暗闇の灯火(前編)
蛍が黒崎ビルを去ってから、1か月が過ぎていた。
社長の席は空いたまま、黒崎は会長の宗玄がじかに動かしていた。役員たちは誰一人として異を唱えなかった。
社員への通知は、秘書が一身上の都合で退職した、という一行だけだった。北辰建設の名を知るのは、ごく一部の上の人間だけだった。知っている者は口を閉ざし、知らない者は首を傾げたまま、日々の仕事に戻っていった。
かつて蛍が秘書室として使っていた部屋に、朔夜は閉じ込められたままだった。
『——蛍のいた場所で、業務を続けてくれるか』
あの夜の宗玄の言葉に、朔夜は答えなかった。机に積まれた書類は一枚もめくられないまま埃をかぶっている。外界との連絡を断たれ、窓の外を眺めるだけの毎日。自分から食事を摂ろうとしない朔夜の口に、黒服たちが匙を押し込み、生き地獄を引き延ばすように栄養を流し込んでいく。
宗玄にとって、朔夜はまだ手放すつもりのない跡取りだった。壊れたのなら、直るまで待てばいい。それだけのことだった。
◇
凄風が身に刺さる、寒冬の夕暮れ。
最上階の廊下に、ワゴンの車輪が軋む音が響いた。
「掃除だよ。開けとくれ」
秘書室の前に立つ黒服は、白髪混じりのお団子頭を見下ろして眉をひそめた。
「誰も入れるなと言われてる」
「そうかい。……しかしあんた、今日みたいな日に、しけた面して突っ立って。待ってる人もいないのかい」
「余計なお世話だ、ババア」
「誰がババアだって?」
おタキの手が、ワゴンの缶スプレーに伸びる。
「あっ、虫!」
噴射音と共に、白い霧が黒服の顔を覆った。
「ゲホッ!? な、なにしやがる!!」
「害虫駆除さ。無害なやつだから、ちょっとくらい平気だよ」
涙目で咳き込みながら、黒服は鍵を回した。
「掃除するだけだよ。あんたはそこで見張ってな!」
「……っ、5分だ! 5分で出ろ!」
「はいはい」
◇
部屋の空気は淀んでいた。
カーテンは閉め切られ、冬の西日がその隙間から一筋だけ床に落ちている。机の上には、ほとんど手のつけられていない盆が置かれたままだ。冷めた汁物の表面に、薄く膜が張っていた。
ソファに、男が一人沈んでいた。
痩せた頬。伸びた髪。焦点の合わない目が、床の一点に落ちたまま動かない。
おタキは盆を下げ、机を拭いた。床にモップをかけながら、少しずつソファへ近づいていく。
朔夜の足元で、腰を屈めた。
ポケットから雑巾を引き抜く。その拍子に、四つ折りの紙が一緒にこぼれた。紙は、だらりと垂れた朔夜の指先に落ちた。
「あら、ごめんね」
朔夜の視線が、のろのろと手元へ下りる。
紙を、摘まむ。摘まんだまま、目の前の掃除婦に返そうとした。けれど掃除婦は背を向け、窓枠を拭く手を止めなかった。
四つ折りの紙に、胸の奥がざわついた。
開く。
——息が、止まった。
掃除婦のワゴンの車輪が、戸口へ遠ざかっていく。扉の閉まる音がした。
顔を上げると、もう誰もいなかった。机の上に、苺の飴玉が一つ置かれていた。
朔夜は、手の中の紙に目を戻した。
見間違えようのない、丸みを帯びた字で、こう書かれていた。
『——あなたが教えてくれた一等星は、まだ輝く』
◇
時は、蛍が東京を離れたあの日に巻き戻る。
懲戒解雇を言い渡されてから三日後。蛍は感情を殺した黒服たちに挟まれ、黒崎ビルを後にした。手荷物はわずかな身の回りの物だけで、携帯電話などの通信機器もすべて取り上げられていた。
乗せられた車の窓には遮光シェードが降ろされ、外界の景色は完全に途絶えた。行先も知らされず、黒い車はひたすら北へ向かって走り続けた。
丸三日間の移動。高速道路を抜け、凍てつく港から船に乗せられる。強まる寒さと白く荒涼とした景色、そして海を渡る行程から、そこが北の果てであることだけは察せられた。
船を降りた夜は港町の宿に押し込められた。翌朝、車はさらに東へ走り、日が傾きかけた頃、人里から切り離された海沿いの断崖に辿り着いた。
吹きつける風に、雪の粒が混じっている。崖の縁から見下ろすと、遥か下で鉛色の海が岩に砕け、白い飛沫を上げていた。
「……蛍様。お覚悟はよろしいですか?」
