57
夜明け前。不意に目を覚ましたディエゴはぞっとするほどの強い魔力を感知した。
(ディオンが戻ったのか?)
しかし、それではすまないほどの強烈な魔力である。今まで聖女から感じていた魔力をはるかに凌駕していることにディエゴは戦慄を覚えた。不安と焦燥が彼を煽り立てる。
(とにかく王宮へ行かねば!)
半信半疑のまま、急いで身支度を整えると、一人馬にまたがり、王宮へ向かった。
大声で門番を叩き起こし、中に入ったまではよかった。しかし、馬をおりて王宮に踏み込んだ瞬間、ディエゴの足は前へ進もうとしない。体は重く鉛を呑み込んだような不快感に襲われた。滝のような汗が噴き出す。生まれて初めての経験。それは未知なる恐怖だった。
(くっ……意識が飛んでしまいそうだ……)
そう思いつつもとにかく何が起きているのか確かめなければと、重い体を動かそうともがく。そこに、見回り中の二人の衛兵が通りかかり、慌てて彼のもとへ駆け寄ってきた。ディエゴのただならぬ様子に、声を失っている衛兵たちに彼は絞り出すような声で手をかしてくれと言った。衛兵たちはあわてて、両脇から、彼を支える。医者をと言いかけた衛兵に、首をふり、王の執務室へ連れて行くよう命じた。困惑しながらも衛兵たちは、ディエゴをささえて慎重に執務室へと向かう。
ディエゴは、自分の魔力感知能力を最大限に利用して、成功をおさめてきたが、まさか、その能力がすさまじい勢いで自分を恐怖のどん底に突き落とすとは夢にも思わなかった。それでも、彼は必死で冷静さを保とうとしている。本来なら、真っ先に召喚の間へ行き、何がおきているのか確かめる方がいいのだが、この状況では、バレンシアの力を借りる他ないと判断したのである。見下していた相手に、このような姿をさらすことは、自身の誇りを深く傷つけることとわかりきっている。だが、彼の理性はこの状況が彼自身に対処できる事態ではないことを告げていた。むしろ、こんな状況だからこそ、使える力を使えと自分に言い聞かせる。
そのころ、バレンシアはわずかに白み始めた空を窓から眺めていた。結局、一睡もできないまま朝を迎えようとしていた。
(まだお戻りにはならぬか……)
深いため息を吐きながら、手ずから紅茶をいれる。今は待つことしかできないことに、歯がゆさをおぼえつつも、彼の頭はディオンが戻らなかったときのための次の一手を模索していた。もし、ディオンが戻らず、モビリオが戻ったならば、ディエゴにすべてをまかせ己は隠居するのが、余計な内乱を起こさずにすむだろう。しかし、どちらも戻らなかったら。それが最悪の事態だとバレンシアは考えていた。最悪の事態。それはトリビスタンが終わるということだ。その時自分はどう行動することが最善なのか、あるいはどう行動することで最悪の事態を乗り切れるのか。バレンシアの心は、その問いかけに答えを見いだせないでいた。
(迷ってはならない)
そう自分自身に言い聞かせてはみたが、心がざわめくことを止めることはできず、深いため息が漏れる。そこへ、ディエゴを抱えた衛兵たちが転がり込んできた。
バレンシアは驚愕する。憔悴しきったディエゴ。あの傲慢不遜で常に自信に満ちている男がなぜこんなにも弱り切った姿で自分の前に現れたのかと。
衛兵たちは報告を後回しにして、ディエゴをソファーに座らせた。ようやく、バレンシアは静かな声で、なにごとかと尋ねた。衛兵が説明しようとするとディエゴは、それを制して外に出るよう促す。戸惑いながらも、衛兵たちは部屋をでた。バレンシアは、膝をつきディエゴの顔を覗き込む。血の気の引いた白い顔で、ディエゴは遮断の魔法をと言った。バレンシアは頷き、囁くように呪文を唱えた。しばらく様子を伺いながら、何が彼をここまで追い詰めたのかと考えたが、思考はまとならなかった。
「笑っても構わんぞ」
ふっと、皮肉めいた言葉がディエゴの口から洩れた。
「何をおっしゃる。それよりも、具合はどうですか?落ち着かれたか?」
「ああ、少しな。まさか、お前に助けを請う日がくるとはな」
