アンナの里帰り
大好きなあなたへ。
わたしは今、馬車に揺られて生まれ故郷に向かっています。せっかく里帰りをするんですから、いつものようにあの場所とか、あんな村とか、悪く語るのはやめておきましょう。やはりあなたとの思い出があり、何よりあなたとわたしが世界で二人きりの姉弟として生を受けた大切な場所なのですから、短い間だけでも敬意を示さなければいけないと思っていますので。
隣には大切な彼がいます。狭い空間で二人きりのせいか、何だかやけに素っ気なくて無言で外の景色を眺めているだけですけど、本当はわたしが今こうして書いている日記の内容が気になって仕方ないようなのがひしひしと感じられて、思わず笑ってしまいそうです。でもわたしはいい大人なので我慢をして、彼もまたいい大人ですからわたしの日記を見ないようにしてといった具合で、おかしな我慢大会が繰り広げられています。
今のこの時間が何だか楽しくて思わず手紙を書いてしまいましたが、困ったことにまだ今日は始まったばかりで大したことが書けません。なのでまた後で、少し落ち着いてから手紙の続きを書かせてもらいます。なのであまり首を長くしないで待っていて下さいね。
夜になりました。とっても静かで過ごしやすい夜、今日は特にそれを感じられます。村の人達はほとんど眠ってしまっているでしょう。彼もそうです。隣の、あなたの部屋だった場所で長旅の疲れを癒して安らかに眠っていることでしょう。わたしが彼を連れて帰って来ると知って、お父さんもお母さんもはりきって家中を掃除したと笑顔で話していましたが、そのせいでしょうか? あなたの部屋には、あなたのものが何もないんです。本当に、何も。思わず、張り切り過ぎてあなたの思い出の品まで捨てちゃったの? と笑顔で聞いたらなぜか二人共暗い顔をして気まずい空気になってしまいました。
過去にいつまでも囚われていけない。愛する者を失った悲しみを乗り越えるためとか、よく分からない言い訳をお父さんがしていましたが、ようするにあなたの思い出が辛いからとあなたに関係する品は全て捨ててしまったようです。本当に、何もかも。大きな家具から小さな、些細なものまで何もかも。お母さんは泣きそうな顔で黙りこくっていて、何だかこっちが悪者みたい。そんな顔をするなら、こんなことしなければいいのにおかしな話ですね。いつも自分の意思を持っているような素振りをして、嫌なことは全部お父さんに任せきりでいつも最後は逃げるくせに。二人共何も変わっていないようで安心しました。
二人は部屋というだけで申し訳ないのに、あなたの使っていたものであふれる部屋を大事なお客様に使わせるのも申し訳なかったとか取り繕っていましたが、彼はそんなこと気にしない人間なのに。わたしも彼も、あなたという存在を受け入れているのに、何だか悪いことをしていると咎められているような気持ちになってしまいました。
とっても嫌な空気になっているのをごまかすように、とっても大きくなった、立派な大人になってくれて本当に嬉しいと二人で口々にまくしたてて引きつった笑いを浮かべていました。ずっと会っていなかったせいで向こうもそれなりの距離を感じていたのでしょうね。まるで他人に気を遣っているようなよそよそしさ。本当にわたしが帰ってきて嬉しかったの? だなんておかしな質問をしてしまいました。
そしたらお母さんったら、どうしてそんなひどいこと言うのって泣き出してしまって。お父さんもお母さんに何てひどいことをってカンカンになって、後はいつも通り自分達は親としてどれだけ苦しんできたのか、今までどんな思いでろくに帰って来なかったお前のことを考えていたのかとか、恩着せがましくて自分達のことしか考えていないようなことを並べ立てて、すっかりどうしようもなくなってしまいました。
やっぱり、帰らない方がよかったのかな。
ううん、それでもこうして帰ってきて、あの人達があなたをどのような気持ちで今思っているのか、その事実を知ることが出来て、むしろ気が済みました。彼がついて来てくれたおかげです。もし彼がいなかったら、わたし、きっとこの家をめちゃくちゃにしてしまうところでしたもの。あの人達には直接手は出せないんですけど、おかしいですね。
彼に仲裁してもらいながら、わたしはひどく反省したふりをして何とかその場をしのいで早々にこの自分の部屋だった場所にこもっている次第です。この部屋は何も変わっていません、と言いたいところですが、あまりにも久しぶりに訪れたせいでもうすっかりわたしの部屋だとは思えなくなっています。この家自体がもうわたしの家ではないのですから、当然の感情でしょう。あなたの思い出どころか生きた証に痕跡も、きっともうこの家には何もかもないのでしょう。あの人達がそうすることを選んだのですから、文句は言いません。
だからわたしにも、同じくあなたを忘れろと命令する資格もありはしません。これですっきりしました。今まであの人達を親として信頼出来ず、彼らとまともに向き合えなかった自分への罪悪感に苛まれ続けてきましたが、これで一歩踏み出せそうです。
きっとわたしは二度とここへ戻って来ることはないでしょう。彼らにわたしが一人前に大人の女性として自立している姿を見せてあげただけでも充分です。思えばあの人達のことをわたしは最初から愛していたのでしょうか? 分からなくなってきました。あの人達は、わたしを愛していると言っても、所詮血の繋がった家族であるという、紛れもない否定しようのない現実のおかげで、そう思い込んでいられるのでしょうね。
家族だから、と何があっても愛して許し合えて、共に手を取り合い寄り添って生き続けていける。
どんなに想像を絶する悲しみや苦しみ、怒りや憎しみに襲われたとしても、例えそれが一生続くとしても、家族という存在が救いとなってくれる。
だからでしょうか?
