6 開幕戦9回の攻防
九回裏、ブルー・ライナーズ最後の攻撃。この回は一番・藤江からであった。
「監督、芙美村を使って」
守備につく前に美登里が宮田に言った。
「いいや、何とか一アウトは取らせてからだ」
九球しか投げられないということを考え、余裕を持って投げさせるために宮田は望月を続投させた。
しかし、宮田の作戦は裏目に出て、藤江がセンター前にヒットを放つ。
「監督!」
美登里が宮田を睨みつける。
宮田はゆっくりと立ち上がり、主審に投手の交代を告げた。
〈ピッチャー、望月に代わりまして、芙美村〉
リリーフ・カーに乗って、芙美村纏がマウンドに上がる。
「あの子、小学生じゃないの」
ブルー・ライナーズのベンチは小柄でやせ細った芙美村を見て、驚いていた。
「いくらなんでも冗談が過ぎるだろ」
選手たちは纏をバカにしていた。
しかし、串田監督はじっと黙り込んでいる。
こんな場面で出すリリーフ投手だ。ただの投手ではあるまい。
纏はマウンドでの投球練習は一切しなかった。まだ、一球も投げていないと言うのにもう肩で息をしている。
「無理しないでね。守備はわたくしたちがやりますから」
美登里が優しく言うと、纏はこくりと頷いた。マウンドに集まった選手全員が守備に戻った。
打席に二番打者・金居が入る。
纏はキャッチボールのような投げ方からゆっくりとしたモーションで投げた。一塁ランナー・藤江が走る。ふわふわとしたボール。しかし、山なりではなく、真っ直ぐ来ている。
何なの、このボール。
金居はぎりぎりまで引きつけ、ボールがベースの上に来たところで振りにいった。しかし、ボールはバットの風圧に押され、ふわっと浮き上がると、バットの上をすり抜け、朋美のミットに収まった。
「ストライク!」
審判のコール。
藤江は二塁盗塁に成功した。
「そんな……」
金居は目を疑った。
続く二球目も金居はぎりぎりまでボールを引きつけ、バットを振ったが、ボールはバットにかすりもせず、空振りした。藤江は三塁に盗塁するも、朋美は無視した。
「ありえん、何なんだ」
ブルー・ライナーズのベンチは騒然となった。
ふふふ、芙美村は、本来なら体が弱く、ボールをキャッチャーのいるところまで投げることすら出来ない。しかし、あの子はそれを指と手首、体の回転で克服した。その結果、生まれたのがあのボール。
美登里は心の中でほくそ笑んだ。
金居は結局、纏のボールを当てられず、三振。続く三番打者・石崎も三球で簡単に三振に仕留められた。
そして、打席に四番・霧原が入った。ここまで四打数三安打。二本の本塁打を放っている。
誰が来ようと同じですわ。
美登里は勝ちを確信していた。
纏は肩で息をしながら、一球目を投じた。霧原は見逃す。
「ストライク」
審判がコールする。
二球目、霧原はバットを振った。しかし、ボールはバットをすり抜け、空振り。
「ツー・ストライク」
霧原は二球で追い込まれた。三塁側の観客席からは、後一球コールが起こる。
次で決めなさい。
美登里は纏を見つめる。
纏が三球目を投げた。またもふわふわとしたボール。
何?
美登里は打席の霧原に目を見張った。
霧原が構えた状態で、ベースの上にバットを出したのだ。
まさか。
ボールは吸い込まれるようにベースの上で止まっているバットに当たった。
その瞬間、霧原は鋭くバットを振った。ボールがレフトに向かって、一直線に飛んでいく。
!!!