ディエゴは口の端を少しあげて、苦々しく笑う。
「ご無理はよくない。しかし、何があったかおしえていただきたい」
「魔力感知の能力が災いしたのさ」
バレンシアは首を傾げた。
「王宮に想像以上の魔力を放つものがある。ディオンが戻ったのかと思ったが、聖女の魔力を凌駕している。おかげで、ぬしといがみ合っている場合ではないとおもうたのさ」
「では、ディオン様は負けたと?」
「わからぬ。召喚の間から使者はきておらぬのか?」
「ええ、まだ何の報告もありません」
仕方がないとばかりに、ディエゴは重い体をソファーから引きはがすように立ち上がろうとした。バレンシアは、バランスを崩しそうになった彼を支える。
「もう少しお休みになったほうがいい」
ディエゴは首を横に振る。
「何も確かめずに、じっとしている方が恐ろしい」
「わかりました。では、しっかり肩に捕まって下さい」
「……すまぬ」
遮断の魔法で感知能力は著しく低下しているディエゴだったが、本能的な恐怖なのか体は思うように動かないらしい。バレンシアに肩をかりてゆっくりと歩き出そうとしたときだった。一人の衛兵が青い顔で転がり込んできた。バレンシアは何事かと一喝し、彼の混乱した頭を正気に戻す。
「も、申し上げます!陛下が……身まかられました!」
空気が凍り付いて、喉を刺し貫いたような感覚がバレンシアを襲う。ディエゴはどういうことだと絞り出すようにつぶやいて、彼をみた。そこには、目を見開き、白い顔をした見知らぬ男がいた。ディエゴは彼の絶望的な顔に、かける言葉を失う。沈黙の重さに耐えかねたように、衛兵は言った。
「陛下は、毒物を飲まれてご自害されました!」
「毒だと?陛下は瘴気に当たって倒れたのではなかったのか!」
ディエゴの言葉に、バレンシアが私の過ちだと呟く。
「私が強制的に陛下を部屋に閉じ込めたのだ」
まるで、人形がしゃべるようにバレンシアの声に抑揚がない。ディエゴはなぜだと問い質すことさえできず、ただ、陛下のもとへとしか言えなかった。バレンシアは頷くこともせず、ディエゴに肩をかしたまま、歩き始める。ディエゴは、彼を先にいかせるべきで、自分が足手まといになっていることは自覚していた。だが、それは絶対にしてはならぬという思いが口を塞いでいる。二人は重い沈黙を背負って、陛下の部屋へ向かった。ディエゴは、執務室からはそう遠くないはずの、陛下の寝所がひどく遠く感じる。ほんの五分ほどの時間が一時間にも二時間にも感じられた。ようやくたどり着いた部屋のドアは開け放たれ、衛兵の姿は見当たらない。操り人形のように動くだけのバレンシアの足は、止まることなく、ディエゴを支えたまま、部屋へとはいっていった。
(ぬ……なんだこの匂いは)
微かに鼻を突いた異臭。何かが腐ったようなすえた匂い。部屋の窓という窓が開いているのに、空気は不快さをはらむ。
バレンシアは、ディエゴをソファー座らせて、静かすぎる部屋の先をみた。開いたドアの先には、白衣を着た医者が二人いる。一人は若く、痩身の男。もう一人は年経た老人。二人は、ゆっくりと振り返って、会釈すると二人の公爵の前に歩み出た。その背後には、透明の棺に収まっている陛下の姿がある。
ピクリともしないバレンシアのかわりにディエゴが何があったのだと尋ねようとしたときだった。若い痩身の医者が、いきなりバレンシアの腹に鉄拳をねじ込んだのである。
バレンシアはせき込みながら床に膝をついた。
「……お前は」
老医師は、深いため息をつきながら呆れた顔で青年をみあげる。
「正気に戻すには、覇気を入れてやるのが一番だ」
そう言って青年は、バレンシアをものでもひろって投げるかのように、ディエゴの隣に座らせる。あっけに取られていたディエゴが青年を見上げると、血のように赤い双眸が冷たく見下ろしてきた。
「文句があるなら後で聞く。俺は毒の出所を見つけなきゃいけないからな」
そう言い残して青年はさっさと部屋をでていった。
「申し訳ございません。孫が失礼いたしました」
かまわないと呟いてバレンシアは、顔を上げた。
