暗転へ…(後編)
16日。雨の中、朔夜は午前11時に赤城ビルに到着した。律のいる社長室に通される。
「さて、まずは解約の条件だが……」
律にしては珍しく、ひとつひとつ丁寧に説明し出した。こちらに非があり糾弾されると思っていたが、もう既に興味が失せているような口ぶりだった。
気づけば、14時半を回っていた。合意書の条件がまとまった。
「次は北辰建設についてだが——」
律が時計をちらりと見た。
「……その前に、お前知ってるか?」
「何をだ」
「今日、黒崎で役員会が開かれているぞ」
朔夜は目を見開いた。
「……明日の、17日のはずだが」
「早まったんだよ。……知らなかったのか?」
律の口元が歪んだ。
「社長がいない席で、誰が答えてるんだろうな。……秘書あたりか」
朔夜は携帯を取り出し、発信した。呼び出し音が続くだけで、繋がらない。
朔夜は何も言わずに立ち上がった。
「待てよ、朔夜。まだ北辰の話は終わってねえだろ」
「後だ」
振り返りもせずに、扉へ向かう。
律は朔夜の肩を掴んだ。
「放せ」
「合意書のサインもまだだろ」
朔夜は振り返って律を見据えた。
「……それは、後だ」
律は朔夜の胸ぐらを掴んで、そのまま突き飛ばした。背中から倒れる朔夜。
「……お前は、昔からすました顔をしてやがる。俺は、それが、ずっと気に入らなかったんだよ!!」
朔夜はゆっくりと立ち上がった。律はそれを見下ろしていた。
「……言いたいことはそれだけか」
律を鋭く一瞥だけして、踵を返す。
そのまま社長室を出た。重い扉が閉まった。
◇
「——なぜ、答えられない」
同刻。黒崎ビル最上階の会議室。長机の端から、役員の声が飛んだ。
部屋の中央に立たされた蛍は、手元の資料を握りしめたまま、顔を上げられずにいた。役員会が始まって、30分が経っていた。
「北辰建設を協力業者の一覧に加えたのは、あなただろう」
「……紹介を受けた業者を、手続き通りに登録しました。ですが、わたしが確認した改修は12軒だけで——」
「では残りの8軒は? なぜ確認しなかった?」
「……」
部長決裁の金額だった。秘書のところまで上がってくる書類ではない。けれど、そう決めたのは、自分と兄だった。
上座の宗玄は、一言も発しない。指を組んだまま、蛍を見ていた。
——今日は役員会だ。通知も出した。見ていなかったのか。
20分前、秘書室の扉を開けた宗玄は、そう言った。そんな通知を受け取った覚えはない。けれど、見落としていないと言い切れるだけの自信もなかった。
——もう始まっている。お前が代わりに出席しろ。
そのまま、ここへ連れてこられた。兄に知らせる間もなかった。
ポケットの中で、ずっと携帯が震えている。
「……申し訳ございません。わたしの確認が、足りませんでした」
「謝って済む話でしょうか?」
役員の一人が追究する。
「8軒の施工業者は、すべて北辰建設。……私は聞いたことのない名前ですがね」
長机のあちこちで、頷く気配がした。
「黒崎秘書」
宗玄が、初めて口を開いた。目を細めて、蛍を見据える。
「お前は、この業者を知っているのか」
蛍は唇を結んだ。名前は一覧で見た。登記を確かめ、書類を受け取った。けれど、担当者の顔も、事務所がどこにあるのかも、知らなかった。
「……書類の上でしか、存じ上げません」
「書類の上で、か」
宗玄が隣の役員に目をやる。役員は手元から紙を一枚抜き出した。
「こちらで、北辰建設の所在地を確認させました。登記上の住所は、雑居ビルの空き部屋です。事業の実体は、確認できませんでした」
息が止まった。
実体が、無い。
「……存在しない会社に、1億2千万。それを黒崎に招き入れたのは、お前だ」
宗玄の声は低く、静かだった。
「……その金は、どこへ行った」
「わたしは、何も——」
「では、誰だ」
答えられない。答えを、持っていない。
役員たちの視線が、一斉に自分へ集まっているのが分かった。誰も口にはしない。けれど、その目が言っていた。この秘書が懐に入れたのではないか、と。
膝が震えた。
時計の針は、15時を回っていた。ポケットの携帯は、いつの間にか震えるのをやめていた。
兄さんなら、答えられるのだろうか。この一週間、兄さんが一人で調べていたのは、これだったのだろうか。
——この、不正の可能性を見越して。
顔を、上げられない。
「……わたし、本当に何も——」
混乱する頭の中で、何か言葉を絞り出そうとした、その時だった。
