閑話 はるか過去の記憶
私が最初に見たものは、優しい笑みを湛える見知らぬ人間の顔であった。
かつて住んでいたその村は、南方の地に広がる深い森の傍らに存在していた。
目を見張るような自然もなければ実り豊かな土地でもなかったが、穏やかに澄んだ小川が流れ、四季に合わせてささやかな花畑が咲くような場所である。
生活は決して豊かとはいえなかったが、人々の心は美しく、貧しい暮らしに小さな幸せを見出して微笑む。……そのような人間が多くいたはずだ。少なからず、村を治める長は聡明であった。
あばら家ばかりの家々のなかで唯一建てられていた大きな教会は、人々が集まり神に祈りを捧げ、日々健やかに生きられることを感謝する声が溢れる、憩いの場として親しまれていた。
ある日。
旅人すらあまり通りがかることのない村の教会前に、人間の赤子が捨てられた。男児であった。
薄汚れたタオル地に包まれたその赤子は、朽ちかけた編みかごに入れられ放棄されていた。
名前と思しき粗末な木札が一枚、差し込まれているぐらいで、それ以外のものは何もない。
人気のない場所に突如として現れた赤子は、すでに虫の息である。
放っておけばあと数時間で死に絶えるだろう儚い存在に、村の人々は困惑しつつも、神父の対応を見守った。
如何するのか、と。
神父は静観することしかできない人々へにこりと微笑むと、そっと赤子を抱いて教会へと戻っていった。
「神父様!」
熱心に祈りを捧げに来ていた年若い女性が、扉を閉めかけた神父へ声をかける。
駆け足で閉まりかけた扉に手を伸ばし、優しく赤子を抱いたままでいる神父を改めて瞳に映した。
そのような虫の息をしている赤子はもう助からないかもしれない。
……上述の言葉を吐き出しそうになるのを堪えて、彼女は眉を下げて神父へ暗に語り掛ける。
「出来うる限りの看病を行い……我らが信仰する神に任せてみましょう」
生きたいと願ってくれるならば、神は必ずこの子を助けてくれるでしょう。
もし。
これまでの短い生のなかで、生きるよりも安らかな眠りを望むならば、神はそうするでしょう。
「……あの」
「はい」
「お手伝いを、しても……?」
「……そうですね。お願いします」
穏やかな表情を崩さず、言葉を続けていた神父が一層微笑みを深くして彼女を迎え入れる。
そして彼女に触発されたかのよう、一人、また一人と人間が手伝いを申し出た。
放っておくと教会が溢れかえるほどの人員が増えてしまいそうだったので、次いで手を挙げた医者と猟師の二人の人間を招き入れ、その晩を過ごすこととした。
まず清潔な布を沸かした湯に浸して程よく温め、赤子の体を拭いた。
目立った怪我は無いようだが、手首や足首に細い紐か何かで縛ったような痕が見られた。
赤子に山羊ミルクを準備していた神父を慌てて呼びつけ、その様子を見せると、神父は途端に難しい顔をする。
「薬草を集めてくれますか?」
「あぁ、それでしたら私に」
医者が持ち込んでいた鞄を広げ、ハーブで作ったという塗り薬を取り出す。
様子を伺いながら少しずつ赤子に施す医者に軽く頭を下げると、神父は心配げに覗き込んでいた猟師へ木材集めを依頼した。
女性にはなるべく柔らかなタオルか布を持ってくるように指示する。
山羊ミルクを人肌まで温め終えると、神父はようやくと赤子の元まで戻ってきた。
「生後半年……ほどでしょうか」
「えぇ。けれど栄養状態が宜しくないです。山羊ミルクを問題なく飲めるようであれば、野菜や果物をすり潰してあげたほうが……」
「今夜を過ごせれば、ですね」
「……はい」
弱り切った赤子の体を起こし、匙で掬った微量の山羊ミルクを唇にそっと寄せる。
泣き声も上げられないほど弱った様子でいたものの、赤子の唇がひくりと動き、匙をゆっくりとした様子で食んだ。
閉じたままでいた目元が薄っすらと開くのに、医者は感極まりそうになるのを堪えて自らの下唇を噛む。
「まだ生きる意思をお持ちのようです」
そうして語る神父の声に呼応するよう、赤子は小さくも確かに声を上げて泣いた。
丁度その最中だったか。
大きな丸太を引きずって戻ってきた猟師が戸を開けたのに、誰とは言わず手招きをしていた。
赤子の名前は――と言った。
捨てられた子の体に添えるよう置かれていた木札には、確かにそう書かれてあった。
この地方ではあまり聞かない名前だった。
「どうするか? 捨てるくらいだ、縁起でもない名前の可能性もあるぞ」
真っ先に声を上げたのは猟師だった。
緩慢に瞳を瞬いた女性が木札の文字と筆跡、赤子の顔とを交互に見る。
医者の男へ視線を向けて暗に言葉を促すが……医学以外にはサッパリであると言わんばかり、首を振って肩をすくめられてしまった。
女性は暫く考えるよう んん 唸り、腕の中ですやすやと眠る赤子をそっと抱きなおす。
「本当にどうでも良いと思える子であったならば、わざわざ木に文字を彫って名を残すでしょうか」
見も知らねば顔も知らぬ赤子の親に皮肉をぼやいていた猟師を窘めるべく、神父は眉を下げて告ぐ。
それもそうか。猟師は腕を組む。
口減らしの一環だとするなら、わざわざ村に出入りして、教会の前に置くだろうか。
深い森の一角、目立たない場所に放置すれば一瞬で森の獣が食い散らかしてくれように。
この子にどうか生きていてほしいと願った末、教会まで運び届けた……推察するには易い状況だった。
「しかしだ、神父様」
それでもなお、猟師の眉宇は顰められたままである。
「いつかこの赤ん坊が大きくなった時、名前の由来を誰かに訊ねるとしよう。"お前の名前の由来か? 顔も知らない、お前を捨てた実の親がつけた名前だ。意味はわからない。"……そんな答えがあるだろうか?」
「……では、そうですねぇ」
神父相手に食って掛かるこの猟師もまた、孤児であったことをこの場にいた者達は思い出す。
今は伴侶と子どもに恵まれて、慎ましくも幸せに暮らすこの男。彼の言葉は、当事者故にこそ理解できる葛藤というものが垣間見えた。
「名前の一部をもらって、意味を私たちでつけましょうか」
「は、はい!」
見守るばかりでいた女性に話を振る。返答の声は大きいものだった。傍らにいた医者がびっくりしたように目を丸くさせたが、女性は構わず言葉を続けんとする。
赤子を抱いているためもあって片手を挙げるなんぞは出来ないので、その場でぴょんと一度二度と跳ねていた。
「何か良い案でも?」
「えっと、ですね!」
机に置かれたままでいる木札にちらちらと視線を送りつつ、女性は満を持して口を開く。
木札にあった名前の頭文字と、読み上げる時の語感はそのままに。
この地方においては 陽だまりの幸せ を意味する名前を子に与えないかと言う。
医者の瞳が細められると同時にその唇が緩む。猟師もまた満更でもない様子で片眉を上げる。
神父の様子をそっと窺い見ると、誰よりも嬉しそうな顔をして頷いた。
「では、そのように。どうか幸せになってください……いえ。私たちで幸せにしてあげないといけませんね」
今日という峠を越えたその時、改めて名前を授けましょう。
ゆったりと言葉を紡いでいた神父は、真摯に耳を傾ける三人へ満足気に微笑んだ後、遠慮なく彼らに仕事を割り振っていた。
私が最後に見たものは、農機具を振り下ろす見知った人間の顔であった。




