閑話 テーブルの上のヴィダル
此処は大きな船の一室。大きな生け簀が入っている、大きな大きな部屋です。
幾つも並ぶテーブルの上、ベラという少女と共にケーキを半分ずつ食べ終わった、白と黒の布地で継ぎ接ぎに縫われたぬいぐるみがおりました。
身の丈と同程度か、少し小さいくらいのデザートフォークを一つ腕に持ったまま、彼はテーブルの上に尻餅をつきます。
からんと微細な音が立ちましたが、何やら慌ただしく入ってくる人間達の物音によって、それはすぐに掻き消されました。
くあぁと欠伸を漏らしていたヴィダルは、甘いケーキでお腹いっぱいです。
短い手足を精一杯に伸ばし、背中からぺたりとテーブルの上へと寝そべります。食べ物を口にした直後、ヴィダルはたいてい、ベラの上着のポケットか、彼女のフードの中で寝るのが日課なのです。
ボタンの目に縫われた口許、どう見ても食べ物を口に入れるような見た目ではありませんが、布地のお腹は確りと膨らんでいました。
「ンミ……」
人間達がわいわい騒いでいるのを尻目に、ヴィダルはテーブルの上で伸びたまま。
視線を感じて其方を見ると、呆れた様な目をした修道士と視線が合います。
何か言いたそうにしていますが、ヴィダルは言葉をまともに発せられませんし、何より今、お腹いっぱいな彼は行動を起こす気力はありません。
少々人間達の会話がうるさいですが、気に留める程の騒音とまでは、ヴィダルは感じていません。
「ミー……ミ、ミィ……」
今日の夜ご飯はなんだろう。ヴィダルは随分と暢気な事を考えています。食べたばかりですが、彼の食欲は飢えた動物並に旺盛でした。
室内を照らすキャンドルランタンの灯りを暖かく感じている頃、何気なく部屋のあちこちへ目を向けてみました。そして彼は見つけてしまいました。
少し離れた位置にあるテーブルの上にあるケーキ。三つのお皿に、食べかけが二つ、綺麗なケーキが一つ。
ヴィダルは考えます。
「ミッ……ミ、ミミ…ニュミ……!」
これを逃したら、美味しいケーキは暫く食べられないだろう。いや、そうに違いない、きっとそうなのだ!
と。
ヴィダルは、ケーキで重たくなった身体を引き摺るようにしてその身を起こしました。
携えるデザートフォークを天井に掲げ、きらきらと輝く剣のようです。うーん。かっこいい。
得意気にポージングを決めるヴィダルは、暫く余韻に浸った後、テーブルの上から勢い良くぴょんと飛び降りて……いく勇気は、ありませんでした。
テーブルから覗く床との距離は、人間にとっては些細な距離でも、ヴィダルにとっては断崖絶壁です。
「ミ"っ……ンミ……」
然しこんな所でぐずぐずしていられません。早くテーブルに行かなければ、あのケーキは無くなってしまいます。
意地汚さは恐らくこの船の中でも随一の存在でしょう。もうあのケーキはヴィダルのものです。
急くヴィダルは、きょろきょろとテーブルの周辺を見渡します。
「ミ!!」
短い手を伸ばしたのは、テーブルに敷かれているテーブルクロスでした。
綺麗な色のテーブルクロスをぎゅっと掴み、真ん中から端の方へと移動していきます。
決して軽いとは言えないデザートフォークを口の部分で挟み込み、テーブルクロス伝いに床へと少しずつ、少しずつ降りていきます。
あともう少しで床へ辿り着く、という所で、ヴィダルは手を滑らせて床へと落ちました。
ぼた、という鈍い音と共に、デザートフォークがからんと床上で踊り落ちます。
「ミ……ミギュ……」
強打した顔面をごしごしと両の手で拭うと、ヴィダルはデザートフォークを持ち直し、例のテーブルへと向かいました。
数人の足の間を縫って歩きます。何やらごたごたと話し込んでいる人間達です。これ幸いとばかりに、ヴィダルはテーブルへと猛突進です。
やがて辿り着いたテーブルでしたが、人が倒れ込んでいました。
見慣れぬ顔立ちの女性が、眼を見開いたまま静かに息を引き取っているようです。けれどヴィダルは、それが遺体だと気付けません。
「ミ?」
不可思議そうに、短い首を捻っています。
『あら……デザートのケーキでも、食べにいくのかしら』
酷く優しげで、穏やかな声がヴィダルの頭上から落ちてきます。
見上げた先には、その声の持ち主らしい女性がにこやかに微笑んでヴィダルを見詰めていました。
倒れている女性と同じ顔立ちをして、同じ服装をしていますが、不思議な事に、身体の向こうが透けて見えます。
『私はもう。食べられないから。ケーキとお皿以外には、口をつけちゃ駄目よ』
微笑みながらヴィダルに告げると、女性は透ける両手でヴィダルをそっとテーブルの上へと置いてくれます。
ボタンの目がぴくぴくと動くヴィダルの様子に、喉を鳴らしてくれました。
ヴィダルから離れていく両手の内、片手がボタンの目の前に留まり、人差し指を差し出します。
『約束できる?』
形の良い爪がヴィダルに向けられます。爪の先と女性の顔を頻りに見比べると、ヴィダルはデザートフォークをテーブルに寝かせました。
そして、両手を腰元に宛がって、まるで威張り散らすかのような姿勢を取ります。
「ミィ!! ミ、ミ。ミミ。ンミ!」
そんな簡単な約束、問題ない。そう告げる姿に、女性が先程よりも楽しげな色に笑みを染めて、頷きました。
『めしあがれ。さようなら』
ふと気付くと、ヴィダルの前から女性は消えていました。
右へ左へ。上へ、下へ。暫く女性を探していたヴィダルでしたが、直ぐにケーキの事を思い出し、デザートフォークを改めて持ち直します。
へんてこな匂いがする食器類を避けて、ヴィダルは美味しいケーキを貪りに行きました。
甘くて、けれど飽きないケーキの味は、なんといっても絶品の一言です。つぶつぶとしたお砂糖らしい粒が挟まっていて、食感も楽しめるのです。
間に挟まれた果物はなんでしょうか。ケーキの生地とクリームによく合っています。
ひと舐めした砂糖菓子の味も忘れられません。ケーキを食べきってしまう前に、もうひと舐めしたい所です。
「ミ……ミィ…ミー!」
我慢できずに飛び付こうとした寸での所で、ヴィダルの腕は宙を掴むに終わります。
べしゃりとケーキのクリームに埋もれたヴィダルの頭上で、楽しそうに笑う女性の声が、彼にしか聞こえない声が、穏やかに響きました。
彼の意地汚いその姿を多数の人間に目撃されるのは、もう間も無くのお話です。




