log91.青の正球体
パキン、と乾いた高音が鼓膜を打った。
保護フレームの超高圧耐性ガラスに走った幾筋もの亀裂が瞬時に広がり、内圧に耐え切れなくなったカプセルが内側から破裂した。飛び散る緩衝液とともに、薄青い生体組織―ノアの声帯が激しく脈動する。カプセルが四散すると同時に、バルブ室の静寂が破られた。
金のストレーナーが跳ね上がり、一次バルブが内圧の激増によって悲鳴を上げる。管を流れる瀝星流体が抑制を失い、青いノイズを爆ぜさせながら、継ぎ目や弁から断続的に噴出し始めた。ノイズに触れた壁面や通路の金属板が木屑のように剥がれ落ちる。
「遮断膜を」
ハンスの声に、僕たちの指先からバチリと鋭い火花が弾けた。遮断膜を展開した瞬間、高圧の流体飛沫が僕に向かって弾け、青い波紋を立てて爆ぜる。
「な、何が起きた…!? 全ラインのバイパスを遮断しろ! 急げ!」
ガレスが叫ぶ。高所通路の上も、下層の作業フロアも完全にパニックへと陥っていた。警報灯の赤いフラッシュが錯綜し、退避しようとする技師たちの悲鳴が響き渡る。
だが、バルブから噴出しているのは瀝星流体だけではなかった。青い火花とともに、黒っぽい破片が無数に撒き散らされ、空間を舞う。
(あれは…)
黒い繊維の間からゆらめく幻想的な夜紫の燐光。
―夜綿苔だ。
「イレブン!」
ハンスの怒号が響いた直後、断裂した配管の破片から激しい青い火花が散った。空中を舞い、床にへばりついていた夜綿苔にその火花が接触した瞬間、瞬く間に灰色へと変色していく。灰色の破片が爆発的に噴き上がる。直下でバルブの制御にあたっていた技師の一人が、咄嗟にかざした腕に灰綿苔の飛散を浴びた。
叫び声とともに、彼の右腕が皮膚の表面から急速に硬化し、乾燥した灰のような質感へと変色していった。技師が狂ったように反対の手で払おうとするが、灰化した右の指先は脆い粘土細工のようにボロリと崩れ落ち、床に落ちて粉々に砕けた。
「指が、俺の指が…!」
現場を悲鳴とノイズが支配する。灰綿苔に触れた床や壁、さらには作業員たちの身体の一部が、灰に変色し、砂のように零れ落ちる。
「な、なぜだ…なぜこのようなことが…!」
ガレスは髪を振り乱し、スーツの胸元をかきむしりながら激しく狼狽していた。彼の自慢であった「完璧な整流機構」は目前で無残に崩壊した。何より、彼の目の前には、黒領の最高貴族―ヴォルカイド・ヴィルザードが立っているのだ。ガレスの顔は土気色に染まっていた。
ドン、という轟音とともにバルブの一部が金属片をまき散らしながら破裂した。膨大なノイズと火花の嵐が吹き荒れる。僕たちが立っている鉄骨の高所通路の支柱が根元からへし折れ、足場全体が激しく傾ぎ始めた。
「チッ、うろたえてねえで下がれ。 ここも崩れるぞ」
ハンスがガレスの首根っこを掴み上げ、強引に後方へ引き戻そうとする。しかし、ヴォルカイドはその混乱の真ん中にありながら、微塵も焦りの色を見せていなかった。彼はゆっくりと右手をかざす。
チリリ、と彼の指先から夜紫の火花が散った。その指先から流麗なコードが解き放たれる。夜紫の結晶が、崩れ落ちようとしていた高所通路の金属フレームを一瞬で抱き込み、ピタリと停止させた。
「な…っ」
息を呑むガレスをよそに、ヴォルカイドはゆったりとした動作で僕の方へと振り返った。
「イレブン君」
その歌うような声が、警報の激しい音を突き抜けて僕の耳に届く。
「君ならできるはずだ」
「え…? 僕、が…?」
戸惑う僕の瞳を直視し、ヴォルカイドは微笑すら浮かべて語りかける。
「この前やったのと同じことだよ」
その言葉が、僕の脳裏にあの光景を閃かせる。
―11区の火事現場。D-42ポイント。
あの時、灰綿苔由来の激しいノイズの嵐の中で、遮断膜すら剥ぎ取られそうになりながら、僕はノアとリンクを繋いだ。ノアがノイズと共振し、そのエラー波形を排除するのではなく、“組み込んだ”のだ。
「…正球体」
僕は自分の手を見つめた。
廃霊は、秩序と混沌のコードを継ぎ接ぎした無秩序なエネルギーだ。通常の重結晶化では、廃霊から秩序のコードを取り出す。ここから、混沌のコードを削ぎ落とすことで“面”が作られるのだ。
だが、僕の正球体は違う。
一つの“面”もない。
ノイズを削ぎ落とすのではなく、内包する。
僕は深く息を吐き出し、頷いた。
ヴォルカイドの重結晶によって傾いたまま固められたキャットウォークの傾斜を、僕は滑り降りるようにして駆け下りた。足元から飛び散る青と灰色の火花を飛び越え、噴出する流体の真下、一次バルブの至近へと一気に肉薄する。
(ノア)
脳内で彼女を呼ぶ。
『はい、マスター、共振、開始します』