だから、あいつらは唯一無二の『家族』として紛れもない信頼と愛情に結ばれ、今もこうして近くでのうのうと幸せに暮らしているんでしょうね。奪われた側のわたしたちは一生家族として信頼し合うことが叶わないというのに、奪った側である家族がむしろその『奪った』罪を利用して幸福な人生を手に入れるなんて、まるで悪魔みたいですね。違いますね、世間の善良なる人々に言わせればわたしの方こそ悪魔なんでしょうね。人の幸せを嫉むどころを憎んでさえいるんですもの。壊れてしまえばいいと思うどころか、壊してしまいたいと思っているんですもの。でも彼に止められているので実行出来ません。元々実行する勇気や力といったものは持ち合わせてもいないので、情けない話ですが。
わたしはいつまでも、優しくて穏やかで真面目なアンナなのですから。そんな真似出来やしないんですから。
明日、村を回ってみんなの様子を見に行ってきます。彼がついているので大丈夫だと思います。今、この村に住み着いている、あの頃、いやあの頃よりもずっと昔から変わらない顔をしてどんな暮らしをみんながしているのか。わたしはそれを直接目で確かめようと思います。それがわたしが今すべきことのような気がしてならないのです。
憎悪の思いも消えないし、きっともっと増えてしまうでしょう。同時にあなたを失った過去とあなたがいない現実を改めて思い知り、さらなる悲しみを味わうこととなるでしょう。
それらを全て、わたしが背負うべき罰として受け入れる。それがわたしが自ら進んで行うべき行為なのでしょう。
だからわたしは、あいつらの顔を見に行ってきます。もういい年をした大人になったというのに、あなたを心配させてしまう真似をいつもしてばかりいて、姉として情けない話ですが。
あなたはいつも通り穏やかに過ごしていて下さい。それじゃ、おやすみなさい。誰よりも大切で、心の支えであるかけがえのないあなたへ。
*
マーサの顔がいつも冷徹を画に描いた少女らしからぬ無表情だったものから、内側から衝撃と恐怖がじんわりとにじみ出るように変化していくのを、隣でジョシュアは眺めていた。
「バカな……こんなことが」
フォスターもあからさまにうろたえ、おかげで恐ろしいまでに重要な何かが起きているという実感を抱かせてくれる。そして四人は、同じ戦慄の空気の中で立ち尽くしている。
当たり前のように開かれた古びた扉の前で――おぞましい存在を封印していた割に、ひどく頼りない木の扉。それを見た目にそぐわない強力な術士の魔力で強固なものとしていた事実など、扉に刻まれているかろうじて高尚さを伺わせるすっかり薄くなった紋章と、真っ二つにされた閂の残骸を見ても、今一体誰が信じることが出来るのか。
マーサは制止するフォスターを静かに振り払い、つかつかと扉の向こうへ消えた。ジョシュアとバトラーも慌ててついていこうとしたが、フォスターに力強く止められた。
「いけません! 長い間闇獣を封じてきた場所なんです。近寄るだけでも悪影響が――」
「気配はもうないわ。安心して」
洞窟の中から冷たくマーサが言い放ってきた。その声を聞くだけで大丈夫だと思わされた、相変わらずの声。そして反論するフォスターに同じ口調で遮り返答する。
「きれいさっぱり、跡形もなく消えてるわ――逃がした人間はさぞかし上手に連れて行ったんでしょうね」
おそるおそる三人で洞窟内部へ一歩踏み出すが、やはり何も感じないし、何事もなく内部へ潜入出来た。すでに先へ進んだマーサに後押しされるような情けない形で三人は思ったよりも狭く短い洞窟内部を進んだ。外部からの明かりで、薄暗くもそれなりに視界は成立していた。とてもおぞましい存在を封印していた場所だったなどと、やはり直接中に立ち入っても実感が持てない――ジョシュアは、一足先に突き当たりへ辿り着いていたマーサの背中と、彼女が見つめる洞窟の突き当たりを見やった。
そこに視線を向けた瞬間、嫌でも思考と体が停止した。
*
誰よりも大切なあなたへ。
今日の朝は、表面上は何事もなく過ぎました。あの人たちのあからさまな機嫌を伺うような態度はそばで見ていて実に滑稽で、さらに何事もない、ありふれた仲の良い親子を装おうとする振る舞いも変わらず不愉快でした。
それらの感情全てを押し殺し、わたしも彼らに合わせてあげました。もう昨日の時のように本音をこぼすような失態は自分でもごめんですから、今日ばかりはきちんと。おかげで彼らも安心しているでしょう。どんなことがあってもわたしは彼らの娘。血の繋がった大事な娘がまさか自分達を騙すような真似をするはずはない、悪いことをするはずはないと信じて疑ってなどいないのですから。
親が子を愛し、信頼する当然の感情。
