【挿話】躾の時間、犬の末路(後編)
翌日の夜。繭が決めたことは、ほんの些細なことだった。
「少し、散歩をしたいです」
「夜中だぞ」
「だめですか?」
「不良だなあ」
「少しだけでいいので!」
律の返事も待たず、繭はコートを羽織り、律の分も差し出した。
コートを受け取ると、二人は赤城家を後にした。
外は風こそ無かったが、身に染みる冷たい空気が漂っていた。
二人は暗い夜道を、街灯の灯りが灯るほうへ、道なりに歩いていた。
しばらく歩くと、小さな公園があった。何となく、その公園のベンチへ腰かけた。
「ん」
近くの自販機でホットのココアとコーヒーを買った。ココアを繭に渡すと、大事そうにそれを両手で包みながら、空を見ていた。
「都会でも、星は見えるんですね」
街の灯りも程々に、澄んだ空には眩しい星だけが瞬いていた。
「あ、あれって! 冬の大三角ですよね!」
繭が空の一角を指しながら声を上げた。
「知ってるのか」
「少し……」
「じゃああの、一番光ってる星はなんていうか知ってるのか」
律は、コーヒーを飲みながら、問題を出した。
言いながら、昔そういや、確か図鑑で見たな、と古い記憶を遡りながら……。
「あれはシリウスじゃないですか?」
「よく知ってんな」
「当たった!」
「適当だったのかよ……」
呆れながら、ため息をつくと白い息が漏れた。
「冬の大三角……あれがプロキオン、あっちがベテルギウス」
「律さん、詳しいですね」
「……」
忘れようとしていた。だが、忘れられるはずがなかった。
律にとって数少ない、大事な思い出だったのだと、今になって気づいた。
いや、正確にはもう少し前から。経済誌を読んでいるところを、繭に、指摘された時から。
「昔、友達と必死に覚えた。図鑑を見ながら……。友達は父親と星の話をしたくて、頑張って勉強してたな」
「そのお友達が、この前載っていた写真の、黒崎朔夜さんですよね?」
「……覚えてんのかよ」
「はい!」
繭は嬉しそうに返事をした。律は、施設で、三人でよくつるんでいたことを思い出していた。
「昔、児童養護施設にいたんだ。朔夜と、綾って子と、俺と……三人でよく遊んでたよ」
「そうなんですね」
「……この前の経済誌に、黒崎朔夜が社長になったって書いてあっただろ。あいつ、賢くてさ——」
律は、夜空でひときわ白く光る星を見上げた。
「何をしても、勝てなかった。……いつも、一番だったな」
「……」
「周りも綾も、あいつばかり見てて……。俺はずっと、二番手だったな」
「……律さん」
静かに、しかしはっきりと、名前を呼んだ。
「そんなことないですよ」
繭が律を、まっすぐ見据えた。
「……少なくとも。わたしにとって、あなたは、一番星です」
律の瞳から、目を逸らさずに言い切る。
「……よせよ。気を遣わなくていい」
「気を遣っていませんし、嘘じゃないです!」
寒さからか、瞳をうるませる繭を一瞥した。そういや、あの少年を慕っていた少女が、やけに突っかかってきたり、中身のない会話をしてきたり、待ち伏せしたりしているのを、律は傍目で見ていた。その少年は、好意を持たれていることに気づかず、すごく鈍かったことを思い出す。
「……お前ってさ」
その少年は今や社長になったが、今でも女性の好意に、鈍いんだろうか。
「夜中も毎回起きてきて。俺とこんな寒い中、散歩して……」
目の前にいる彼女の視線が、あの時の少女に、似ている気がした。
「……俺のこと好きなの?」
自分でも何を言っているのか、よくわからない。懐かしいのか、悔しいのか、何か欲しかったのか。自分のことなのに、よくわからなくて。星を見ていると、なんだか色んな気持ちにまみれて、ぐちゃぐちゃだった。
……繭の、返事がないことに、しまった、と思った。構ってくる繭の様子を見て、そうなのかもしれないと思ってしまった。……自分は少し自惚れていたのかも。
冗談だ、と誤魔化そうとした、その時、
「——はい」
小さな、しかしはっきりした返事が、その耳に届いた。
「……え?」
思わず聞き返す。暗くてよく見えなかったが、繭の頬が少し赤みを帯びているような気がした。
それから律を見つめたまま、伝えた。
