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第一話 ぼくにメイドと暮らせというのか

 すぐに後ろに引けていくスカートから抜け出たことで、ぼくの視界はまた色を取り戻した。

もちろんぼくは一歩も動いていないので、一歩遠ざかったのは彼女のほうだ。

引き換えに足のもう少しだけ上にあった核心に迫る道筋を失ってしまったのだが、今はそれどころではない。

スカートの裾を気にしながら腰をふりふりしている相手は、少し恥ずかしそうにしつつ、そのまま腰を屈め、ちょこんとぼくにお辞儀をした。まるで場違いに。

「おんどりゃー、なに邪魔してくれよんねん!」

背後から怒声が跳んできた。

その声の調子はどうやら本気のようだ。やけに柄が悪い。いやそれは最初からか。

振り返る間もなく、さらに音を立ててなにかが頭上を高速で通り過ぎていったような気がする。

いや、なんなのこれは……振り返るどころか、思い悩む時間もない。

不意に目の前の黒いメイド服姿の女の子が笑ったのが目に入る。この間僅か零点零五秒。そんな短いわけはないか。

それとほぼ同時に、彼女のそばで作為的に歪められた軌道で逸れていく矢のようなものが……てかこれミサイル!?

どごーんとまるでひとごとのような大音響を立てて、女の子の脇に逸れたミサイルっぽいものが、辺りの壁を破壊している。


我ながら現実を超越しすぎていて、なにが起こっているのかさっぱりわからないんだけど。

しかし時系列順に並べて説明すると、ほんとにこうなるのだから仕方がない。

「黒塔始さまですね、お初にお目にかかります。本日より貴方に仕えることになりました……チヒカとお呼び下さい、ご主人様」

鈴を転がしたような音色で、さも平然と自己紹介なぞ喋っておられるこのメイドさんは、一体なにを言っているのだろうか? いや自己紹介か。

彼女の片腕が上がると、また後ろから飛んできたなにかを指先で受け止めている。

その指先から落とされてころころと地面に転がった物体は、恐らくはなにかの弾丸だろう。いやそうとしか見えなかったのだ。

どう見てもこの硬質の物体は、教師のチョークや決闘の手袋級の物質ではない。

おいおい白刃取りかよ。いやこれは刀じゃないからなんていうんだ? 北○○拳みたいなものだろうか。


 ふと後ろを振り向くと、すっかり忘れていたピンクのゾウさんパンツ女が、頭に血を昇らせてこちらにズカズカと向かってきていた。

「どっせーい! まとめてしんだりゃあ!!」

ほんとに柄悪いなあこの娘。割と可愛いのに。

吠え立てる女とメイドさん……チヒカさんとやらの壮絶バトルが始まる。人智を越えた拳と拳のぶつかり合いは、まあどこかの漫画のどつきあいでも想像してもらうことにしよう。

全く事態についていけないぼくは、二人の足元にしゃがみこんで、それから逃げようと体を縮こませるだけだった。

あくまで怒り心頭に向かってくるピンク……ああもうめんどくさい、ゾウさんにしとこう。ゾウさん女と、メイドさんの冷静に繰り出されるガードアンドアタックの火花は、結局十秒ほどもかからずに、ゾウさんが吹っ飛ばされることで終わった。

その間、拳と拳が連続でぶつかる凄まじい大音量の中で、ガクガク震えているだけだったぼく。

「ちっくしょー、覚えてやがれ」

吹き飛ばされたというのに意外と元気な少女。また三下のセリフ丸出しだなあ。

「うっさいクソガキ、次は必ず思い知らせてやるからな!」

あ、口に出してた。自分もお約束か。


 やっと静かになった周囲の空気。

爆発で崩れたコンクリートの壁に、燻る煙。ここは戦場か。

いやまさに戦場だったのだが……。

それでもまだ理解出来ずに、地面に尻餅をついていた自分に、エプロンドレスを纏ったメイドさんが微笑みかける。

「貴方の命を狙う者からお守りするため、参上いたしました」


 そこからどうなったんだったか。

メイドさんが腰を抜かしている自分を抱き上げて家に送ってくれたこと、そして家に上がり込んできてそのまま居着いてしまったこと、その顛末は、後から思い出そうとしても実はあまり詳しく思い出せない。

