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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
4章 光は灯るか、消えるか(後編)
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暗転へ…(前編)

 朝霧町の復興は、夏祭りの後も緩やかに進んでいた。

 発案者として責任を持たせる意味も込めて、空き家改修の業者との契約書には、蛍が判を押すようになっていた。秘書という立場を越えて、社員としての責任の重みを、蛍自身も少しずつ感じ始めていた。

 ただ、改修は件数が多い。1件ごとの金額は小さく、1軒ずつの工事費の支払いまで蛍が決裁していては、とても回らなかった。そこで改修費は、1件あたり一定額までを各部長の決裁に任せることにした。蛍の負担を減らすために、二人で決めたことだった。

 ある夜、リビングでくつろいでいた時、朔夜が蛍に切り出した。

「蛍。明日の夜は空いているか?」

「え? まあ、特に予定は無いけど……」

 いつにも増して、朔夜は真剣な面持ちだった。

「……明日、仕事が終わったら、一緒に食事をしないか?」

 虚を突かれたようで、蛍は目を丸くした。朔夜から誘ってくるなど、珍しい。

「どうかしたの?」

 蛍は訝しげに目を細めた。

「……俺が食事を誘うのは、そんなに変か?」

「滅多に無いので」

「契約締結の権限を渡しただろう? うまくやれているようだから、褒めようと思って……」

 朔夜はそれから少し咳払いをして、続ける。

「……それと、少し、話したいこともある」

「大事な話?」

「まあ……そうだ」

 蛍を見ると、何かを感じ取ったのか、やや不安げな色を目に浮かべていた。

 ……蛍は、何かを察しているのかもしれない。

「店はここだ」

 話を逸らすように、携帯の画面を向けた。

「……綺麗なお店だね」

「ああ。それに、食事も酒も、美味しい」

 朔夜は、店の場所と待ち合わせ時間を伝えると、静かに自室へ向かった。

 一人リビングに残った蛍は、ざわめく胸を押さえていた。

 ……まだ、その大事な話が何の話か確定したわけではないのに。

 もし、その話が、朔夜が綾と一緒になる話だったとしたら。

 おめでとう、とちゃんと笑って、言えるだろうか。

「あれ……おかしいな……」

 素直に喜ぶことのはずなのに、その呟いた声は震えて、胸に言いようのない痛みが走る。

 綾のことは好きだ。兄とは、お似合いだと思う。綾と一緒にいる兄なら、今よりも少し、気を抜いていられるかもしれない。それは、良いことのはずなのに……。

 もし、明日、自分が考えているような、婚約の話だったら。このまっすぐではない気持ちを隠し通して、ちゃんと笑わなくては、と。そう思うほど、胸の奥が締め付けられて、苦しくなった。

 ——独りになるのが、怖いのだろうか。

 それ以上考えるのは、やめた。激しく鼓動する心臓を煩わしく思いながら、蛍は自室に向かった。

 明日が来てほしいのか、来てほしくないのか。気持ちに名前を付けられないまま、ベッドの中に沈み込んだ。


 ◇


 翌朝の部課長会議は、いつも通り9時に始まった。

 進行は成瀬が務める。宗玄が会議に現れたあの日から、それが当たり前になっていた。経営企画、広報と報告が続き、ところどころで質問が飛ぶ。蛍は入口近くの記録係の席で、議事録にペンを走らせていた。

 昨夜の言葉が、頭の隅から離れない。

 大事な話。

 ペン先が止まりかけて、慌てて紙面に戻した。今は仕事中だ。今夜の店のことも、明日の子会社との定例会のことも、会議が終わってから考えればいい。

「では、経理部から」

 経理部長が立ち上がった。手元の資料に目を落としたまま、数字を読み上げていく。会議の形が変わってからは、淀みなく説明するようになっていたはずの人だ。今日は声がどこか平たい。