だから、あの女もそれに従い自分の息子を最後まで愛し信じ抜く道を選んだのでしょうね。あなたを奪ったあいつの罪を利用して、自分が世界で一番息子を愛する深い母の愛を持つ最高の存在だと誇示するために。
話を戻しましょう。出かけようとすることにあまりいい顔をしなかった彼らを説得するのに、彼の存在はとても心強いものでした。あの人達は彼がついていれば大丈夫だと、たった一日会ったばかりの、悪い表現をすれば見知らぬ男が自分の娘と二人きりで外を出歩くような真似を簡単に許しました。どこまで人を信じる自分達に酔いしれているのでしょうか。教会という組織への信頼が絶対的であるという証でもありますね。いいお手本です。
この村に今も変わらず住む懐かしい面々も、相変わらずでした。どこかで淡い期待のようなものを抱いていた自分が、つくづく愚かしく、情けないです。
皆、表面上はとても明るく優しく、何事もない素振りで接してきました。それでも連中から感じる後ろめたさと好奇心、長い年月で築かれきた互いの壁と溝、そしてわたしが、事件の被害者遺族ということへの気遣いなど、たくさんの気持ちが悪い空気や感情がないまぜになっているのを嫌でも感じさせられました。もちろんわたしも、何事もない、昔と変わらない――大人になってもっと明るく真面目な女性となった、みんなが優しくていい子だと思い込んでくれているアンナになって、村人との再会のひとときを楽しみました。おかげで誰もが、昔の事件を蒸し返されなくて済んだと安堵しているのがひしひしと感じられました。でも勘違いしないでほしいですね。わたしはわざわざ、あなたたちのように側で見ているだけで騒ぎ立て、被害者であるこちらをまるで悪いことをしたような目でずっと見てきて、同情するような顔をする反面その裏でこれ以上村の平穏を乱すな、面倒くさい真似をしないで惨劇を食い止めた彼をむしろ許してあげなさいと、あれは事故のようなものだった、彼がああしなければ他にも大勢の犠牲が出ていて、亡くなったフィル君もきっともっと悲しんでいたよとずっと、ずっと善人のふりをしてこちらの気持ちを何一つ顧みてくれなかったあなたたちと、昔話をするつもりなんてありませんよ。本当の思いを隠すのは疲れるものですが、この村ではそういう感情は麻痺するものなのですね。わたしはきっと、人生で一番嘘をついているような気がします。その嘘が真実になったらどれほど楽か、この村で、ここに住む村人と同じものの考えになり平穏無事に暮らせたら――そんな甘い誘惑にかられあなたという存在を捨てるなんて真似、するわけありません。こちらから願い下げです。
今日、わたしは彼とそのまま、あいつの家に行こうと思っていました。まるでそれを都合よく遮るようにデニスが現れました。デニス・ハートマン。覚えていますか? 誰よりもあいつをかばい、あいつを信じた、あいつの親友。あいつと物心ついた頃からずっと固い友情の絆で結ばれていた。あなたとはあまり仲が良くありませんでしたね。いつもあなたが泣かされていたのを覚えています。年上なのに体が小さいあなたをいつも傷つけて、あなたとあいつがフィルとウィル、仲良しな二人組として周囲に認知されているのも気に入らなかったのでしょうね。あなたさえいなければ、彼はあいつと二人きりの絆を手に入れられる。
だからでしょうね。彼はあいつが事件を起こした後誰よりもあいつをかばい、あいつの唯一無二の親友として振る舞い、誇らしげでもあった。ある意味あの女よりも性質の悪い存在です。でも、そんな彼は周囲から見れば友達思いの善人。想像を絶するような罪を背負う友を前に子供なりに苦悩しながらも、それでも子供ながらの強さで懸命に乗り越え、永遠とも呼べる友情を誓い、こうして立派に大人の男として成長し、今平凡ながらも幸せに暮らしている。もちろん、友情を誓い合った人殺しもすぐそばで。
わたしと彼は、デニスの家に案内されました。頑張って建てたんだと若い夫婦が住むにはやけに広い家を自慢されました。幸せそうな顔で、子供はたくさんほしい、ベティ(彼の奥さんです、見た目はまあまあ。だけどちょっと苛立っているような顔つき)は丈夫で子供はたくさん生めるからと医者にも太鼓判を押されているから楽しみなんだと、聞いていないのにいかに自分が今幸せなのかべらべらとしゃべって、おかげで気まずい空気があっという間に消えていきました。作り笑いを浮かべていた彼の奥さんも何だか助かったような表情を浮かべていました。自分では上手い具合に隠していると自信でも持っているのでしょうが、わたしの目はごまかされません。ご主人はそういうのに気づかないまま、彼を中心にわたしたちの会話は流されていきました。