ただ両親を亡くした自分の後見人であるところの、ほとんど会ったこともない叔父さんからの手紙には

「今後のお前の世話はチヒカに任せてある、報酬はこちらで見るので心配はない。あとは彼女に申しつけたまえ」と簡潔に書かれていて、彼女はそれを裁判で判決が出た時に広げる用紙(判決等即報用手持幡というらしい)のように、顔のそばで掲げて「ご安心ください」とやけに強気で言うので、これといって断る理由も思いつけなかったぼくは、諦めて空いている部屋へ案内してしまったのだった。


その後の彼女はてきぱきと自分の分と、ついでにぼくの万年床化していたベッド(変な表現だが意味合いはお察しいただきたい)を綺麗に整えた。

メイドさんらしく家事は手慣れた様子だ。ただのメイドではなく、思いっきりバトルメイドだったが。

「ご夕食は?」と聞かれたが、色々胸がいっぱいで考えることが多すぎて、いらないと言うと、何故か彼女は残念なようなほっとしたような顔をしていた。

その理由は後にわかりやすい形で判明するのだけど。


 気疲れしすぎて、そのまま夢も見ずに泥のように眠った、翌日の朝。

嗅ぎ慣れぬコーヒーとトーストの香りに目を覚まして、ほとんど片づけもせず、週に二度だけやってくる家政婦さんに任せっぱなしだったキッチンに行くと、そこは漫画的な表現も真っ青なほど、キラリと光り輝く場所に生まれ変わっていた。

いや誇張ではない。本当に光り輝いているのだ。どれだけ重曹を使ったのやら。そもそも一体いつここまで掃除したのだろう。

「おはようございますご主人様。朝食の用意が出来ております」

「うん、それはいいけど……そのご主人様ってのはやめてよね。チヒカさんっていくつ?」

「十六歳です」

「じゃあ年上じゃないか」

「年齢の問題ではありません、主人に仕えるのは忍の一族の掟でございます」

「忍? ……忍者なの?」

道理でミサイルをフィールドで弾き飛ばしたり、弾丸を指で受け止めたり出来るんだぁって、そんなわけあるか。

忍者観もおかしいし、身体能力もおかしい。ツッコミどころが満載すぎてどこから攻め立てればいいのやら。

どちらにしても、ぼくに彼女を攻め落とす攻撃カードは一枚もないのだけど。防御カードすらない。

なにカードならあるんだこのゲーム……終わりのない連続パスだよ。七並べなら失格になるしかない。見つめ続けてくれてもどうにもならない。

本気で喧嘩するまでもなく、ぼくがチヒカさんにかなう要素があるはずはないのだ。


 この人、本当に活動休止前のアンドロイドかなにかじゃないのかなあ。

そんなどうでもいい呟きをチヒカさんは素早く捉えた。それもとんちんかんな方向に。

「機械のように仕える身分という意味では、アンドロイドというのも間違った認識とは言えません。死して屍拾うものがないのがシノメイドの運命でございますから」

なんだよシノメイドって。忍だからシノメイドか? 安直すぎる。

次から次へと押し寄せてくるツッコまざるをえない波状攻撃に追われて、ぼくはその時飲んだコーヒーの味が微妙におかしいことに気づかなかった。


「というわけなんだけど……」

いつものように登校した学校。クラスで久しぶりに幼なじみに自分から声をかけて話したのは、そんな内容だった。

押し黙って聞いていた三人の反応はまちまち。

まずぼくの左に座る爆発気味の真っ黒な剛毛を無理矢理束ねている、とにかく胸がぺったんこなのを気にしているトウカは、それを聞き終えた瞬間、口にしていたカステラのかけらを噴き出して、ぶははははと豪快に笑い出した。

うわ、きたなっ。女の子らしさの欠片もないな全く。

「ちょっとはーくん久しぶりに勢いつけて喋り出したかと思ったら、一体なに言ってんの、それ新手のエイプリルフール?」

まるで本気にしてない様子のトウカは、口元を拭ってよだれと思しきものを落とすと、今度はぼくの顔をさも心配そうに、憐れむような目で見つめてきた。

頼むからその売られていく子牛を見るような目はやめてくれ。

 真後ろにいて冷静に伊達メガネを上げたアキミは、口元を綻ばせながら不気味な表情を見せている。

長い栗色の髪がきらめいて恐怖を増長させる、このわざとらしいネクラーな雰囲気、やめてくれよおい。

重そうな胸元がふるふると震えているのは、多分ぼくらには解らないように笑っているからだろう。昔からの彼女のクセである。

「それ詐欺師かなにかじゃないの」

そんな空気に割り込んでくる活発なもう一人は、スカートの裾から足の先にあるなにかがこぼれそうなことも気にしない様子で足を大きく組みながら、これまた好奇の目でぼくを見ていた。

