいにしてやる。男が、自分のことも誰かに話したら――とにかく、おれは悪くない。全部おれのせいにされそうだったから、おれはここにいることにしたんだ」
「さっき、知らない男と言いましたね。彼とは、いつ会ったのですか?」
「ずっと前だ」
「具体的な時期は?」
「覚えてない。ずっと昔だった気がする」
「そうですか。では、代わりに、男の特徴を教えてもらえませんか?」
術士が話した男の特徴は、マクレインとは合致していなかった。フォスターは首を横に振り、仲間達が抱いていた期待を静かに否定した。バトラーも掴みかけた手がかりを再び見失うことになり暗い表情になったが、反面どこか安堵していた。
「まだマクレインが無関係と決まったわけじゃないわよ」
マーサはバトラーの顔を見ずに告げた。
「男の名前は? 本当に知らない人物だったのですか?」
術士は改めて思い返した男の姿に心底怯えるように、今度は頭を抱えうずくまり始めた。そんな彼をフォスターは優しく支えてやろうとするが我に返った術士に拒絶された。
「あんな悪魔みたいな目した男知らない! 教会の人間だって言ってたけど嘘だ! あいつは悪い奴で、おれを脅してここにいさせた。おれが何かしゃべったりやったりしたら全部おれのせいにしておれを死刑にするって脅したんだ。教会の人間があんなことするわけない。おれはあいつのせいでここにいる。おれは悪くない、おれは悪くない!」
「あなたは一度、責任を免れて救われた身じゃない。なぜそんなに怯えているの? 男に、一体何を言われたの?」
マーサは怒りを押し殺した冷静な口調で、術士に問いかけた。術士は目にたまった涙を乱暴に拭きつつ、彼女をこわごわと見返した。
「はっきり言うけど、誰もあなたみたいな人間が大それたことをするなんて思わないわよ。仮に男があなたに何かしらの罪をなすりつけても、教会も騎士団もあなたの本質に気づく。それなのに、ひとりで勝手に怯えてこんな場所にびくびく引きこもって、一体何の意味があったの? そんなに、自分が悪者になるのが怖いの? 一度悪者にされそうになった時のこと思い出して、怖いから? 自分の怠慢で祠の封印が解けて犠牲者が出た悲惨な事件で反省しておきながら、内心自分は悪くないって、今みたいに思ってたの?」
このちっぽけな家を押し潰してしまいそうな沈黙が五人を包み込んだ。マーサはうつむいた術士に静かな怒りを抱いた眼差しを決して向けるのをやめようとはしなかった。
「おれは、あの時、悪かった。それは今も変わらない。だけど――だからって、たくさん人を殺したり、世界を滅ぼすことに荷担してるなんて思われるのはおかしい。だからおれは悪くないんだ。悪いのはおれを脅したあの男だ。だからその男を捕まえてくれよ! 闇獣もそいつらが連れて行ったんだ! 早くしないと世界が大変なことになる」
散々要領を得ない証言をしないと思ったら唐突に重要なことをわめき散らして術士は自分の中で最も信用して甘えてもいいと本能で判断したフォスターにだだっ子のようにしがみついた。
「世界を滅ぼすって何の話だ!? 貴様どこまでいろいろ知ってるんだ。黙って聞いてれば自分のことばかり心配してこのくそったれ!! 早く全部説明しろ――」
やはり我慢の限界とばかりにバトラーが術士をフォスターから引きはがし、まるで彼を脅すあまり殺してしまいそうな形相で詰め寄った。憐れな術士は泣きわめきながらその子供のような体を汚い床やがらくたと呼ぶにふさわしい生活用品の山が積まれた壁に叩きつけられ、本当に死にそうな悲鳴を上げた。
何とか細身のフォスターは自分より大柄で力強い、怒りと興奮に満ちあふれたバトラーをはがいじめにし、何とか彼を冷静にさせることには成功した。諫められたバトラーは変色した食器の破片が体中に散らばった状態で床にうずくまりすすり泣く術士に舌打ちし、一旦彼から離れた。
ジョシュアは止める気にもならなかった。この術士の、あまりに非協力的かつ自己保身に走りっぱなしの言動に心底うんざりしていた。目の前からいなくなればいいのにとさえ思う。これ以上話を聞くどころか関わり合いにもなりたくない。
ふと、こんな奴でもあの事件を起こした原因を作ったのに、大勢の村人から擁護され救われたことを思い出した。
意味がなかったのだ。
ブレイクのように、許してやる意味など、なかったのだ。
マーサは術士に近寄り、ゴミを見るような目で彼を見下ろしながら、彼女なりに穏やかで心優しい口調で語りかけた。
「大丈夫よ。きっと、誰もあなたを責めはしない。あなたを責めるほど、教会も騎士団も、世間も残酷じゃない。素直に全て話せばいい。そうすればきっと、あなたを苦しめてきた存在は白日の下にさらされ、あなたは長い苦しみから解放される。怯えてもいいし、逃げてもいい。だから、後はわたしたちに任せて、全てを話して。時間は充分にあるわ。あなたが望む通りに時間をかけて、ゆっくり聞かせて」
まるで、母親が幼い我が子を慰めつつ説得させているような、巧妙な口ぶりだとジョシュアは思った。残りの二人も、彼女の意外な一面を見たとでもいうような顔でマーサを見ていた。
マーサの母親も、そうやって他人の心に優しく語りかけ、心を開かせることが得意だったと、母が息子を救ってくれた女性のことを喜々として二人目の息子に話して聞かせていたのを思い出した。
マーサは初めて、自分はあの女性の娘なのだと証明してみせた。術士は体を起こし、フォスターのことなど眼中にない様子で、ゆっくりと、今度こそ自分自身が知っている限りのことをジョシュア達に話し始めた。




