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君が帰ってきた家  作者: わかめ
帰ってきた子

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14/15

置いておくもの

紬が初めて泊まった翌日の夕方、俺は洗面台の前で歯ブラシを見つめていた。


 青。


 俺のだ。


 コップも一つ。


 タオルも基本的には自分の分しか置いていない。


 昨日は予備の歯ブラシを出した。


 使い捨てではない、ごく普通のものだったので、当然一晩使っただけで捨てる理由もない。


 問題は、その歯ブラシが今どこにあるかだった。


「……持って帰ったのかな」


 朝は慌ただしかった。


 朝飯を食べて、紬が学校へ行って、俺もそのまま仕事に入った。


 風呂場のタオルは洗濯機へ入れた。


 布団はまだ二階にある。


 歯ブラシは見当たらない。


「まあいいか」


 どうでもいいことだ。


 気にするほどでもない。


 そう思って仕事へ戻った。


 午後四時過ぎ。


 インターホンが鳴る。


「ただいま」


「おかえり」


 紬は昨日と変わらずランドセルを背負っていた。


 泊まった翌日だから何か違うかと思ったが、別にそんなこともないらしい。


「昨日、ちゃんと学校行けた?」


「行ったでしょ」


「いや、そのあと」


「普通」


「眠くならなかった?」


「ちょっと」


「やっぱり」


「こうじさんが夜遅くまで起きてたから」


「俺のせい?」


「十一時半に廊下来た」


「俺の家なんだから歩くよ」


「音したから起きた」


「古い家だからな」


「前から鳴る」


「知ってます」


 紬は靴を脱ぎ、そのまま二階へ行こうとした。


「ちょっと待って」


「何?」


「昨日使った歯ブラシ、持って帰った?」


 紬が止まった。


「歯ブラシ?」


「予備で出したやつ」


「洗面所にない?」


「ない」


「……二階かな」


「何で歯ブラシが二階にあるんだよ」


「知らない」


「使った本人が知らないの?」


「朝急いでたから」


 ランドセルを置き、二人で探す。


 結局、歯ブラシは紬のランドセルの横ポケットから出てきた。


「あった」


「持って帰るつもりだったの?」


「分かんない」


「何でそこに入れたんだよ」


「朝の私に聞いて」


「今のお前じゃん」


「もう覚えてない」


「十一歳の記憶力大丈夫?」


「昨日の朝だから」


「一日前だよ」


 紬は歯ブラシを見た。


「これ、どうする?」


「どうするって」


「持って帰る?」


「別にどっちでも」


「捨てる?」


「一回しか使ってないし、もったいないだろ」


「じゃあ持って帰る」


「うん」


 そう答えた。


 答えたのだが。


 何となく引っかかる。


 次に泊まることがあれば、また予備を出すのか。


 別に歯ブラシ一本くらいどうでもいい。


「……置いとけば?」


 俺が言うと、紬がこちらを見る。


「ここに?」


「また泊まることあるかもしれないだろ」


「あるの?」


「知らないよ」


「じゃあなんで」


「昨日みたいなことがまたあった時に、いちいち歯ブラシ用意するの面倒だから」


「面倒なんだ」


「そういうこと」


 紬はしばらく歯ブラシを見ていた。


「置いといていい?」


「いいって言ってるだろ」


「どこに?」


「洗面所」


「こうじさんの隣?」


「他にどこがあるの」


 洗面所へ戻る。


 俺の歯ブラシの隣に置こうとして、コップが一つしかないことに気づいた。


「コップない」


「使い捨てあるよ」


「毎回?」


「……じゃあ買うか」


「買うの?」


「百円ショップでいいだろ」


「私の?」


「他に誰が使うんだよ」


 紬は少しだけ嬉しそうな顔をした。


「何色?」


「まだ買ってない」


「白がいい」


「何で指定入るの」


「私が使うから」


「百円ショップで白なかったら違う色な」


「ピンクは嫌」


「注文多いな」


「子どもっぽいから」


「十一歳は子どもだよ」


「またそれ」


 二階へ戻る。


 紬はいつもの机で宿題を始めた。


 俺も仕事へ戻った。


 その日のことは、それで終わるはずだった。


 ところが翌日。


 昼休みになって、玄関の外で車の音がした。


 インターホンが鳴る。


 澄江さんだった。


「こんにちは」


「こんにちは。どうしました?」


「これ、ちょっと置かせてもらっていい?」


 手に布製のバッグを持っている。


「何ですか?」


「紬の着替え」


「……着替え?」


「昨日の雨みたいなこと、またあるかもしれないでしょう」


 バッグの中を見る。


 Tシャツ。


 短パン。


 下着。


 靴下。


 薄手のパジャマ。


 小さなタオル。


 一泊するには十分な内容だった。


「いや、でも」


「迷惑?」


「そうじゃないですけど」


「なら置いておいて。毎回慌てて取りに行くより楽だから」


「毎回って」


 思わず笑う。


「そんなに泊まる前提ですか」


「前提じゃないわよ。念のため」


「念のためにしては充実してません?」