頭の後ろで尻尾状に縛っている髪がふらふらと揺れるほどの体の動きは、トウカやアキミ以上にオーバーアクションで、とにかく体を動かしていないと気が済まない性質らしい。

「うちには取るものなんてなんにもないよ、ハルカ」

ふうんと相づちを打つハルカの顔が、納得出来ない様子でこちらを向いている。

気づけば三人から一斉に視線を向けられて、なんだか気恥ずかしくなってきた。

「なんでみんなしてこっち見てんの?」

その憐れみの視線はやめて欲しい。

「外に興味を持ち始めたのはいい傾向だよね……」

沈み込んだ声、魔界から発声しているかのようなアキミの声が響く。うんうんと同意する左右の顔は、アキミの不気味さにすっかり慣れて、それをおかしなものと思っていないようだ。

その後ろから、ひょいと顔を覗かせるもう一人。


「確かに……始がそういう顔するの久しぶりに見たな」

なれなれしくハルカとアキミの肩に手をかけたとほぼ同時に、その肩がくるりと回ってダブルで裏拳を叩き込まれて後退したのは、唯一と言っていい友人、いや悪友の田中……下の名前は忘れた、とにかく田中だ。

「そ、そうかな? そんなに暗かったかな」

「そりゃあもう」

この時ばかりは、四人の声が綺麗にはもった。まだ鼻を押さえている田中の声は籠もり気味だったが、それでも遅れまじと必死で食らいついてくる。

しかし制裁を加えた当の二人は涼しい顔だ。

多分アキミは大した腕力じゃないけど、ハルカのは強烈だったろうな。

一堂の後を引き継いで、トウカがしみじみと語る。

「カステラで言えば、紙にひっついた黒い部分に匹敵するほど暗かったよね」

その例えはどうなのだろう。全然ピンと来ない。

そんなことより、気づけば朝には一本あったカステラの包みが、九割がた消えていたことのほうが脅威である。

相変わらずの甘党+食欲魔人だ。見ているだけで口の中がじゃりじゃりと砂糖まみれになっていくようだ……。

「気持ちに余裕、少しは出てきた?」

これはハルカの心配そうな表情混じりの声。

その時になって改めて気づいた。周囲に随分と心配をかけて気を使わせていたんだなって。

余裕がない時ほど、周囲の様子が見えないものなんだ。

そんな当たり前のことに気づいたのは、チヒカさんとの出会いが、そんな気分も吹き飛んでしまうくらいの大事件だったからか。


 もちろんクラスメイトに話したのは、ほんの一部、女の子のメイドさんが住み込みで働くことになった、という部分だけだ。

チヒカさんは忍者の一族シノメイドで、素手でミサイルを弾き飛ばすということは、結局相談なんて出来なかったわけで……。

今日の反応を見ると、言っても信じてもらえないどころか、真剣に病院にかつぎ込まれてしまうかも知れない。

勿論誰にも言う気はないので、それはいいのだけど。

そういえばあの時、どこから跳んできたんだろうなあ、チヒカさん。

ビルの間の暗闇から跳んできたようにしか見えなかったが。

そんなことを退屈な授業の合間、窓の外で散っていく桜を見ながら考えていた。

うん、考えたところで答えが出せるわけがない。

全てが理解を超えすぎている。深く納得している自分がいた。

納得というよりは、さじを投げたといったほうが正しいのだろう。

そして当然の如く、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかったのだった。