「おかげで落ち着いた。何があったのか話を聞こう」
「では、失礼いたします」
老医師は、二人の向かいのソファーに腰を下ろして、青い小瓶をテーブルに置いた。
「陛下が飲まれたのは、おそらく冥府の腐れ水と呼ばれる劇薬でしょう。わしが来た時にはかなりの腐敗臭がしておりましたので、氷の棺の魔法で現状を維持してはおります」
「ありえぬ。冥府の腐れ水など、ただの伝承ではないか」
ディエゴがそういうとバレンシアも頷く。
「わしもそう思うておりました。しかし、陛下の状態はその毒以外に説明しようがないのです。ただ、冥府の腐れ水は、天の活水を作るときごく稀にできてしなうことがあるのです。その場合は、必ず百夜の聖なる祓いを行い焼却処分することが薬師たちの暗黙の了解と聞いております。医療に携わる者はまずそのことを習いますのじゃ。口伝として。ゆえに、伝承でしかないと思われているのは当然のこと」
「だが、天の活水も幻の薬であろう。精製方法などすでに失われているのではないのか?」
バレンシアがそういうと老医師は、首を横に振る。
「薬師たちの誰かに必ず製法が伝えられております。わしら医者が使う解毒剤や回復薬には一滴の天の活水が含まれているのです。といっても、これも口伝。事実を確かめることのできぬ話ですじゃ」
「それにしても解せぬ。陛下がなぜそのような毒を持っておられた?そんなものどうやって手に入れたというのだ?」
ディエゴが唸るようにつぶやくと、老医師は深いため息を吐いた。そして、意を決して口を開く。
「そもそもは、この瓶に毒薬など入ってはおりませんでした」
「なんだと?毒ではないなら何がはいっていたというのだ。現にお前は冥府の腐れ水だといったではないか!」
ディエゴはじろりと老医師を睨み付けた。だが、彼は臆することなくまっすぐとその目を見た。
「陛下はナディア様が亡くなってから、ずっと死ぬことをお望みでした。自ら、首を切り、手首を切り、そのたびに、わしは治療いたしました。決して傷の残らぬように。その間に、新しいお妃が決まりました。陛下はわしに一つだけ頼みたいことがあるとおっしゃって、冥府の腐れ水を手に入れてほしいとおっしゃられた。されど、そのようなものはどこを探しても見つかるはずはない。きっと陛下もわかってはおられたのでしょう。わしは、三日ほど時間をいただき、名のある薬師を訪ね歩いて毒をてにいれたと陛下に嘘をつき、リターニャをお渡ししました。男児が生まれるまでは決して飲まないという約束を取り付けて……」
リターニャとは心を病んだものに処方されるありふれた薬である。飲めば、仮死状態となり二日で息を吹き返し、正気を取り戻す薬だ。
「わしは、王位につかれた陛下は毒のことなどお忘れになったのだと思っておりました。それならば、すべてをこの身に呑み込んで、墓にもっていく心づもりでおりましたが……」
バレンシアはディオン様のことだなと呟いた。
「ご存じであったか……」
ディエゴは何のことだと首を傾げた。
「ディオン様は陛下のお子ではなく、先の王の御子なのです」
「な!馬鹿な!」
「本当です。亡くなる数日前に、わたしはディオン様のことを託された。あなたはおかしいと思わなかったか?時期を同じくして、陛下の正妃と側妃が身ごもるなど。偶然にしては、あまりにも不自然でしょう?」
「それは……」
ディエゴは当時のことを思い出す。王妃も側妃もどちらも王子を生んだ。だが、真の王子はどちらなのかと貴族の中でもかすかに噂が流れた。しかし、それはすぐに消え、御子が生まれたことを祝い、騒ぐ日々が続いた。
「陛下は側妃が亡くなられてから、すぐに王妃を後宮に閉じ込めたのは、ディオン様が自分の子ではないとご存じだったのでしょう。誰の子であるかはご存じだったかどうかわかりませんが……」
「ならば、なぜ、モビリオを臣下に下した?あの赤き髪は、先祖返りの証ではないのか?それに、自らの子を王位継承から外すなど……」
老医師は側妃の願いですと言った。そして、その理由を話そうとしたその時、大きな爆音とともに王宮が揺れた。