ノアの共振波形が空間を波打たせるように広がっていく。渦巻いていた灰綿苔のノイズが、徐々に動きを止め、空気中に静止した灰の点描となる。
僕は両手を突き出し、全神経を集中させた。パチ、と僕の爪先から青い火花が弾ける。指先からコードが展開され、ノイズを巻き込み、噛み合わせながら一つの形へと収束していく。
バチリ、と一際大きく火花が爆ぜた。一次バルブの直上、僕の突き出した手のひらの先で、青い正球体が、ほの淡い光を纏ってたゆたっていた。
先ほどの応接室で、同じように紅茶が僕たちに供された。だが、誰も手を付けない。中央のガラスドームテーブルの上には、ヴォルカイドの手によって一時的に封入されたノアの声帯が、薄青い燐光を放ちながら揺れていた。
「…さて、話を聞こうか。シュトランクCEO」
ヴォルカイドはソファに深く背を預け、指を組んだ。その双眸が、卓上のカプセルからガレスへと向けられる。
「一次圧力調整バルブ室で僕たちが目撃した『それ』についてだ。なぜ、セントラル・コンダクトの瀝星流体の主配管網に、夜綿苔が混入しているんだい?」
静かな声だった。だが、その声の底には、薄刃で空気を削ぐような冷たさが這っている。
ガレスは高級スーツの襟元を濡らすほどの汗をかき、明らかに焦った様子で何度も喉を鳴らしていた。その額から滴る汗が、磨き抜かれたテーブルに一滴落ちる。
『…マスター。シュトランクCEOの心拍数、148。微細な血管収縮および発汗を検知。顕著な動揺状態です』
脳内でノアが淡々と伝えてくる。ノア自身もカプセルの中の「声帯」と共振しているためか、その波形にはかすかな乱れが混ざっていた。
ヴォルカイドの瞳が、ふっと細められる。ノクスの王族が持つという、相手の波形や感情の揺らぎを逃さず観察する超感覚。逃げ場などどこにもないと悟ったのか、ガレスの身体が大きく震えた。
「も…申し訳ありません。ヴィルザード卿…!」
ガレスは突如、勢いよく腰を折り、ヴォルカイドに向けて深々と頭を下げた。
「言い訳のしようもございません。…ですが、弊社としても決して不法な目的があったわけではないのです!」
ガレスはハンカチで汗を拭いながら、早口でまくし立て始めた。
「ご存知の通り、弊社は主要な瀝星をCMRの基幹ラインから供給されております。しかし…近頃、それに混入する不純物とノイズの量が異常に増加しておりましてね。そのまま供給すれば、大陸全域の配管網が短期間で損壊してしまう事態でした」
ガレスはカプセルの中の薄青い組織をチラリと盗み見、再びヴォルカイドへ視線を戻す。
「そこで…弊社は独自の判断で、廃霊や異常波形を吸収する特性を持つ卿の『夜綿苔』を有機フィルターとして主配管網のバイパス回路に組み込んでいたのです。大陸のライフラインを維持するため…致し方なく…」
ガレスの弁明を聞きながら、ヴォルカイドは無言のまま片瞼を僅かに持ち上げた。
夜綿苔。もともとはヴォルカイド自身が11区の過酷な環境に合わせて開発した自己増殖型の麻酔植物だ。それ自体は規制対象の危険物ではない。
ヴォルカイドは低く呟き、口を開く。
「だが、本来の用途以外での使用は推奨できないな。過度な熱やノイズに晒され続ければ、エラーを起こす。今日の事故がまさにそれだ」
「は、はい…仰る通りでございます…!」
ガレスは畳みかけるように何度も首を縦に振った。
「私の浅慮が招いた失態です。ヴィルザード卿、そして…そちらの若い術者の方のおかげで、大事に至らず事態が収拾いたしましたこと、深謝いたします」
ガレスの視線が、ヴォルカイドの隣に控える僕へと向けられた。
その瞳には、露骨なまでの警戒が滲んでいる。彼の手元はかすかに震えており、視線は僕の手元の正球体に吸い寄せられている。暴走する流体とノイズを丸ごと包み込んだ青い結晶体。
この場所に到着した時、僕をヴォルカイドのただの「付属品」や「給仕」と同等にしか扱っていなかった男が、今は僕の指先一筋の動きすら逃すまいと息を詰めている。
「とにかく」
ヴォルカイドが立ち上がり、上着の裾を滑らかな動作で整えた。
「この事故の引き金となったこの『汚染サンプル』は、今回の事故―夜綿苔の変質の件を調査するため、僕たちが回収させてもらうよ。異論はないね、シュトランクCEO?」
「あ…ええ、勿論でございます! 調査のためでしたら、はい」
ガレスは引きつった笑みを浮かべ、その笑みの勢いに蹴られたかのように何度も頷いた。
ヴォルカイドが僕を促す。僕は慎重な手つきでテーブルの上の保護カプセルを持ち上げた。緩衝液の中で揺れるノアの声帯。カプセルの中で、その薄青い組織の燐光が、小さく明滅した。




