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死者たちがあまりにも悲しそうだったので手を伸ばしていたら、いつの間にか精霊に愛されていました  作者: ちょこだいふく


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1.なんのために生きてたんだっけ

その日はじっとりとした雨の気配が残る夜だった。


蛍光灯の白い光に照らされたオフィスで、私、山本栞はパソコンの画面を見つめたまま、小さく息を吐く。


メールの未処理はゼロ。

急ぎの確認も終わった。

営業から投げられていた修正依頼も返したし、休んだパートさんの分の入力も片付けた。明日朝一で必要になる資料も共有フォルダに入れてある。


時計を見ると、定時から二時間近く経っていた。


「…よし」


小さく呟いて、タイムカードを押す。

それだけで少し肩の力が抜けた。


…ようやく落ち着いてできる。


栞は自席へ戻り、椅子に座り直した。


静かなオフィス。

電話は鳴らない。

誰かに呼ばれることもない。


熱いコーヒーをいれなおし、栞は今日の引き継ぎメモを開く。


明日の対応事項。

取引先からの連絡内容。

担当者ごとの注意点。


自分がその場にいなくとも困らないように。

誰かが見てもわかるように。


それを整えてから帰るのが、いつの頃からか習慣になっていた。


嫌々やっているわけではない。

むしろ、こうして整理している時間の方が落ち着いている。勤務時間中は、次から次へとやることが押し寄せるから。


子どもの熱で休む人がいればフォローに入るし、急ぎの依頼が来れば優先順位を組み替える。


「山本さんなら大丈夫ですよね」


そう言われることも増えた。

期待されているのだと思っていた。

正社員なんだから、当然だとも。


栞はキーボードを打ちながら、ふと窓の外を見る。


暗いガラスに、自分の顔がぼんやり映っていた。


疲れてるな、と思う。


でも、後少しだけ。

明日の準備を終わらせたら帰ろう。


そして、また画面へ視線を戻した。



会社を出た時には、もう夜風が冷たかった。


駅へ向かう途中、栞はスマホで確認する。


返信し忘れはない。


明日の予定も問題ない。


頭の中では、自然と仕事のことを考えていた。


あの資料、もう少し説明を足した方が良かったかもしれない。


引き継ぎは、あれでちゃんと伝わるかな?

やっぱり明日また午前中のうちにもう一度確認した方が——


階段を下りながら、栞はぼんやりとそんなことを考えていた。


その瞬間。


濡れたアスファルトで滑り、足を踏み外してしまった。


「あ——…」


ぐわんと世界が傾き、身体が浮いた。


スマートフォンが手から離れ、少し遠くで乾いた音を立てた。


それはまるでスローモーションの映画を観ているようだった。


そんな時でも、落ちながら頭に浮かぶのは


今日のメール。


パートさんへの引き継ぎ。


明日使う資料。


重要確認事項。


共有フォルダ。


休む人のフォロー…


——あ。


その時初めて、ふと思った。




——私、


何のために、生きてたんだろう。




その問いだけが、ぽつりと胸に落ちる。

でも答えは浮かばないまま、意識が暗闇へ沈んでいった。



——そして目を開けた時、最初に見えたのは白い天蓋だった。


ぼんやりと瞬きをする。


知らない天井。


柔らかなシーツ。


窓辺で揺れる薄いカーテン。


「シア……!」


声がして、誰かが駆け寄ってくる。


金色に近い淡い髪の少年だった。


歳のころは小学生…になるかならないかくらいだろうか。


紫がかった青い瞳が、不安そうに揺れている。


「よかった……」


少年の後ろから、女性の泣きそうな声も聞こえた。


「リシュア……!」


知らないはずの名前が、自然と自分の中へ落ちる。


リシュア。


シア。


フォルレイン伯爵家。


七歳。


階段から落ちて気を失った。


そこまで一瞬で理解して——そして息を呑んだ。


私はリシュアとして産まれる前、

栞として生きてきた。


…そう、知っている。

思い出したのだ。

生まれる前の人生を。


「シア?」


少年がそっと顔を覗き込む。


その不安そうな顔を見た瞬間、栞——リシュアは不思議な気持ちを感じた。


…この子は、ノアは今、自分を心配している。

そのことが、どうしようもなく胸を締め付けた。


こんなふうに…誰かが自分のために顔を曇らせることなんて前世ではあっただろうか。

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