02 絶望戦域/楽園幻想:Ⅱ
「ひたがひたいれす」
「うん。辛いっていうより、ただ痛いだけ。差がわからなかった」
「ひたが、ひたくて、あふいんれす」
「……トイレの方はどうなるだろう」
「ほいれ?」
「あ、いや、何でもない……俺もそこまでは期待していないんだ」
「ふぁあ」
高架下から出て、公園を横切って、小さな橋を渡って。
少し歩くたびに景観を変えていく街並みは、ご丁寧にもベンチや自販機が多い。わざとらしいくらいに散策向きなんだ。そら、桃ネクターを一缶、買ってやろう。
「……甘さって、幸せです」
「そうだなあ。世界はなるべく甘くてやさしい方がいいや」
「それならどうして激辛を。だいぶ楽になりましたけど」
「舌はそうだろう……もしもトイレでお尻が痛くなったら教えてほしい」
「お、し」
「肛門だ。まあ、万一の話だけれど」
「先輩はデリカシーについてどう思います? セクハラについては?」
「お、思いもよらないです、はい」
怒っても可憐だな、七井は。
今通りすがったサラリーマンも視線を吸い寄せられていた。気持ちはわかるさ。美しさにも色々あれど、結局、人の心へ最も影響するものは人の美なんだ。
あるいは、それしか「本物」がないというだけのことなのかもしれないけれど。
「郵便物、ほったらかしでいいんですか?」
「ピザの公告 広告?、そう何枚も収集するつもりはないんだ」
「あ、とうとう捨てたんですね。あのチラシファイル。良かったです」
「ダブりはいらないってこと。今季のものは全種コンプリートしたから」
「全種、コンプリート」
「水道トラブルのマグネット公告もそろった。今のところ収集率が一番低いのは車の公告でさ。アパート世帯にももっと投函してくれたらいいのにって思う」
「……うわあ……」
さりげなく皿や小物を片付けて。コートはロフトへの梯子に掛けて。
「帰宅う……飲み物、冷蔵庫から好きに取っていいよ」
「相変わらず座るところしかないですね……桃ネクターあるので」
「ゴミひとつ落ちてないだろ? 少し埃っぽいくらいの方が落ち着くのに」
「……言いたくないですけど、私にはあれもこれもゴミに見えます」
「公告も雑誌も新聞も包装紙もパッケージも、文化さ。賑やかで素敵じゃないか」
「知らない文化ですね……先輩はお茶でいいですか?」
ローテーブルにパソコンをセッティングして、と。
「お隣失礼します」
「え、そっちもノーパソ出せば……はいはい、わかった、わかったって」
ふんわりと香るもの。シャンプーとリンスと桃ネクター。どれも甘い。
「それじゃリプレイ見ながら考察しようか。敵難度はレベルスリーで、支援砲撃は最初だけ。味方は大隊規模。つまりはごく標準的なステージ設定だ」
「先輩ってあまり高難度ステージをやりませんね」
「……よくある状況で数をこなす。これ、パターン化するための鉄則」
「そのくせ、攻略のセオリーは無視しますよね。ほら、また突出して」
「そこはケースバイケースだって。支援砲撃の効果を見極めるんだよ」
広域レーダーウインドウを指差したけれど、わからないだろうなとは思う。赤い点の集合は、どう意識したところで赤い点の集合でしかない。
向けられる殺意がない。それを伝える瘴気も。戦闘勘が働くわけが、ない。
「……相変わらず、すごい。すごい機動。これどれくらいアドリブです?」
「気合い避けは二割くらいかな。レベルスリーは『高速ザリガニ』が少ないから」
「宇宙サソリは問題にならないと」
「……死角を衝かれない限りはね」
お茶を口に含んだ。舌に沁みこむ渋み。複雑で繊細な味覚情報。飲料メーカーがしのぎを削った成果はデータ化されるから、後世に伝わる。こうして再現できる。
それに比べると食べ物は弱いんだよな。何とも適当で。
「なあ、七井。カエル食べたことある?」
「あるとでも?」
「俺はあるよ。小学生の頃に手羽先って騙されて食べた」
「……ある種の傷害事件ですよね、それ」
「どうしてさ。普通に美味かったよ。手羽先の味がした」
「手羽先だったのでは?」
「ばっちりカエルの足だったよ。指あったし」
「グロは、ちょっと」
「何でさ。まあ、春先に道で潰れているのはグロいけれど」
「どこの山奥の話ですか」
「東京の、ありふれた住宅街の話さ」
ランドセルを背負った帰り道……今にして思えば、この世のものとも思えないほど贅沢な時間だった。何の憂いも迷いもなかった。怖いもの知らずだった。
幸せだったんだ。恵まれに恵まれた、先進国の子どもだった。
「……先輩、眠そうです。いいですよ。放っておいてくれて」
「や、大丈夫だよ。これ見たら協力プレイをやろう。そのつもりだったろ?」
「それはサークルの時もできます。寝かしつけてあげましょうか?」
「子どもか」
「それとも……そ、添い寝がいいです?」
「おいおい」
「勘違いしないでください変な意味じゃないですお世話になってますから添い寝」
「落ち着け。っていうか待て。ロフトへ上がろうとすんのやめろい」