先導していた黒服が振り返った。その声には一切の感情が通っていない。
「え……」
「ここで、死んでもらいます」
蛍の息が止まった。
「死ぬ前に、これを」
黒服は胸元から、一枚の紙を取り出した。印字された文面の下に、署名欄が設けられている。
文面に、目を通す。
北辰建設を朝霧の改修業者に引き入れ、架空の工事費を流したのは自分である。社長は何も知らなかった。すべての責任は自分にある。罪を償うため、この身を海に投じる——。
遺書だった。
顔から、血の気が引いていった。
「い、嫌……」
消え入りそうな声で拒んだ。黒服は構わず蛍の右手を掴み、強引にペンを握らせる。
「書いてください、蛍様」
「嫌だ……! どうして? 私、死ぬの……?」
「はい。宗玄様に逆らった、罰として」
抵抗虚しく、黒服の手によって右手を無理やり動かされる。紙の上で滑るペン先が歪んだ不格好な文字で『蛍』の名を刻んでいった。
黒服は書き上がった紙を手に取り、しばらく眺めた。
「……切羽詰まった字だ」
それから顔を上げた。視線は蛍を通り越し、その背後に向けられていた。
「これで、十分でしょう」
「——鷹取。遺書は」
背後から、静けさを帯びた老人の声がした。聞き覚えのある声だった。
「こちらに」
黒服が蛍の脇をすり抜けて紙を差し出す。
振り返ると、コートを羽織った藤堂が立っていた。受け取った遺書に目を落とし、静かに頷く。
「藤堂、さん……」
声が震えた。何が起きているのか、まだ分からなかった。
藤堂は遺書を懐にしまうと、蛍の前まで歩み寄り、深々と頭を下げた。
「お嬢様。……怖い思いをさせて、申し訳ございません。今ここにいる黒服は私の息のかかった者たちです」
藤堂の後ろで、先ほどまで蛍の手首を掴んでいた男——鷹取が、一歩進み出て深く腰を折った。
「申し訳ございませんでした、蛍様。鷹取と申します。……以後、お見知り置きを」
蛍は何も返せなかった。
黒服が黒崎系列の警備会社の人間だということなら、蛍も知っていた。その他に、宗玄や朔夜たちの身辺を守る護衛、および使用人がいることも。古くから黒崎に仕える藤堂は黒服の中でも序列が高く、それに従う黒服もいるようだ。
「役員会のあった夜、宗玄様より命が下りました。不正の責を負わせ、自害に見せかけて処分せよ、と」
蛍は荒い息を整えながら、錯乱する頭で言葉を整理しようと努めた。
「私は……自殺して、死んだことになるの……? じゃあ、みんなそう思うってこと……?」
「宗玄様には私が東京へ戻ってからご報告いたします。表向きは懲戒解雇の事実が残るだけでしょう。……世間に知らせる理由は宗玄様にはございませんから」
藤堂はそこで、わずかに言い淀んだ。
「ただ……朔夜様のお耳には入るかもしれません」
「……そんな」
絶望に打ちひしがれる蛍に、藤堂は冷えた現実を言い渡した。
「冬の海です。身を投げた者が上がらずとも誰も不思議には思いません。……ですが、それも一時しのぎでしょう。用心深い宗玄様のこと、いずれ私以外の者を差し向け、本当に死んだのかを確かめさせるはずです。そこで生きているあなたが見つかれば、今度こそ、その場で消されます」
冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。
「鷹取。靴を」
藤堂の短い一言で、鷹取が蛍の足元に膝をついた。
「……失礼いたします」
脱がされた靴が崖の縁に揃えて置かれていく。踵の擦り減った、通勤用のパンプス。黒崎ビルの廊下を、毎日あれで歩いていた。
崖に残す靴の代わりに、新しい靴を鷹取が持ってくる。サイズの合わない運動靴の紐を結んだ。
「ここにいてはお体に障ります。参りましょう」
「……どこへ」
「私の生まれた土地です。ここからは少し遠いですが、身を隠すには丁度良いでしょう」
藤堂は数名の黒服に後を任せると、蛍を車に乗せた。運転席には鷹取が座った。車は海沿いの荒れ地を離れ、雪をかぶった山の方へ走り出した。
◇
車は山の奥へと分け入っていった。
舗装の切れた林道を、何度も折れ曲がる。両側から雪をかぶった木々が迫り、車の灯りだけが雪道を照らしていた。地図にも載っていないのではないかと思うような道がいつまでも続いた。