彼との内容は大したことではないのでこれ以上は割愛させてもらいますが、あいつの話を一切してこないのには気になりました。まるであえて避けているように。それから少し時間が過ぎて、デニスは彼を連れて家を出て行きました。家の外に子供用の遊具を作っているので自慢したいだとか言って、気づいたら部屋にはわたし達女二人だけ。気まずいったらありはしません。気が滅入るので適当な言い訳でわたし一人でおいとましようかと思いましたが、ベティがぽつりと、「あの人と一緒にいると、気が滅入るの」とつぶやきました。
話を聞いてほしそうで仕方がなかったので、しばらく彼女の愚痴を聞いてあげました。自分の夫がいつ戻って来るのかとびくびくしながらも、彼女は不意に訪れた好機を逃さないようわたしに溜まっていた彼への不満を静かに打ち明けていきました。
「正直言って、ウィルのこと嫌いなの。あの人すごく真面目でいい人だって評判だけど、昔のこと知ってるから、あんまり付き合いたくないの。あたしが住んでた村でも有名で、彼との結婚だって親から反対されたけど……デニスのこと好きだったから。でも、まさかこんな風に家族ぐるみで毎日顔合わせる羽目になるなんて思ってなかった」
そのまま泣きそうになって、適当に慰めてあげたら少しだけ立ち直ってくれました。やはり今まで溜まっていたものを吐き出さずにはいられないのか、彼女はその後も話をやめようとしませんでした。
「訴えたことあったの。その前まで何度かやんわり文句言ってたんだけど、いっつも逆に説得される形になって丸め込まれてたから。一回はっきり嫌だって怒ったの。そしたらね、あの人ものすごく怒って、顔とか頭ぶたれて大変だった。すごく痛くてうずくまってたら、すぐにあの人優しくなって抱きしめて謝ってきた。それからもう、ちょっとでもウィルのこと悪く言ったら怒鳴ってもの壊すようにもなっちゃって――でもすぐ自分が壊したもの自分で片付けてなかったことにして、申し訳なさそうな顔で謝ってきて。おかげですっかり文句言う気が失せちゃった」
そんなに辛いのなら、彼との生活をやめればいいとわたしは彼女の話を聞いた誰もが当然のように抱く感想を口にしました。しかし彼女は親の反対を押し切った手前だとか、周りの目があるとか、煮え切らないことしか話さないこと。すっかり苛立ってしまいますが、ここはわたしもいい大人ですから、真剣に心配しているような表情を浮かべて彼女の話を引き続き聞いてあげました。
「分かるでしょう? 彼、外面すごくいいの。昔のこともあるから、こんな話周りのみんなにしても信じてもらえなくて、親にすら話せなくて。ウィルとのことさえなかったら本当に何も不満ないんだけど」
問題はそれだけではないとわたしは思いましたが、何も言いませんでした。どうせ今の彼女に何を言っても届きはしません。無意味なことをすればかえって面倒なことにもなりかねませんものね。それに、彼女にはこのままでいてほしいというのもありますし。
デニスが本当の意味での『幸福』を手に入れていないという事実を知り、救われました。顔には出しませんでしたが、気分がよかったです。そして心から彼女に感謝しました。そして憐れでした。彼はあいつとの友情を何よりも大切にすることで、最も大切にしなければならない存在を手ひどく傷つけ、犠牲にする。何という愚行と罪深さ。
やはりあいつは悪しき存在なのです。しかし、だからといって振り回される周囲に何の責任もない、むしろ被害者というのも、それはそれで都合のいい話かもしれませんね。
ベティは、一通り話して気が済んだのか、すっきりした笑みを浮かべて感謝の言葉を口にしました。そして謝罪の言葉も。いきなりこんな話をしてごめんなさい。でも、あなたにだったら打ち明けてもいいかもしれないと思ったから。
それは、わたしがあの事件の被害者の家族だから? と聞いてみました。彼女は一瞬暗い顔をしましたが、すぐに違うと慌てて否定しました。あなたはとても優しそうで教職についているから、付き添っていた彼もとても評判のいい人だって聞いていたからとか、まるで自分の不都合な部分を隠すようにまくしたててきました。
まもなく二人が家に入ってきたので、秘密の会話は打ち切られました。わたしは一応目で、このことは二人きりの秘密だと伝え、彼女も嬉しそうな表情を浮かべました。彼女のこれからの生活を思うと全く何もしないというのは非人道的でしょうが、元々彼女が選んだ道です。それにそのうち、この村の連中に毒されてすぐにあいつを受け入れ、仲の良い村人同士上手くやっていけるでしょう。偽りの幸福を本当の幸せを思い込みながら、一生を終える。あんな男を好きで好きでたまらない彼女にはお似合いの人生でしょう。どうぞ末永くお幸せに、ベティ。
デニスの家を出てすぐ、わたしは彼と二人あいつのもとへ向かおうとしましたが、その必要はありませんでした。
あいつが、わざわざデニスの家の前にまで現れてくれたのですから。