「子ども一人泊まるならこれくらいいるでしょう」


 澄江さんは当然のように言った。


「それに昨日、晃司くんのシャツ着たんですって?」


「はい」


「あの子から聞いた」


「普通に膝近くまでありましたよ」


「でしょうねえ」


 澄江さんが笑う。


「さすがに毎回それじゃかわいそうだから」


「毎回」


「言葉のあやよ」


「本当ですか?」


「細かいわね」


 バッグを受け取る。


 そこまで大きくはない。


 でも、家の中へ持ち込むと妙に存在感があった。


「どこ置けばいいですかね」


「紬の部屋でいいでしょう」


 即答だった。


「……紬の部屋」


「昔からそうだったでしょう」


「今は空き部屋ですよ」


「机あるんでしょう?」


「ありますけど」


「紬の物もあるんでしょう?」


「少し」


「じゃあいいじゃない」


 さらっと言われる。


 俺の中ではまだ、あそこは「紬が昔使っていた部屋」であって、「今の紬の部屋」ではない。


 でも最近は自分でも、その区別が曖昧になっていた。


「置くだけ置いときます」


「お願いね」


「はい」


 澄江さんは少しだけ家の中を見回した。


「この家、前より明るくなったわね」


「カーテン変えたからじゃないですか?」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあ何ですか」


「別に」


 また笑われた。


「じゃあ仕事中ごめんなさいね」


「いえ」


「紬、今日も来ると思うから」


「聞いてないですけど」


「朝言ってたもの。『学校終わったらこうじさんのところ行く』って」


「本人から聞く前に予定知るの嫌なんですけど」


「もう来るの分かってるくせに」


「まあ」


 否定できなかった。


 澄江さんを見送り、バッグを持って二階へ上がる。


 紬の昔の部屋。


 今は折りたたみ机がある。


 鉛筆立て。


 本。


 ファイル。


 ランドセルを置くことも増えた。


 柱には十一歳の身長の線もある。


「どこ置くんだ」


 収納は空いている。


 クローゼットを開ける。


 ハンガーもほとんど使っていない。


 とりあえずバッグごと端へ置いた。


 それだけだ。


 別に何も変わっていない。


 そう思って仕事へ戻った。


 午後四時。


「ただいま」


「おかえり」


 予定通り来た。


 階段を上がる音がする。


 三十秒ほどして。


「こうじさん!」


「何ー?」


「これ何!」


 大体予想できた。


 二階へ行く。


 紬がクローゼットの前でバッグを持っている。


「澄江さんが置いてった」


「なんで?」


「また泊まる時用だって」


「また泊まるの?」


「お前もそれ聞くの?」


「だって」


「念のため」


 紬がバッグを開ける。


「パジャマ」


「良かったな。次から俺のシャツ着なくて済むぞ」


「別にあれでもよかった」


「俺が困る」


「なんで?」


「返ってくるまで着られないから」


「いっぱいあるじゃん」


「そういう問題じゃない」


 紬は中身を一つずつ確認していく。


「靴下もある」


「澄江さん準備いいよな」


「下着も」


「それは報告しなくていい」


「なんで」


「俺に言われても困るから」


「変なの」


「男一人暮らしに女児用品の報告するな」


「親戚じゃん」


「そういう問題でもない」


 紬はよく分かっていない顔をしていたが、気にせずバッグへ戻した。


「これ置いていい?」


「もう置いてあるだろ」


「ずっと」


 少しだけ間があった。


「まあ、使うかもしれないなら」


「そっか」


 紬はバッグをクローゼットへ戻した。


 今度はさっき俺が置いたように端へ置くのではなく、棚の上へきちんと収めた。


「あと歯ブラシ」


「置いた?」


「置いた」


「コップはまだない」


「今日買いに行く?」


「今日?」


「仕事終わったら」


「何でそんなに急ぐの」


「白いのなくなるかもしれない」


「百円ショップの在庫心配してる人初めて見た」


「行かない?」


「……まあ、買い物あるし行くか」


「やった」


「コップ買うだけで何がそんなに嬉しいんだよ」


「自分のだから」


 その一言だけ、少し引っかかった。


「自分の?」


「コップ」


「分かってるよ」


 紬は気にせず宿題を始めた。


 六時。


 仕事を終え、二人で近くの店へ向かった。


 車で行くほどの距離でもないので歩く。


 途中で紬が美咲の家の方向を教えてきたり、学校の話をしたりする。


「今日、美咲ちゃん先生に怒られてた」


「何したの?」


「授業中しゃべってた」


「お前も?」


「私はしゃべってない」


「本当?」


「ほんと」


「一緒に怒られなかった?」


「ギリギリ」


「しゃべってんじゃん」


「聞いてただけ」


「先生から見たら同罪だろ」


「でも怒られてないから」


「要領覚えてきたな」


「何それ」


 百円ショップへ入る。


 洗面用品の棚で、紬が真剣にコップを選ぶ。


「白ない」


「ほら」


「ほんとにない」


「ピンクは?」


「嫌」


「青」


「こうじさんと同じじゃん」


「別にいいだろ」


