かけられた罠
雀の鳴き声で目を覚まし、緩慢とした動きで立ち上がろうとした。
突然全身に冷や水を浴びたかのような衝撃と痛烈な痛みが走る。
戦いが終わりようやく自分の身体もいたるところを傷めていることに
今更ながらに気づいた。
戦っている最中は興奮して痛みを感じていなかったのだろう。
いつの間にか雨は止み雲から太陽が出ていた。
依頼人と会えなかった事をカルサス・テキーラに報告しないといけない。
加えてこの数時間で起こった事を伝えるべきか否かを
考えなければならなかった。
仮に言ったとしても信じてくれないのは目に見えていた。
気が重い……。
身体に鞭を打ちながらゆっくり立ち上がり、アジェンダ―遺跡の
出入り口へと向かった。
今後の事を考えているうちにいつの間にかアジェンダ―遺跡の
出口まで来ていた。午前中に真上にも昇りきっていなかった太陽は
少し西に傾きかけていた。
数時間前ここに入る前はこんなことが起こるなんて思ってもいなかった。
ただのお使い程度の仕事。そんな風に考えていた。
アジェンダー遺跡を過ぎ数分歩いていると、街道の真ん中に何か
大きいものが落ちている落ちているように見えた。
きっと行商人が魔物か山賊かに襲われて、荷物を落としたものかなにかだろう。
売れるものだったら持って帰るとしよう。
そう思いながら近づいたミハイルは思わず声を上げた。
荷物だと思っていたものはうつ伏せで倒れている人間の子供だった。
ミハイルはうつ伏せで倒れている子供を仰向けに向けると
「あっ!」
と思わず声を上げた。
長い髪の毛を真っ赤なリボンで一つにまとめている
――アジェンダ―遺跡で焼き菓子を上げた女児だった。
首元に触れ脈を調べた。わずかばかりだが脈に
動きがあったのを確認し、胸をなでおろした。
女児は太ももや腕に小さな切り傷や火傷をしていて
満身創痍だった。ただ、見たところ重傷のような傷はない。
きっとあの多頭竜から命からがら逃げてきたのだろう。
仕方ない。王都まで連れて行ってやるか。
ミハイルは自分の背中に女児を乗せ、街道を歩きだした。
背負った女児は小さい寝息を立てながらすやすやと眠っている。
アジェンダ―遺跡をさらに離れると街道には
ファリスからカルーダ、カルーダからファリスへと行きかう人々が
多くなっていった。
ゆっくりと普段よりも数倍の時間をかけてようやく王都に
到着しようとしたとき一人の茶色の軍服を着た人間とすれ違った。
茶色の軍服を着ている。この国の軍人ではない。
どこだったか?
考えているうちにどこかで聞き覚えのあるような声に
ミハイルは足を止めた。
「お前、ミハイル・ドランコフだよな?」
ミハイルは声をかけられた男の顔を凝視した。
身長はミハイルと同じくらいであろうか。
細身で目鼻立ちは深い。この周辺の人間とは思えないような彫りの深さ。
赤茶色した長い髪の毛を一つにまとめ、真っ青な二つの瞳がミハイルを見ている。
「やっぱりそうか! 俺だよ俺。レノだよ。レノ・カーチェス。
お前が師匠のところを出て行ってから十年か。
いろいろ二人でやらかしたからなあ。忘れたとはいわせねよ」
茶色の軍服を着た男は少し高めの声質で興奮を隠し切れないようだった。
ミハイルの脳裏に懐かしい思い出が、蘇ってきた。
師匠の元で一緒に遊んだり学んだりした楽しかった鮮やかな記憶。
ミハイルは軍服の男の肩を思い切り叩く。
「レノ! 久しぶりじゃないか。なんだよ軍服なんて着ちまってよ」
「仕事でファリス王国の大使館で武官として今日から赴任が決まってな。
これから王都に向かうところだったんだが――
ミハイル、お前何かやらかしたのか」
低く警戒感がにじみ出ている声にミハイルは驚きを隠しつつ答えた。
「どういう意味だ」
ミハイルは眉間にしわを寄せ聞き返した。
レノはミハイルの表情からミハイルが全く知らないと感じ
街道から少し外れたところにミハイルを連れ出した。
そして王都の北にある国境での出来事を話した。
一枚のビラをレノはミハイルに渡した。粗悪な紙質でミハイルの似顔絵と
罪状が書いてある。ミハイルはざわめく心を鎮めながらビラに目を落とした。
ビラを読んだ瞬間、レノの目にも分かるくらいミハイルの表情は
どんどんと怒りに変わっていくのがわかった。
「どういうことだ」
ミハイルは搾り出すように言った後、ビラを投げ捨てレノの襟首をつかんだ。
「一体、どういうことなんだ! オレが団長を殺すわけねーだろ!」
「落ち着け。俺はこの国に着いたばかりなんだ、分かるわけないだろ」
大きく深呼吸をした後、ミハイルはつかんでいた襟首を外し謝罪した。
「王都は危険だ。すでに国境に情報が知れ渡っている」
ミハイルにつかまれた襟首を直しながらレノは続ける。
「ファリスとカルーダ王国は同盟国だ。カルーダの国境は
それなりに検問を張っているだろうが、俺は大使館つきの武官だ。
怪しまれることはない。国境から南にしばらく行くと村がある。
そこでしばらく身を潜めれば大丈夫だ。それはそうと……この子お前の子か?」
レノがミハイルの背中ですやすやと眠っている女児を指した。
「違う。こいつはさっき街道に落ちてた。単なるガキだ」
ずり落ちそうになっていた女児を少し持ち上げ、ミハイルが言う。
「なるほど。だったら大丈夫かもしれん。というかお前もその子もすごい傷だな」
「まぁ色々あってな」
「とにかく、善は急げだ。そうだな、あそこに橋の下で待っていてくれ」
レノは足早に王都に向かった。
橋の上には何人もの人が橋を渡っているのが分かった。
レノが戻ってきたのはちょうど一時間ほどたってからだった。
両手には大きな手提げ袋を持っている。
「今からこれに着替えてもらう」
「何だこれは」
ミハイルはレノから受け取り袋の中身を取り出しもう一度言った。
「何なんだこれは」
「見ての通りだ。このままの今の格好でお前を連れて行くことはできない。
そこで俺とかりそめの夫婦なってもらう。そのための服だ」
「着ないとダメか……?」
袋から取り出した、薄いさくら色のワンピースを広げながらミハイルは言った。
「カルーダを脱出したければな」
「……これを着て本当に大丈夫なんだな?」
「少なくとも着ないと無理だろうな」
「ちくしょう」
ミハイルは眠っている女児を降ろし袋の中身を出しきり大きくため息をついた。
「まさかこんなところで女装することになるなんて思ってもなかった」
「ぶつぶつ言ってないでさっさと着替えろ。時間がないんじゃないか」