幻の崩壊 1
囚われた人々によって鏡の中に映し出される光景は、ナディルも垣間見ることが出来た。しっかりと抱きしめられた、エリュースのやさしい腕の中から。
幸福感に浸り、目を閉じていても、それに意識を集中すると映像が頭の中に流れてくる。
あまたの像の中で、ガガのそれは輝くように際立っていた。
(ガガ……。あなたは人間だったんだね……)
(うん。ずっとずっと昔のことだけど……)
ガガが、遠くからナディルに答える。
言葉は聞こえなかったが、彼の思念はナディルに届いた。
(ごめんなさい。あなたをただの飼い竜としてしか見てこなかった……)
(いいんだよ。ぼくも、ただの小さな飼い竜として、あなたのそばにいたんだから)
ガガは、石像の動かぬ竜のように、鏡の前に座っていた。
金の鱗からは、完全に生気が抜け去っていた。それは今、年月を重ねて曇ってしまったガラスの束のように、体を虚しく覆うだけだ。
ルビーの目は大きく見開かれ、鏡の中に映っているもう一頭の竜を魅入られたようにじっと眺めていた。
(ナディル。ぼくは鏡につかまってしまった。ぼくのそばには父さんと母さんがいるんだ。二人とも、ぼくに笑ってくれる。ここでは二人とも生きてるんだ。昔、ぼくが幸せだった頃のように)
(私もつかまってる。私のそばにはエリュースがいるの)
(ナディル! そのエリュースは本物じゃないよ!)
(あなたのご両親もそうだ。鏡が記憶を探って映している、単なる幻……。あなたも私もそのことがわかっているのに、ここから出られないんだよ……)
「ナディル。どうかしましたか?」
エリュースが、甘い声で訊ねた。
「あなたにお話をしましょう、楽しい異国の話を。あなたが望まれるだけ、いくらでも……」
エリュースがナディルを抱き寄せる。
「うん、エリュース。話してくれる? ずっと聞いていたいよ……」
(ナディル、ナディル! 聞いちゃだめだ!! それは鏡が喋ってるんだ!)
「セリアン、おいで。母さんがご馳走をつくってくれたよ。おまえの好きな料理だよ」
昔、死んだはずの父親が、ガガに言った。かつて人間だった頃の名前を呼んで。
ガガは、ぼんやりした意識の中で、自分が竜ではなく、人間の少年の姿をしていることに気づく。
金色の巻き毛。白い肌。目は、晴れた日の海の青色のはずだった。
ここでは、おまえは人間なんだ。人間でいられるんだよ……。
鏡が耳元で囁いたような気がした。
「セリアン。あなたが好きな野苺も摘んできたわ。食べるわよね?」
母の笑顔。
どれだけこの笑顔が欲しかったことだろう。どれだけ焦がれたことだろう。
彼女は微笑む。籠にいっぱいの赤い大きな野苺をかざしながら。
(うん。食べるよ。大好きだもの。ずいぶん長いこと食べてないよ。それはうちの地方でしか採れない種類だものね……)
「じゃあ、おいで。もっとこちらへ」
父親もまた、にこりと笑う。
ガガは、立ち止まった。
(違う。違うよ。そっちへ行っちゃだめなんだ。もっと出られなくなってしまうんだ。出なくちゃ。ここから、出なくちゃ……)
鏡の中に映る竜の体が、体内に炎を宿したように赤くなる。
それは次第に、ガラスの鱗で覆われた輪郭を膨れ上がらせた。
「何をしてるの、セリアン。そんなことをしたら、父さんも母さんも死んでしまうのよ」
母親が眉を寄せる。
ガガの体は彼の意識の中で、また竜に戻っていた。
(二人とも、もう死んでるんだよ。だって、だって、ぼくが殺したんだから!)
