ガガの記憶 2
かれは、鏡の中を覗いていた。
金の巻き毛に海の青の目。頬を紅潮させた、あどけない少年のかれ。
そこは彼の部屋だった。
部屋は焼け焦げ、廃墟のような一室と化していた。
両親がかれのために買ってくれた高価な調度品も、かれが気に入っていた玩具も、すべて無残な姿と成り果て、鏡とそれを覗き込むかれを取り囲んでいた。
鏡の中には、小さな動物が映っていた。
きらめく金色の鱗で全身を覆われ、長い尻尾を宙にくねらせた動物――。
背中からは、端が透けている美しい羽根が伸びていた。
その口は耳まで裂け、尖った歯の間からは、風に舞うリボンのように、舌がちろちろと動いている。
その両目は、ルビーのような真紅。
それは大きく見開かれ、鏡の中からかれをじっと見つめ返していた。
これは、何?
この動物は?
いつの間にか、鏡のこちら側にいるはずのかれも、その姿を取っていた。
鏡を隔てて、二頭のそれが向かい合う。
ぼくじゃない。こんなの、ぼくじゃない……。
ぼくの体は、どこに行ったの?
かれの後ろに、誰かが倒れていた。
かれはそのことに気づいて、振り返る。
かれの母親だった。
うずくまるようにして倒れている彼女は、動かない。
彼女の片方の手は、彼女の腹部に回されていた。
まるでそこを守るように。そこだけを何かから守りたいように。
そうだ。そこには芽生えたばかりの新しい命が入っていたのだ。
かれの弟か妹。
けれども、それが生まれることは、もうない。
それを宿した母親が、既に生きてはいないのだから。
なぜ?
彼女はどうして死んでしまったのだろう?
「母さん?」
かれは、彼女に近づいた。
彼女のもう片方の手は、剣を握りしめていた。
剣など扱ったことなどなかったであろう彼女が思い余って取り出し、手にしたものだ。かれに相対するために。
<セリアン! あなたじゃない。ここにいるのは、あなたじゃない!>
彼女はそう叫びながら、かれに剣を振りかざした。
あんな彼女は、見たことなかった。
とても怖かった。
その後、どうなったんだろう。
「セリアン!」
背後で、誰かの声がした。
もちろん、知っている声だ。かれの父親の声だった。
かれは、振り向く。ルビーのような真紅の目で。
父親がそこにうなだれていた。手には大きな斧を持っていた。
「私たちが愚かだったのか……。やはりおまえは、あのまま逝かしてやったほうがよかったのかもしれない。こんな……こんな化け物の体になど移さずに、安らかに……」
父親は、悲しげな顔でかれを眺めた。疲れきった表情だった。彼は、ゆっくりと斧を振り上げる。
「私は、すべてを失った。すべてを手に入れようとして……。人間の分際であやしげな魔法などに関わり、命を操ろうとした罰なのかもしれぬ」
かれは、あとずさった。
父親もまた、彼が見たことのない恐ろしい顔をしていた。
「父さん、来ないで……」
そう言おうとした彼の言葉は、言葉になる前に化け物のささやき声となって、尖った歯の間からこぼれ出た。
「私はただ、おまえを助けたかったんだよ。それだけなんだ。そんな姿になっても、おまえには生きていてほしかったのだ。許してくれ」
(うん。わかっているよ、父さん。あやまらないで。でも、ぼくは悲しかったんだ。受け入れられなかったんだ、ぼくは。だから、だから……)
「私は、あの猫族の医者と約束した。おまえを一生愛すると。母さんも、もちろんそうしたかったのだ。ただ、母さんには、守らなければならないものが出来てしまったのだよ」
(わかるよ、父さん……。だから母さんは、ぼくに構っていられなかったんだよね。ぼくはこんな姿をしているし……。だから、酷いこと言ったり、ぼくを檻に入れたり、ご飯をくれなかったりしたんだよね……。でもぼくは、そんなことをされたら、凶暴になるしかなかったんだ。この体が暴れるのを抑えられなかったんだ)
「おまえを愛している。だが、もう終わりにしよう。このままでは、彼との約束を破るしかなくなるだろう。私は、おまえを連れて行く。おまえを愛している証として。そして、私が犯した罪をあがなうために」
父親は、斧を振り下ろした。かれの頭上に。
真っ黒い斧が不気味な音をたてて、空気を切った。
かれは、素早く横に飛んだ。
どすんという音を立てて、斧がかれの傍に突き刺さる。
それは床を醜く切り裂き、それ自身の重さで、その傷の中にめりこんだ。
(やめて、父さん! やめて! でないと、ぼくは……)
斧が床から引き抜かれ、再びそれは振り上げられる。
屈強なかれの父親は、今度は紛う方なく、かれにその武器の刃を振り下ろすだろう。
(でないと、ぼくは……別のものに乗っ取られてしまうんだ。ぼくの心は、どこかに行ってしまうんだ……)
迫ってくる斧の銀のきらめきを見たあと、かれの意識は遠くなった。
気がついたとき、そこは火の海だった。
かれの父も、そして母も、倒れたまま赤い炎に包まれていた。
肉の焦げる嫌な匂いが鼻をついた。
かれは、鏡の前で立ち尽くしていた。
鏡の中にも、燃え上がる炎が映っている。
その炎の赤い天蓋の中で震えているのは、一頭の小さな金の竜だった。
(全部燃えてしまえばいい。父さんも、母さんも、お腹の中の弟か妹も。そして、このぼくも)
彼は、鏡の中で炎を反射して輝いている、美しい金の鱗の竜を眺めた。
