幻の崩壊 2
「行方不明だということを公には出来ませんでしょう? フィリアス公子さま、あなたにはお礼を申し上げねばなりませんね。私とガガを鏡の呪縛から解き放ってくださいました」
ナディルはフィリアスに向かって腰をかがめ、オーデルク風のお辞儀をした。
フィリアスが、まだ呆然としたまま、それを眺める。
「翡翠のナディル……。何ということでしょう。あなたがナディル王女だなんて。確かに同じお名前でしたが、思いもしませんでした」
「ま、ナディルという名前は、よくある名前かもしれないもんな」
ガガが、ぼそっと呟く。
「ナディルが生まれたとき、アーヴァーンの女の子の名前は<ナディル>だらけになったもんだ」
「いつぞや、もう十年以上も前ですが、お隣のアーヴァーンを何かの折に訪問したとき、あなたをお見かけしたことがありましたよ。その頃、あなたはまだ幼い少女だったが……。そんなふうに、私に挨拶してくださった。何とかわいらしい姫君なのかと、美しい目の色なのかと。なぜ思い出さなかったのだろう」
「申し訳ありません。私もその時のことは覚えておりませんわ」
ナディルは微笑んだ。
「覚えておられなくて当然ですよ。あなたも私もまだ子供でした。特にあなたは小さかった」
フィリアスは姿勢を正し、ナディルの手を取って唇を当てた。
「あーあ。ばらしちゃった。これであの公子さまとは、はい、さようならというわけにはいかなくなるよ」
ガガは、うんざりしたように言った。
「そうじゃな。借りを作ってしまったしのう。正体を知った上は、公子も対応を変えざるをえんじゃろ」
カジェーラが頷いて、ガガに同意する。
「ナディル王女。確かにその冠はあなたによく似合う。あなたほど似合う姫君はいないかもしれませんね」
ますます頬を赤くしたフィリアスが言った。
「この冠はあなたにお返し致します、フィリアス公子。私はこれをカジェーラからいただきましたから、今は私が所有していることになるのです」
「ありがとう、ナディル。あなたのおかげで、私はオーデルクの世継ぎとして認められます。私のほうこそ、お礼を申し上げなければならぬ立場」
フィリアスは、ナディルに丁寧に頭を下げた。
「ナディル。ぜひ、オーデルクに一緒に来てください。約束の翡翠も差し上げねばなりません。オーデルクにいらっしゃって、お好きなだけ翡翠を持って行ってください。ぜひとも」
「それは……でも」
ナディルはためらった。そして、目を伏せる。
エリュースは、いない。
その現実が、再びナディルのもとに戻って来る。
さっきまで自分を抱きしめてくれていた彼。
あれは、鏡が自分の心を覗き込んで作り出してみせた、まやかし。
それ以外の何物でもない。現実には存在しないのだ。
決してエリュースではない。彼の意思も心も、そこには全くない。
わかってはいたが、ナディルは悲しかった。
気分は次第によくなってはきた。けれども、それとは反対に、虚しさが胸いっぱいに膨れ上がってくる。
「エリュース殿は、もうこの城にはいないのですよ。彼の行方は、オーデルクに来てから調べるといい。私も情報を集めるお手伝いが出来ると思いますし」
フィリアスが、明るく言った。
この城をあとにすること。
それは、エリュースから遠ざかることも意味する。
ここは、彼と血が繋がるカジェーラの城であり、彼もまた、時折ここに姿を現すのだから。
もちろん、いずれはここを立ち去るにしても、ナディルはもう少しカジェーラからエリュースの話を聞き、しばらくは彼の気配を感じていたかった。
このまま彼を追い続けるのか。それともあきらめて別の行動を取るのか。
それすらも、まだ決めかねている。
心は相変わらず彼を求めているのだ。
たとえ彼が鏡の中に何も見なかったとわかっても。
「そうじゃ。やっと思い出した」
カジェーラが言った。
「棺の中に横たわる、長い黒髪の姫君。やはり、あれはナディル、そなたじゃ」
「え!?」
ガガが飛び上がって、目を剥いた。
それから、カジェーラを思いっきり睨む。
「婆さん、また何を寝とぼけたことを言い出すんだ!」
「別に寝とぼけておりゃあせん」
カジェーラは、床に散らばる鏡のかけらの中から、大き目のものを選んで手に取った。
それは天井のシャンデリアを集めたように光を放つ。
「全く、年は取りたくないのう。昔のことはよく覚えておっても、最近のことはさっぱりじゃ。自覚しておっても、どうにもならん」
カジェーラはナディルの前に進み、鏡の破片を差し出した。
「鏡の魔力はなくなったが、鏡の記憶は残っておる。かけらの中にそれを見ることも出来るのじゃ」
「鏡の記憶?」
カジェーラは頷いた。それから、黄水晶の透明な目をナディルに注ぐ。
「見る勇気があるかの? エリュースが鏡の中に何を見たのか」
ナディルは、カジェーラの手の中で輝く銀色の小さな板をじっと見つめた。
再び鏡に囚われていたときのように、体が石のごとく硬くなったかのようだった。
「……見ます。見せてください」
しばらく黙りこんだナディルは、小さな声で、やっとそう呟いた。
「では、見るがいい」
ナディルは鏡のかけらをカジェーラから受け取り、その中を覗き込む。
鏡の中にはナディルの顔がそのまま映っていたが、やがてそれはぼやけ、別のものが形を結んだ。