 悪夢はその日の昼食で起こった。

朝、チヒカさんはこうのたまった。

「お弁当をご用意いたしましたので、是非お持ちください……初めて作ったものですけど」

この場合、言葉の重心は後半にかかっていると見るべきだったのだろう。

だがメイドさんの手作りお弁当という事実がぼくを狂喜させたせいか、はたまたミサイルを……以下略な驚きが継続していたせいか、そんなことを考える余裕はぼくになかった。

「今日はパンじゃないの?」

と声をかけてくる三人の輪に引っ張り込まれて、その視線を三方から浴びる中、教室で包みの中から取り出した弁当箱は、なんとも可愛い女の子サイズ。

蓋に描かれた動物のマークは、ピンクのゾウにどこか似ている、こちらはグリーンのワニ。我が家ではついぞ見た覚えのないものだった。

こんなもの一体いつ用意したんだろう。チヒカさんは手荷物一つ持っていなかったのにな。

あのエプロンに異空間に繋がるポケットがついているのか、実は深夜極秘裏に荷物がコンテナで運び込まれたのか。

あの人のことだから、どちらもあり得ないと断定できないから怖い。


 弁当箱を見つめる三人の視線はどこか複雑なものだ。

「メイドさんって若い人なんだよね? 美人?」

からかうような口調のトウカの声、しかし顔は笑っていない。

む、と口元を歪めているアキミ、これまた露骨に眉間に皺を寄せているハルカが、揃って弁当箱に睨みを利かせている。期待と不安と様々な感情が渦巻く衆人環視の中、ぼくはカパと弁当箱の蓋を開ける。

……中身はしゃけのふりかけのかかったご飯に、卵焼きとウインナーのオーソドックスな作りだった。

デザートのりんごは、やけにシャープなうさぎにカットされていた。

これポリゴン数少ないなあ。いや逆に多いのか? テクスチャ貼り忘れてカクカク露出しすぎなんだな。

「うわお、美味しそうなお弁当。メイドさんやるじゃないの」

アキミの言葉が終わる前に、もうひょいと卵焼きをつまんで口に含んでいるトウカの手癖の悪さよ。

さっきまでカステラをあれだけぱくついていたというのに、その食欲は衰えるところを知らない。

だがこの時はそれが幸いし……彼女にとっては災いしたのだから恐ろしい。

「んっ……ぐ?」

最初こそ笑み満面だったトウカが、徐々に微妙な顔つきに変化する。

そして胃袋直行といわれるその頬がリスのように膨らんだまま戻らず、何故かまだ口をもぐもぐさせている。

「どしたの?」

「いや……これは口で語るより、実体験で味わったほうがいいと思う」

変な奴だな。別に辛くて火を吹くとか、殻がじゃりじゃりしている様子もないのに。

というか先にそんな顔されたら、かえって食べにくいよね。

「じゃ、まあ一口。ん?」

一つ卵焼きを箸でつまむと、口の中にいれる。

うん、なるほどこれは……あれだ。

「お味はいかが?」

ネクラというわけでもないのに、何故かそういうキャラを装いたがるアキミが、興味津々に尋ねてくる。

そういう時の彼女は、決まって豊満な胸が揺れているから、視線の持って行き場に困る。

というかいつも揺れてるよね、それ。

「うん、なんていうか、別に食べられなくはないけど、美味しいとはとても言えない、微妙な味つけの失敗から来るがっかりクオリティが、ハーモニーとなって口内に広がり、飲み込むことに躊躇することでさらに傷口を広げるあれだよ」

