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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
5章 凍てつく冬、導くは聖夜の星
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【挿話】躾の時間、犬の末路(後編)

 翌日の夜。繭が決めたことは、ほんの些細なことだった。

「少し、散歩をしたいです」

「夜中だぞ」

「だめですか?」

「不良だなあ」

「少しだけでいいので!」

 律の返事も待たず、繭はコートを羽織り、律の分も差し出した。

 コートを受け取ると、二人は赤城家を後にした。


 外は風こそ無かったが、身に染みる冷たい空気が漂っていた。

 二人は暗い夜道を、街灯の灯りが灯るほうへ、道なりに歩いていた。

 しばらく歩くと、小さな公園があった。何となく、その公園のベンチへ腰かけた。

「ん」

 近くの自販機でホットのココアとコーヒーを買った。ココアを繭に渡すと、大事そうにそれを両手で包みながら、空を見ていた。

「都会でも、星は見えるんですね」

 街の灯りも程々に、澄んだ空には眩しい星だけが瞬いていた。

「あ、あれって! 冬の大三角ですよね!」

 繭が空の一角を指しながら声を上げた。

「知ってるのか」

「少し……」

「じゃああの、一番光ってる星はなんていうか知ってるのか」

 律は、コーヒーを飲みながら、問題を出した。

 言いながら、昔そういや、確か図鑑で見たな、と古い記憶を遡りながら……。

「あれはシリウスじゃないですか?」

「よく知ってんな」

「当たった!」

「適当だったのかよ……」

 呆れながら、ため息をつくと白い息が漏れた。

「冬の大三角……あれがプロキオン、あっちがベテルギウス」

「律さん、詳しいですね」

「……」

 忘れようとしていた。だが、忘れられるはずがなかった。

 律にとって数少ない、大事な思い出だったのだと、今になって気づいた。

 いや、正確にはもう少し前から。経済誌を読んでいるところを、繭に、指摘された時から。

「昔、友達と必死に覚えた。図鑑を見ながら……。友達は父親と星の話をしたくて、頑張って勉強してたな」

「そのお友達が、この前載っていた写真の、黒崎朔夜さんですよね?」

「……覚えてんのかよ」

「はい!」

 繭は嬉しそうに返事をした。律は、施設で、三人でよくつるんでいたことを思い出していた。

「昔、児童養護施設にいたんだ。朔夜と、綾って子と、俺と……三人でよく遊んでたよ」

「そうなんですね」

「……この前の経済誌に、黒崎朔夜が社長になったって書いてあっただろ。あいつ、賢くてさ——」

 律は、夜空でひときわ白く光る星を見上げた。

「何をしても、勝てなかった。……いつも、一番だったな」

「……」

「周りも綾も、あいつばかり見てて……。俺はずっと、二番手だったな」

「……律さん」

 静かに、しかしはっきりと、名前を呼んだ。

「そんなことないですよ」

 繭が律を、まっすぐ見据えた。

「……少なくとも。わたしにとって、あなたは、一番星です」

 律の瞳から、目を逸らさずに言い切る。

「……よせよ。気を遣わなくていい」

「気を遣っていませんし、嘘じゃないです!」

 寒さからか、瞳をうるませる繭を一瞥した。そういや、あの少年を慕っていた少女が、やけに突っかかってきたり、中身のない会話をしてきたり、待ち伏せしたりしているのを、律は傍目で見ていた。その少年は、好意を持たれていることに気づかず、すごく鈍かったことを思い出す。

「……お前ってさ」

 その少年は今や社長になったが、今でも女性の好意に、鈍いんだろうか。

「夜中も毎回起きてきて。俺とこんな寒い中、散歩して……」

 目の前にいる彼女の視線が、あの時の少女に、似ている気がした。

「……俺のこと好きなの?」

 自分でも何を言っているのか、よくわからない。懐かしいのか、悔しいのか、何か欲しかったのか。自分のことなのに、よくわからなくて。星を見ていると、なんだか色んな気持ちにまみれて、ぐちゃぐちゃだった。

