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かぐやに帰還した私は、殊更に辺りを気にする素振りを見せつつ、自室に戻る。そしてパソコンを開いて〈キザ野郎〉からの連絡を待ったが、向こうは向こうで警戒しているらしい。まるで連絡が来る気配もなく、私は次第に疲れを感じてきて、椅子に座ったまま、いつの間にかうとうととしていた。
しかし、静かに開いた扉の気配で、ぱっと目を覚まして姿勢を整える。
そう、私はどうしても、やらなければならない事があったのだ。
「ふっ。来ると思ってた」
ギクリ、と身を震わせる影。
これだ。暗がりで待ち受け驚かせるというシーン。私は満足感もあってニヤリとしたが、残念ながら部屋は酷く狭く、私は正面から相手と鉢合わせする形にしかならなかった。
相手は素早く、手にしていた何かを私に向ける。だがそのトリガーが引かれる直前、私は手に納めていた催涙スプレーを、思い切り相手の顔に吹き付けていた。
言葉にならない叫び声を上げる敵。私はその隙に彼が手にしていた装置を叩き落とし、両手で顔を覆いながら呻いている彼の背中に、思い切り蹴りを入れた。
六分の一重力下ですっ飛んで行き、通路の壁にぶち当たる男。私はすぐに、耳に装着していたレシーバに向けて叫んだ。
「佐治さん!」
基地で彼に相談してしまえば、敵にその事が知れてしまう可能性が高い。だから私はジョーに、佐治と連絡を取り、手筈を伝え、待機してもらうように頼んでいたのだ。
だから私は、すぐに佐治を始めとする駐留武官たちが飛んでくるものと思いこんでいた。だが彼らの姿はいつまでたっても現れず、私は再びレシーバを叩き、彼の名を呼んだ。
「佐治さん、今ですって!」
レシーバの応答もない。どころか、レシーバは小さなノイズを発するだけで、チャネルを変えても、何処にも繋がらなかった。
「クソッ! オレを誰だと思ってる! 通信士だぞ!」
怒りを込めて叫びつつ、起きあがる男。
そう、彼。チクリンは真っ赤になった瞳を擦りつつ、荒い息を吐きつつ、私の前に立ちはだかった。
「上手く手を打ったつもりだろうが、アームストロングからの通信は。全部オレが中継するんだ。佐治のフリをして応じるくらい、ワケがない」
「なんだと」
咄嗟に問い返した私に、ハッ、と鼻で笑った。
「そう。オレは通信士だ。基地のコンソールの全てが目の前にある。つまり、今、ここには誰も来ない。この辺に住んでる連中には、みんな適当な理由で遠くに行ってもらってるからな」
「そ、そんなことしたって! 後でアンタが犯人だって。ばれるに決まってるでしょ!」
「どうかな? オマエが死ねば、そうなるかもしれんが」
ポケットから何かを取り出す。ナイフだ。私は咄嗟に催涙スプレーを構えたが、彼はそれも一笑に付した。
「止せ止せ。無駄だ。オレはスパイの訓練を受けてるんだ。そんな催涙スプレー、屁でもない。それよりお互いのためにも。穏便に済ませようじゃないか。オマエはオレに、テープを渡す。それで終わりに--」
「うおおおお!」
私は思わず叫びながら、再び催涙スプレーを彼の顔面に浴びせた。先ほどよりも強烈な悲鳴を上げ、両目を覆うチクリン。だがすぐ、彼は笑い声を上げた。
「ははっ! 無駄だと云ったろう、ネズミーの奴隷め! これくらい--」
「何がネズミーだよ! んな嘘っぱち、もう通るかっての!」
鼻ががら空きだ。私はノズルの先を彼の鼻の穴にくっつけ、押し込む。途端に彼はワケのわからない叫び声を上げた。転がりつつ、私から逃げようとしつつ、それは反則だとか何とか、そんな風なことを叫ぶ。だが私は手を止めなかった。
「ふざけんな!」太股を蹴る。「オマエが、ワケの、わからんこと、企んだ所為で!」崩れた上背。低くなった頭に、膝を入れる。「私が、大恥、かくとこ、だったんだよ!」
激しく咳込み、どばどばと涙だか鼻水だかをまき散らしながら転がるチクリン。ついに空になった催涙スプレー。私はそれを無我夢中で彼の頭に叩きつけていたが、不意に何者かに羽交い締めにされ、ようやく我に返った。
「止せゴッシー! 離れろ!」
「ジョーさん」
彼は私諸共、横に飛ぶ。
その時、何かが私の頬を掠めた。はっとしてチクリンに瞳を向けると、彼は私の部屋に入ってきた時に持っていた、例の銃っぽい装置を握りしめていた。しかし彼が次弾を発射する前に、後ろから軍服を着た一団が群がり出てきた。彼らは一斉に転がっているチクリンへと躍りかかり、押しつぶす。
トリガーを引く間もなく、もみくしゃにされるチクリン。軍服の中には佐治もいて、彼は完全にチクリンを拘束した後、溜息を吐きつつ私を顧みた。
「まったく。無茶をする」そして床に転がっていた装置を手に取る。「お手製の空気銃か。オマエ、死ぬところだったぞ」
急に血の気が引いてきた。ふらふらと起きあがりつつ、震える声で云う。
「い、いやぁ、良かった。助かりました。もう、通信を妨害されたと聞いて。私死ぬかと」
大きく息を吐く私に、佐治は呆れた風に云う。
「下手な芝居をやろうとするからだろう。最初からヤツを捕まえろと、オレに云えば良かっただけだ。違うか?」
「いや、でも、頭くるじゃないですか。騙されたまんまなんて」
「まぁでも、コイツも、相手が女だから油断してたんだろうが。本物の工作員相手に、ここまでやるとは。今度オレも手合わせ願わなきゃならんな」
充血した瞳と汗と涙と鼻水で、グシャグシャになっているチクリン。それが佐治の部下に引っ立てられていくのを眺めている間に、ようやく私も落ち着いてきた。
「あれっ、そういえば。通信はコイツが妨害してたんじゃあ」
答えたのはジョーだった。
「いやな。佐治にしては、英語がやたら上手かったんで。妙だと思ってな。念のため飛んできたんだ」
小さく舌打ちする佐治。
「オレのはブリティッシュ・イングリッシュなんだ。それより一体、何なんだ。チクリンが工作員だって話だが、ワケがわからん。何がどうなってる。説明してくれ」
軽く口元を歪め、肩で私を指し示すジョー。
私は再び大きくため息を吐いて、佐治に向き合った。
「それは実は、こういうワケなんです」