*
ウイリアムス・ブレイク。
この名前をはっきりとこうして記し、はっきりと頭に思い浮かべるのは、久々に姿を見てしまったことも合わさって苦痛でたまりません。しかしわたしは負けたくないと強く思いました。わたしたちとのこの世界での絆を未来永劫引き裂いた憎き仇に、何を動じる必要があるのでしょう。だからわたしは、至って冷静にあいつと向かい合いました。
あれから、八年も経ってしまったのですね。あいつと対面しただけで、どうしてこう考えないようにしている現実を嫌でも思い出させられてしまうのでしょう。どの村人に会っても屈しなかったわたしの意思が、あいつ一人の登場でたやすく砕かれました。全く、わたしも弱い人間です。それでも表面上は強い人間を演じる自負はあるのです。
あいつの姿は、年月を経た通りの姿をしていました。あなたから未来と時間を奪っておきながら、残酷にも当たり前のように年を取ったあの姿。真面目で善良で無害な、平凡な青年を装っていても、わたしは確かに知っています。
彼は人殺し。
あなたを残虐な手口で地獄の苦しみを与え、命を奪った、まぎれもない極悪人。なのに、そう未だに考え続けるわたしこそ悪人。
人を許さない、貧しい心を持つ罪人だと、人々は咎める。実の両親でさえも。
こんなわたしを受け入れてくれるのは彼だけです。だから、彼がいなくなってしまったらきっとわたしは今度こそおかしくなってしまうかもしれませんね。
話を戻しましょう。不愉快ですけど、現実と向き合うためにも。
あいつはデニス同様、久しぶりに合った仲の良い友人に対するような態度で近づいてきました。おぞましくてなりません。嫌らしい笑顔まで浮かべて。ぎこちなくも、旧友への再会を喜ぶ好青年を演じて、やはり自分が都合良く生き抜く術を知る人間なだけあります。他人に信用される言動に長けているおかげで、あんなにも非情な所業をしておきながら大した罪に問われずに済んだのですから。
わたしはさすがに限界が来たのか、そっけない態度で接してしまいました。おかげであいつの暗く悲しげな表情を拝む羽目に。やれやれ、自分のしたことを棚に上げて、よくもそんな顔が出来たものです。デニスも間に入ってはっきり言わなくてもこっちを責めるような態度を取って。しかしそこは彼が毅然をした態度を取ってくれたおかげで、デニスは追い払われ、わたしは彼と二人、あいつと向き合うこととなりました。
わたしはもう、あいつの前では仮面を脱ぎ捨てることにしました。しかしいい大人なのであくまで冷静に、淡々と彼と向かい合う形で。あいつはおどおどしつつもそれなりに堂々としていて、わたしの質問にきちんと答えました。
「まず、どうしてわざわざ自分からわたしに会いに行ったのか?」
彼、「自分が犯した罪と向き合うために、遅くなってしまったが君ともきちんと話をしておきたかった」
「それって、許してほしいってこと?」、わたし。
「それは違う!」と彼は慌てて否定しましたが、すぐに言葉につまってうつむきました。卑怯ですよ。あんな顔して自分の方が八年間苦しんできたみたいな態度を取って。
さすがのわたしも我慢の限界が来てしまいました。後は己の感情にまかせるだけ。彼の真っ当なる制止さえ冷たく突き放し、わたしは溜まっていたものをぶつけさせてもらいました。
あなたを奪われて以来、初めて、そしてやっと訪れた好機。ああ、わたしはこんな日が来ることをどれほど待ちわびていたか。そんな喜びすらあの時は考えず、ただわたしは憎悪の塊となっていました。あなたを奪われた八年前からの恨みと憎しみ、怒りを、無抵抗とも呼べるあいつがどうなろうとも構わず、今のわたしが出来る範囲でぶつけました。
何も知らない人から見れば、わたしは罪のない心優しく真面目で、周囲の人々に愛され信頼されている青年を理不尽かつ一方的に罵倒し責め立てる醜い心を持った悪しき女としか映らないでしょう。そして真実を知ったとしても一部の人間はわたしを罪人と糾弾するでしょう。人を許し、受け入れようとしない貧しい心を持った憐れな罪人として。
あまりに夢中で、わたしはその時あいつにどのような内容のことを話したのか、実はあんまり覚えていないんです。きっととても汚い言葉をたくさん使ってしまったことでしょう。憎しみに歪んだ醜い顔にもなっていたでしょう。しかしあなたのことを思えば、この程度に済んで我ながら、情けないやら何とやら。所詮わたしはあいつに復讐など出来やしない意気地なしなのですから、せめてわたしのこの気持ちをぶつけるしか術はなかったのです。
しかしそんなわたしのささやかな願い――反抗と表現すべきでしょうか――は、いともたやすく打ち砕かれました。あまりにあっさりとあっけなく。
突然、やめて! と木陰から声が響いたかと思えば、駆け寄ってきたのは、あのポーリーンでした。