会議室の扉が、乱暴に開いた。
息を切らした朔夜が、そこに立っていた。肩も髪も、雨に濡れていた。
「……に、兄さん」
朔夜は蛍を一瞥して、それから上座を見た。
「遅れて、申し訳ありません」
「遅れて、か」
宗玄は指を組み直した。
「……まあいい。お前の口から説明してもらおう。北辰建設とは何だ。1億2千万は、どこへ消えた」
朔夜は蛍の隣まで歩み出て、まっすぐに宗玄を見た。
「現在、調査中です。部長決裁の範囲に分割されて支払われていたことまでは、確認しております」
「待て。それはお前の指示ではないのか? なぜお前が知らないのだ?」
「指示した覚えはありません」
「では、秘書か? それともお前は秘書を庇っているのか? 知らないで通るとでも?」
「……」
「秘書ではないなら、他に誰がいるのだ?」
朔夜は息を詰めた。
経理部長の名を出せば、あの男が罪を問われる。黙れば、その罪を蛍が着せられる。
役員たちの冷たい目が、こちらに集まる。
朔夜は静かに目を閉じた。
「……すべて、私の責任です。……申し開きは、ありません」
「兄さん……!」
蛍が声を上げた。朔夜は深く、頭を下げた。頭上から、重たい視線と空気が突き刺さる。
宗玄の長い溜息が、聞こえた。
「……朔夜」
低い声が、響いた。
「——失望した」
朔夜は俯いたまま、微動だにしない。
「……王は常に冷静に、盤上だけを見るものだ。孤独に耐えるとは、そういうことだ。だがお前は、そこから目を離した。秘書の手間を減らしたいがために決裁を預け、預けた先を見もしなかった。……だから掌握できなかった。違うか」
朔夜は、答えなかった。
「私の息子でありながら、それすら理解できんとは」
「——兄は、悪くありません」
蛍が頭を上げた。静かに、だがはっきりと。
「業者を入れたのは、わたしです。兄は——社長は、何も——」
「口を挟むな。発言を許した覚えはない」
静かに、しかし絶対的な威圧感で蛍を制してから、宗玄は言葉を続ける。
「……朔夜。私がお前にどれだけの時間や労力、全てを費やしたかわかっているのか。……教育を与え、地位を与え、経験を積ませてやった。……全て、無駄だったというのか」
失望の混じった冷えた目で、朔夜を射抜く。
「……期待していたが。……どうやら失敗作だったようだ」
「……っ」
「お前に、黒崎は任せられん。社長権限は、当面停止とする。処分が決まるまで、一切の口出しは許さん」
「……」
「話は終わりだ」
朔夜はずっと、ただ目を伏せたまま、拳を握っていた。
本邸に入ってから、跡取りであることを強いられ、父に認められたいがために己を捧げてきた男の20年余りは、ものの5分で切り捨てられた。
「……待ってください」
蛍の声に、朔夜が顔を上げる。
「——待ってください!!」
蛍の声が、張り詰めた静寂を揺るがす。
役員たちが一斉に目を見張る。宗玄の眉が微かに動く。
「蛍……。やめろ……」
朔夜が咄嗟に蛍へ寄り添い、止めようと手を伸ばした。
だが蛍は、その手を振り払った。
「……何度も言わせるな。お前が招いたことだ」
宗玄が、蛍に視線を向ける。その目が、朔夜に向けられていた失望から、徐々に静かな憤怒へと色を変えていく。
「……そう思うなら、わたしには何を言っても構いません。ですが、先ほどの兄への言葉は、撤回してください」
「お前に指図される筋合いは無い。故に、撤回もない」
「ふざけないで……」
父の為に理不尽に耐え、尽くしてきた朔夜の存在そのものを、息をするように簡単に切り捨てるこの男が、どうしても許せない。
宗玄は、もう蛍を見ていなかった。席を立とうと、椅子を引く。
「——ふざけるな!!」
蛍の声が、空気を切り裂く。
「馬鹿にしたいなら、わたしにすればいい!!」
蛍は足を踏み出し、まっすぐに黒崎宗玄を見据えて叫んだ。
「わたしの、兄さんを!! 大好きな朔夜兄さんを、侮辱するな……!!」
◇
その怒声が響いた後、部屋は静まり返っていた。
蛍の、耐えるような嗚咽が聞こえたのは、朔夜だけだった。
永遠に続くように感じられた重たい静寂の中で、宗玄が微かに目を開き——それからゆっくりと口を開いた。
「……いいだろう」
目を細めて、蛍を見据える。
「そもそもは、お前の失態だ。せっかく朔夜が庇ってやったというのに、それすら理解できんほど、浅はかとはな」
冷えた声が、静まり返った部屋に落ちる。