ぼくの適当極まる投げやりな説明に納得したように、親指を突き出すトウカ。

それを呆れ顔で見ているハルカは、もう興味をなくしたように自作の特大おにぎりを頬張り始めていた。

「撤収~」

アキミの声と共に、トウカも自分のご飯に向き直る。

見捨てられたな……三人が三人とも、どこか嬉しそうな顔をしているのが、不思議なようなわかるような。

「作り話のために弁当も自作自演したんじゃねえだろうなあ?」

田中がワンテンポ遅れたボケを披露してくれたが、ぼくを含めて誰もそれに反応することはなかった。

いや、正確には溜息がぼくを含めて四つこぼれはした。

ちょっと寂しそうな瞳が逆においしいよ……田中。

ぼくはねぎらうつもりでポンと肩を叩いた。


少し食ってくれ……。いやだよ……。


そんなアイコンタクトを取れるのは田中とだけさ。


 結局ぼくは一人で手作り微妙弁当をずっともぐもぐし続けた。

ちゃんと全部食べたけど、これが中々飲み込めない。

食べた瞬間に火を吹くほどまずい恐怖料理と、どっちが嫌だろうな……これ。

実感としては、はっきりと拒絶出来るわけでもなく、一気にかきこむほどでもなく、長く尾を引くこの味のほうがダメージは大きいかもなと、思わずにはいられないぼくだった。

少し星を睨みたくなってきた。うまければそれが一番いいんだがなあ。


 放課後。

空の弁当箱をカラカラ言わせながらの帰り道。

いつものようでいて、なにかが変わった日常。

今日は久しぶりにみんなと色々話した気がする。今までだってジャックナイフのように尖って反発していたわけじゃないはずだけど、やっぱり空気が違うんだろうな。

どこかうきうきしている自分に気づいて、段々恥ずかしくもなってきた。

少しだけ顔を引き締めて歩くのもなんだか馬鹿らしい、なにもない平凡な街。

まあ……食事に関してはちょっと困ってもいるけれど、それは忘れよう。今は忘れよう。


 ぼくは小走りにアーチを抜けると、玄関のドアを開けた。

その時ぼくは久しぶりに、灯りのある家の温もりを体験した。

帰ってきた時一人でないのは、とてもいいことなのだ、本当は。

「お帰りなさいませ、ご主人様」

玄関で出迎えるチヒカさんにぎょっとして、ぼくはドラちゃん並に跳び上がりそうになった。いつからそこで待っていたの、一体。

「つい先程です。お帰りの気配は足音でわかりましたから。それまでは洗濯物をしておりました」

対人センサーでもついているのかこの人は。

いやあるいは家の回りに監視カメラでも張り巡らしているのかも知れない。

五感で感じ取っているという線も濃厚だろう。なんでもありすぎるよこのメイドさん。

「そういえば洗濯物、結構たまってたと思うけど……」

一応家政婦さんもいたし、腐海になっているということはないけど、汚れ物をためこんでいたのでぼくは怯んだ。

「はい、全て洗ってしまいましたよ」

ぼくは半信半疑で、リビングを抜けて庭の方向に足を向けた。

その後ろを音も立てずにメイド服姿のチヒカさんがついてくる。この辺だけちょっと忍者っぽい。

床が美しく鏡面のように輝いている。

靴下が滑りそうで怖いくらいだ。自分の家でなにもなしにチャップリンしたら滑稽でしかない。

 しっかしなにをどう掃除したらこうなるのだろう。やり方を教えて欲しいくらいだ。

まさか突貫工事で床全部張り替えたりしていないだろうな。

ますます懐疑的になる考えは、小さな庭一面に広がる洗濯物の風景で吹き飛んだ。

青いタオルまで白くなっているかの如く、純白の布があちこちに広がっている。

よく見ると物干し竿では足りないのか、二階の窓からも洗濯ロープが伸びている。

これじゃなにかのアニメの世界だよ……そのうち腕の関節回して洗濯機にならないだろうなこの人。

「これどうやってロープ張ったの? というか取り込む時は……」

聞くまでもないんだろうなと思ったが、彼女は途中で言葉を止めたぼくを不思議そうに覗き込んだ。

まあいいや……全て任せるしかない。

突然雨が降り出したら、多分この人はスカートを翻しながら、目にも止まらぬスピードで洗濯物を瞬時に取り込んでしまうんだろう。

それも一枚も濡らさない早技で。


「夕食前にお茶にいたしませんか? クッキーを焼いてみたのですが」

ぼくはその言葉に浮かれ気味にうんと頷いてから、あ、と思い直した。

しかし嬉しそうな顔をしてキッチンに向かうチヒカさんを、もう止めることは出来ない。

……まあ、クッキーで大きく外すことはなかろう。

卵にしてもウインナーにしても、生焼けだとか黒こげということはなかったのだから。

それに、本当にただ一度の偶然という可能性も、まだなくはない。

