【挿話】親睦会(前編)
その日の午後、蛍は資料を片手に、廊下を歩いていた。
前から女性社員二人が歩いてきた。総務部の園田と生駒だった。
「こんにちは」
「黒崎さん。こんにちは」
と、すれ違いざま、白い紙が一枚ひらりと足元に落ちた。
「あっ」
蛍はしゃがんで、それを拾い上げた。
「落としましたよ——」
声をかけながら、何気なく紙面に目を落とす。
『黒崎朔夜社長アンケート』
そう大きく書かれた見出しの下には、正の字がびっしりと並んでいた。「メガネ派」「かけてない派」という二つの項目に分かれ、集計されている。
——これ、何のアンケート……?
「——あ!?」
「あああーーーっ!!」
園田と生駒が、同時に叫んだ。
生駒が飛びつくように紙を奪い取り、両手でぎゅっと抱きしめる。園田は、蛍の両肩をがしっと掴んだ。
「く、黒崎さん!! い、今のは!!」
「こ、これは、社長には内緒にしてください……!」
「え、あ、はい……」
蛍が戸惑いながら頷くと、生駒がずいっと顔を近づけてきた。
「ちなみに、妹さんはどっち派ですか⁉︎」
「え、いや、その……」
蛍は、視線を泳がせた。
「兄を、そんな目で見たこと、なくて……というか」
——兄って、実は、人気だったの!?
そういえば、この前。この二人がエントランスで紙をばらまいたことがあった。
その紙の中に、兄の切り抜き写真が何枚かあったような。その時は広報用の切り抜き写真だと思っていたが、まさか二人の個人用?
「……兄さ——社長って、人気なんですか?」
蛍が、ぽつりと呟いた。
「嘘でしょ!? 今更!?」
園田が声を上げた。その反応や、アンケートの正の字の数からして、やっぱりそうなんだ。
「いやまあ妹だと、そう思わないですよね……距離、近いですし」
生駒が、フォローするように付け加える。
「……兄の、どこがいいんですか?」
蛍が何気なく聞いた。その発言に失礼だという自覚は、あまりないようだった。
「え!? そりゃあの、ちょっと憂いのある感じ、と言いますか……」
園田が頬に手を当てながら、うっとりとした顔をする。
「窓の外を見て考え事してそうな顔とか……普段鋭いのに、たまに穏やかになる目とか……あれ、いいんですよね……」
生駒も遠い目をしながら、どうやら想像しているようだ。
蛍は、脳裏に朔夜の顔を思い浮かべた。
——そう言われれば、そうなのかな……。
普段、意識したこともなかった感覚に、蛍は少しだけ首をかしげた。
「ちなみに、黒崎さんは、どっち派なんですか?」
「え、いやぁ……」
園田と生駒が迫る。二人の顔が近づいたとき、ふと、園田のかけている眼鏡に目が行った。
「あれ、その眼鏡。気のせいかもしれませんが、なんだか社長の眼鏡に似てますね」
「ギクッ!!」
園田がさっと蛍から離れた。
「さすが、妹。鋭い……」
「え? まさか一緒の——」
「はわわわ!」
園田の顔が赤く染まった。
「妹さん! 内緒にしてください!!」
「色違いなんですね~」
「妹!!」
にやにやする蛍に、園田は思わず、声を上げた。
「すいません、調子に乗りました。……生駒さんは眼鏡かけないんですね」
「私は『朔夜社長、眼鏡外してる派』なので。それより妹さん——」
生駒が食い入るように差し迫る。
「社長が眼鏡外してる姿、よく見てますよね!? わたしたち、社内じゃ滅多に見られないんです……!」
「え……いや、わたしも、そんなに見られないですけど……」
家でも、朔夜が眼鏡を外しているところに出くわすのは、案外少ない。だが、そんな蛍の訂正は、二人の勢いに、あっさりとかき消された。
「お、お願いします! 隠し撮り、してくれませんか!?」
「え!?」
「一生のお願いです!!」
「死ぬ気で働きますので!!」
二人が、両手を合わせて、拝むように詰め寄ってくる。その勢いに、蛍は思わず、後ずさった。
「わ、分かりましたから……」
気圧されるまま、頷いてしまっていた。二人はハイタッチしていた。
◇
その日の夜。
黒崎邸のダイニングで朔夜を待っていたが、朔夜が帰ってこなかった。時計は、八時を回っている。
蛍は少し心配になって、黒崎ビルの社長室へと向かった。
「……兄さん?」
ノックをしても、声をかけても、返事がない。そっとドアを開けると、デスクに突っ伏すようにして、朔夜が眠っていた。
