暗転へ…(前編)
朝霧町の復興は、夏祭りの後も緩やかに進んでいた。
発案者として責任を持たせる意味も込めて、空き家改修の業者との契約書には、蛍が判を押すようになっていた。秘書という立場を越えて、社員としての責任の重みを、蛍自身も少しずつ感じ始めていた。
ただ、改修は件数が多い。1件ごとの金額は小さく、1軒ずつの工事費の支払いまで蛍が決裁していては、とても回らなかった。そこで改修費は、1件あたり一定額までを各部長の決裁に任せることにした。蛍の負担を減らすために、二人で決めたことだった。
ある夜、リビングでくつろいでいた時、朔夜が蛍に切り出した。
「蛍。明日の夜は空いているか?」
「え? まあ、特に予定は無いけど……」
いつにも増して、朔夜は真剣な面持ちだった。
「……明日、仕事が終わったら、一緒に食事をしないか?」
虚を突かれたようで、蛍は目を丸くした。朔夜から誘ってくるなど、珍しい。
「どうかしたの?」
蛍は訝しげに目を細めた。
「……俺が食事を誘うのは、そんなに変か?」
「滅多に無いので」
「契約締結の権限を渡しただろう? うまくやれているようだから、褒めようと思って……」
朔夜はそれから少し咳払いをして、続ける。
「……それと、少し、話したいこともある」
「大事な話?」
「まあ……そうだ」
蛍を見ると、何かを感じ取ったのか、やや不安げな色を目に浮かべていた。
……蛍は、何かを察しているのかもしれない。
「店はここだ」
話を逸らすように、携帯の画面を向けた。
「……綺麗なお店だね」
「ああ。それに、食事も酒も、美味しい」
朔夜は、店の場所と待ち合わせ時間を伝えると、静かに自室へ向かった。
一人リビングに残った蛍は、ざわめく胸を押さえていた。
……まだ、その大事な話が何の話か確定したわけではないのに。
もし、その話が、朔夜が綾と一緒になる話だったとしたら。
おめでとう、とちゃんと笑って、言えるだろうか。
「あれ……おかしいな……」
素直に喜ぶことのはずなのに、その呟いた声は震えて、胸に言いようのない痛みが走る。
綾のことは好きだ。兄とは、お似合いだと思う。綾と一緒にいる兄なら、今よりも少し、気を抜いていられるかもしれない。それは、良いことのはずなのに……。
もし、明日、自分が考えているような、婚約の話だったら。このまっすぐではない気持ちを隠し通して、ちゃんと笑わなくては、と。そう思うほど、胸の奥が締め付けられて、苦しくなった。
——独りになるのが、怖いのだろうか。
それ以上考えるのは、やめた。激しく鼓動する心臓を煩わしく思いながら、蛍は自室に向かった。
明日が来てほしいのか、来てほしくないのか。気持ちに名前を付けられないまま、ベッドの中に沈み込んだ。
◇
翌朝の部課長会議は、いつも通り9時に始まった。
進行は成瀬が務める。宗玄が会議に現れたあの日から、それが当たり前になっていた。経営企画、広報と報告が続き、ところどころで質問が飛ぶ。蛍は入口近くの記録係の席で、議事録にペンを走らせていた。
昨夜の言葉が、頭の隅から離れない。
大事な話。
ペン先が止まりかけて、慌てて紙面に戻した。今は仕事中だ。今夜の店のことも、明日の子会社との定例会のことも、会議が終わってから考えればいい。
「では、経理部から」
経理部長が立ち上がった。手元の資料に目を落としたまま、数字を読み上げていく。会議の形が変わってからは、淀みなく説明するようになっていたはずの人だ。今日は声がどこか平たい。
「……続いて、朝霧町復興事業の費用ですが。空き家改修の工事費が、当初予算を1億2千万円ほど上回っております。以上です」
蛍の手が止まった。
1億。そんな数字には、どこにも覚えがない。改修の見積もりは1軒ずつ確かめてきた。最後に見た数字は、確かに予算の内側に収まっていたはずだった。
「……経理部長」
朔夜が顔を上げた。
「その増額の理由は」
経理部長は資料をめくった。一枚めくり、もう一枚めくり、また最初の頁へ戻る。
「それは……ええと……」
歯切れが悪く、額に汗が出ている。
「申し訳ございません。……確認し、後日、回答いたします」
頭を下げ、目を伏せる。