「……律さん。……ずっと前から、お慕いしております」
「……」
勉強の答えなら、すぐにわかった。誰かの恋心にだって、すぐに気づけた。……なのに、自分に向けられた、この想いへの答えだけは、どうしても見つからなかった。
◇
それから、幾度となく、あの夜と同じように、二人で連れ立って夜道を歩くようになっていた。
だが、それも10日ほどで終わる。
——その日の夕食の後、律は大輝に呼び出された。使用人もつけず、居間で二人きりになった。
「お前、ふざけるなよ?」
大輝の目は怒っており、わなわなと震えている。彼が怒る理由に、なんとなく察しがついたが、あえてとぼけてみた。
「何のことだ?」
「わかってんだろ! 繭のことだよ!!」
感情を抑えられず、襟首を掴まれた。
「お前が夜中、連れまわしてんのは知ってんだぞ!!」
「そんなことは……」
「とぼけるな!! 毎晩、繭がいないんだぞ!?」
それを聞いた律は、思わず、鼻で笑ってしまった。
「……なんでだと思う?」
「あ?」
「……あんたじゃ、満足できないんだろ?」
「こ、この野郎!!」
殴られた。大輝の顔は怒りと羞恥で、真っ赤だった。その飼い主の顔を見て、律はなんだか面白かった。負け続けた人生の中で、何か、ようやく勝てたような気がして、少し満たされていた。
——なんだ。誰かに飼われてたとしても、俺より下の人間だったら、こんな簡単に何かを奪えたし、一番になれたんだ……。
「ふふ……ははは……」
「何がおかしいんだよ!!」
その後も蹴られ殴られたが、大輝の怒声に気づいた使用人たちが居間に入ってきて、止めていた。
大輝を見た。その男の悔しそうな目を見て、もしかしたらかつての自分も、朔夜に対して、こんな目をしていたのかもしれないなんて、殴られながら冷静に考えていた。
◇
その出来事の後、繭はぴたりと来なくなった。律は変わらず毎晩、仕事をしていた。
……繭といる時間に慣れていたせいで、逆に独りが落ち着かなかった。寂しいのか? そんなはずは。繭は俺に好意的だが、別に俺はそうじゃない。なついてくる女に、付き合ってやっただけだ。
なんて、その気持ちに向き合えない、言い訳を並べながら……。
だが、数日後。
いつものように夜中に起きて、資料を読みながら、パソコンを叩いていた、その時だった。
ドタドタと、慌ただしい足音。居間に飛び込んでくる繭。髪や服は乱れており、顔は叩かれたのか、赤くなっている。目には涙がたまっていた。
「大丈夫か!?」
「り、律さん……っ」
迷わず、律の胸に飛び込んできた。
「どうした?」
「ううっ……、うああ……!」
事情を聞く間もなく、またドタドタと足音がこちらに向かってくる。
「——とりあえず、逃げるぞ!!」
屋敷を飛び出し、律は繭の手を引いて、闇雲に走った。
どれくらい走っただろうか。息が上がり、後ろを振り返っても、もう誰かが追ってくる様子はなかった。
「……もう、大丈夫だと思う」
律は、近くの塀にもたれかかりながら、荒い息を整えた。繭は、その場にへたり込むようにして座り込んだ。
「……何があった」
「……」
繭は、しばらく黙っていた。膝を抱えるようにして、小さくなっている。
「……大輝さんが、部屋に来て」
「……」
「無理やり、その……。抵抗したら、殴られて」
それ以上は、言葉にならなかった。声が震えて、涙がまたこぼれた。
律は、何も言えなかった。ただ、拳を強く握りしめた。
「……俺の、せいだな」
「ち、違います!!」
「いや、俺が悪い」
短く謝罪した。繭は、涙を溜めながら、首を振って強く否定した。
——飼われた犬は、いつだって、飼い主の言いなりだ。
「……逃げるか。俺と」
咄嗟に、口にした。
「え……」
「戻りたくねえだろ」
「で、でも……。そんなこと、できるわけ……」
「遠くまで、逃げようぜ」
律は、繭の目を見て、はっきりと言った。
「……俺もお前も、この犬小屋にいるのは、飽き飽きしてるだろ?」
犬でも、吠えることくらいできるだろうか。繭を見ると、彼女も律を見つめ返していた。そしてもう、迷うことなく大きく頷いた。
律は車を借りて、当てもなく都会から離れるように走っていた。泣きやんだ繭は、息は落ち着いていたものの、まだ肩が少し震えていた。その様子を見て、先に沈黙を破ったのは、律だった。