鏡の中の竜は、さらに大きさを増した。
「セリアン。父さんも母さんも、ぴんぴんしてるよ。ほら、ごらん」
父親が笑いながらおどけて、くるりと回って見せる。
(父さんも母さんも、お墓の中だよ。ぼくはお葬式には出られなかったけど、代わりに先生が参列してくれたんだ。先生は、二人の体をきれいにしてくれたんだよ。ぼくが焼いて汚してしまったから……)
「セリアン。何を恐ろしいこと言ってるの。早くこちらにいらっしゃい」
母親が手招きをした。
ガガは、立ち尽くす。
鏡の中の竜は、どんどん膨れ上がっった。
小さな竜の可愛らしさは消え、凶暴さを窺わせる鋭い眼差しを持った、大きなきらめく金色の竜が現れる。
「やっかいじゃの」
カジェーラが呟いて、ふうっと溜め息をつく。
「あのまま鏡の中の竜が巨大化して鏡を壊したら、この城も、とばっちりで消滅するであろうな。昔の姿と大きさを取り戻した竜が、無意識に魔力を使うのじゃからな」
「それは、かなりまずいですよ! 古代の人々は、どれだけ竜の凶暴さに翻弄され、悩まされたか。伝説が伝説でなくなってしまいます!」
フィリアスが、おろおろして言った。
「当然じゃ。すると、やはり私が出て行くしかないわけじゃな。あまりあの鏡に力を使いたくはないのじゃが、仕方あるまい。抱いていた目標は、あきらめるしかないかの。伝説だった竜を余計なことをしてよみがえらせたのは、我が先祖の仕業じゃしの」
「あなたなら、あの鏡を……?」
フィリアスが、すがるようにカジェーラを見下ろす。
「わからぬ。前は脱出するのに五十年かかったからのう。また囚われるかもしれぬ。あの鏡に近づける、強い心の持ち主がいればいいのじゃが。あるいは、エリュースのように鏡に慣れている者。あるいは、子供でも連れてくるかの。純粋で無垢な子供ならば、鏡の影響は受けぬであろうからな。心に傷を受けることなく幸せに育ち、何の悩みも苦労もまだ経験していない子供をな。ま、私もあの頃よりは年老いたからのう。時間が心を洗ってくれたやもしれぬ。案外簡単に鏡を……」
そう言いかけたカジェーラは、黄色いトパーズの目を大きく見開いた。
動かぬ人々の間を縫って、金色と青の影が素早く走る。
「何と……!」
カジェーラは、その影を目で追った。
それは鏡に向かって、迷うことなく突進した。
ナディルは、どこか遠いところから、軽い足音が近づくのを聞いた。
タタタタという、軽快な足音だった。
誰だろう?
誰かが走っている。
行儀の悪い子供だろうか。
ナディルはふと思ったが、そのままエリュースの背中を抱きしめ、再び安らかで気だるい眠りの中に身を沈ませる。
けれどもその眠りは、大音響と共に破られた。
何か美しい、巨大な楽器が壊されたかのような音だった。
ナディルを抱きしめていたエリュースのあたたかい手が、そしてナディルに寄り添っていた彼の広い胸が、突然ナディルのもとから溶け去ってしまう。まるで、砂の城が波にさらわれて崩れるように。
宙にかかげた手に冷たい空気を感じて、ナディルは目を開けた。
ナディルの目の前の銀の壁が分解し、何千ものかけらとなって床へと流れ落ちて行く。巨大な波が砕ける音と共に。
鏡の破片は、身動きせぬ人々の足元を覆い尽くし、星の海のように散らばった。
その一つ一つに、何億もの蝋燭の光が映って、まばゆく輝く。
人々の目に生気が戻り、その体がびくりと動いた。
彼らは呆けたように、お互いの顔を見つめ合った。
「だいじょうぶですか、ナディルっ!」
金色と青の影。
金の髪をなびかせ、青いマントを羽織ったフィリアスが、ナディルに駆け寄る。
ナディルを気遣うやさしい目。
けれどもそれは、先程までナディルのそばにいた人物の目とは対照的な、紫色の目だった。
「フィリアス……」
ナディルは、ぼんやりと彼を眺めた。
頭が少し痛む。気分もよくなかった。
ガガも夢から覚めたように、うつろな目をあたりに注いでいた。
鏡の中に映っていた巨大な竜は、鏡の分解と共に消え去っていた。
小さな金の竜だけが、残された鏡の台座の前に、ちんまりと座っている。砕けた鏡のかけらに埋もれるようにして。
鱗にはいつもの美しさが戻り、石像ではなく、呼吸をする生きた竜がそこにいた。
「もう安心ですよ、翡翠のナディル。いや、どこかの王家の姫君のナディル、かな」
王女の衣装を付けたナディルを間近にして、少し頬を染めたフィリアスが笑った。
「鏡は……?」
ナディルは、今は木製の壁と成り果てた鏡の名残りを眺める。
ガガは、きらめく破片を蹴散らして羽根を広げ、その前から飛び立った。
「私が割ってしまいました」と、フィリアス。
「あなたが?」
「ええ。これでね」
フィリアスは、剣の柄をぽんぽんとたたく。
「魔法の鏡だなんて信じられませんね。あっけないものです」
「あなたは……鏡の中に何も見なかったのですか?」
ナディルは訊ねた。
なぜこの人は、鏡の呪縛に囚われずに壊すことが出来たのか? いとも簡単にあの魔法の鏡を?