「……わかりました」
朔夜がそう了承すると、成瀬が頷いて次の報告を促した。人事の採用計画、法務の契約更新。会議は何事もなかったように進んでいく。
蛍のペンは議事録を埋めていった。経理部長の欄にだけ、「確認中」と書いた文字が、自分でも分かるほど歪んでいた。
◇
会議が終わり、部課長たちが次々と席を立った。
椅子の脚が床を擦る音と、誰かの笑い声が廊下へ流れていく。最後に成瀬が一礼して出ていくと、会議室には二人だけが残った。
「兄さん」
扉が閉まるのを待って、蛍は口を開いた。
「改修の見積もり、全部予算内でした。1軒ずつ確かめてます。1億も増えるなんて、おかしいです」
「ああ」
朔夜は会議資料を揃えながら答えた。
「お前の数字は、俺も見ている。増えた分は、俺が調べる。……その代わりに、明日の子会社との定例会に、お前一人で出てくれるか」
「……わかりました。各社の報告は、まとめて持ち帰りますね」
「助かる。向こうには俺から連絡しておく」
資料を脇に抱えて、朔夜は扉へ向かった。その手が取っ手にかかったところで、足が止まる。
「……今夜の店には、少し遅れるかもしれない」
不意に言われて、顔を上げた。
「……はい。待ってます」
朔夜は頷いて、会議室を出ていった。
◇
午後、朔夜は社長室で、朝霧の改修費の支払い一覧を開いた。
町と決めた改修は12軒。一覧には20軒分の支払いが並んでいた。
見覚えのない8つの番地は、どれも同じ業者だった。
——北辰建設。
決裁者の欄には、経理部長の名前が並んでいる。一軒分の工事費が何度かに分けて請求され、金額はどれも、部長決裁で通せる上限のわずかに下で止まっていた。蛍の負担を減らすために、二人で決めた線だった。
業者の登録経路を辿った朔夜の手が、一行で止まる。
——協力業者一覧(取りまとめ:黒崎蛍)
蛍は紹介された業者を、手続き通りに登録しただけだ。けれど書類の上では、この業者を黒崎に引き入れたのは蛍になる。
時計を見ると、終業のチャイムからしばらく経っていた。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
「どうぞ」
入ってきたのは、経理部長だった。
両腕に、厚いファイルを抱えている。扉が閉まったのを確かめると、一度だけ廊下の方を振り返った。
「……どうしましたか」
朔夜が声をかけても、部長はすぐには答えなかった。ソファを勧めても座らない。ファイルを胸に抱えたまま、社長室の真ん中に立ち尽くしている。
やがて、その肩が落ちた。力が抜けたというより、崩れたように見えた。
「社長……」
震える声だった。
「……助けてください」
ファイルがテーブルに置かれる。表紙に添えた指が震えていた。
「会議では、言えませんでした。……全部、私の決裁なんです」
開かれたページには、北辰建設の請求書と、部長決裁の承認記録が綴じられていた。画面で見たばかりの、8つの番地。どれにも経理部長自身の朱印が押されている。
「北辰建設の請求は、そのまま通しておけと言われました。金額は、部長決裁の枠に収まるように分けてあるから、と」
「誰に」
「……申し上げられません」
部長がもう一度、繰り返す。
「申し上げられないんです……」
かつての会議室で「まあまあ」と誰かを宥めていた男。揉め事から一歩引いて、誰の側にも立たずにいられた男。その男がいま、社長室の真ん中で、ファイルの角を握りしめたまま、震えている。
「もう、怖くて……。娘が、来年受験なんです。私には、もう何も分からないんです……」
部長はそれだけ言うと、膝から崩れ落ちた。
「社長しか……もう社長しか頼れない……。お願いします、助けてください……」
家族のいる経理部長が、独断で自分の首を絞めるような判断をするはずがない。この男より上の者の指示だ。
そして、その誰かが仕組んだことの入口には、蛍の名前がある。
「……部長、顔を上げてください」
おずおずと上がった部長の目の縁が、赤い。
「まずは、ご相談いただいたこと、感謝します。このファイルは私が預かります。来週、17日の役員会までに、私の方で整理して報告します。それまでは、誰にも何も言わなくていい」
