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翡翠の姫君と銀の猫 3

「で……。どうするの?」


 いつも通り部屋の点検を注意深く行いながら、ガガが訊ねる。


「もちろん逃げる。『化け猫エリュース』なんかに捕まらない」


 ナディルは、機嫌よく答えた。


「ええっ。なんでだよー!?」


 ガガは、床の上で高く跳ねた。


「さんざん探しまくってたエリュースが、今度は向こうからナディルを探しているんだよ? 逃げる必要がどこにあるのさ?」


 ナディルは、笑った。


「エリュースは、私を見つけられない。なぜなら、その前に私が彼を見つけるから。私のほうから彼に会いに行く。そして、彼が私を見つけるより先に、私が彼を見つけるの。私に見つけられたときの彼の驚いた顔をどうしても見なきゃね」


「……ったく」


 ガガが、あきれて溜め息をつく。


「ここでじっとしていても、エリュースのほうからそのうち来てくれるのに。第一、彼に対抗しようとしても、ナディルは太刀打ちできないと思うよ。だって彼は、凄腕の賞金稼ぎ『化け猫エリュース』なんだもの。経験も能力も、ずうっとナディルよりまさってる。つか、もうそのへんまで来ているかもしれないよ。今頃、下でレオンと話していたりなんかして」


「だとしても、レオンは私の正体は言わないよ。この前、誓ってくれたもの。絶対、私のほうから彼を捕まえる」


 ナディルはマントを脱ぎ、サラマンサのロープと剣をベッドの枕元の下あたりに置いた。

 それから、ひらりとベッドに飛び乗る。


「ガガ、給仕の子が夕食を持ってきてくれるまで、少し寝るね。ここ、持ってくるの遅いこと多いし。何かとても疲れた」


 ナディルは、そのまま体を横たえる。


 ガガが部屋の点検を終えた時、ナディルは既に眠っていた。

 毛布を口でくわえ、ガガはナディルにそっとかける。


「いい夢を、ナディル。束の間だけど、ゆっくりお眠り」


 それからガガはナディルの枕元に座って、その安らかであどけない寝顔に見惚れた。


「ナディル、よかったね。ナディルには幸せになってもらいたよ。ナディルが幸せなら、そばにいるぼくも幸せだよ。ぼくは、ナディルがお母さんになっても、お婆さんになっても、ずっとそばにいる。そしていつか、ナディルがぼくの両親のいるところに旅立っても、ぼくはナディルの子供や孫たちと一緒にいるよ。たとえそこが王様の城の中でも、砂漠でも、大海原でもね。ぼくはこの体で、まだまだ生きなきゃならないんだから。ぼくは、猫族と一緒に天の彼方に行くことを選ばなくて正解だったと思う。だって、この世界が好きだもの。この世界で懸命に暮らしてる人たちも好きなんだ。それにね。何といっても、ナディルに出会えたんだもの。ナディルと一緒にいると、はらはらするけど、やっぱり楽しいもんね……」



 二つの輝く月の目をした銀の猫が、闇の中を走る。

 ナディルは夢の中で、その微かなやわらかい足音を聞いたような気がした。


 相変わらず、足音をたてないんだね。

 でも、私にはわかるよ。

 あなたの足音が近い……。


 今、どこにいるのだろう。

 だけど、そんなに遠くないよね……。


 部屋の扉が、トントントントンと規則正しくたたかれた。


「あ、食事を持ってきてくれたんだ。今回は早いな」


 ナディルの足元で丸くなっていたガガは起き上がり、扉の前に走った。


「この間はさんざん待たされて、結局忘れられてたことがわかって、ひと悶着起きるところだったもんな。宿代タダってことになって得したけど。料理をテーブルに並べてもらったら、ナディルを起こさなきゃ」


 ぶつぶつ呟きながら扉を開けたガガは、ルビーの目を大きく見開く。

 給仕の少年よりも背の高い人物が、そこに立っていた。


「あ……」


「久しぶりだね。……翡翠のナディルは?」


 その人物が、ガガを見下ろして微笑む。

 ガガがよく知っている人物だった。


「ひ、久しぶり。ナディルは今、眠ってるよ。どうぞ……」


 ガガは躊躇しながらも、その人物を中に招き入れた。

 そして、自分は部屋の隅に静かに移動し、そこで丸くなる。


 聞こえない足音が、近づいてくる。

 皮のブーツが部屋の木の床を踏みしめ、マントが揺れる。

 ナディルは、夢から引き戻された。

 心臓が激しく鼓動する。

 彼に別れを告げられた時以上に高鳴っている。


 けれども、ナディルは目を開けなかった。

 どうすればいいのか考え付かなかったからだ。

 どんな態度を取ればいいのか。

 何を話せばいいのか。

 考えれば考えれほど、頭の中は空っぽになって行く。


 ガガの冗談が本当になってしまった。

 どんなに悪あがきをしたって、本気を出した『化け猫エリュース』にはかなわない。

 先に見つけられてしまった。

 彼はレオンと話したのだろうか。

 話さなくとも、『翡翠のナディル』の居場所と正体は既にわかっていたのだろうが。

 しかし、いきなりの展開だ。どうすればいいものか。

 ナディルが思い悩む間にも、足音は近くなる。

 

 訪問者は、ナディルのベッドの傍で立ち止まった。

 その人物の指には、真紅のルビーを抱えた金の猫の指輪が輝いていた。

 それは、その人物の素性を知らしめるもの。

 アーヴァーンの王家から嫁いだ姫君が、一族にもたらしたもの。

 ごく最近まで、魔女カジェーラがはめていたものだ。


(ねえ、エリュース。ううん、ファルグレット侯爵。その指輪をはめてるってことは、それなりに覚悟が出来たと受け取っていいの? じゃあ、私も覚悟を決めなきゃいけないね)


