灰白の街に、霧立ち込めて
ジュ、と音がして油が跳ねた。僕は耐熱手袋を嵌めた手で排気口から缶を引き上げた。中には油で揚げられた泥生芋の外殻片が入っている。軽く塩を振り、缶を揺すれば「スラグ・チップ」の完成だ。
『マスター、それは成分の八割が劣化した油脂と塩分です。11区の汚泥を胃に流し込んでいるのと変わりません』
脳内に響くノアの声は硬い。僕は、指先に付着した白い塩の粒を無造作に作業着で拭い、缶を軽く振った。乾いた硬質の音が鳴る。
「効率の問題だよ、ノア。こいつは最短距離で脳を焼いてくれる」
僕はそのまま、薄暗い廊下を通り、休憩室の扉を開けた。
室内には、冷却水の循環音が低く澱んでいる。ハンスとニコ、セイルが、古びたスチール机を囲んでいた。机のうえには欠けた正六面体がいくつか転がっている。どうやら、ハンスとニコがセイルに「クリック・ダイス」を教えていたらしい。
「どうぞ」
厚紙を敷いて缶を置くと、ハンスが右手でチップをつまんだ。
「コーヒーには合わないな」
ハンスはそう言いながら2枚目に手を伸ばす。彼の左手からは正六面体を調整するための青白い火花が散った。
ニコが、ハンスの動くようになった右手を見つめ、自分もチップに手を伸ばした。
「セイル君もどう?」
僕が言うと、興味深そうにチップを見つめていたセイルが首を傾げた。
「…これは?」
「燃料。意外といけるよ」
僕の言葉に合わせるように、腰の携帯端末が青い火花を散らし、ノアがホログラムとして像を結んだ。
『補足します。それは泥生芋の外殻片を高温の廃油で変質させ、塩化ナトリウムを過剰に付加した物質です。有機生命体の維持に寄与する栄養素は皆無であり、感覚受容器への暴力的な刺激のみを目的としています』
「ノア」
口を尖らせる僕をノアは冷ややかな目で見つめる。
セイルの細い指先が、缶の縁に触れた。油の膜が指紋に馴染み、鈍い光を反射する。彼はそれを、未知の基板でも検分するように顔の高さまで持ち上げた。
「暴力的な、刺激」
セイルが小さな欠片を口に運ぶ。
乾いた咀嚼音が一度、静かな休憩室に響いた。
直後、彼の喉が小さく上下し、眉間に微かな陰影が落ちる。
「…喉が、焼けるようです。ノイズが多い」
「脳に届くだろう?」
僕は自分の指先に残った油を眺めた。ハンスが再びチップに手を伸ばす。ニコが濡れた布巾で、缶周りにこぼれた塩を拭った。
『マスター。セイルの味覚神経に過負荷が発生しています。これ以上の摂取は推奨されません』
「11区にいるんだ。ノイズには慣れとくべきだぜ」
ハンスがポケットから屑煙草を取り出し、火をつけようとした。ノアの指先から青い火花が散る。休憩室のファンが最大出力でハンスに吹き付けられた。
「ぶっ、ノア、てめぇ」
ハンスがノアを睨む。
「おい、その風はやめろ。火がつかねぇだろ」
ハンスが顔を顰め、空を掴むように指を動かす。ファンの排気が彼の左の爪先で燻る火種を執拗に散らしていた。ノアのホログラムは視線だけをハンスの左腕に落とす。
『計算上、その煙に含まれる微粒子は、あなたの神経接続を0.04%阻害します。排除は論理的帰結です』
「0.04%だと? ケチくせぇこと言ってんじゃねえよ」
ハンスは毒づきながらも、屑煙草をポケットに戻した。机の上では、セイルが新たにつまみ上げたスラグ・チップの一片を凝視している。彼の爪先から小さな暗銀の火花が散り、チップの表面に浮き出た気泡の凹凸をなぞっていた。
「俺の知っている嗜好品とは随分違います」
セイルはつまんだ一片を慎重な手つきで口に含んだ。さく、さく、と味わうように咀嚼している。
「まあ、11区の嗜好品だから」
僕が指に残った塩を舐め取ると、ノアは呆れた顔でため息をついた。
『マスター、その手で心臓炉のコンソールに触れ、精密回路を酸化した油脂で汚染させるつもりですか?あなたの衛生概念は11区の汚泥と同レベルまで揮発したようですね』
ノアが、物理的な質量を感じさせるほどの冷徹な視線を僕の指先に固定した。ニコが苦笑を浮かべてノアを見つめる。
僕は反射的に、油の浮いた指先を背後に隠した。
ハンスが左手の腕時計をちらりと見やり、空になったスラグ・チップの缶とコーヒーカップを持って立ち上がった。
「見回りに行ってくる。ついでに缶は捨ててくるぜ」
ハンスに続き、ニコがその後を追って休憩室を出ていく。
僕は背後に隠した指を、作業着の生地で執拗に拭った。布地が油を吸い、黒い染みが広がる。