 ……繭の、返事がないことに、しまった、と思った。構ってくる繭の様子を見て、そうなのかもしれないと思ってしまった。……自分は少し自惚れていたのかも。

 冗談だ、と誤魔化そうとした、その時、

「——はい」

 小さな、しかしはっきりした返事が、その耳に届いた。

「……え?」

 思わず聞き返す。暗くてよく見えなかったが、繭の頬が少し赤みを帯びているような気がした。

 それから律を見つめたまま、伝えた。

「……律さん。……ずっと前から、お慕いしております」

「……」

 勉強の答えなら、すぐにわかった。誰かの恋心にだって、すぐに気づけた。……なのに、自分に向けられた、この想いへの答えだけは、どうしても見つからなかった。


 ◇


 それから、幾度となく、あの夜と同じように、二人で連れ立って夜道を歩くようになっていた。

 だが、それも10日ほどで終わる。

 ——その日の夕食の後、律は大輝に呼び出された。使用人もつけず、居間で二人きりになった。

「お前、ふざけるなよ?」

 大輝の目は怒っており、わなわなと震えている。彼が怒る理由に、なんとなく察しがついたが、あえてとぼけてみた。

「何のことだ?」

「わかってんだろ! 繭のことだよ!!」

 感情を抑えられず、襟首を掴まれた。

「お前が夜中、連れまわしてんのは知ってんだぞ!!」

「そんなことは……」

「とぼけるな!! 毎晩、繭がいないんだぞ!?」

 それを聞いた律は、思わず、鼻で笑ってしまった。

「……なんでだと思う?」

「あ?」

「……あんたじゃ、満足できないんだろ?」

「こ、この野郎!!」

 殴られた。大輝の顔は怒りと羞恥で、真っ赤だった。その飼い主の顔を見て、律はなんだか面白かった。負け続けた人生の中で、何か、ようやく勝てたような気がして、少し満たされていた。

 ——なんだ。誰かに飼われてたとしても、俺より下の人間だったら、こんな簡単に何かを奪えたし、一番になれたんだ……。

「ふふ……ははは……」

「何がおかしいんだよ!!」

 その後も蹴られ殴られたが、大輝の怒声に気づいた使用人たちが居間に入ってきて、止めていた。

 大輝を見た。その男の悔しそうな目を見て、もしかしたらかつての自分も、朔夜に対して、こんな目をしていたのかもしれないなんて、殴られながら冷静に考えていた。


 ◇


 その出来事の後、繭はぴたりと来なくなった。律は変わらず毎晩、仕事をしていた。

 ……繭といる時間に慣れていたせいで、逆に独りが落ち着かなかった。寂しいのか? そんなはずは。繭は俺に好意的だが、別に俺はそうじゃない。なついてくる女に、付き合ってやっただけだ。

 なんて、その気持ちに向き合えない、言い訳を並べながら……。

 だが、数日後。

 いつものように夜中に起きて、資料を読みながら、パソコンを叩いていた、その時だった。


 ドタドタと、慌ただしい足音。居間に飛び込んでくる繭。髪や服は乱れており、顔は叩かれたのか、赤くなっている。目には涙がたまっていた。

「大丈夫か!?」

「り、律さん……っ」

 迷わず、律の胸に飛び込んできた。

「どうした?」

「ううっ……、うああ……!」

 事情を聞く間もなく、またドタドタと足音がこちらに向かってくる。

「——とりあえず、逃げるぞ!!」


 屋敷を飛び出し、律は繭の手を引いて、闇雲に走った。

 どれくらい走っただろうか。息が上がり、後ろを振り返っても、もう誰かが追ってくる様子はなかった。

「……もう、大丈夫だと思う」

 律は、近くの塀にもたれかかりながら、荒い息を整えた。繭は、その場にへたり込むようにして座り込んだ。

「……何があった」

「……」

 繭は、しばらく黙っていた。膝を抱えるようにして、小さくなっている。

「……大輝さんが、部屋に来て」

「……」

「無理やり、その……。抵抗したら、殴られて」

 それ以上は、言葉にならなかった。声が震えて、涙がまたこぼれた。

 律は、何も言えなかった。ただ、拳を強く握りしめた。

「……俺の、せいだな」

「ち、違います!!」

「いや、俺が悪い」

 短く謝罪した。繭は、涙を溜めながら、首を振って強く否定した。

 ——飼われた犬は、いつだって、飼い主の言いなりだ。

「……逃げるか。俺と」

 咄嗟に、口にした。

「え……」

「戻りたくねえだろ」

「で、でも……。そんなこと、できるわけ……」

「遠くまで、逃げようぜ」

 律は、繭の目を見て、はっきりと言った。

「……俺もお前も、この犬小屋にいるのは、飽き飽きしてるだろ?」

 犬でも、吠えることくらいできるだろうか。繭を見ると、彼女も律を見つめ返していた。そしてもう、迷うことなく大きく頷いた。


 律は車を借りて、当てもなく都会から離れるように走っていた。泣きやんだ繭は、息は落ち着いていたものの、まだ肩が少し震えていた。その様子を見て、先に沈黙を破ったのは、律だった。

