プロローグ
低い塀、高い塀、門柱灯に犬の置物。
住宅街の景色がながれる速さは、男の期待を裏切り、もどかしいほど遅かった。
「うぐっ、が、がは……」
鼻から吸う空気は、とっくに足りなくなっていた。
かといって、口からのそれも、乾燥と喫煙の習慣でがさつく喉では、まともに補充するのがむずかしい。
あと一回。あと一回だけ右に曲がれば――。
男の目の前に、コンクリートの擁壁が立ちふさがった。
高さはゆうに十メートルを超えるだろう。
等間隔に並んでいる四角いくぼみに手をかけていけば、もしかしたら登れるかもしれない。
しかし、運動不足で増えた体重と、反比例して減った筋肉の腕で、それが可能とは到底思えなかった。
「やっと……追いついた。もう、逃げられないですよ」
若い女とも、声変わりしきれていない少年のともとれる声が背中を撃つ。
男が振り返る。
街灯で逆光気味だが、それほど高くない身体が大きく上下しているのがわかる。
「なんだ、もうグダグダじゃないか。運動不足か?」
男は薄く嘲笑をこめて話しかける。
自分も同じくらい、いや、それ以上に疲弊しているのを悟られたくなくて、ゆっくりと。
「笑っていられるのも今のうちです。もうすぐ、警察も来ます」
影が何かを取り出した。
110番するためのスマホかと思いきや、その形態は板状ではなく球体だった。
「何の真似だ」
「ただの用心です」
男の記憶が、感情のこもらない声で「あいつの玩具『考える球体』は、やっかいだ」と告げる。
だとしたらそれを準備するのは正しい、だが、果たしてどこまで想定しているのだろう。
例えば、こいつの存在は?
男は、メモ用の小さなバインダーに挟まれた紙切れをゆっくりとポケットから取り出して、追跡者にも何が描かれているか見えるように手をのばす。
「あれを拾ったんだろう。だったら、これが何かもわかるよな」
追跡者の、上下運動が止まった。
右を見て、左を見て、後ろを確認する。慌てたさまが、影になっていてもわかる。
紙切れには、追跡者の背後が細密にスケッチされている。
紙の大きさは関係ない。
どれだけ正確に描かれているか、それが威力をきめる。
「追いつめられたのは、そっちなんだよ」
じりりと追跡者が後じさる。
「逃がすもんか、お前も道連れだ」
男はスケッチを出したのとは反対のポケットから木炭を取り出し、紙切れの右上に強めに押し当てた。
線の太さも、重要な要素の一つだからだ。
一気に左下へ、斜線をひく。
アスファルト舗装が引き裂くように削られていく。
細い縦の風圧が追跡者に迫る。
目には見えない、迫りくる巨大なギロチンの刃が、確かにある。
ぼこり。
コンクリートに激突したためと思える音が、追跡者の立っていたところから放射状に広がり、埃が派手に舞いあがった。