「間違える」


「そんなに似てないよ」


「透明は?」


「それでいいんじゃない?」


「でも可愛くない」


「さっきピンク嫌って言った人が何言ってんの」


「子どもっぽいのが嫌なの」


「じゃあ何ならいいの」


 しばらく悩んで、結局薄い緑色のコップを選んだ。


「これ」


「はいはい」


「歯ブラシ立てるやつもいる?」


「コップに入れとけば?」


「一緒に?」


「俺もそうしてる」


「じゃあいい」


 レジへ向かおうとしたところで、紬がタオル売り場の前で止まった。


「これも」


「タオル?」


「洗面所に私のない」


「毎回出せばいいじゃん」


「置いといた方が楽」


 それは、俺が歯ブラシについて言った言葉だった。


「……まあ、そうだけど」


「これ」


 白地に細い緑の線が入ったタオル。


「コップに合わせた?」


「たまたま」


「ほんと?」


「多分」


「俺の真似するな」


 紬が笑う。


 結局それも買った。


 家へ戻る。


 紬は真っ先に洗面所へ向かった。


 コップを洗って置く。


 歯ブラシを入れる。


 タオルを横に掛ける。


 俺の青い歯ブラシ。


 紬の歯ブラシ。


 俺のコップ。


 紬のコップ。


 二枚のタオル。


「……増えたな」


 思わず言った。


「何が?」


「物」


「そんなに?」


「今まで俺のしかなかったから」


 紬が洗面台を見る。


「邪魔?」


「いや」


「ほんと?」


「これくらいで邪魔にはならないよ」


「そっか」


 少し満足そうだった。


「これで泊まれる」


「何で泊まる方向に積極的になってるの?」


「昨日楽しかったから」


「夜ずっと俺が起きてるか気にしてたくせに」


「それは別」


「またそれ」


「今度は大丈夫」


「何が?」


「ここにこうじさんいるの分かったから」


 さらっと言った。


 俺は少しだけ返事に詰まる。


「……そっか」


「うん」


 紬は二階へ上がっていった。


 その夜は澄江さんの家へ帰った。


 別に泊まる必要はない。


 次の日も学校だし、天気も悪くない。


 いつも通り夕飯前に帰っていった。


 玄関を閉めたあと。


 歯を磨こうとして洗面所へ入る。


 洗面台には、二つのコップが並んでいた。


 今朝までは一つだった。


 それだけだ。


 クローゼットには一泊分の着替え。


 洗面所には歯ブラシとコップとタオル。


 二階には机。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 この家に、紬が急に泊まることになっても困らない物が増えている。


 まだ住んでいるわけじゃない。


 そう思いながら歯ブラシを取る。


 隣には紬のもの。


「……泊まる準備だけは完璧だな」


 誰に言うでもなく呟いた。


 金曜日の夕方。


 インターホンが鳴ったので、玄関を開ける。


「ただいま」


「おかえり」


 それだけ交わして、俺はすぐに仕事部屋へ戻った。


 最近は、玄関でいちいちあれこれ話すことも減っていた。


 鍵はまだ渡していないから、扉だけは俺が開ける。


 それでも一度中へ入れば、紬は勝手に二階へ行き、宿題をして、腹が減れば降りてくる。


 少し前なら考えられなかった。


「こうじさん」


「何ー?」


「今日泊まっていい?」


 キーボードを打つ手が止まった。


「……何で?」


「明日土曜日だから」


「理由になってないだろ」


 二階から紬が顔を出す。


「駄目?」


「澄江さんに聞いた?」


「まだ」


「先にそっち」


「こうじさんが駄目だったら聞いても意味ないじゃん」


「それはそうだけど」


「じゃあ?」


 少し考える。


 雨は降っていない。


 病院の日でもない。


 迎えが遅れるわけでもない。


 昨日までは、泊まるのは何か事情がある時だけだと思っていた。


「……澄江さんがいいって言うなら」


「ほんと?」


「拓真さんにも確認してもらえよ」


「分かった」


 紬はすぐにスマホを取り出した。


 俺はモニターへ目を戻す。


 仕事を再開しようとして、少しだけ笑った。


 歯ブラシを置いて、着替えまで揃ったと思ったらこれだ。


「準備したから泊まりたくなっただけじゃないだろうな」


「違うよ!」


 二階から返事が飛んできた。


「聞こえてたの?」


「聞こえた!」


「耳いいな」


 数分後。


「こうじさん!」


「今度は何?」


「いいって!」


 嬉しそうな声だった。


「はいはい」


「今日何食べる?」


「泊まるって決まった瞬間それ?」


「晩ごはん大事」


「そうですね」


 冷蔵庫の中身を思い出す。


 まだピーマンが残っている。


「無限ピーマンでも作るか」


「何それ」


「ピーマン」


「やっぱり帰ろうかな」


「泊まるんじゃなかったの?」


「ご飯食べてから考える」


「現金すぎるだろ」


 二階から笑い声が聞こえた。


 家の中に、紬の物が増えている。


 それ以上に。


 紬がここにいる時間そのものが、少しずつ増えていた。

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