「わかったよ、ノア。コンソールに触る前には、脱脂剤で洗う。それでいいだろ」
『…三回、洗浄してください。それが最低限の譲歩です』
ノアのホログラムが不服そうに粒子を拡散させ、消滅した。後に残ったのは、スラグ・チップの脂っこい匂いと、ハンスの飲んでいた琥珀珈琲の苦い匂いだ。
『換気します』
ノアが僕の脳内で呟いた。カタカタと古びた音を立てて換気扇が回る。不意に、その音が異音を立てて止まった。セイルが、指を机の上の布巾で拭いながら換気扇を見上げる。
「?ノア、止めた?」
僕の疑問に、ノアが淡々と答える。
『いいえ。排気ダクト内の内圧が規定値を超過。逆流を検知しました』
直後、天井の換気口がガタガタと激しく震動し、建付けの悪い隙間から灰色の噴煙が吹き出した。
噴出したのは、気化した冷媒だ。
流れ出るそれ湿った重さを持ち、休憩室の床へと這うように広がっていく。鼻につくのは、循環パイプ内の剥離した錆と混ざり合い、腐った果実と焼けた金属を合わせたような、粘り気のある臭気だ。
「うわ。また心臓炉がゲップしてる」
僕は作業着の襟を口元まで引き上げ、霧の密度を視測した。
視界は急速に奪われ、すぐそばのセイルの姿が、灰色のヴェール越しに輪郭をぼやけさせていく。セイルも口元を腕で押さえながら立ち上がり、休憩室の入り口近くに避難した。
「セイル君、上の階に行ったほうがいい。多少はましなはずだ」
僕の言葉にセイルが黙って頷き、休憩室を足早に出ていく。
『マスター。心臓炉の熱交換器に軽微な不具合を確認。排圧弁の動作が0.8秒遅延しました。これは運用上の「許容誤差」の範囲内です』
脳内に響くノアの報告は、事務的で平坦だった。
僕の網膜に投影されたログには、通常なら即座に警告灯を点灯させるはずの圧力グラフが、赤く点滅しながらも「正常(NORMAL)」と上書きされるプロセスが映っている。
「ほんとここの心臓炉は…」
僕がぼやきながら廊下に出ると、すでにそこも冷たい灰色の霧で覆われていた。僕は壁の手すりを手探りで掴む。指先に、冷媒が結露したぬるりとした感触が伝わる。
一歩進むごとに、作業靴の底が湿った床に吸い付く。
霧の粒子は肌に触れると、微小な針で刺されたような刺激を残した。
『マスター。前方5メートルにセイルを確認』
ノアの言葉に顔をあげると、霧の奥にぼんやりとした影が見えた。
「セイル君、大丈夫?」
駆け寄って声をかけると、セイルは腕で口元を押さえたまま頷いた。心臓炉が鳴らす重低音が霧の中に響く。
「ここの心臓炉の定期的な不具合だよ。こいつは、たまに溜まった毒を吐き出さないといけないんだ」
僕はセイルの肩に手を置き、上階へ続く階段へと促した。
指先に触れた彼の服は、すでに冷媒の湿気で重く湿っている。
『換気システム、第二段階へ移行。排圧を分散させます』
ノアの宣言と共に、背後の廊下で重厚な遮蔽板が軋んだ音を立てて閉鎖された。僕は、セイルが上階へと続く階段の手すりを掴んだのを確認してから、炉心室に足を向けた。
霧のせいでいつもより時間をかけてたどり着いた炉心室。その備え付けの脱脂剤で、僕は三回手を洗った。視線をコンソールの上に浮かぶ、ホログラム・ウィンドウに映す。そこには11区の俯瞰映像が走査線のノイズと共に流れていた。カメラを切り替えながら11区の様子を確認する。街は心臓炉から流れ出した灰色の霧に覆われているものの、市民は慣れきっているのか、さしたる混乱が起こった様子は無い。
「ノア。街の様子はどうだ。『ゲップ』の影響は」
『展開します』
ノアの言葉と同時に、網膜に灰色の粒子が層を成して沈殿する11区の路地裏が投影された。
定点カメラのレンズに付着した塵が、煤星灯の鈍い光を乱反射させ、映像の端々にノイズを走らせている。
『各座標における市民の活動指数に有意な変動はありません。大気中の冷媒濃度は上昇していますが、呼吸器系への即時致命性は「許容範囲」に留まっています』
モニターの中、霧に包まれた街角では、継ぎの当たった防護服を着た男がゴミ捨て場を漁る。配給を待つ列は何事もなかったかのように伸びていた。
「…異変なし、か」
僕はあくびをしながら上顎を舌でなぞった。スラグ・チップの塩気が恋しい。
『検証。マスター、11区北西、D-12ポイントの空間変位を確認』
ノアの報告と共に、目の前のホログラム・ウィンドウのカメラが切り替わる。居住区の一画、古い給水塔が並ぶ路地。ひしめき合うように立ち並ぶ建物の奥、その内の一つの輪郭が不自然に波打っていた。




