終 結ばれるまで、もう少し
久しぶりに帰った屋敷の家族の居間で、千尋の大切な婚約者は眠りこけていた。
「糸、糸」
千尋が何度も名を呼び、肩を揺すったあとで、ようやく糸は目を覚ました。
「やっと起きた」
眠そうな顔でこちらを向いた糸が、千尋に気づいて目を瞬いた。
「あれ、千尋、何でいるの?」
「今日帰るって連絡しただろ」
「あ」
糸は慌てたように起き上がった。
「そうだった。ちゃんと出迎えるつもりだったのに、いつの間に寝ちゃったんだろ」
「すっかりうちの居間でくつろいでるみたいだね」
「やっぱり駄目だよね。まだ自分の家じゃないのに」
「いや、今さらでしょ。昔から糸はうちの居間でよく寝てたし」
「そっか」
「そもそも、ここは母上と千晴と糸がくつろげるように造った屋敷だからね」
「前に聞いた時よりひとり増えてるよ」
「それに、母上は千晴と一緒に中宮殿に出掛けたんでしょ。糸をひとりで置いていくって、もう家族の扱いだよ」
「あ、そうそう、楓小母さまが都に来てて今日はご学友が久しぶりに皆揃うから、わたしたちもあとで顔を出しなさいって言われたの」
「そうなんだ。でも今すぐじゃなくて大丈夫だろ。せっかく糸と4カ月ぶりに会えたのに」
「相変わらず、千尋はわたしのこと好きなんだね」
糸がフフと笑うので、千尋は口を曲げた。
「悪い?」
「その答えは悪い」
糸にジトッとした目を向けられて、千尋は言い直した。
「……相変わらず、糸が好きだよ」
「最初から素直にそう言えばいいのに」
千尋は早めに話題を変えることにした。
「ねえ、出迎えってどうやるつもりだったの?」
「どうって、普通にだけど」
「やってみてよ」
「なら戸の前に立って。今帰った感じで」
糸に言われて、千尋は素直に戸の前まで戻った。
「ただいま帰りました」
糸も立ち上がり千尋の前まで歩いてくると、にっこり笑った。
「お帰りなさいませ」
そう言ったあとで糸が千尋を見つめたまま動かないので不思議に思っていると、糸のほうも不思議そうな顔をした。と、ふいに糸が距離を詰めてきて千尋の背中に両腕を回した。
「え」
千尋が思わず身じろぎすると、糸が顔を上げた。
「え?」
「糸の家はこれが普通なの?」
「そうだけど、千尋の家では違うの?」
「お帰りなさいで終わりだよ」
糸は千尋に身を寄せたままで首を傾げた。
「もしかしてこれって士族風なのかな。あ、でも西の伯父上と伯母上もお帰りなさいだけだったかも」
「ほら、糸の両親だけだよ」
「そうだったんだ。なら、千尋とはお帰りなさいだけで」
そう言って糸が千尋から離れようとしたので、千尋は慌てて糸の背に腕を回した。
「いや、わたしたちは糸の家のやり方にしよう」
「そう? ちなみに、いつも父上のほうから母上を抱きしめるよ。わたしとだったら、わたしから行かないと父上拗ねるけど」
「わかった。次からそうする」
「口づけは?」
「え、口づけ?」
千尋は目を見開いた。
「わたしが見てなければ父上、母上にするよ」
「糸が見てなければなのに、何で知ってるの?」
「何回か見ちゃったから」
「……なら、わたしたちも、する?」
「じゃあ、目閉じて」
糸に言われて、千尋は緊張しながらギュッと目を閉じた。腕の中の糸がわずかに動いたかと思うと、直後に千尋は頬に柔らかいものが触れるのを感じた。千尋は目を開けて糸を見つめた。
「頬だけ?」
「今はまだ、ね。不満?」
千尋は急いで首を振った。
「そんなことないよ」
「ふうん」
今までにない近さから見つめられながら、素直に不満だと答えればよかったと千尋は少し後悔するが、糸は今度は言い直す機会をくれなかった。
千尋が物心つく前から糸はいつもそばにいた。
黙って微笑んでいればそのへんの貴族の姫君なんかよりずっとお姫さまらしく見えるのに、糸は全然じっとせずによく喋り、千尋を振り回してきた。
それでも千尋はどうにか糸の手を放さずにここまできた。もちろん糸はこれからも千尋を翻弄しつづけるのだろうが、望むところだ。千尋はそういう糸が好きなのだから。
「ねえ、まだこうしてるの? そろそろ中宮殿に行こうよ」
千尋の腕の中で、糸はそんなつれないことを口にした。
「もうちょっとだけ」
言いながら、千尋は腕の力を少しだけ強めた。
「仕方ないなあ」
そう言う糸の声も、千尋には嬉しそうに聞こえた。
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