 目を閉じたまま、ナディルは彼に話しかける。


(侯爵。私と一緒にアーヴァーンに帰りましょう。あなたの鈴を預かっています。今はガガが持っている。私はそれをあなたの首にかけよう。それは、あなたの魔力を封じ込めた鈴。そして、あなたが先祖から引き継がねばならない、大切な役目の印でもある鈴だ。自由で気まぐれな銀猫さん、あなたの居場所は私の隣なんだよ。一緒にアーヴァーンの国王の城に帰ろう。あなたと一緒なら、私も城に帰れる。もっと強くなれる。そのためにも、私にはあなたが必要なんだ)


「ナディル……」


 その人物が、自分の名を呼んだ。


 どちらだろう。

 『翡翠のナディル』。アーヴァーンの『ナディル王女』かもしれない。

 それとも、そのどちらでもない、ただの『ナディル』。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 彼がここにいて、自分を呼んでいることは現実なのだ。


 その声は、鏡が作った声ではない。

 あの声よりもはるかにあたたかく、心地よい声だった。

 今考えると、全然違う声だ。

 なぜあんな声に囚われたのだろう。

 そう思うと何とはなしに滑稽になり、ナディルは心の中でくすりと苦笑する。


 彼は、ここにいる。

 今、自分の前に立ち、自分を見下ろしている。

 痛いくらいに強く感じる、彼の視線。

 夢ではない。

 目を開けると、彼がいる。

 銀の髪とトパーズの目をした懐かしいエリュースが、そこに立っている。


(エリュース。目を閉じていても、あなたが笑っているのが見えるよ。やさしい眼差しで私を見つめているのが見える。だって、私も猫族の末裔なのだもの。何だかとても安心した顔だよね。そんなに私のことを心配してくれてたの?)


「ナディル」


 彼は、もう一度名前を呼んだ。

 彼の気配が近くなる。


(少し待って。呼吸を整えて、準備が出来てから、目を開ける。でも、どんなに心の準備をしたって、私、きっと泣いてしまう……。ああ、そうだ、今夜は満月だから、気をつけなければ、あなたは猫になってしまうね……。でも、猫になっててもかまわない。猫のあなたも、とても素敵なのだから)


 ナディルは、彼の指のあたたかさを頬に感じた。

 その指は、そっと遠慮がちにナディルの頬を撫でる。

 ナディルがそこにいることを確かめるかのように。


 エリュース、そんなことをしたら、起きているのがばれてしまう。

 顔が熱いよ。

 きっと真っ赤になってる。

 涙だって、今にもこぼれそうだ。


 ナディルはくすぐったさを我慢して、眠っているふりを続ける。


 あなたを抱きしめよう。

 私の銀の猫をしっかりとこの手の中につかまえよう。

 もうどこにも行かせない。

 エリュース・ファルグレット侯爵。私はアーヴァーンのナディル王女としても、ただのナディルとしても、あなたがとても必要だ。


 それからナディルは、いたずらっぽい笑みを唇に浮かべる。

 空っぽになっていた頭が、次第に落ち着きを取り戻していく。


(でも……でもね。その前に、化け猫エリュース。ガガが入れてくれたとはいえ、『翡翠のナディル』の寝室にのこのこ入ってくるなんて、失礼極まりないよ)


 ナディルは、片手をそろそろと枕元の下に這わせた。彼に気づかれないように。

 手はすぐに、そこに置いたものに到達する。

 ナディルは、それに指を絡めた。


(ちょっとだけ私の相手をしてくれる? 『翡翠のナディル』と戦ってみたかったんでしょう? 私、あなたに勝てる自信、割とあるんだよ。銀猫になったあなたと渡り合うのも、また一興だ)


 ナディルは、ゆっくりと目を開ける。片手に剣の柄を握りしめて。

 そして、毛布を蹴り、彼の頭上に跳び上がる。


「わああああ、ナディルーっっ!! 何でだよおおお――っ!?」


 ガガがルビーの目を大きく見開き、両手で頭を押さえて絶叫した。



 旅人の宿『砂漠に眠る緑の羽根生え猫』は、逢う魔が時の青い湿った空気に包まれ、明かりを灯して静かに沈み込む。

 やがて、そのはるか上にかかる鏡のような丸い月は、深まっていく夜の中、透明な輝きを一際増した。


「……ったく。二人で思う存分じゃれ合えばいいよ。邪魔はしないからさ。ぼくは別に朝までここにいたって、ぜんっぜん構わないし?」


 猫族の血を引く二人の若人のじゃれ合いは、まだ当分続きそうだった。

 激しく続いていた剣の触れ合う甲高い音は止んだものの、空間をあけて対峙する二つの静かな息遣いは聞こえてくる。

 二つのうちの一つは、人間のものではない。それはおそらく、巨大な銀の猫が咽喉の奥で鳴らす低い音。


「誇り高いお姫さまに付き合わされて、エリュースもご苦労なこった。ほどほどにしといてほしいよ、ナディル」


 ガガは、閉め切られた扉を見つめて、肩をすくめる。

 けれども、朝になったら、きっと二年前よりももっと仲が深まった二人に会えるだろう。そして、ナディルのはにかんだ素敵な笑顔も見られるだろう。

 それから、みんなで懐かしいアーヴァーンへの帰途に就くのだ。


 淡い月の光は、廊下の扉の前にずらりと並べて置かれた料理と、料理の間に陣取って、それにぱくつく小さな金の竜にやさしく降り注ぐ――。 [終わり]


                            


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