覚えていますか? あなたが密かに想いをよせていた小さなポーリーン。あなたの幼くも短く、しかしそれでいてかけがえのない人生の中で輝いていた、唯一の光とも呼べる淡い初恋。忘れるわけがありませんね。あなたがいなくなって以来、明るさを失い家に閉じこもり泣き暮らし、わたしが村を出るまで会うことが叶わなかったため、本当に久しぶり――六年ぶりの再会でした。すっかり背も伸び大人の女性に成長したその姿には、確かにあなたが愛したあの頃の彼女の面影が色濃く残り、どこか幼さが残っていると思わせる顔立ちをしていました。彼女もまた、当たり前のように月日を重ね大人となっていたのです。
複雑な思いを抱えたまま、わたしは彼女との再会に喜ぶことも出来ないまま、唐突に登場したポーリーンとしばし向かい合いました。
彼女はなぜか、わたしをどこか責めるような眼差しを向けていました。すぐに怒りに満ちているのだと気づかされ、その理由も理解出来ました。
あろうことか、彼女はあいつをかばったのです。
わたしを、あいつを傷つける悪人として糾弾したのです。あいつは、わたしたちからあなたを奪ったというのに。
あいつのせいであなたはどれほど傷つけられ、苦しんだのか、それはあなたが一番分かっているはずだ――わたしのこんな叫びもあいつを盲目的にかばう彼女の耳には届くことはありませんでした。
彼女に関して、これ以上の報告は差し控えさせてもらいます。ただひとつ言えることは、あなたが健気に想いを抱いていたあのポーリーンはもういないということです。
彼女はもういません。悲しいことですが、これが現実です。この村では不愉快なことがたくさんありますが、今日のところはこんなものでした。
本当に今日はひどく疲れました。今もこうして日記を書いているこの手にもあまり力が入りません。しかし目を閉じようものならあいつの今の姿が目に浮かんでしまうのが困りものです。今夜はあまりいい夢が見れませんが、仕方がないことです。
こうなっているのは、全てはわたしが選んだこと。明日も疲れる一日でしょうが、もう少しの辛抱です。
それじゃ、おやすみなさい。どうかわたしが壊れてしまわないよう、祈っていて下さい。
*
大切なあなたへ。
わたしは自分への戒め、罰を与えるためにここへ帰ってきました。悲しみと怒り、憎しみは今もわたしの心を取り巻き、ここへ帰ってきたことで沈静化していたそれらが今にも溢れ出し、わたしという殻を破り暴走することを望んでいる気がします。
しかしこのわたし自身、思ったよりも冷静なのです。悲しみと怒り、憎しみは確かに何度も表へ出てきましたが、所詮些細なものですぐに引っ込め、やはり最後はあくまで、大人しく穏やかで真面目なアンナへと戻るのです。きっとここでわたしと接してきた連中の誰もが、時折わたしがとげとげしく冷たく怒ったような顔をすることを除けば、本来のわたしの温厚さ(気弱さ表現すべきですね)はなくなっておらず、やはり大人になっても今までのわたしだと安堵し、たかをくくっているでしょう。まさか、と想像するようなことは何一つ出来ない臆病者なのです、わたしは。あの頃と何も変わっておりません。悲愴と憎悪を一方的に抱き、それをほんの少しだけ他人にぶつけるだけで精一杯。最後は何も出来ず物陰で思いを募らせることしか出来ない。何て情けない聖職者でしょうか。こんなわたしでも、こんな表の顔が功を奏し周囲の人々の信頼を勝ち取り、子供達に慕われている教師として社会的信用と信頼を勝ち得ているのですから。ある意味あいつよりも性質の悪い存在でしょうね。
前置きはこれ位にして、今日起きた出来事をお話しましょう。ここにいるのは明日で最後。やけに長く感じられる日々でした。教会の方からもっと長く滞在することを進められ、実際その通りに日程を組みましたけど、正直言ってもうここにいる意味はないので、ここを早めに出発して、彼としばしの二人旅でも楽しもうかと思います。ここへ向かう途中も似たようなものでしたが、やはりここへ行くという重荷が旅を不本意なものにしていたので、せっかくです。せめてここを出発した後は解放感に浸りましょう。ここまでついてきてくれた彼のためにも、二人で笑いたいものですから。
いけないいけない。また長くなってしまいましたね。今日は大事な場所に向かいました。
あなたが、眠る場所です。