「……怖かっただろう、あいつに殴られるのは」

「……す、少し。でも、律さんだって」

「俺はああいうの、慣れてるから平気なんだよ」

 ハンドルを握りながら、律は、ちらりと助手席の繭を見た。

 街の灯りが、後ろへ後ろへと流れていく。

「……なあ、どこ行きたい。繭」

「……え」

「どうせならお前の行きたいとこ、行こうぜ」

 しばらく沈黙だった。何か変なことを言ったかと思った律が、繭を一瞥すると、噛み締めるような、嬉しそうな顔で口元を緩めていた。

「なんだ、どうした」

「律さん。……やっと、名前呼んでくれましたね」

「……そうだったか?」

「はい! もう一度呼んでくれますか?」

「……繭」

 目をそらしながら、そっぽ向いて一言。

 たったそれだけなのに、顔を見なくとも笑っているのが、わかった。

「……明日の朝までに、行きたいとこ決めとけよ。宿題だ」

「はい! わかりました!」

 敷かれたレールを逸脱することに、少し高揚を覚えながら。心に空いた穴が埋まるのを、少し期待しながら。

 律は、そのまままっすぐ車を走らせた。


 ◇


 宿題の答えは、律を悩ませるものだった。

「最果てに、行きましょう」

 それがどこなのか、辿り着けるのかさえわからなかったが、とりあえず、北へ。途中まではカーナビに頼っていたが、程なくして、そのナビさえ案内できない道に入っていた。舗装された道は途切れ途切れになり、点在していた古い家々も、進むにつれて数を減らしていく。

 やがて、山と森と田畑しかない景色になった。道らしい道もなく、轍だけを頼りに車を進める。気づけば、北の空は、茜色から藍色へと、静かに色を変え始めていた。

 そのうち、車ではこれ以上進めない、木々に囲まれた場所に行き着いた。

 二人で車を降りる。冷えた空気が、肺の奥まで刺すように入り込んだ。繭の吐く息が、白く尾を引いて消えていく。

 荒れた木々の間を、かき分けるようにして進んだ。足元は霜で固まった土と落ち葉で、時折、枝が二人の頬をかすめた。

 しばらく歩くと、不意に視界が開けた。

「わあ……」

 繭が、小さく声を漏らした。

 そこは、小さな崖の上だった。もう随分と長く使われていないのだろう、白い塗装が剥げかけた、古い灯台が一つ、ぽつんと立っている。

 崖の下には、黒く波打つ海が広がっていた。波の音だけが、規則正しく響いている。日が沈みかけている空には、まだ薄く、夕暮れの色が滲んでいた。その遠くの方で、たったひとつの、小さく微かな光が瞬いていた。

 律は、その小さな光を、見つめていた。

 繭も隣で、同じ光を見上げていた。

「……綺麗ですね」

「……ああ」

 そうしているうちに、日はゆっくりと沈みきっていった。すると、暗くなり始めた空に、次々と新しい光が生まれ始めた。ひとつ、またひとつと灯り出し、気づけば頭上には——これまで見たどの都会の夜空よりも、澄み渡った星空が、隙間なく広がっていた。

 街の灯りも、車の音も、何もない。ただ、風の音と、波の音と、二人の吐く白い息だけが、そこにあった。

 律は、しばらく言葉を失っていた。

「律さん……」

 そっと、繭が一歩近づいた。それから静かに、律を抱きしめた。

 律も、それに応えようとして、手を回そうとして——でも手が、動かなかった。動けなかった。そんな資格があっただろうか。権利があるだろうか。その気持ちに、こたえられないくせに。