「散らかってたって私は」
「プライバシーだ。降りなさい」
おいおい。そんな、顔赤くするほど怒らなくてもいいと思う。
お詫びじゃないけれど、何か甘いものでも出そう。チョコレートの詰め合わせにしようか。それともカリントウにしようか。プリンもまだあったはず。
「お菓子を食べられる平和って、尊いよなあ」
「……お爺さんみたいなこと言いますよね、先輩って」
怒ったり呆れたり、七井もここでは表情豊かだ。笑顔も見られる。
「…………孫を見るような目、どうかと思います」
「孫かあ……夢のまた夢すぎて、想像もつかないな」
カリントウをかじった。甘いったらない。お茶をあおる。
◆◆◆
<シークエンス順調に進行中……達成率七十パーセントを超えました>
大小の隕石岩石と艦艇の残骸が漂う、瘴気の吹き溜まりのような宙域を。
<左舷上方、新手です。バンディット六……全て『宇宙サソリ』です>
突き進む。初めから単機だ。
いちいち発砲はしない。障害物の間を縫っていく機動、なめらかに高速に。シューティングというよりはレースだな。二位以下数十匹を尻目にして、現在一位。
なあに。追いつかれたって俺が死ぬだけの事だ。
<右舷、ボギー三……ターゲットマージ。注意。全て『高速ザリガニ』です>
ああ、面倒なやつも潜んでいたか。要撃墜目標。
戦闘機動に集中したい。後続車へバナナの皮は見舞えないが、短距離多連装炸裂弾頭を一撃してやろう。混乱しろ、雑魚ども。そして追ってこい。恨みがましく。
さて、と。待ち受けるのは悪手だな。
ドッグファイトスイッチ、オン。ガトリング砲を自由照準にして右旋回。ヘッドオンからの、加速。射撃。スライド移動。
<グッドキル。要撃墜目標、残数二>
大加速度旋回。目の前に隕石の壁。なぞるように増速。噛みついてくるような敵意。獰猛さを先読めば……ここだ、サイドスラスター噴射。
そうら、いた。高速ザリガニの横腹へ発砲。命中一秒で粉砕。
すぐに旋回。もう一匹の後ろを取った。シーカーオープン……FOX2。余裕をもっての発射だ。中距離ミサイルの餌食にしてやった。
<前方、破棄された宇宙船内に複数の反応あり。ミサイル攻撃を推奨します>
ボロボロの大型輸送船。貨物は物資か人員か……人の形をした物資ということの方がありそうだ。奴隷船。ラッシュアワーの電車と同じような。
時代が変わっても、同じだ。こんなもので運ばれる人間は、誰かの食い物だ。
中長距離重榴弾弾頭ミサイルを選択、照準、発射。
<反応炉の誘爆を確認しました。退避しましょう>
火葬して。
音もなく想起される、過去の阿鼻叫喚を横目にして。
囮としての突進を続けるよりない。憎むなら、あんたたちを悲劇的にした老人どもにしてくれ。妬まれるような立場じゃないんだよ、俺は。
<最終シークエンスです。殲滅宙域へ到達。退避しましょう>
俺が引きずり出したDeFAの群れを、電磁加速砲や切断レーザー、大口径質量弾が引き裂いていく。圧殺だ。駆逐艦や巡洋艦の火力は強襲索敵艇の比じゃない。
<達成率百パーセントです。おめでとうございます>
クソAIめ。何がめでたいものかよ。
自動操舵に切り替えて、ヘッドギアを外す。酸素マスク併設のバキュームへダイレクトに吐く……鮮やかな血の色。照明の赤さのせいか? いや、みぞおちに痛みがある。また食道が裂けたらしい。
帰ったら内視鏡手術かな……ん……部隊通信の音が漏れ聞こえている。
「女はダメだ、ということですか?」
「ナナイ伍長……性別差として理解するのならばその通りだが」
「私なら准尉の機動をなぞることができます。中隊長もご存知のはず」
おいおい。何をやっているんだかな、まったく。
「その必要はないという判断だ。耐加速度適性よりも空間把握能力を優先し、分隊単位でヤシロ准尉を掩護する」
「お言葉ですが―――」
怒鳴り声が出る前に通信音量を最小へ。だって頭痛がするんだ。手足にしびれもある。うわ、悪寒までしてきたぞ。
医療キットはシート裏に……と。解熱鎮痛剤。即効性のやつ。首にスタンプ。
喉もイガイガする。血の味も不快だ。汗と薬とオゾンの臭うコクピットは、いつだって生ゴミ入りの冷蔵庫のようで、窮屈で、息苦しくて、俺を死体の気分にさせる。
ああ……しんどいな……輸送船の爆破なんてしたからだ。チクショウ。
とっておきを出すか。
俺たちマルレ乗りが自由判断で口にできる、ただひとつのもの……経口補水液。医療キットを宝箱にしてくれるこいつを、今飲んでしまおう。
缶コーヒーの半分もない量のプラスチックアンプル。その頭をちぎって、吸う。
ヘッドギアのシグナルが点滅している。何だ?
<帰投コースに乗りました。斥候兵操典の再生を推奨します>
馬鹿か。それとも馬鹿にしているのか。
口の中で浮き上がる経口補水液を舌先でつつく。わずかながらも本物の酸味。その刺激を探ることにだけ集中してやり過ごそう……このクソッタレな現実を。