「別に何も。ただの鏡でしたよ? そりゃあ、少し大きめでしたが」
フィリアスが、不思議そうに答えた。
「それより、ナディル。本当にあなたですか? 驚きました。こんなに美しかったなんて」
フィリアスがさらに頬を染め、再びしげしげと遠慮会釈もなくナディルを見下ろした。
「つまりフィリアスは……。悩みとか心の傷とか、全然ないヤツだったってわけか。鏡が取り入る隙もないくらい」
カジェーラの隣に舞い降りたガガが、あきれたように呟く。
「そのようじゃな。悩みの種となるべき冠も臣下も、戻ったも同然じゃし」
カジェーラが言った。
「あるいは、悩みや苦しみになるまで物事を深く考えぬ、楽天的な性格か。もしくは子供のように、それらをまだ体験したことのない無垢さゆえなのか」
「ぼくは、その両方だと思うね」
「私もそう思う。初めての意見の一致じゃな。おそらくあの公子、失恋も、身近な人間が亡くなった経験も、まだないのであろうな。たとえこの先そういう経験を積んでも、能天気に生きていくのであろう。それもまた、生まれながらにあの公子に恵まれた運と才能じゃ。ともあれ、鏡を割る必要はなかったと思うのじゃが。布を掛ければ充分じゃったのに。あれは一応、私の思い出の品ぞ。それを粉々にしおって。掃除も大変じゃ。私は家事全般に関しては、魔法を使ってはおらぬのじゃぞ」
カジェーラは、不服そうに呟いた。それから思い出したようにガガを見下ろす。
「そういえば、そなたも気の毒な境遇だったのじゃのう、セリアン殿。しかも、私よりもはるかに年上とな。純潔の猫族と交流した者は、今ではそなたくらいじゃろうな」
「今度その名前でぼくを呼んだら、遠慮なく噛み付かせてもらうからな!」
ガガは、ぎろっとカジェーラを睨んだ。
「フィリアスさま!」
鏡の魔法から解放された人々の間から、オーデルクの衣装をまとった若者の一団が進み出る。
彼らはフィリアスの前で膝をつき、頭を垂れた。
「おお、皆無事ですね。よかった。これでオーデルクに帰れますよ」
フィリアスは臣下たちに、にっこりと微笑む。
「フィリアスさま。アーヴァーンのナディル王女さまとご結婚されたのですか?」
臣下のひとりが、フィリアスに訊ねた。
「え?」
フィリアスは怪訝そうな顔をして臣下を見下ろし、それからナディルのほうを向く。
「ナディル王女?」
「アーヴァーンのナディル王女であらせられましょう。肖像画を拝見したことがございます。そしていつぞや、フィリアスさまの代理で参加させていただいた舞踏会で、お見かけも致しました。王女は、銀の髪と黄色の目をした若者と、見事に踊っておられました。わがオーデルクの翡翠と同じ瞳。その漆黒の御髪。仮面を付けておられたとはいえ、忘れも致しません。そして、王女の御頭に輝くのは、我々が追い求めていたオーデルク大公妃の翡翠の冠。魔女から取り戻されたのですね?」
「残念ながら、私はオーデルクの大公妃ではありません。この冠は、ただお借りしているだけです」
ナディルは言った。
フィリアスは、アメジスト色の目を滑稽なくらいにまで見開く。
彼はしばし、呆然とナディルを見つめた。
「ナディル? ナディル・リア・ジフル……王女? あなたが? まさか……。王女は、アーヴァーンの離宮で病に臥せっておられるはず……」