「……続いて、朝霧町復興事業の費用ですが。空き家改修の工事費が、当初予算を1億2千万円ほど上回っております。以上です」

 蛍の手が止まった。

 1億。そんな数字には、どこにも覚えがない。改修の見積もりは1軒ずつ確かめてきた。最後に見た数字は、確かに予算の内側に収まっていたはずだった。

「……経理部長」

 朔夜が顔を上げた。

「その増額の理由は」

 経理部長は資料をめくった。一枚めくり、もう一枚めくり、また最初の頁へ戻る。

「それは……ええと……」

 歯切れが悪く、額に汗が出ている。

「申し訳ございません。……確認し、後日、回答いたします」

 頭を下げ、目を伏せる。

「……わかりました」

 朔夜がそう了承すると、成瀬が頷いて次の報告を促した。人事の採用計画、法務の契約更新。会議は何事もなかったように進んでいく。

 蛍のペンは議事録を埋めていった。経理部長の欄にだけ、「確認中」と書いた文字が、自分でも分かるほど歪んでいた。


 ◇


 会議が終わり、部課長たちが次々と席を立った。

 椅子の脚が床を擦る音と、誰かの笑い声が廊下へ流れていく。最後に成瀬が一礼して出ていくと、会議室には二人だけが残った。

「兄さん」

 扉が閉まるのを待って、蛍は口を開いた。

「改修の見積もり、全部予算内でした。1軒ずつ確かめてます。1億も増えるなんて、おかしいです」

「ああ」

 朔夜は会議資料を揃えながら答えた。

「お前の数字は、俺も見ている。増えた分は、俺が調べる。……その代わりに、明日の子会社との定例会に、お前一人で出てくれるか」

「……わかりました。各社の報告は、まとめて持ち帰りますね」

「助かる。向こうには俺から連絡しておく」

 資料を脇に抱えて、朔夜は扉へ向かった。その手が取っ手にかかったところで、足が止まる。

「……今夜の店には、少し遅れるかもしれない」

 不意に言われて、顔を上げた。

「……はい。待ってます」

 朔夜は頷いて、会議室を出ていった。


 ◇


 午後、朔夜は社長室で、朝霧の改修費の支払い一覧を開いた。

 町と決めた改修は12軒。一覧には20軒分の支払いが並んでいた。

 見覚えのない8つの番地は、どれも同じ業者だった。

 ——北辰建設。

 決裁者の欄には、経理部長の名前が並んでいる。一軒分の工事費が何度かに分けて請求され、金額はどれも、部長決裁で通せる上限のわずかに下で止まっていた。蛍の負担を減らすために、二人で決めた線だった。

 業者の登録経路を辿った朔夜の手が、一行で止まる。

 ——協力業者一覧(取りまとめ:黒崎蛍)

 蛍は紹介された業者を、手続き通りに登録しただけだ。けれど書類の上では、この業者を黒崎に引き入れたのは蛍になる。

 時計を見ると、終業のチャイムからしばらく経っていた。

 扉が叩かれたのは、そのときだった。

「どうぞ」

 入ってきたのは、経理部長だった。

 両腕に、厚いファイルを抱えている。扉が閉まったのを確かめると、一度だけ廊下の方を振り返った。

「……どうしましたか」

 朔夜が声をかけても、部長はすぐには答えなかった。ソファを勧めても座らない。ファイルを胸に抱えたまま、社長室の真ん中に立ち尽くしている。

 やがて、その肩が落ちた。力が抜けたというより、崩れたように見えた。

「社長……」

 震える声だった。

「……助けてください」

 ファイルがテーブルに置かれる。表紙に添えた指が震えていた。

「会議では、言えませんでした。……全部、私の決裁なんです」

 開かれたページには、北辰建設の請求書と、部長決裁の承認記録が綴じられていた。画面で見たばかりの、8つの番地。どれにも経理部長自身の朱印が押されている。

「北辰建設の請求は、そのまま通しておけと言われました。金額は、部長決裁の枠に収まるように分けてあるから、と」

「誰に」

「……申し上げられません」

 部長がもう一度、繰り返す。

「申し上げられないんです……」

 かつての会議室で「まあまあ」と誰かを宥めていた男。揉め事から一歩引いて、誰の側にも立たずにいられた男。その男がいま、社長室の真ん中で、ファイルの角を握りしめたまま、震えている。

「もう、怖くて……。娘が、来年受験なんです。私には、もう何も分からないんです……」

 部長はそれだけ言うと、膝から崩れ落ちた。

「社長しか……もう社長しか頼れない……。お願いします、助けてください……」

 家族のいる経理部長が、独断で自分の首を絞めるような判断をするはずがない。この男より上の者の指示だ。

 そして、その誰かが仕組んだことの入口には、蛍の名前がある。

「……部長、顔を上げてください」

 おずおずと上がった部長の目の縁が、赤い。

「まずは、ご相談いただいたこと、感謝します。このファイルは私が預かります。来週、17日の役員会までに、私の方で整理して報告します。それまでは、誰にも何も言わなくていい」

