#16 結婚より怖いもの
「おばあちゃん、突然誘ってごめんね」
「気にしないで、暇してたから嬉しかったわよ。ヒナちゃんに会うのひさしぶりだしね」
おばあちゃんはスプーン片手に、83歳には見えない子供みたいな笑顔を浮かべて、あんみつの上に乗っているソフトクリームを突っついた。
おばあちゃんと私は、彼女の住む街にある椿屋珈琲店で向かい合っていた。
お互い、同じ沿線に住んでいて、たまにこうして会うことがある。
最後に会ったのはアユムと別れる前だったから、かれこれ4ヶ月ぶりだった。
椿屋珈琲店はレトロな高級感が漂う店で、お客さんもどことなく上品な人が多かった。
おばあちゃんもそのひとりで、上質なカシミヤのグリーンのセーターが、真っ白でふわふわした髪によく似合っている。
デコルテがすっきりと開いて大きなリボン付きのオフホワイトのニットを着た私を見るなりおばあちゃんは、「まるでクリスマスのプレゼントみたいで可愛いわね」と上品に笑った。
ほっと落ち着ける、大正ロマンが散りばめられたお洒落なこの空間は、そんなおばあちゃんのお気に入りの場所だ。
「それにしてもどうしたの?聞いてほしい話があるって言ってたけど、どんな話なのかしら」
澄みきった滑らかな声を聞きながら、私はコーヒーフロートのソフトクリームをスプーンですくって口へ運んだ。
『心の整理ができたら電話してくれ』
アユムにそう言われて、早くも1週間が過ぎようとしているけど、私の心は散らかったままだった。
アユムのことは大好き。でも結婚となると怖い。
好きと怖いが、甘いお菓子のかけらみたいに心の中に散らかっていた。
それでもアユムに言われた、「俺が支えたいのはヒナだ」とか、「ヒナのことが大好きだから誰にも取られたくない」とか、そんな言葉を思い出しては、気づけば顔が緩んでいた。
結婚は怖いくせに、プロポーズめいた言葉にはときめいてしまう。このちぐはぐな気持ちをどうにかしたい。
だから、20歳で結婚したと話に聞いたことのあるおばあちゃんを誘って、話を聞いてもらおうと思った。
「おばあちゃん、ハタチの時に結婚したんだよね?結婚するの怖くなかった?」
「ええ?なによ、突然」
おばあちゃんは目を丸く見開くと、ふふっと穏やかに笑った。
「もう大昔のことだから忘れちゃったわ」
手応えのない返事に少しがっかりしていると、おばあちゃんはおいしそうにあんみつを食べながら柔らかく笑った。
「もしかして結婚のことで悩んでるの?」
私は少し間を置いて、頷いた。
「私、アユムと別れたの。アユムは私と結婚したがってて……でも私は結婚を怖がってて逃げてるの」
「あらあら。もったいないことしてるわね」
「だって、怖いんだもん。ずっと好きでいれるかもわからないし、アユムが自分と合うかもわからない。傷つけ合うかもしれないし、お互い幸せになれるかもわからない……」
おばあちゃんという存在は、優しく全てを包み込んでくれるような大きな安心感がある。
だから私は、気づいたら結婚の不安を口にしていた。
「好きってね、相手を想うことだけじゃないの。安心感や尊敬を抱く気持ちも、好きってことに繋がるのよ?そういう気持ちはあるかしら?」
目からウロコだった。
アユムへの安心感や尊敬する気持ちだけは、何重にも重ねられたミルクレープの層みたいにあった。
「うん。あるよ」
「じゃあ、大丈夫よ。それにね、合わなくていいのよ。だからこそ、繋がれるんじゃない?」
怪訝な表情を浮かべた私を見て、おばあちゃんは諭すように言った。
「パズルのピースを見てみなさい。みんな違う形をしていて、それを繋ぎ合わせて1枚の絵が完成されるじゃないの。同じピースじゃ、絵は完成しないわ」
パズルを想像する。たしかにそうだった。
「人同士もそうよ。違う性格だから楽しいんじゃない。違う性格だから、物事を別の視点から見られて、支え合えるのよ」
不思議と、少しだけ、心のモヤが薄くなった。
おばあちゃんセラピーに期待して、私はテーブルから身を乗り出すように聞いた。
「じゃあ、傷つけ合うことや幸せについては?」
「そうねぇ。そんなに考えすぎなくてもいいんじゃないかしら?傷つけ合うことは悪いことじゃないわ。植物ってね、“傷=終わり”じゃなくて、そこから新しい芽が出ることがあるの。だからあなた達の傷つけ合いも、絆を深めるために必要なものじゃないかしらね」
おばあちゃんは軽やかな言葉で、モヤを消していく。その時、ふと思い出した。
喧嘩をすると、いつもアユムの方から寄り添ってきてくれた。意地っ張りな私の心をほぐすみたいに抱きしめられると、新しい感情が芽生えた気がした。
「幸せはねぇ、よく言うでしょ?自分のものさしで決めるって。アユムくんが持ってるものさしは、もしかしたらヒナちゃんが1歩を踏み出しやすくなる優しいものさしかもしれないわ」
そういえば、アユムの幸せは何か、聞いたことがない。私の手料理を食べることだったら簡単でいいのに。
でもきっと、静かに本が読める時間とか、ひとりでドライブとか、そういうものなのかもしれない。うるさく邪魔をして「静かにしてくれ」って怒られたことがあったから。
ああ、私はアユムのそんな些細な願いさえ、叶えてあげられなかったのか。
自分の自己中心的さと、依存気味な性格に呆れてしまう。
それにニュースの話とか、将来のことをちゃんと話せることにもアユムは幸せを感じそうだ。
話を脱線させたり、将来をうまく語れない私は、やっぱりアユムを幸せにしてあげられないかもと、舌の上で溶けていくソフトクリームの冷たさを感じながら、そう思った。
心のモヤは、完全には消えてはくれなくて、結婚への道のりの視界は霞んだままだった。
「この不安をアユムくんに話したことはある?」
「ないよ。何が怖いか聞かれたけど、“いろいろ”ってごまかしちゃった……話すべきだよね」
「もちろん話すべきよ。それにね、ヒナちゃん。結婚よりも、もっと怖いものがあるわよ」
「なに?シャネルが廃業すること?それ怖すぎて、私、泣くよ」
いつかマトラッセを持ちたい。
「シャネルは不滅よ」
おばあちゃんはウインクしてから真面目な顔になって続けた。
「そうじゃなくて、大好きな人が他の誰かと結婚して幸せになる方が、怖くない?」
アユムが、私以外の誰かと結婚して幸せになる未来。
それは結婚することよりも、シャネルの廃業よりも、何よりも怖かった。
想像しただけで気持ち悪い。
五臓六腑がぐるぐる回って、そのあと、ひとつずつ叩き潰されるみたいに。
痛くて苦しくて、息がうまくできなくて、私は喉元に手を添えた。
「それが答えじゃない?」
おばあちゃんは全てを見透かしたみたいに、にっこりと笑った。
おばあちゃんとの会話はまるで、ディズニーランドのアトラクションみたいに余韻を感じられるもので楽しかった。
おばあちゃんに、「カウンセラーになったら?」とわりと真面目に言ったら、「あの世でなるわね」と、また茶目っけたっぷりにウインクしてきた。
アユムを一生失うのは、やっぱり怖い。
それでも、その気持ちだけを見て、結婚を決めていいのかはわからなかった。