「……怖かっただろう、あいつに殴られるのは」
「……す、少し。でも、律さんだって」
「俺はああいうの、慣れてるから平気なんだよ」
ハンドルを握りながら、律は、ちらりと助手席の繭を見た。
街の灯りが、後ろへ後ろへと流れていく。
「……なあ、どこ行きたい。繭」
「……え」
「どうせならお前の行きたいとこ、行こうぜ」
しばらく沈黙だった。何か変なことを言ったかと思った律が、繭を一瞥すると、噛み締めるような、嬉しそうな顔で口元を緩めていた。
「なんだ、どうした」
「律さん。……やっと、名前呼んでくれましたね」
「……そうだったか?」
「はい! もう一度呼んでくれますか?」
「……繭」
目をそらしながら、そっぽ向いて一言。
たったそれだけなのに、顔を見なくとも笑っているのが、わかった。
「……明日の朝までに、行きたいとこ決めとけよ。宿題だ」
「はい! わかりました!」
敷かれたレールを逸脱することに、少し高揚を覚えながら。心に空いた穴が埋まるのを、少し期待しながら。
律は、そのまままっすぐ車を走らせた。
◇
宿題の答えは、律を悩ませるものだった。
「最果てに、行きましょう」
それがどこなのか、辿り着けるのかさえわからなかったが、とりあえず、北へ。途中まではカーナビに頼っていたが、程なくして、そのナビさえ案内できない道に入っていた。舗装された道は途切れ途切れになり、点在していた古い家々も、進むにつれて数を減らしていく。
やがて、山と森と田畑しかない景色になった。道らしい道もなく、轍だけを頼りに車を進める。気づけば、北の空は、茜色から藍色へと、静かに色を変え始めていた。
そのうち、車ではこれ以上進めない、木々に囲まれた場所に行き着いた。
二人で車を降りる。冷えた空気が、肺の奥まで刺すように入り込んだ。繭の吐く息が、白く尾を引いて消えていく。
荒れた木々の間を、かき分けるようにして進んだ。足元は霜で固まった土と落ち葉で、時折、枝が二人の頬をかすめた。
しばらく歩くと、不意に視界が開けた。
「わあ……」
繭が、小さく声を漏らした。
そこは、小さな崖の上だった。もう随分と長く使われていないのだろう、白い塗装が剥げかけた、古い灯台が一つ、ぽつんと立っている。
崖の下には、黒く波打つ海が広がっていた。波の音だけが、規則正しく響いている。日が沈みかけている空には、まだ薄く、夕暮れの色が滲んでいた。その遠くの方で、たったひとつの、小さく微かな光が瞬いていた。
律は、その小さな光を、見つめていた。
繭も隣で、同じ光を見上げていた。
「……綺麗ですね」
「……ああ」
そうしているうちに、日はゆっくりと沈みきっていった。すると、暗くなり始めた空に、次々と新しい光が生まれ始めた。ひとつ、またひとつと灯り出し、気づけば頭上には——これまで見たどの都会の夜空よりも、澄み渡った星空が、隙間なく広がっていた。
街の灯りも、車の音も、何もない。ただ、風の音と、波の音と、二人の吐く白い息だけが、そこにあった。
律は、しばらく言葉を失っていた。
「律さん……」
そっと、繭が一歩近づいた。それから静かに、律を抱きしめた。
律も、それに応えようとして、手を回そうとして——でも手が、動かなかった。動けなかった。そんな資格があっただろうか。権利があるだろうか。その気持ちに、こたえられないくせに。
「……やはり、わたしでは、あなたの心の穴は、埋められませんね」
見透かされたようで、息が詰まった。
「そんなことは……」
それ以上の言葉が出ず、否定できなかった。
繭はそのまま、ただ強く抱きしめた。
「いいんです。わたしはそれでも、お慕いしております」
「……」
「誰かに、自分に、嘘をついたとしても……。もうわたしには気を遣ったり、嘘をつかなくて、いいですから……」
「繭……」
そう言われて、律は——
「……ごめん」
謝ることしか、できなかった。
「ごめん。……もう、手遅れなんだよ。何をしても、もう埋められないんだ。だけど——」
透き通った、冷たい空気を吸った。
「——あんたが傍にいてくれたことは、嬉しかったから……」
「はい……」