「そんなものは、黒崎にいらん。実体のない業者を招き入れ、会社の資金を外へ流した。その責を負え」
黒崎宗玄が、告げる。
「……黒崎蛍を、懲戒解雇とする」
心臓が一度だけ、大きく跳ねた。
「……異議は、あるか」
宗玄が周囲の役員たちに視線を巡らせる。その重圧ある視線を受けた役員たちは、誰も言葉を発することなく、互いに顔を見合わせて頷き合うだけだった。
「……決まりだな」
宗玄は短く告げると、今度こそ悠然と立ち上がった。
「……父さん、待ってくだ——」
「何者でもないお前に、発言する権利は無い」
宗玄はもはや一瞥もくれず、重厚な扉に向かって歩き出した。
その背中に促されるように、役員たちも次々と席を立ち、会議室から退出していく。
重い扉が静かに閉まる。広すぎる会議室に、ただ二人だけが残された。
◇
廊下に出た途端、蛍の体は糸が切れたように、その場に崩れた。
朔夜は、その小さな体を支えながら、廊下の端まで連れて行く。その先にある冷たい鉄の扉を開け、非常階段の踊り場まで足を運ぶ。
雨はまだ止まずに降っていた。薄暗い踊り場を照らす蛍光灯は、寿命を迎えかけているのか、力なく点滅を繰り返していた。
朔夜は蛍から手を離し、振り返った。濡れた前髪から、雫が一つ落ちる。
「……泣くな」
そう言う声も、震えていた。
朔夜自身も、今にも崩れ去りそうな何かを、必死に胸の奥へ押し隠している声だった。
「……俺のことは、いい。……慣れてる」
点滅する蛍光灯が、朔夜の横顔を照らす。その目の奥だけが、隠しきれずに赤く充血している。
朔夜は、いつだってそうだ。
自分のことを、いつも後回しにする。自分はどれだけ傷ついても構わないと思っている。だから恨まれるようなことも、辛いことも簡単に引き受ける。今回だって、兄さんは何ひとつ悪くないのに。
……そうやって自分を差し出すことが、どれほど身近な人を苦しめ、悲しませているかも、知らないくせに。
「なぜ……!! なぜ、あなたは、いつも……!!」
蛍は、朔夜の襟元を両手で掴んだ。
「どうして!! 自分のことを、どうでもいいみたいに……!! わたしが!! あなたを大事に想ってる人が!! あなたが傷ついてどう思うか、少しは考えてよ……!! 兄さんが侮辱されて、どれだけ悲しいか……考えてよ……!!」
堰を切ったように、激しい嗚咽が溢れ出す。
「うわあああ……!! ああぁぁ……っ!!」
蛍はそのまま、抗うことも忘れ、朔夜の胸へと飛び込んだ。
朔夜の体は強張った。見下ろした先には、怒りと悲しみがぐしゃぐしゃに混ざり合った蛍の顔があった。
——今まで自分は、父に認められたくて、父の言うことを聞いてきた。父に違うと言われれば、自分が間違っているのだと思った。父に否定されれば、それを受け入れた。たとえ、その言葉が自分の柔らかい部分を傷つけていたとしても——逆らったことなど、一度もなかった。
蛍と過ごした時間は、宗玄と過ごした時間に比べれば、圧倒的に短い。彼女の記憶のない時間を除けば、自分といた時間など、たったの数年だ。その短い時間の中で、蛍は少しずつ、自分の存在を赦し、肯定してくれた。その時間が、決して浅いものではなかったのだと、今になって気付かされた。
その気付きが、朔夜が胸の奥で押し固めていたものを、徐々に崩していく。
……目の奥が熱い。これ以上、耐えきれない。
朔夜は、蛍を抱き寄せた。そして、落ち着かせるように、そっと蛍の頭を撫でた。
「……馬鹿だな、お前は」
声は、言葉とは裏腹に、柔らかく温かい。
「俺のために怒って、泣いて……全部、失って。……それで、どうするつもりだったんだ」
蛍の、頬を伝う涙を、親指でそっと拭いながら。
「……ありがとう。……俺なんかのために」
拭ったはずの蛍の瞳に、また涙が溜まり出す。
「——俺『なんか』じゃ、ないでしょ……!!」
襟元を強く握り直す。
「わかってない!! わかってないよ……!!」
涙が溢れ出した。
蛍の顔は、また涙でぐしゃぐしゃになった。でも、もう、どっちの涙か、わからない。
誰かのために震えながら立ち塞がった、その小さな体を、朔夜は強く、抱きしめ直した。
「……ごめん……。わかってなくて……」
「うわあぁあ……っ!! ああぁああ……!!」
どれほどの時間、そうしていたのか。二人には、もうわからなかった。
ただ、互いの体温を確かめるように、身を寄せ合っていた。