誰もがやられたと思った。
しかし、ボールにドライブがかかり、フェンス直前で大きく曲がり、ポールの横のファウル・ゾーンに飛び込んだ。
「ファウル」
塁審がコールした。
助かった。
思わず立ち上がった朋美が汗をぬぐった。
しかし、纏はぐったりとその場に座り込んでしまっている。
ベンチの宮田がグラウンドに出た。
「ピッチャー交代」
主審にそう告げた。纏はコーチにおんぶされ、ベンチに戻った。
〈選手の交代をお知らせします。ピッチャー芙美村に代わり、レフトの沢木がピッチャーに入り、レフトに坂上が入ります〉
沢木がレフトのポジションから足を引きずり、マウンドに上った。
監督と内野陣がマウンドに集まる。
「監督、楓に投げさせるんですか?」
朋美が言った。
「他にいないだろ」
「だったら、霧原を歩かせて……」
「そんなの駄目」
楓が言った。「纏ちゃんが追い込んでくれたんだもん。霧原を抑えれば勝ちなんだから」
「そういうことだ。霧原は恐いが、ランナーに出せば、逆転のランナーだ。ここは沢木に賭ける」
宮田はそう言うと、マウンドを降り、ベンチに戻った。試合が再開した。
ランナーは三塁だけど、幸いツー・アウト、ツー・ストライクと追い込んでいる。もうバントの心配はない。一か八かの勝負。
朋美は楓にサインを送った。楓は大きく振りかぶり、横手から一球目を投じた。
初球はメガ・スライダー。内角からベース直前で大きく外角へ流れるボール。
霧原は内角のボールに対し、腰を引かずに踏み込んだ。ベース付近で外角へ流れたボールを霧原のバットが捉えた。
だが、打球はバットの芯をわずかに外れ、一塁側のスタンドに飛び込む。
「ファール」
塁審のコール。
当てられた。怪我のせいでキレが落ちているのか、それとも、霧原が慣れているのか。
朋美はメガ・スライダーのサインをもう一度、出した。
しかし、楓は首を振る。
楓は第二球を投げた。今度は上手から。低めの速球。しかし、ベースの直前で急上昇する。ハイライズ・ボールだ。
だが、そのボールも霧原はバットで捉えた。打球は振り遅れて、一塁側スタンドに飛んでいく。
「ファール」
塁審のコール。
タイミングは合っている。バットの芯に当たっていないだけだ。
朋美は三球目にフォーク・ボールのサインを出した。
楓は頷き、三球目を投げた。今度は落ちるボール。
しかし、霧原はバットをピクリとも動かさなかった。
「ボール」
これでカウントは二ストライク、一ボールとなった。
見極めが出来ている。
朋美は霧原をじっと見た。
続く四球目のフォーク・ボールも霧原は見送った。
朋美は五球目のサインを送る。
楓は頷いた。マウンド上で大きく振りかぶり、五球目を投げた。
もらった!
霧原はボールを引きつけ、ベース付近でボールが上昇するところをバットで叩いた。
なっ!!
朋美は目を見張った。ボールは弾丸ライナーで三塁側内野スタンドに飛び込んだ。
早すぎたか。
珍しく、霧原が舌打ちをした。
タイミングが合っている。どうしたらいいの?
朋美はサインに迷っていた。楓を見ると、楓がサインを送ってきた。
ハイライズ・ボールを投げるというの?わかった。もう楓に任せる。
朋美はミットを軽く叩いた。
六球目。楓はハイライズ・ボールを投げた。霧原はまたしてもボールを捉えた。しかし、打球は再び三塁側内野スタンドに飛び込む。
「くっ」
楓はハイライズ・ボールを投げ続けた。しかし、霧原はそれをことごとくファウルにし、ついに二十三球目。
初めてハイライズ・ボールが大きく浮き上がり、ボールとなった。
カウントはツー・ストライク、スリー・ボールとなった。
楓はもう限界に達していた。
どうしたらいいの。
「タイム」
監督がベンチからグラウンドに出てきた。再び監督がマウンドに上り、内野手が楓のまわりに集まる。
「監督、まだ行けます」
楓は強気に言った。
「交代だ」
「お願いです。霧原さんと勝負したいんです」
「……私からもお願いします。楓に……」
「この試合はおまえたちの個人的な遊び場じゃないんだ」
「だったら、監督、教えて下さい。誰なら霧原さんを抑えられるって言うんですか?」
「確かに皆岸さんの言うことにも一理ありますわ。誰なら霧原さんを抑えられます?」
美登里が言った。
「皆岸、おまえが投手をやれ」
宮田が言った。
「え?私が?」
朋美は当惑した。「監督が言ったんですよ。投手は諦めろって」