彼女に対して応えられる精一杯がこの程度なんて。今の自分を情けなく思いながら。
それから二人は、しばらく、そうしていた。誰からも何からも縛られることのない、星空の下で。
◇
夜風に当たり、指先が冷えてかじかんできた頃。そろそろ切り上げようと、来た道を戻っていた。
木々を抜けた先、借りた車へ向かおうとした。
——車の前に、黒いスーツの男たちが立っていた。
咄嗟に、さっきの崖の方へ戻ろうとした。が、あっという間に男たちに囲まれた。
「北の星は綺麗でしたか?」
車の前にいる男が、冷たい声で言い放つ。
「……赤城の、手下か?」
「……逃げている間に、頭が鈍りましたか」
そのリーダーらしき黒服は、右手を挙げた。二人が抵抗する間もなく、周りの男たちに捕まる。
「頼むから!! 彼女だけは逃がしてくれ!!」
「なりません」
「俺は!! どうなってもいいから!!」
律のその叫び声も虚しく、黒服は静かに首を振った。
「……できません。あなた方だけでなく、我々も、『犬』なので」
「な……」
黒服たちは、彼らの黒い車へ、繭を引きずり連れて行く。
「律さん!!」
「繭!!」
そのまま乱暴に車に入れられた。
「くそっ……!! くそぉっ!! 離せよ!!」
「律様。落ち着いてください」
「うるせえ!! ふざけんなっ!!」
「……律様」
リーダーの黒服が一歩近づいた。
「……律様に、『飼い主』様から、お言葉がございます」
「なんだよ!!」
黒服は、淡々と話し出す。
「……あなたの首輪についたリードは、あなたひとりが、繋げられているわけではございません。雨宮繭——だけでなく、あなたの大事な人たちと、繋がっております」
「は……? あ……?」
黒服は続ける。
「逃げれば、あなたではなく、同じリードの先で繋がれた誰かが、『躾』されます。あなたの『飼い主』は誰か。それを、ゆめゆめお忘れなきよう」
「それ、は……」
律が理解する前に、黒い車に押し込められた。そのまま車は、東京の、彼の牢獄へ走り出す。
逃げた犬がどうなったか。わかっていたはずなのに。
そして、もうひとつ。どうやら自分には、死ぬ権利すら、無いようだ。
赤城邸を逃げてから、わずか7日目のことだった。
◇
人を、思い通りに動かすには、二通りのやり方がある。
ひとつは飴。甘味。褒美や報酬。人は自らの利益のために、多少のことは受け入れ、従う。
ひとつは鞭。痛み。恐怖や罰。人は自らの身を守るために、仕方なく、あるいは諦めて、従属を受け入れる。
——大概の指導者は、鞭さえうまく使いこなせば良いと思っている。だが、それは違う。人を従わせるのに重要なのは、『飴』であり、これを使いこなせることが、絶対的な指導者である。
そして鞭の使い方も、本人ではなく、その者にとっての『飴』となり得る誰かに使うのが、最も効果的である。
たとえば、黒崎朔夜。
彼には、黒崎を背負わせるという鞭を課しつつ、私からの承認や賞賛という飴を与えていた。だが彼にとって何よりの飴は、妹の『黒崎蛍』らしい。
共に暮らす許可を与えてもいい——朔夜にそう伝えた。たったそれだけで、元より従順だった子が、より一層必死になり、期待以上の成果を出している。
『——赤城殿』
「な、なんでしょう?」
赤城剛は、冷や汗をかきながら、自室で電話していた。
『ご子息の競い相手にと、律をお譲りしたはずですが。……このざまは、何ですか』
「申し訳ございません……。息子には、重々に……」
『赤城殿』
その声の主は、淡々と突きつける。
『ご子息は、律に鞭しか使わなかったようですね。そのくせご自分は、飴ばかり舐めてらっしゃる。……律にとって、飴になり得た女がいたのに、それも使いこなせず、独りで舐め尽くそうとなさった』
「そ、それは……」
『……ご子息に、少し躾を。良いですね?』
「お待ちください!! 宗玄殿!! お待ちください!!」
『——あなたには、たった一人のご子息を。律には、あの女を。それぞれの飴を、少し、溶かしてみましょうか』
「宗玄殿!! お待ちください!! 大輝は!! 大輝だけは!!」
通話は切れた。赤城剛は、その場で崩れていた。
——飼い犬は、『飼い主』からは、逃れられない。