「兄さん」
小さく声をかけたが、起きる気配はない。よほど疲れていたのだろう。眼鏡が、少しずれたまま、寝顔に影を落としていた。
——ちょっと憂いのある感じ、と言いますか……
——普段鋭いのに、たまに穏やかになる目とか……あれ、いいんですよね……
「……」
蛍は園田と生駒の言葉を思い出して、何かをかき消すように首を横に振った。
普段の張り詰めた表情とは違う、無防備な寝顔だった。蛍はそのまま、恐る恐る朔夜の眼鏡を外した。
そしてポケットからスマホを取り出した。指が少し震える。
「……ごめんね、兄さん」
罪悪感を覚えながらも、シャッター音を殺して、そっと一枚、写真を撮った。
同時に、ふと思う。
——兄さん、社員の人たちと、飲み会とか行ってないのかな。
総務のお二人や、それに成瀬課長も、兄さんのことを気にしてくれているのに。
——今度、企画してみようかな。
◇
翌日。
総務部の廊下で、蛍が写真を見せると、園田と生駒はその場で飛び上がった。
「きゃあああ!! 眼鏡なし!! 寝顔……尊い……!」
「保存しました!! 待ち受けにします!!」
はしゃぐ二人に、蛍は苦笑しながら切り出した。
「あの、写真のお礼、と言ったらなんですけど……ちょっと、協力してほしいことがあって」
「なんですか!?」
「親睦会を、やりたいんです。……わたし、こういうの、やったことがなかったので。それに兄もあまり参加してなさそうですし。幹事は、わたしがやるので——」
「「やりましょう!!」」
言い切る前に二人が即答した。食いつきの良さに、蛍は少し面食らった。
「いいんですか!?」
「お兄さんの寝顔もらった後ですし!!」
「社長も参加するんですよね? なら、やらない理由が無いです!!」
「あはは……」
蛍は苦笑しながら続けた。
「場所はわたしが考えます。それで、総務部と、それから経理部と人事部あたりをお誘いしようかと思いますが、いかがでしょう」
「いいと思います!」
「お声がけしておきます! 我々に任せてください!」
二人は敬礼すると、早々と総務部へ戻っていった。蛍は二人の動きの良さに苦笑しつつも、感心もしていた。
◇
その晩、蛍は地下2階のバー『月光』の扉を叩いた。
「あら、蛍ちゃん。今日はどうしたの?」
カウンターを拭いていたリコが、艶やかに微笑む。
「リコさん、実は相談があって」
蛍が事情を話すと、リコは少し考えるように顎に手を当てた。
「大人数の打ち上げねぇ……。それなら、うちより、姉妹店の方がいいわ」
「姉妹店?」
「『誘宵』っていう店なの。大衆向けの、賑やかな居酒屋よ。個室もあるし、二、三十人向けの大人数の宴会にはぴったり」
「そんなお店もあるんですね……」
「アタシも顔が利くから、紹介してあげる。……ふふ、面白そうじゃない。アタシも、当日手伝いに行ってあげるわ」
「本当ですか? ありがとうございます、リコさん!」
蛍は、思わず声を弾ませた。
◇
打ち上げの日程が決まった数日後、蛍は社長室の隅で、思い切って切り出した。
「兄さん。再来週の金曜日、空けておいてください」
「……何のためだ」
「親睦会です。リコさんの姉妹店、『誘宵』で!」
朔夜は、書類から顔を上げないまま、少し間を置いた。
「俺はいい。お前だけで行ってこい」
「え」
「大人数の酒の席は苦手だ。……それに俺が行くと、みんなやりにくいだろう」
「……」
蛍は一瞬、黙った。だがすぐに腰に手を当てて、朔夜のデスクに詰め寄った。
「だめです」
「……蛍」
「わたしが、幹事なんです。それに親睦会には社長が来るって、もうみんなに言っちゃいました!」
「なに……?」
朔夜の眉間にしわが寄った。
「みなさん、兄さんが来るのを楽しみにしてましたよ!」
屈託のない笑顔で話す。
「兄さん。みんな、兄さんのために、頑張ってるんです。それに、あの部課長会の日から、少しみなさんとうまくいってると思いませんか?」
「それは、父さんが——」
「そうだとしても!」
蛍が詰め寄る。
「……たまには、みなさんと話す機会も必要かと」
朔夜はしばらく黙っていた。ペン先が書類の上で、意味もなく動いている。
「……分かった」
「本当ですか!」
「一次会だけだ。……それ以上は、付き合わない」
「十分です!」
蛍は満面の笑みで、拳を小さく握った。