本来ならば、ここへ来た当日すぐにでも足を運ぶべき場所だったのですが、やはり意味がある場所なだけに足は重くなってしまうものなのでしょうか。今日やっと、あなたに会いに行くことが出来ました。情けないお姉ちゃんでごめんなさい。しかし妙なものですね。あなたが眠っている大切な場所だと言うのに、いつもこうしてあなたに手紙を書いているせいか、あなたと会ったという実感が芽生えません。最も、大切な存在が眠る場所といっても、そこに本当の意味で本人の存在を見出すというのはそれぞれの価値観に任されるものなので、わたしはあまりそういうことを器用に、あるいは割り切って出来るような人間ではありませんでした。あなたはあそこにはいません。だってあなたは、今も幸せな世界にいるんですから。この世のあらゆる苦しみから解放された素晴らしい場所で。
ところがあなたの、せめて今の幸福を願いながら墓標を見つめるわたしと彼の元に、来なくていい人間が来てしまいました。
メアリーベル・ブレイク。
そう、あいつを生み落とした諸悪の根源にして、わたしたち一家の破滅を引き起こした元凶を作り出した、悪しき女。その悪事に荷担したもう一人の男も当然憎いですが、憎しみの度合いでいったらこの女の比ではありません。
自分の力で生んだ息子という、己の分身を溺愛し周囲からその姿を子を愛する世界中のどの母親よりも愛情深く聖母のようだという評判を勝ち取り、それを利用し息子の罪を最低限にまで引き下げ、教会に媚びを売ることに成功し、さらに今もこの村で大きな顔をして住み着く、悪魔のような女。年月は彼女に老いという避けては通れぬ人の定めを与え、その姿は弱々しくも芯の強い『母』を思わせますが、わたしの目はごまかされません。
メアリーベルは泣きそうな顔でこちらへ近づいてきました。幼い子供を引き連れて。
「どうしても、あなたに会わなければいけなかった」と、自分の息子と同じことをぬけぬけと、訴えるような目で。やれやれ、あの頃の嫌らしいやり口は変わっていませんでした。わたしは無視して帰ろうと思ったら、何と彼女はわたしの目の前に無理矢理連れてきた幼い子供を見せつけるよう立ちはだかったではありませんか。
わたしが命を絶とうと決意させた存在。
あなたの命を踏み台にして生み落としたといっても過言ではない存在。
その顔を間近で、はっきりと改めて見た瞬間、わたしの心はどれほどどす黒く染まったことでしょう。おそらく、いやきっと人生で最も大きな憎悪に満ち溢れたことでしょう。あなたを失ったという現実を突きつけられ実感したその瞬間よりも大きなものだとは、我ながらよく分からないものです。しかしそこはやはりメアリーベルたる所以です。このわたしにこんなにも憎悪を抱かせるとは。もちろん本人にそのつもりはないのです。あの女は世界中に生きるどの人間達よりも苦しみながらも一生懸命生きる『母』を演じることに全身全霊を傾けているのですから、いつまでもあなたを失った過去にしがみついている情けない小娘の心情など理解出来るはずはありゃしません。
彼が力づくでもわたしを止めてくれなかったら、きっとわたしはあの女の愛の結晶――人殺しとなり事実上の失敗作となった息子の代わりに生み出した汚点のない新しく育て直せる自分の子供――にどんなことをしたのか分かりません。あの子供は恐ろしいものを見るようにわたしを見たかと思うと足早に逃げ出し、あの女は慌てて追いかけて行きました。きっとあの子供にとって、わたしは闇獣のようなおぞましい存在に見えたのでしょうね。そしてそんな記憶は成長と共に消え失せ、当たり前のように子供時代を終え、やがて人殺しの兄と同じ、当然のように大人になっていく。
そして誰も、あなたという存在を本当の意味で忘れていく。
きっとわたしは、あの女の新しい子供を手にかけてあなたを復活させようというあらぬ幻想を抱いていたのかもしれませんね。実際そんなことできっこありません。むしろわざわざこちらの手を汚してまであの女の大切なものを奪う価値すらありません。
そう考えた瞬間、とても吹っ切れたような気持ちになりました。だから、とても難しく辛いことでもありますが、忘れようと思います。これから先の長いか短いか分からない人生という時間をかけ、少しずつでもいいから、忘れていきます。きっと本当に一生を費やしてしまうでしょうが、冷静に考えて、わたしは連中を憎むことがむしろあいつやあの女の思う壺になっているのでは――罪を償いながらも懸命に真面目に善良に生きる自分達をしつこく恨むわたしという存在は、あいつらにとって心地良い引き立て役となってしまう。あいつらはあなたどころか、わたしまで自分達のよりよい人生を演出するための糧としようとする。いや、今もしているのではないか。きっとあの女は、自分の幼い息子に都合のいいことを吹き込み、全ての過去を正直に打ち明けるよう見せかけ、その実自分達のように十字架を背負う自分に酔いしれる兄と母と同じ生き方をするよう仕向ける。子育てと言う名の洗脳。思えばわたしは、実の両親であるあの人達の元からの脱却を望んでいたのかもしれません。
わたしは泣きました。彼の腕の中で。
なぜ、彼らはこんなにもわたしを苦しめるの?