「……社長」

「あなたのせいにはしません」

 部長の顔が、くしゃりと歪んだ。何度も頭を下げ、逃げるように社長室を出ていった。

 扉が閉まる。

 一人になった部屋で、朔夜はファイルを閉じた。表紙に手のひらを置いたまま、しばらく動けなかった。

 蛍に話せば、蛍は必ず自分を責める。自分が業者を入れたからだと言って、一人で役員の前に立とうとする。

「……」

 朔夜はファイルを手に席へ戻り、画面に向き直った。

 ポケットから携帯を取り出し、蛍にメッセージを送る。

『——すまない。今日は行けなくなった。誘えるなら、陽人でも』

 携帯を伏せた。

 話すのは、全部片付いてからでいい。



 ◇


 それからの数日、朔夜は社長室に籠りきりだった。

 北辰建設を洗った。登記はあり、書類の上では存在する会社だった。試しに書面を郵送すると、5日後、宛先不明で封書が戻ってきた。

 ……まさか。

 支払いを通したのは、経理部長だ。その部長に指示を出した誰かがいる。そして、業者を一覧に加えたのは、蛍だ。

 どの糸を引いても、誰かが傷つく。

 朔夜は戻ってきた封書を、机に伏せた。

 ——最悪、俺が被ればいい。

 社長として、把握しきれていなかった。頭を下げて、しばらく権限を取り上げられるくらいで済むなら、それでいい。

 それで、済まなければ——。

 その先は、考えなかった。


 ◇


 昼過ぎ、扉が叩かれた。

「社長。コーヒー、置いておきますね」

 蛍が新しいカップを机に置いた。その隣には、朝に置いたカップが、ほとんど減らないまま冷めていた。

「……あの、増額の件。何か分かりましたか?」

「まだ確認中だ。業者に問い合わせている」

「わたしにできること、ありませんか。見積もりの控えなら、全部——」

「大丈夫だ」

 朔夜は書類から目を上げなかった。

「お前は、自分の仕事をしてくれ」

 蛍は何か言いかけて、口を閉じた。

「……はい」

 扉が閉まる。朔夜は伏せた封書に、そっと手を置いた。


 ◇


 その日の夕方、朔夜の携帯が鳴った。

「……律か」

『相変わらず出るの早えな。……朝霧の資金契約の件だ』

 再開発の協力金として、黒崎が赤城に資金を出す契約。結んだまま、復興に切り替えたことで1円も払っていない。その契約を合意の上で解約したいから、明日の16日に処理したい、という話だった。

 その次の日——17日は、役員会だ。……時間が足りない。

「律。少し聞いていいか」

『なんだ』

「お前の会社は不動産だったな。……北辰建設という会社は知っているか?」

『……』

 通話の奥で、空気が揺れた気がした。

『……知りたいか?』

「……」

『明日、来たら教えてやるよ』

 通話は切れた。

 自分をよく思っていない律が、素直に教えるとは限らない。それでも今の朔夜には、その言葉に縋るしかなかった。


 ◇


 黒崎邸に戻ったのは、10時を過ぎてからだった。

 居間に明かりが残っていた。

 ソファに座った蛍が、膝の上のノートパソコンを睨んでいる。テーブルには付箋だらけの資料が広がっていた。

「まだ起きていたのか」

 声をかけると、蛍は弾かれたように顔を上げた。

「あ……おかえりなさい、兄さん」

「何をしてた」

「朝霧町の改修費、もう一回見直してたんです。見積もりと支払いの数字、どこかで合わなくなってるはずだから。会社のデータ、持ち帰りの申請はしてあります」

 蛍は画面をこちらへ向けた。

 表の数字に、いくつも色が塗られている。昼に「大丈夫だ」と言われてから、ずっとこれを続けていたのだろう。

「……ありがとう。でも、もう増額理由は分かったから、大丈夫だ」

「え——」

「役員会では、俺が説明する。お前は気にしなくていい」

 蛍は迷ったように口を開く。

「増額理由は、何だったんですか?」

 朔夜は答えず、蛍に目をやった。

 大きな手が頭に置かれ、髪を梳くように滑っていく。柔らかい髪が指の間をすり抜けた。蛍の目が、驚いたように瞬く。

「に、兄さん?」

「……もう、寝よう」

 手が離れる。朔夜は立ち上がり、自室へ向かった。

 廊下の手前で、一度だけ足が止まる。けれど、振り返りはしなかった。

 蛍はソファに座ったまま、それ以上何も訊けずに、その背中を見送った。


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