(燃えてしまえるかな、この体は。悔しいほど頑丈そうだ。でも、燃やしてしまおう。ぼくはもう、いなくなるんだ。楽になるんだ……)
「セリアン……」
誰かがかれを呼んだ。
誰だろう。
もう、ぼくのことを呼んでくれる人なんていないはずなのに。
「セリアン」
かれが見上げると、そこにはあの猫族の医者が立っていた。
医者は、宝石のような黄色の透明な目で、かれを見下ろしていた。その目には、炎の赤が薄くゆらめきながら映っていた。
(こんな火の中なのに? そうか、この人は猫族だもの。魔法が使えるんだ)
かれがぼんやりと考えていると、医者はかれを抱き上げた。
「一緒においで」
(一緒に? 行っても仕方ないよ。父さんも母さんも死んじゃったんだ。ぼくの弟か妹もね。ぼくが殺したんだよ)
「きみはまだ、その体に同化できていないのだよ。きみがやったんじゃない。竜の本能がきみの意思を無視して、勝手にやってしまったことなんだ」
医者が言った。
かれは喋ってはいないのに、医者にはかれの考えがわかるようだった。
「でも、ぼくがやったことに変わりはないよ。もう、放っておいて。ぼくもこの火の中で死ぬんだ。父さんたちと一緒に」
「残念ながら、きみは死ねないよ。その体になってしまったんだからね。私とおいで。きみのご両親は、きみに生きてほしがっていた。だからこそ、きみにこの体を与えたのだ。きみは、生きなければならないのだよ。きみの今の体が年老いて、生きることを拒否するその日まで。きみが奪ったこの三人の分まで、一生懸命にね」
(でも、生きていても、何も楽しいことなんかないよ……)
「楽しくなくても、きみは生きなきゃいけない。楽しいことはこの先、きみが自分で見つけなければならないんだよ。それに、これは私の罪だ。きみたちの幸せを願ってやったことが、きみたちを不幸にしてしまった。私に償いをさせてほしい」
(あなたのせいじゃないよ。ぼくが悪いんだ。全部、ぼくが……)
医者は、首を振った。
「一緒に行こう。屋敷が燃え落ちる。猫族とはいえ、不死身じゃないからね」
かれは、医者の首にしがみついた。
それは、すべてを焼き尽くす炎の中で、唯一かれがしがみつけるものだった。
猫族の医者は、かれを岬の館に連れて行った。
かれはそこで、医者と一緒に穏やかな生活を始めた。
医者はかれに、かれの家庭教師からは教わらなかったいろいろなことを教えた。
地質学や数学、化学、薬学。物理学やさまざまな地域の言語。
太陽や星、宇宙のことも、医者は話した。
話が尽きると、医者はたくさんの本を買ってきて、かれに与えた。
それはとても興味深く新しい知識だったので、驚異的な速さと正確さでかれの頭の中に詰め込まれた。
ある日、医者はかれに言った。
おそらく、かれと一緒に暮らし始めて、三十年以上はたつ頃だった。
「私は、帰らなければならないのだ」
「帰るって? どこにですか?」
新しい体にも慣れ、人間の言葉も以前より流暢に喋れるようになったかれは、医者に訊ねた。
医者は、空を指差す。
「私たちが来たところだよ。明日にでも、仲間が私を迎えにくる。やっと連絡が取れたのだ。長かった。私が帰ることで、この世界にはもう、純粋な猫族は存在しなくなるだろう」
医者は、不思議な黄水晶の目を静かにかれに注いだ。
見る度に不思議な目だった。
遠い遠い彼方から来た目。天のはるか彼方の宇宙からやってきた、異世界の目。
「おめでとうございます。よかったですね。純潔の猫族がいなくなっても、猫族の血はこの世界に広がっていますよ。その血は魔法と共に、子々孫々受け継がれていくでしょう」
では自分はどうなるのだろうとかれが思いかけたとき、医者が言った。
「セリアン、きみも一緒に来ないか?」
「ぼくも……?」
「この世界にいても、つらいだけだろう。私と来れば、今までと同じ暮らしは保障するよ。きみにとっては、何もかも新しい世界ということにはなるだろうけれどね。今までどおり、静かに暮らしていけるとは思う。どうだい?」
しばらく考えた後、かれは答えた。
少し迷ったが、後悔はなかった。
「ぼくは、この世界に残ります。ぼくはこの世界で生まれて育ちました。この世界が好きです。ひとりぼっちになったとしても、ずっとここにいたいです。それにあなたは、ぼくは自分で楽しいことを見つけなければならないとおっしゃった。だから、見つけたいと思います。そしてぼくは、この世界にあなた方が残した血の行方も、見守っていけたらと思うんです」
猫族の医者は、しばらくかれを見つめた後、にっこりと笑った。
そして、いとおしげにかれの頭に手を置いた。
「そうか。では、見つけたまえ。素晴らしい楽しみが見つかるといいね。そして、我々の子孫たちの行く末も見守っておくれ」
かれは、その手のひらのあたたかさを大切に記憶にしまいこんだ。
翌日、海の彼方から、かれが見たこともない白い雲のような船が、滑るように近づいてきた。
かれが気がついたとき、かれの隣にいたはずの医者の姿は、もうなかった。
船は、岬の端に立っているかれの頭上を一回だけぐるりと回り、それから空の彼方に星となって消えてしまった。
猫族の医者との別れ。
それは、かれの長い旅の始まりでもあった。
やがてかれがアーヴァーンのナディル・リア・ジフル姫の元にたどり着き、『ガガ』という名の小さな金の飼い竜として暮らすようになるまで――。