なぜ、自分達が正しい顔をしてわたしと大切な弟を苦しめるの?
なぜ、あそこまで無神経な真似が出来るの? なぜわたしに弟を殺されたことを許すよう強要するの? なぜわたしに人殺しを受け入れろと脅迫するの? なぜ頑なに拒絶するわたしをよってたがって否定するの? なぜこの村に住む人達はみんなで事件を仲良く忘れていられるの?
わたしは間違っているの? やっぱりおかしいの? 悪い人間なの?
何度も喉がひっくり返りそうになりながら、わたしは彼に問いただし続けました。彼からすればいい迷惑だったでしょうが、彼はじっと静かに、優しい笑みを浮かべこんなわたしを受け入れてくれました。
思えば出会って以来、何度も過去への絶望と憎悪、悲しみで飽きることなく潰れようとしながらも踏みとどまるわたしを、彼はどれほど支え受け止めてくれたでしょうか。彼のぬくもり、優しい言葉、そして共につないでくれる手と、そして共に歩いてくれる足がなければ、わたしの今はありません。
この村に帰ってきたことの本当の意味を、わたしは確信しました。そして長年憎しみと悲しみに囚われていた自分を捨てようと、決意しました。
この村には、二度と帰りません。代わりに負の感情は全てここへ置いていきます。わたしたちのご両親はとても悲しむでしょうが、自分達の望むように考え生きられない子供など望みはしないでしょう。元々思い通りになどなれませんでしたし、第一わたしもいい大人です。お互いこれっきりの関係でいてよかったと思い感謝する時が来るでしょう。それはこの村で今も幸せに暮らす人々も同じでしょう。どれほど今を全うに生きようともこの村で起きた事件はなかったことに出来ませんし、自分が犯した罪を帳消しにすることも叶いません。
せいぜいお幸せに。わたしはもう、この村の人間ではありませんから、彼らの人生に口出しする権利などありませんし、彼らもそうです。
わたしは彼と生きていきます。これからもずっと、二人で。どうか祝福と応援をよろしくお願いしますね。
それじゃ、おやすみなさい。明日は旅立ちの朝です。新しい人生を歩むような気持ちで出発しましょう。
そうそう。わたしたちがこの家に帰ってから夜が更けた頃、あの女が自分の夫と昼間連れ出していた新しい子供を連れて押しかけてきました。誤解があったとか、今度こそきちんと向き合って話し合いたいとか騒いでいましたが、わたしと彼は至って冷静にお引き取り願いました。もう彼女達の顔を見て腹が立つどころか、むしろ憐れみすら抱きました。
気の毒なものですね。自分が痛い思いをして生んだ子供という存在がいなければ、自分の存在価値が見出せない。母親というのは悲しい存在です。そしてそんな母親に利用されるために作られる子供も、それ以上に憐れかもしれませんね。
*
何てことなの。
わたしは間違っていた。
この八年何をしていたんだ。
あなたはいなかった。
フィルは天国になんかいなかった。
それどころかあんなところにいて。
あいつらは隠していた。何もしなかった。隠蔽した。
わたしも連中と同罪だ。もう取り返しがつかない。何て恐ろしい罪を犯してしまったのだろう。今まで何をしていたんだ。
許して下さい許して下さい。愛するフィル、どうか許して。あなたがあんなにも苦しんでいたことを知らずのうのうと生きていて。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ
(アンナの日記は、ここで終わっている)