「……やはり、わたしでは、あなたの心の穴は、埋められませんね」

 見透かされたようで、息が詰まった。

「そんなことは……」

 それ以上の言葉が出ず、否定できなかった。

 繭はそのまま、ただ強く抱きしめた。

「いいんです。わたしはそれでも、お慕いしております」

「……」

「誰かに、自分に、嘘をついたとしても……。もうわたしには気を遣ったり、嘘をつかなくて、いいですから……」

「繭……」

 そう言われて、律は——

「……ごめん」

 謝ることしか、できなかった。

「ごめん。……もう、手遅れなんだよ。何をしても、もう埋められないんだ。だけど——」

 透き通った、冷たい空気を吸った。

「——あんたが傍にいてくれたことは、嬉しかったから……」

「はい……」

 彼女に対して応えられる精一杯がこの程度なんて。今の自分を情けなく思いながら。

 それから二人は、しばらく、そうしていた。誰からも何からも縛られることのない、星空の下で。


 ◇


 夜風に当たり、指先が冷えてかじかんできた頃。そろそろ切り上げようと、来た道を戻っていた。

 木々を抜けた先、借りた車へ向かおうとした。

 ——車の前に、黒いスーツの男たちが立っていた。

 咄嗟に、さっきの崖の方へ戻ろうとした。が、あっという間に男たちに囲まれた。

「北の星は綺麗でしたか?」

 車の前にいる男が、冷たい声で言い放つ。

「……赤城の、手下か?」

「……逃げている間に、頭が鈍りましたか」

 そのリーダーらしき黒服は、右手を挙げた。二人が抵抗する間もなく、周りの男たちに捕まる。

「頼むから!! 彼女だけは逃がしてくれ!!」

「なりません」

「俺は!! どうなってもいいから!!」

 律のその叫び声も虚しく、黒服は静かに首を振った。

「……できません。あなた方だけでなく、我々も、『犬』なので」

「な……」

 黒服たちは、彼らの黒い車へ、繭を引きずり連れて行く。

「律さん!!」

「繭!!」

 そのまま乱暴に車に入れられた。

「くそっ……!! くそぉっ!! 離せよ!!」

「律様。落ち着いてください」

「うるせえ!! ふざけんなっ!!」

「……律様」

 リーダーの黒服が一歩近づいた。

「……律様に、『飼い主』様から、お言葉がございます」

「なんだよ!!」

 黒服は、淡々と話し出す。

「……あなたの首輪についたリードは、あなたひとりが、繋げられているわけではございません。雨宮繭——だけでなく、あなたの大事な人たちと、繋がっております」

「は……? あ……?」

 黒服は続ける。

「逃げれば、あなたではなく、同じリードの先で繋がれた誰かが、『躾』されます。あなたの『飼い主』は誰か。それを、ゆめゆめお忘れなきよう」

「それ、は……」

 律が理解する前に、黒い車に押し込められた。そのまま車は、東京の、彼の牢獄へ走り出す。

 逃げた犬がどうなったか。わかっていたはずなのに。

 そして、もうひとつ。どうやら自分には、死ぬ権利すら、無いようだ。

 赤城邸を逃げてから、わずか7日目のことだった。


 ◇


 人を、思い通りに動かすには、二通りのやり方がある。

 ひとつは飴。甘味。褒美や報酬。人は自らの利益のために、多少のことは受け入れ、従う。

 ひとつは鞭。痛み。恐怖や罰。人は自らの身を守るために、仕方なく、あるいは諦めて、従属を受け入れる。

 ——大概の指導者は、鞭さえうまく使いこなせば良いと思っている。だが、それは違う。人を従わせるのに重要なのは、『飴』であり、これを使いこなせることが、絶対的な指導者である。

 そして鞭の使い方も、本人ではなく、その者にとっての『飴』となり得る誰かに使うのが、最も効果的である。

 たとえば、黒崎朔夜。

 彼には、黒崎を背負わせるという鞭を課しつつ、私からの承認や賞賛という飴を与えていた。だが彼にとって何よりの飴は、妹の『黒崎蛍』らしい。

 共に暮らす許可を与えてもいい——朔夜にそう伝えた。たったそれだけで、元より従順だった子が、より一層必死になり、期待以上の成果を出している。

『——赤城殿』

「な、なんでしょう?」

 赤城剛は、冷や汗をかきながら、自室で電話していた。

『ご子息の競い相手にと、律をお譲りしたはずですが。……このざまは、何ですか』

「申し訳ございません……。息子には、重々に……」

『赤城殿』

 その声の主は、淡々と突きつける。

『ご子息は、律に鞭しか使わなかったようですね。そのくせご自分は、飴ばかり舐めてらっしゃる。……律にとって、飴になり得た女がいたのに、それも使いこなせず、独りで舐め尽くそうとなさった』

「そ、それは……」

『……ご子息に、少し躾を。良いですね?』

「お待ちください!! 宗玄殿!! お待ちください!!」

『——あなたには、たった一人のご子息を。律には、あの女を。それぞれの飴を、少し、溶かしてみましょうか』

「宗玄殿!! お待ちください!! 大輝は!! 大輝だけは!!」

 通話は切れた。赤城剛は、その場で崩れていた。

 ——飼い犬は、『飼い主』からは、逃れられない。


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