局所定数固定(ローカル・フリーズ)
11区の「生」を維持する代謝。
その循環を狂わせている「女王」のコードを、僕のハックで書き換えるしかない。
「強制介入プロトコル、展開。煤蜂のバグ・ノイズを僕の演算領域へ引き受ける」
迫りくる煤蜂の羽音。僕は右手をその黒い群れの核へと突き立てた。指先から神経、そして脊髄へと、凍り付くような「質量」が逆流してくる。それは数万の煤蜂が代謝し損ねた、11区の膿のようなエラーコードだ。
「…ッ、ダストビン、全論理階層を僕に開放しろ!」
僕の心臓が炉心の鼓動と完全に同期した瞬間、世界が「数」に支配された。網膜を埋め尽くすのは、11区が数十年の間に積み上げてきた膨大な破棄データの残骸。僕の独自の「継ぎ接ぎのコード」が、炉から供給される無限に近い冗長データ(ゴミ)を核にして爆発的に増殖し、圧倒的な物量となって奔流する。
「ぐ、ぅ…ッ」
煤蜂が放つ「死の定義」という針。それに対し僕の指先から溢れるのは、一万、十万の格子結晶。ゴミデータのブロックを繋ぎ合わせるようにして、僕の不揃いな格子結晶が空間を埋めていく。煤蜂の針に対する不格好な「盾」だ。この盾が食い尽くされる前に女王のコードを書き換える必要がある。視界の隅で、コードの更新速度が限界を超え、文字列が白い閃光となって網膜を焼く。黒い群れが盾を食らう中、僕の指先は青い火花を散らして、煤蜂の群れを青い結晶として重結晶化していく。
視界のすべてが青い走査線に染まり、僕の指先は一秒間に数千の「定義の杭」を打ち込み続けていた。女王蜂の硬質な甲殻を構成するエラーコードが、僕の泥臭いハックによって次々と上書きされ、漆黒の質量が青い結晶へと転じていく。
(…いける。このままなら、飲み込める!)
心臓炉から供給される膨大なゴミデータは、僕の指先を介して鋭利な刃となり、11区の「生の極致」を解体していく。脊髄を焼くような熱量は、もはや痛みではなく全能感に近い脈動となって僕の神経を加速させていた。
だが、その熱狂の最中。
ノアの声が、絶対零度の楔となって僕の意識に突き刺さった。
『…マスター。計算が合いません。演算の「排熱」が、論理層の外部へ漏洩しています』
「っ…?」
網膜上に浮かぶ「システム・バランス」のグラフ。僕が女王から引き受け、処理しているはずのバグ。その総量が、僕の演算負荷と一致していない。…欠損している。僕が飲み込みきれなかったはずの「毒」が、どこか別の場所に「捨て場」を見つけ、流れ込んでいる。
僕は視界を強引に引き剥がし、背後を見た。
そこには、最も脆弱なノードがあった。
「ニコ…?」
絶句した。ニコの半透明な右腕。教団の攻撃で存在を削り取られたその「空白」が、今や不気味な黒光りを放ちながら膨張していた。ニコはハンスを守るためにバイパスを作った。だが、そのバイパスはハンスの負荷だけでなく、僕が女王の核に触れたことで発生した「情報の余剰質量」をも、底なしの穴のように吸い込み始めていたのだ。
「…う、っ」
ニコの喉から、震える絶叫が漏れる。彼の右腕はもはや腕の形を成していない。情報の過剰摂取によって、指先から肩口にかけて半透明の輪郭が砂嵐のように揺れ、黒いノイズがバチバチと散っている。ニコの持つ「存在の欠損」が、この戦場における最も効率的な「情報のゴミ捨て場」として、システムに強制選別されていた。
「ニコ! 遮断だ! 遮断術式を…!」
ハンスが叫び、その左手から火花を散らせたが、圧力に押し返された。僕の打つ「定義の杭」が女王を追い詰めるほど、その反動としてのバグ・ノイズが、抵抗の少ないニコの「空白」へと殺到する。ニコの茶色の髪が、じわりと白へと変色していく。あまりに高密度の情報が、彼の個体定義を白く焼き尽くしている。
『マスター、このままではニコの個体定義が飽和します!』
僕の指先から散る青い火花が、ニコの血の気の失せた顔を冷酷に照らし出す。僕が勝とうとすればするほど、ニコが壊れる。僕の「成功」という名の天秤の逆皿に、ニコの「消滅」が乗せられていた。