「ああ、だが、これなら、沢木も納得するだろ」
宮田が楓を見た。
「はい」
「楓……」
「朋ちゃんを絶対に投手にするって約束したじゃない。監督がこんなこというチャンス、もうないかもしれないよ。朋ちゃんなら、あたし、託してもいい」
「おまえたちはどうだ?」
宮田は千鶴たちを見る。
「二人ともよく頑張ってるし、任せるわ」
千鶴が言った。
「私も構いません」
茜が言った。
リンダもうなずいた。
「わたくしもいいですわ」
美登里が応えた。「先程のアドバイスのお返しです」
「朝野さん……」
朋美が目を潤ませた。
「全力で行け」
宮田が朋美の肩に手を乗せた。「失敗したところで、君を責める奴はいない」
「どうして……私なんかに」
「あの入団テストの時、最初の一球だけは、沢木の球より上だった」
「監督……」
「そういうことだ」
宮田はマウンドを降りた。
「監督、あたしに捕手をやらせて下さい」
楓が叫んだ。
「勝手にしろ」
宮田が審判に交代を告げに言った。キャッチャーのポジションに楓が入り、マウンドに朋美が上った。
〈選手の交代をお知らせします。ピッチャー沢木がキャッチャーに入り、キャッチャーの皆岸がピッチャーに入ります〉
このアナウンスにブルー・ライナーズのベンチがまた驚かされた。
そして、ちょうどその頃、保険の契約で顧客の家で訪れていた紀久子が、玄関でリビングから流れるテレビの音声を聞き、思わず家に上がり込んで、テレビを観た。
「どうかなさったんですか?」
家主が驚いた様子で紀久子に尋ねた。
「娘が投げるんです」
マウンドの朋美はボールをじっと見つめた。
お母さん、私、霧原と対決するよ。もしかしたら、これが最初で最後かもしれない。でも、悔いはない。夢が叶ったんだもん。どんな結果になったって、全力で投げる。私、お母さんの気持ちがわかった気がする。最強のバッターと勝負するのって、ピッチャーにとって最高にワクワクすることなんだよね。時にはチームの勝利のためにそれを諦めなきゃいけないこともある。でも、今はみんなが応援してくれる。私、頑張る。
霧原が再び打席に入った。
楓がサインを出す。それはハイライズ・ボールのサインだった。
朋ちゃん、どんと来なさい。
楓が中腰でミットを構えた。
行くよ、楓。
朋美は大きく振りかぶり、楓のミット、目がけて全身全霊を込めて、投げた。
一五〇キロ近い低めのストレート・ボール。
速い。ストレートか?
霧原がそう思った時、ベース直前でアッパーカット気味にボールが突き上げる。
負けぬ。
ぎりぎりまでボールを引きつけた霧原がバットを大根切りのように振り下ろした。
バットとボールが衝突する。
「ぬぅおおおぉぉ」
霧原が力に任せ、バットを振り切った。
ぐしゃっ!!
しかし、ボールはバットを砕き、上に突き抜けた。
楓は思いっきりジャンプして、ボールをキャッチした。
「ストライク、バッター・アウト。ゲーム・セット!」
審判がコールした。
「やったぁ!!」
朋美がマウンドを降りた。楓も足の痛みも忘れて、朋美に向かって走る。二人は抱き合った。そして、後から野手が二人のまわりに集まってくる。
「楓、勝ったよ」
「うん」
二人の目は感激の涙で潤んでいた。
霧原は静かにブルー・ライナーズのベンチに引き返した。
「惜しかったな」
串田監督が霧原に声をかけた。
「楽しみが増えました」
霧原はニヤッと笑うと、バットとグラブを持ち、ベンチの奥へ去っていった。
試合を見ていた紀久子は、テレビの前に泣き崩れていた。
「朋美、よくやったわ」
紀久子は呟いた。
「すごいわね。あなたの娘さん。皆岸さん、保険の契約するわよ。その代わり、娘さんのサイン、くださらない」
「あ、ありがとうございます。喜んで」
紀久子は涙を拭いて、笑顔で答えた。
「まだ、開幕戦に勝ったぐらいで、こんなに浮かれてては困りますわ」
グラウンドで選手たちが歓喜に揺れる中、ベンチに一人戻ってきた美登里が宮田に話しかけた。
「そういう君だって、目が潤んでるぞ」
「バカおっしゃらないで」
美登里が目を手でぬぐった。
「いいじゃないか。勝つのが楽しいから頑張れる。彼らがその楽しさを覚えれば、優勝にも近づくというものさ」
「そういうことは、一月後にもう一度、聞きたいですわ」
美登里はそう言うと、ベンチの奥へ入っていった。
終わり
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