少女が、白い花に囲まれて眠っていた。
花畑でうたた寝をしているかのように、穏やかに。
長い黒髪が花の上を流れるように這い、華奢な体は花の中に途中から埋もれていた。
肌の色は、花よりもさらに白かった。
少女と花は、長方形の箱に納められていた。
絡まった花々の彫刻が施された、薄い緑色の木製の箱に。
少女は動かない。
目は固く閉じられ、血の気のない唇も、軽く結ばれたままだった。
長い睫毛で飾られた瞼の下にあるのは、おそらく翡翠色の透き通った目。
けれども、その目が開かれることは、もうない。
その少女が何かを見つめ、それに微笑みかけることは二度とないのだ。
若者がひとり、少女が納められた箱のそばに佇んでいた。
銀の髪に黄色の宝石のような目。
旅の衣装のその若者は、少女を見下ろしていた。
悲しげに。けれども、感情を押し殺した冷静な様子で。
若者は、ずっと少女を見つめていた。
ただ静かに見つめるだけだった。
何も起こらなかったし、起こりそうもなかった。
少女は生きるのをやめ、若者は生きていて、既に死出の旅路に立った棺の中の少女を見ている。
ただそれだけだった。
「もう、いい。もう十分……」
ナディルは鏡を握りしめ、その映像を自分の視界から遮った。
割れた鏡は、それをあまりにも強く握ったナディルの手を切り裂き、指の間に血を滲ませた。
頬には、知らぬ間に涙が伝っていた。
涙は、ナディルがまとっている豪華なドレスにぽとぽととこぼれ、染み込んでいく。
「ナディル。何が見えたの?」
ガガが訊ねる。
ナディルは、首を振った。
そして、カジェーラに言う。
「エリュースが見たのは、あなたがおっしゃった通りのものでした。棺に横たわる長い黒髪の姫君。それはやはり私でした。つまり、彼にとって、私は死んでいるのです。棺の中に納めて、死んだことにしたいものなのです。もう十分です」
ナディルの手から鏡のかけらが離れ、鋭い金属の音をたてて床に落ちた。
それは他の多くの残骸と同じように、ただの鏡のかけらに戻り、天井の光をまばゆく映す。
「私はもう、エリュースを追いかけるのはやめます……」
「ナディル……?」
ガガは、ナディルの肩に舞い降りた。
薄紅色の細い舌で、頬にこぼれる涙を舐めたが、それでも涙は止まらなかった。
「泣かないで、ナディル。『翡翠のナディル』は泣かないんだよ」
「私は今、翡翠のナディルじゃない。ただのナディルだ……」
ナディルは、こみ上げてくる嗚咽を抑えながら、かすれた声で呟いた。
「ナディル王女。何か悲しいものを見てしまったのですね。オーデルクに一緒に行きましょう。きっとあなたの心を紛らわすものがたくさんありますとも」
フィリアスが声をかける。
ナディルは、頷いた。
「連れて行ってください。私はもう、この城にはいられません……」
「ナディル、そんな簡単にオーデルクに行くことを決めちゃっていいの?」
「どこでもいい。とにかく、ここから出なくちゃ……」
ナディルは、心配そうに自分を見上げるガガを抱きしめる。
あたたかい涙は、ガガの背中を覆う金色の鱗を濡らした。
「この二年間って、いったい何だったんだろう。私は何をしてきたのだろう。そう思ったら、とても悔しい。自分が腹立たしい。エリュースは、決して私を振り返ったりしない。もしかしたらって、それを望みにここまできたのに。彼の未練と私への思いを信じたから、ここに来たのに……。それは幻だった。私が欲しいエリュースは、あの鏡の中にしかいない。鏡は壊れたから、もう存在もしないんだ」
「ナディル……」
「ごめんね、ガガ。ううん、セリアン。あなたは私なんかより、ずっとずっとつらい目にあったのに。でも、今はとても泣きたいの。ただ泣きたい……。泣いていろんな感情を涙と一緒に流してしまいたい……」
「ガガでいいよ。セリアンなんて呼ばれたら、固まっちまう。この二年間は、ナディルにとって大切な二年間だった。決して無駄な時間なんかじゃない。オーデルクに着いたら気分を切り替えて、エリュースのことなんかきっぱり忘れてしまえばいいさ」
「思い出さぬほうがよかったかのう。しかし、事実じゃからな……。エリュースが鏡の中に見たものは、そなたがたった今見たものと同じなのじゃ」
カジェーラが、申し訳なさそうに呟いた。
ナディルとガガを眺めていたフィリアスは、おもむろに、ナディルが落とした鏡のかけらを拾い上げる。
特に考えがあったわけではなく、ただ何となく興味を引かれたので、鏡を手に取った。ちょうど足の先に落ちていたこともある――。
誰かに理由を訊かれたら、もちろんフィリアスは、そう答えたに違いなかった。
彼が鏡をかざすと、その表面が波が立つように揺らめいてぼやけ、何かが現れた。
しばらくその映像に見入っていたフィリアスは、カジェーラのほうに向き直る。
彼は、緊張した面持ちでカジェーラに訊ねた。
「カジェーラ殿。今、ナディル王女が戴いている翡翠の冠。オーデルクの大公家の宝であるその冠は、本来はあなたが被るはずだったものなのではありませんか?」
フィリアス公子の言葉を聞いたオーデルクの人々の間に、驚愕と疑問の声がどよめいて上がる。
フィリアスはそれを無視し、カジェーラの反応を待った。