「…ハンス、さん…っ、逃げて…!」
ニコの悲鳴は、もはや言葉の体を成していなかった。
彼の右腕、抵抗として燃やされたそこは、僕が女王へと叩き込む演算の排熱を吸い込み、どす黒い結晶の棘が腕の輪郭を食い破るようにデタラメな幾何学模様を増殖させている。
「クソ、が…っ!」
ハンスは、爪を失った右手の代わりに、震える左手でネイルガンをニコの右腕の「付け根」へと押し当てていた。引き金は引かれていない。だが、彼はネイルガンに装填された「規格化重結晶」を核として、「停止」コードにより遮断術式を展開し、ニコへと逆流するバグの奔流をせき止めようとしていた。
だが、地獄はそこだけではなかった。
「あ、熱い、熱いぞ! 燻蒸器が…逆流してる!」
悲鳴を上げたのは、採取人たちだった。彼らの燻蒸器が女王から溢れ出した「高密度のバグ」を逆に吸い込み、限界を超えて橙色の火花を吹き上げている。本来、11区の毒を中和するはずの機械が、今は11区そのものを焼き潰す「定義の汚泥」を撒き散らす噴出口と化していた。
「だめだ、手が離れねえ! 皮膚が…機械と癒着して…!」
ダイバーの一人が、白化した防護服の中で絶叫する。機械と肉体の境界が曖昧になり、彼らは自分たちの道具に食われ始めていた。彼らが倒れれば、この場を覆う生存圏は消失し、僕らは全員、女王のバグに直接呑み込まれることになる。
「ハンスさん! ダイバーたちも限界だ、もうもたない!」
僕の叫びに、ハンスは唾を吐き捨て、血走った目で僕を睨みつけた。
「うるせぇ…ッ! 11区の『神様』なら奇跡の一つでも、さっさと起こしやがれ…!」
ハンスの爪が散らせる火花が勢いを失い始め、その灰色の爪が先端からパキパキと砕けだした。ニコの右腕は膨張を続け、ダイバーたちは自らの機械に焼かれつつある。
(…くそ…ッ!)
僕は、女王の核に突き立てていた右手の指先を、自らの背後の空間へと無理やり引き戻した。彼らを救う唯一の方法。それは、この戦場の一部を、世界から完全に切り離すことだ。
「ノア、第3レイヤー『局所定数固定』、対象――僕の後方全座標! 全員まるごと『Read-Only』で縫い付けろ…!」
『マスター、正気ですか。対象が多すぎます! 演算が完了するまであなたも、彼らも、この場から一歩も動けなくなります。退路はありませんよ』
「…分かってる。僕の排熱が彼らに届かなければそれでいい」
僕は奥歯をぎりりと噛み締めた。爪の先から青い火花が出血のように噴き出す。
「情報の流入を拒むには、これしかないんだ」
僕はひび割れた爪を空中に突き立て、コードを叩き込んだ。その瞬間、僕の背後の空間が「変質」した。
湿った空気の動きが止まり、ニコの叫び声が、ある一点の音階で物理的に固定される。ハンスの砕ける爪先も、ダイバーたちが掲げる燻蒸器から漏れる橙色の火花も、まるで高解像度の静止画のようにその場に張り付いた。
女王が放つ「死のエラー」が彼らに触れる。だが固定によって守られた空間は、一文字の書き換えすら許さない盾となって、その殺意を弾き返した。
(…これで、ニコに負荷は流れない。でも)
代償は、僕自身の脊髄を襲った。背後の全空間をフリーズさせたことで、システムへの負荷が逆流し、僕の演算リソースは限界値を突破する。行き場を失った情報の過剰質量は、固定された「壁」に跳ね返り、すべて僕という一つの接点に集中する。
「…ぐ、ぅ、ッ…」
網膜の端々で、古いログや住民の苦情、未受理の申請書といったゴミデータが、物理的な質量となって僕の意識を押し潰そうと荒れ狂う。視界を埋め尽くす判読不能な文字列の霧。白い雨がそれに触れるたび、シュレッダーにかけるような不快な破砕音が脳髄を削っていく。
一歩も引けない。属性は「固定」された。
僕は背後の沈黙を背負い、唸りを立てる黒い「殺意」へと対峙した。