ジャムの替わりにケチャップを練り込んでみましたとか、そういうありえないことが起こる漫画ではないのだから。

いや待てよ、そういえば今朝のコーヒーはなんか変な味だった気もするな。

そう、一度の偶然という可能性は、既にここで消えていたのだ。

 それでも楽しそうにティーセットの準備をする彼女の姿を、微笑ましく見つめる。

その時ぼくは「この人の料理なら少しくらい失敗してもいいや……」と思い始めていた。

それくらい彼女の仕草は魅力的だ。

こういう華やかさとはずっと無縁だった気がする。

母さんが生きていた頃にもなかった雰囲気だ……もちろん肉親と他人の違いはあるけれど、やっぱりいいなあ。

あんなティーポット、家にあったかなと、チヒカさんがお湯を注ぐポットを見つめる。

カップにも次々とお湯を注いで温める、その仕草は実に可憐である。

ティーポットのお湯を捨てて、茶葉を入れる仕草にも愛らしさがある。

 ここまで散々貧困なボキャブラリで褒め倒しているのは、別にひいきの引き倒しではない。ここから落とすためである。

準備を終えた彼女は、熱くなったやかんを手にして、それを高い位置に掲げてポットに向けて注ぎ込む。

一番重要なシーンである。ここで失敗したらなんにもならないわけだが……はい、失敗しました。

お湯の流れはポットから見事に逸れて、床にドボドボと熱湯をぶちまけることになってしまう。

結果が出る直前までは、プロ顔負けの自信と余裕に満ち溢れていた、

実に自然な動作であったので、さすがにぼくもこんなことになるとは予想もしていなかった。

ぼくは慌てて立ち上がり、チヒカさんも飛び退く。

そこから放り投げたポットがぼくの頭の上に乗ってじゅっと音がするような、ギャグ漫画的な展開は別にない……ないのだが、これだけでも結構な大惨事ではある。

「も、申し訳ございません。すぐ片づけますので……」

慌ててバタバタと動き出す彼女に、先程までの可憐さはすでにない。

惨めなくらいに縮こまって、せっせと雑巾がけをする姿には哀愁さえ漂う。

父親の事業が破綻して、下働きに身をやつすどこかのお嬢様のようだ。

こちらにお尻を向ける姿はキュートではあるのだが、当然長いスカートがめくれていやんなんてイベントがあるわけもない。


 一通り水浸しになった床を拭き終えて片づけを終えたチヒカさんが、すまなさそうにぼくの前に紅茶を出したのは、それからかなり経ってからのことである。

さすがに二度目に挑戦する勇気はなかったらしく、それはふつーにお湯を注いだだけの、なんというか並の紅茶の味だった。

ま、別にぼくも味の違いがはっきりわかる男というわけではないので、それは譲ろう。

続いて申し訳程度にそっと差し出されるクッキーは、黄色と茶色の色の中間に焼けた、ほどよい色合いの品である。

しかし何故かそれはお弁当のうさぎにも似た、やけに生真面目な角張った形になっている。どうやらこの人の造形センスは独特らしい。

「お口に合えばよろしいのですが……」

「心配しなくても、そんなに変な失敗なんてしないでしょ。クッキーの隠し味に変なもの入れたりしてない限りは」

「はい。それはもうレシピ通りに……」

「塩と砂糖間違えてるとか、そんなお約束しないよね」

「まさか……」

ははは、と顔を合わせながら軽い笑いが起こった後、背景にカラスが一匹飛んだ気がする。いや気のせい、心理的な問題だそんなもの。

 サクッと音を立ててかじるクッキーの端……あれ、この味は。

「あ、あの、いかがでしょうか?」

うん……これは、お弁当を食べた時と同じ感覚だ。

はっきりまずいわけではない。

しかしなにか一味が足りていないために全体のバランスが崩れ、酷くまずいものに似た微妙な味わいが強く出てしまうのだ。

というかこれ、バター入ってる?

「はい、え、あ……」

咄嗟に彼女の見る方向で、ピコンピコンとそれを指し示す矢印と音が鳴るのがわかったね。

台所の端には、開封されてはいるものの、少しも使われていない無塩バターの包みがあるのだから。

そのクッキーは、バターの大事さがよくわかるお味だった。


駄目だ……この人なら少しくらい失敗しても許せると思った心が、ガラガラと音を立てて再び崩壊していく。

男を捕まえる時は胃袋を捕まえろという言葉の重みが、痛いほどによくわかる。

この調子でこの人と無事に暮らしていけるんだろうか、本当に。

しかし、頭を下げては戻し、下げては戻し、まるで水飲み鳥のように謝罪を繰り返すメイドさんを見ていると、怒る気にもなれないんだよなあ……ヘラヘラ笑って許している自分が、ちょっと情けない。

多分この調子で、ずっとこれが続くんだろうなあ……。

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