辿り着いたのは山あいの小さな集落の跡だった。
家々は雪に埋もれ、屋根の落ちたものもある。人の気配はどこにもない。風の音と、どこかで流れる川の音だけが聞こえていた。
「もう、誰も住んではおりません。……私の家だけは、夏に一度、墓参りのついでに手を入れておりますが」
藤堂が案内したのは集落の奥にある古い木造の家だった。鷹取が暖炉に火を熾すと、冷え切った空間に、少しずつ温もりが広がり始める。蛍は暖炉の前に座らされ、差し出された湯呑みから立ちのぼる湯気を、ただ見つめていた。
藤堂は向かいに静かに腰を下ろした。
「……蛍様はどこまでお気づきでしょうか」
「どこまで、って……」
「北辰建設のことです」
湯呑みを持つ手に、力がこもった。
「……私が確認した改修は十二軒だけです。残りの八軒は知りません。でも、北辰建設を業者の一覧に入れたのは私で……」
「あなたは紹介された業者を、手続きどおりに加えただけです。……紹介した者がいて、その先に、宗玄様がいらっしゃいました」
蛍は顔を上げた。
「発端は朝霧の再開発でございます」
藤堂の声は静かだった。
「宗玄様はあの再開発に深く関わっておられました。それを朔夜様が復興へと切り替え、計画は白紙になった。……宗玄様はそれを決してお許しにならなかった」
宗玄にとって朔夜は常に冷静な判断を下し、盤上の駒を意のままに動かす、完璧な後継者でなければならなかった。その朔夜が宗玄の意向に背き始めた。冷徹な仮面を捨て、変わっていった。
そして宗玄はその変化の影に誰がいるのかを、見抜いていた。
「黒崎には以前から表に出せない金の穴がございました。宗玄様はそれを、朝霧の改修費に紛れ込ませたのです。北辰建設の名を借りて、部長決裁で通る額に、細かく分けて……」
蛍は唇を噛んだ。
自分たちで決めたことを、誰かにこんな風に利用されるなんて。
「役員会の日のこともお話しせねばなりません」
藤堂は湯呑みに手をつけないまま、続けた。
「17日の役員会は16日に前倒しされました。その通知は会長室から役員の皆様に出されております。……社長室と、秘書室を除いて」
「え……」
見落としたのだと思っていた。自分の確認が足りなかったのだと。だから兄に連絡する間もなく、一人で役員たちの前に立った。
「じゃあ、兄さんがあの日いなかったのは……」
「朔夜様は赤城律様に呼ばれておりました。朝霧の資金の契約を、合意の上で解約したいと。……宗玄様が律様に、朔夜様の足を止めておくよう、お命じになったのです」
湯呑みの中で、茶の表面が細かく揺れた。
「宗玄様を止められなかったこと。そしてあなたを死んだことにしなければならなかったこと。すべて私の責任です。申し訳ございません、蛍様」
蛍はしばらくの間、頭を下げ続ける老人を見つめていた。
やがて、皺の刻まれたその手の甲に、そっと自分の手を重ねた。
「……顔を、上げてください」
藤堂がゆっくりと顔を上げる。
「宗玄……が、仕組んだことだったんですね。……藤堂さんは、私を死なせないために動いてくれたんですよね。それはわかりましたから」
「……感謝いたします、蛍様」
藤堂は唇を噛み締め、それからようやく、それだけを口にした。
「……朔夜兄さんは今どうしていますか?」
「あの日から、ずっと黒崎ビルに閉じ込められておられます。蛍様がお使いになっていた、秘書室に」
「藤堂さんが東京に戻ったら……私が死んだと、兄さんの耳に入るんですよね」
「……はい」
それはすでに失意の底にいる朔夜への、致命的な追い打ちになる。蛍が死んだと聞けば、あの人の心は壊れかねない。
「どうにか、生きていることだけでも伝えたいんです。一言でいいから……」
「蛍様」
藤堂が真剣な眼差しを向け、蛍の言葉を制した。
「先ほども申し上げましたが、あなたが生きていると宗玄様に知られれば、その場で消されます。朔夜様の周りには宗玄様の目がございます。お気持ちは痛いほど分かりますが、どうか……どうか、お踏みとどまりください」
蛍は苦い顔のまま、固く唇を結んで黙り込んだ。