「……社長」
「あなたのせいにはしません」
部長の顔が、くしゃりと歪んだ。何度も頭を下げ、逃げるように社長室を出ていった。
扉が閉まる。
一人になった部屋で、朔夜はファイルを閉じた。表紙に手のひらを置いたまま、しばらく動けなかった。
蛍に話せば、蛍は必ず自分を責める。自分が業者を入れたからだと言って、一人で役員の前に立とうとする。
「……」
朔夜はファイルを手に席へ戻り、画面に向き直った。
ポケットから携帯を取り出し、蛍にメッセージを送る。
『——すまない。今日は行けなくなった。誘えるなら、陽人でも』
携帯を伏せた。
話すのは、全部片付いてからでいい。
◇
それからの数日、朔夜は社長室に籠りきりだった。
北辰建設を洗った。登記はあり、書類の上では存在する会社だった。試しに書面を郵送すると、5日後、宛先不明で封書が戻ってきた。
……まさか。
支払いを通したのは、経理部長だ。その部長に指示を出した誰かがいる。そして、業者を一覧に加えたのは、蛍だ。
どの糸を引いても、誰かが傷つく。
朔夜は戻ってきた封書を、机に伏せた。
——最悪、俺が被ればいい。
社長として、把握しきれていなかった。頭を下げて、しばらく権限を取り上げられるくらいで済むなら、それでいい。
それで、済まなければ——。
その先は、考えなかった。
◇
昼過ぎ、扉が叩かれた。
「社長。コーヒー、置いておきますね」
蛍が新しいカップを机に置いた。その隣には、朝に置いたカップが、ほとんど減らないまま冷めていた。
「……あの、増額の件。何か分かりましたか?」
「まだ確認中だ。業者に問い合わせている」
「わたしにできること、ありませんか。見積もりの控えなら、全部——」
「大丈夫だ」
朔夜は書類から目を上げなかった。
「お前は、自分の仕事をしてくれ」
蛍は何か言いかけて、口を閉じた。
「……はい」
扉が閉まる。朔夜は伏せた封書に、そっと手を置いた。
◇
その日の夕方、朔夜の携帯が鳴った。
「……律か」
『相変わらず出るの早えな。……朝霧の資金契約の件だ』
再開発の協力金として、黒崎が赤城に資金を出す契約。結んだまま、復興に切り替えたことで1円も払っていない。その契約を合意の上で解約したいから、明日の16日に処理したい、という話だった。
その次の日——17日は、役員会だ。……時間が足りない。
「律。少し聞いていいか」
『なんだ』
「お前の会社は不動産だったな。……北辰建設という会社は知っているか?」
『……』
通話の奥で、空気が揺れた気がした。
『……知りたいか?』
「……」
『明日、来たら教えてやるよ』
通話は切れた。
自分をよく思っていない律が、素直に教えるとは限らない。それでも今の朔夜には、その言葉に縋るしかなかった。
◇
黒崎邸に戻ったのは、10時を過ぎてからだった。
居間に明かりが残っていた。
ソファに座った蛍が、膝の上のノートパソコンを睨んでいる。テーブルには付箋だらけの資料が広がっていた。
「まだ起きていたのか」
声をかけると、蛍は弾かれたように顔を上げた。
「あ……おかえりなさい、兄さん」
「何をしてた」
「朝霧町の改修費、もう一回見直してたんです。見積もりと支払いの数字、どこかで合わなくなってるはずだから。会社のデータ、持ち帰りの申請はしてあります」
蛍は画面をこちらへ向けた。
表の数字に、いくつも色が塗られている。昼に「大丈夫だ」と言われてから、ずっとこれを続けていたのだろう。
「……ありがとう。でも、もう増額理由は分かったから、大丈夫だ」
「え——」
「役員会では、俺が説明する。お前は気にしなくていい」
蛍は迷ったように口を開く。
「増額理由は、何だったんですか?」
朔夜は答えず、蛍に目をやった。
大きな手が頭に置かれ、髪を梳くように滑っていく。柔らかい髪が指の間をすり抜けた。蛍の目が、驚いたように瞬く。
「に、兄さん?」
「……もう、寝よう」
手が離れる。朔夜は立ち上がり、自室へ向かった。
廊下の手前で、一度だけ足が止まる。けれど、振り返りはしなかった。
蛍はソファに座ったまま、それ以上何も訊けずに、その背中を見送った。




